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復讐火葬  作者: SATOSHI
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十二章『血の呪縛とつながり』 その4

 マンションの共用部分も清潔かつ頑丈そうで、高級感を感じさせた。

 瑞樹はエレベーターに乗っている最中、松村が見たら嫉妬するだろうなと密かに苦笑した。

 彼の友人である松村春一は今、安アパートで一人暮らしをしているのだ。


 栞は、既に玄関ドアの前に出て待っていた。

 部屋着にしていると思われる、ファストファッションブランドのTシャツとハーフパンツ姿で、視線を落として床をじっと見つめている。


「栞」


 先に気付き、声をかけたのは、瑞樹の方だった。

 顔を上げた彼女の姿は、少々元気がないようだったが、特におかしな様子はないようだ。


「昨日は急にごめん」


 栞は首を振った。


「暑かったでしょ。中に入ろうか」

「お姉さんは?」


 栞はもう一度首を振った。

 彼女の手で開けられたドアから、中へと足を踏み入れる。

 初めて恋人の家に上がるということで、ある意味緊張の一瞬であった。


 家の中は既に涼しくなっており、うだるような暑さから一転して、ひんやりした空気が皮膚を癒す。

 同時にほのかないい香りが漂ってくる。それぞれの家が持つ固有の匂いだ。

 青野家の匂いは、何とも落ち着く新鮮な匂いだった。色をつけるなら新緑だろうか。


 お邪魔します、と瑞樹は一声出して靴を脱ぐ。

 まず、廊下の左右にあるドアが目についた。


「右がわたしの部屋で、左が……お姉ちゃんの部屋」

「へえ、栞の部屋、後で見てみたいな」

「あとでね」


 栞は答えながら、廊下の奥へと歩いていく。

 更に進んでいくと、左手に洗面所のある空間と、トイレや浴室に続くドアが見え、廊下の突き当たりにはすりガラスを張ったドアがある。

 栞がドアを開けると、先には十畳半ほどのリビングが広がっていた。

 正面にはベランダが見え、左手側にふすまを隔てて和室が、右手前側にはキッチンがある。


 綺麗に片付いていた、というより片付きすぎていて、やたらがらんとしていた。

 フローリングには何も敷かれておらず、ソファやテーブルはおろか、テレビなどもない。

 窓のそばに細長い観葉植物が二鉢置かれているのと、和室の方に据えられている仏壇らしきものがやけに目立つ。


 しかし瑞樹が感じていたのは、違和感ではなく、怒りだった。

 "本当に監視をしていた"という事実がそうさせたのだ。

 目的のために他人の、自分の大切な人のプライベートを暴くとは。

 今もなお、奴らは下衆な目で彼女を見張り続けているのだろう。

 部屋全体を自身の火炎で覆ってやりたい衝動に駆られながら、瑞樹は部屋の隅々に目を走らせる。


 リビングと和室の境目、ふすまの陰のあたりに、何かがいるのを捉えた。


「にゃ~ん」


 猫だった。

 白と薄いグレーが混じった毛色で、両耳が折れている。

 一般的にはスコティッシュフォールドと呼ばれる品種だ。


「おかしいでしょ。何もなくて」


 辺りをキョロキョロしている瑞樹に気付いた栞が、苦笑いして言った。

 瑞樹は本心を隠し、慌てて弁解する。


「あ、いや、そうじゃなくて。よく片付いてるんだなと」

「友達も呼ばないし、お姉ちゃんもそうだったから、リビングをほとんど使わないの。お互いの部屋で過ごすことが多いし。だから、あの子専用の部屋みたいになってるんだ」


 栞に指差された猫は、来訪者のことなど知ったことではないと、まんまるな頭を動かしてマイペースに毛繕いを行っている。

 問答無用の愛らしい動作を見て、瑞樹の頭に過去の記憶が蘇る。


「ああ、飼ってるって言ってた猫か。確か名前はヴァレリアだっけ?」

「うん。他の候補はフォルドとかルンだったんだけど。かわいい顔してるでしょ?」


 ずっと硬い表情だった栞が、初めて微かに微笑んだ。

 瑞樹が五歩ほど和室に近付いて屈むと、猫は毛繕いをやめて、タックルするように彼の足に体を擦りつけてきた。


 首や背中を撫でる。温かい。

 秋緒の仕事を手伝った時、誰かに作られたきり棄てられた人工生物を何度か駆除したことがある。

 別に人工生物が体温を持たない存在とは限らないし、外見も多岐に渡る。

 本物の動植物と相似しているものもあれば、原形を留めないほどグロテスクなものもある。

 要は変異生物と大して変わらない。大雑把に言えば、天然由来か人工かの違いだ。


 だが高確率で、この猫は監視と無関係だといえる自信があった。

 アジトで見せられた映像は俯瞰だった。猫の視点ではない。

 どこかによじ登り、部屋を見下ろすという線も考えられるが、媒体である水晶の頭蓋骨が鳥類と似ていたことを関連付けてみると、やはりこの猫は無関係ではないだろうか。

 まあ、現時点ではあまり深入りしない方がいいだろう。


「広い部屋で伸び伸び過ごせて、幸せものだなあ」


 瑞樹が言うと、にゃあ、という返事が返ってきた。


「和室のほうがいいよね」


 栞は和室の隅に積まれた座布団を二枚引っ張り出し、中央付近に敷いた。

 続いてキッチンの冷蔵庫へ向かうのを見送りつつ、瑞樹は座布団の上に腰を下ろす。

 猫はリビングの隅へ移動し、大きく伸びをした後、丸まって眠り始めた。

 エアコンの駆動音に耳を澄ませていると、栞が麦茶を乗せたトレイを持って現れた。


「ありがとう」


 よく冷えた麦茶は、体から抜けた水分を補給すると共に快感をもたらす。

 しばし、沈黙が流れる。

 エアコンが冷風を吐き出す音だけが部屋に響く。

 その間、瑞樹はただ漫然と麦茶を味わっていたのではない。

 考えていた。

 何から話すべきか。どこまで話していいのか。

 穏やかな顔の裏で、一所懸命に考えを巡らせていたのだ。


「話したいことって、なに?」


 先に切り出したのは栞だった。

 よし、まずこれだけは言ってしまおう。瑞樹は決断する。

 鼻から息を吸い込み、腹に力を入れる。


「やっと、終わったんだ。やっと、あの女を……僕の家族を殺したあいつを、昨日の夜、殺せた」


 こうして誰かに話してみても、やはり晴れ晴れしい気持ちにはならなかった。

 栞はどんな反応をするだろうか。瑞樹は彼女の顔を覗き込む。

 喜ぶだろうか。労ってくれるだろうか。

 それとも、ただ寄り添ってくれるのだろうか。


 彼女が起こした反応は、そのいずれにも当てはまらなかった。


 複雑。


 無理矢理一言で表現するならば、これが最も適当であり、これ以外にはないだろう。

 喜怒哀楽が、世界中で愛飲されている炭酸飲料の配合成分のように、本人以外には知りえない秘密の割合で入り混じっている。

 恋人である瑞樹ですら、正確に読み取ることができなかった。


「栞……?」


 嬉しいのか。嬉しくないのか。

 怒っているのか。怒っていないのか。

 悲しいのか。悲しくないのか。

 これから先の人生に希望を感じているのか。そうでないのか。

 分からない。


「あまり、うれしそうじゃないね」


 むしろ栞の方が、現在の瑞樹の心情を正しく捉えていたと言っていいだろう。


「やっぱり、栞には分かっちゃうのか。実は、そうなんだ。自分でも不思議なんだけど」

「知ってたから?」

「え?」

「円城寺沙織が、わたしのお姉ちゃんだからって、知ってたから?」

「…………え?」


 瑞樹の思考が、停止した。

 次に、感情が消失した。

 その次に、生体活動が停滞していく。

 心拍数が、血圧が、体温が低下し、筋肉が緩んでいく。

 神経だけが休まずに在り続けていた。

 そして、再起動するための電源となり、導線となる。

 人は、いきなり衝撃的な言葉を聞いたぐらいで、死んだり、容易く廃人になったりなどはしないのだ。


 ――円城寺沙織? お姉ちゃん?


 栞は何を言っているのだろう。

 何故、結び付くはずのない言葉を、同時に合わせて言っているのだろう。


 ――知ってた?


 知らなかった。考えもしなかった。するはずなどない。


 何故止めなかった?

 言わなかった?

 黙認していた?

 家族?

 あの女に家族がいたのか?

 姉妹も?


 幾つもの疑問が一挙に押し寄せて、言葉にならない。

 何から聞けばいい。

 バカな。あり得ない。

 化物に家族など。栞は普通の女の子だ。

 怖がりだけど、優しくて、よく気がつく、自慢の彼女だ。


 でも……どうして。


「だって、苗字が」

「わたしとお姉ちゃんは、血がつながっていないから」


 動悸が激しくなった。

 熱い血が体を駆け巡り始める。筋肉が強張る。


 心臓の奥、物理的な空間とは異なる奥から、力が現れ始めた。

 最初は針の先ほどだった穴が、段々と拡がっていき、御しきれないほど強く、大きくなっていく。


「ど…………」


 脳が、言葉をもって、力にラベリングを行った。

 意図してではなく、自動的に。


 名前を与えられた力は、感情という、より具体的な概念へと変化する。


「ど……う……」


 感情の名は――激怒。


「どういうことだッ!」

「きゃっ……!」


 瑞樹は野生動物のように飛びかかり、栞を組み敷いた。

 弾みでグラスが倒れ、畳に麦茶が吸い込まれていく。


 憎悪という突発的な衝動。

 それは性欲よりも凶暴で、食欲よりも罪の境界が曖昧だった。


「どういうことなんだよッ! おいッ! ふざけるな! なんで、なんで、こんなことが……ッ!」


 瑞樹が打ち下ろすのは、具体性に乏しい言葉ばかりだった。

 それ以上の追及ができずにいた。

 詰問の槌を受け続けていた栞の方はというと、落ち着いていた。

 獣と化した瑞樹に恐怖はしたものの、芯の部分は自身でも意外なほどに冷静であった。

 彼が自分に暴力を振るえるはずなどない、これまでの関係が終わるわけがないという自信からではない。事実、今も掴まれている両肩は、彼の指が深く食い込んでいて痛い。


 では、痛みが彼女を冷静にさせているのかというと、それも違う。


「なんて言ったらいいかわからないけど……本当にごめんね。最初から全部知ってたの。お姉ちゃんと瑞樹くんの関係も、お姉ちゃんが、お父さん、お母さんにしたことも」

「僕が聞きたいのはそんなことじゃない!」


 では何を聞きたいのか。

 瑞樹は考えをまとめてもおらず、分かってもいなかった。

 だが、そう問い詰めるしかなかったのだ。


「なんでだろうね。自分でもよくわからない。どうしてこんな普通でいられるのか。今まで平然と、瑞樹くんと付き合ってたのか。わたし、お姉ちゃんとはちがうはずなのに。好きな男の人から憎まれて愛を感じるなんてこと、ないのに」


 淡々と、栞は語る。

 いつ殴られるか、焼かれるか知れない。

 大嫌いな暴力と恐怖を鼻先まで突きつけられているのに、いつもの臆病さは微塵もなかった。


「お姉ちゃんが言ってた『魂に愛されればいい』っていう言葉も、結局わからなかったな。でも、わからなかったからこそ、同じ人を好きになっても、ケンカをしないで済んだんだろうね」

「どうして……どうしてそんな普通に! 血が繋がってなかったといっても、やっぱり栞も、あの女と同類だっていうのか!」

「そうかも、しれないね」


 栞が自嘲的な笑みを見せたのとほぼ同時に、瑞樹の右拳が突き刺さった。

 彼女のすぐ横の畳に。


「いいんだよ、ガマンしないで、好きなようにして。瑞樹くんには、そうする権利があるんだから」


 栞は目を閉じた。

 完全なる無防備無抵抗を、脱力した全身という形で表現した。


 瑞樹は砕けんばかりに固く両拳を握る。

 冷房が効いているはずなのに、汗が止まらない。

 また、蒸発もしない。


 "憎悪"とある程度近似している"怒り"という感情でも、炎を出せるのは知っている。

 その怒りが、全身に満ちているはずなのに。

 炎は、出なかった。


「……ッ!」


 いや、果たして炎を出す意志があったのだろうか。

 瑞樹は両拳で畳を打った。

 二度、三度、四度……やり場無き想いで奏でられる鈍い音が部屋に響く。


 栞は地震のような振動を後頭部で感じ続けながら、沙織のことを想っていた。


 ――お姉ちゃんだったら、ここで瑞樹くんの手をつかむんだろうな。『何やってるの!? 私が憎いんでしょう? だったら、ちゃんと私を殴って! 焼いて!』なんてことを言いながら。


 しかし、自分は姉ではない。

 彼からはもう同類と思われているだろうけど、やはり違う。

 いや、やはり同じなのかもしれない。

 彼の憎しみを、このように受け容れようとしている時点で。


 こんな日が来ることを、心のどこかでずっと分かっていた。

 だからこそ、落ち着いていられるのかもしれない。

 栞は闇の中に瑞樹と沙織の顔を思い浮かべた。




 畳に吸われた麦茶があらかた蒸発しかけ、両腕全体が痺れを帯び始めた頃、瑞樹の頭をある考えがよぎった。

 ひらめきにも似た、脱力が生んだ唐突な脳細胞のスパークだった。


 ――彼女を、護る必要があるのだろうか。


 家族を殺した犯人との繋がりを黙っていた人間のことを。

 全てを知ってしまった上で、これからも彼女と、今まで通り邪念なく、仲睦まじくやっていけるのか?


 いつの間にか、畳を打つ手は止まっていた。

 音が途切れている時間が長かったため、栞は目をゆっくりと開けた。

 結局、瑞樹の拳は一度も栞を打たなかった。


 瑞樹の拳が、掌に変わっていた。

 ただしそれは、人を撫でるために作られた形ではない。


「…………ない」


 沙織を殺したからといって、決して彼女に対する憎悪の念が消えた訳ではない。

 九歳のあの日に深く刻まれた心の傷は、一生残り続けるだろう。


「ないって、どういうこと?」


 瑞樹は何も答えず、引っ張られた操り人形のような動きで、ゆっくり立ち上がった。

 顔からは一切の生気が消え失せている。


「ないものはないんだ」


 見えない糸で吊り上げられた掌は、拒絶の形だった。

 山手線の結界と天秤にかけられるほどの価値が、彼女の命にあるだろうか。


 いや、ない。結界の方が大切だ。


 何百何千万もの人間の安寧と、一人の恋人の命。

 そうだ、何を苦しみ、葛藤する必要があったのか。

 何を犠牲にしてでも護るべきなのは、結界の方だ。

 それが、両親の血を受け継ぎ、秋緒に育てられた者のすべきこと。


「行かなきゃ。さよなら」


 ゾンビの如き歩みで、瑞樹が外を目指し始めた。

 栞の可憐な顔が、殴られてもいないのにひしゃげる。

 目に涙が浮かび、長いまつ毛を濡らしてはらはらと零れ始めた。


 瑞樹の発した"ない"という言葉に対して、栞は少々過程を飛ばしすぎた解釈を行っていた。

 栞に対する愛情は既に無くなってしまった。

 殴るほどの価値さえない。

 "さよなら"とは、永遠の別れ。


 すなわち『自分と瑞樹の関係は、今この時をもって終わってしまうのだ』と。


「……いやだよ」


 そしてそれは、栞にとって唯一最大の弱点、アキレス腱であった。


「いやだよ! 瑞樹くん、わたし、それだけはいやだ!」


 今まで出したことのないような大声。

 しかし、瑞樹の足は止まらない。振り向くどころか、反応さえしない。

 栞は実力行使に出た。


「お願いっ! なんでもするから、これからはなんでも言うことを聞くから! だから……!」


 瑞樹にすがりつき、全てを投げ打つ言葉を吐き、必死に哀願する。

 猫のヴァレリアはキッチンの隅で小さくなり、怯えた目を二人に向けていた。


「離せ……触るな……」


 彼女の力では前進を止めることはかなわなかった。瑞樹は低い声で唸るように言う。


 ――やっぱり、ダメなの?


 わたしたち、もう二度と、昨日までみたいにはなれないの?

 いやだ。

 そんなのは絶対にいやだ。

 最悪の結末だけは、何としても避けなければならない!


 もう、離れたくない。ずっといっしょにいたい!


「瑞樹くんっ!!」

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