十二章『血の呪縛とつながり』 その3
奥平は葉巻とバーボンを部下に片付けさせ、本題を切り出し始めた。
「大体のことは既に五相君から聞いているだろう。重要事項のみを再度簡潔に言う。――存分に苦しんだ上で、君の炎にて山手線の結界を破壊してもらいたい。以上だ」
本題はあっけなく終了した。
「どんなに僕を憎ませようと、あの強固な結界を個の力で破壊できるとは思えませんが」
「手はある。心配せずとも君はただ、我々を激しく憎み続けてくれれば良い」
皮肉でもなく、挑発でもない。
奥平は淡々と、本当のことのみを口にしているのである。
瑞樹にもそれは分かっていた。だからこそ、余計に癇に障るのだ。
しかし、ここで怒りに任せた振る舞いをする訳にはいかない。
彼が耐え忍んでいるのをよそに、奥平は五相を呼び、一枚の紙と小刀、ペンを持ってこさせた。
「仮初とはいえ、君も我々に席を連ねる形となる。その証として、この盟約書に署名と血判を押してくれたまえ」
瑞樹は目の前に出された盟約書を読み始めた。
大したことは書かれていない。
『私は血守会に入ります』といったニュアンスのことを、長ったらしい前振りと共に大仰に言い回しているに過ぎない。
だが――これに自分の名と血を刻んでしまえば、もう本当に後戻りはできなくなる。
覚悟はしていたし、このような取り決めがあるのは事前情報として知っていたが、いざこういった状況になると、湧き起こる緊張感は尋常ではなかった。
自分は、テロ組織に加担してしまうのだ。
表向きの偽りの形とはいえ、両親が、尊敬する人が守ったものを、壊そうとしてしまうのだ。
「なに、呪いに使ったりなどしない。刃に毒も塗っておらんよ」
奥平の後ろで、わずかだが、五相が心配そうな顔を見せているのが映る。
瑞樹は閉ざした口の中で奥歯を食いしばる。
――ごめん、父さん、母さん。すみません、先生。
瑞樹は覚悟を決め、ペンを手に取った。
普段するよりも雑な筆跡でサインを書く。
続いて小刀を取り、親指に刃を添えてわずかに引いた。
思ったより深くやってしまった。すぐさま赤い血がこぼれ出し、指の腹から下をしとどに濡らす。
が、この程度の痛みでは到底贖罪に足りない。
そう思いながら、紙に指を押し付けた。
すかさず五相が駆け寄り、瑞樹が切った親指に回復薬を塗って治療を行う。
奥平は盟約書を受け取り、小さく頷いた。
「結構。さて、本日の用件はこれで終了なのだが……折角だ、少し話でもするかね。そう、昔の話でも」
「両親の、ですか」
「君の父親が中心となって立ち上げたトライ・イージェス社は素晴らしかった。素晴らしすぎて、我々は随分と苦しめられたものだ」
「その息子にこんなことを依頼する気分というのは、一体どんな感じですか」
「おい、お前」
阿元の咎めは、奥平の片手で遮られた。
「何も感じはしない。私は面子や自尊心という概念が乏しいようでね。君が私にとって必要だから使うと決めた、それだけだ」
鷹揚さすら感じさせる構え。
ダメか。やはりこの男に精神的な揺さぶりは通じない。
少なくとも自分では無理だ。指の痛みも忘れ、瑞樹は現況における己の限界を悟った。
「それと君の師――瀬戸秋緒とは個人的に少々関わりがあってね」
「先生と……?」
「私達二人はかつて愛人関係だった」
「なっ!?」
「鉄仮面を被っているような彼女も、寝床の上ではしおらしい、それでいて淫らな娼婦だったな。愉しかった。また乱したいものだ。どうだね、あれから大分経つが、彼女の容貌に変化はないかね。昼夜を問わず寄り添っている君の立場からの意見を聞きたい」
「…………!」
「冗談だ。この程度のことでそこまで心を動かすとは、君は余程彼女を深く敬愛しているのだな。それとも、君こそ彼女を抱きたいと、考えていたりするのかね」
奥平の乾いた笑いが、静かな部屋で一際はっきりと聞こえる。瑞樹の全身を流れる血がカッと熱くなって沸騰し、椅子を蹴ると同時に炎が瞬時に体から吹き上がる。
「中島さん!」
「これ以上、あの人を侮辱することは許さない……!」
「そうだ。その調子で、憎しみを募らせてくれたまえ」
皮膚を溶かしそうな殺気の熱にあてられても、奥平は一切動じる様子を見せなかった。
瑞樹は肉食獣を思わせる形相で、今にもテーブルを越えて飛びかかりそうであった。
「両親よりも瀬戸秋緒を思わせる狂暴さだ。よほどよく"教育"されたのだろうな。ここで、そんな君を繋いでおく"呪縛"を具体的に見せておこう。阿元君」
「はい」
呼ばれた阿元が、氷のような物体を運んできた。
水晶玉、いや、水晶で作られた頭蓋骨だ。人間のものではなく、鳥類に近い形状をしている。
人工物だろうが、どのように作られたかは分からない。
机上に置かれた頭蓋骨が光を放ち始め、頭上の空間が陽炎のように揺らぎ始める。
そして、徐々に何らかの映像を浮かび上がらせていく。
段々と鮮明になる映像を見て、瑞樹の血の気がさっと引いた。
「……栞!?」
黒髪のショートボブ、小柄な体。
何度も見て、触れ合ってきた。別人と間違えるはずもない。
そんな彼女が、瑞樹の見知らぬ部屋で、壁にもたれて膝を抱え、顔を半分埋めていた。
「そう、君の恋人・青野栞だ」
「栞に何をしたッ!」
「落ち着きたまえ。今は何一つ危害を加えていない。我々が造った人工生物で監視を行っているだけだ。行動の制限も行ってはいない」
瑞樹は宙に描かれた映像を、血走った目で凝視する。
確かによく見れば、監禁されているといった雰囲気ではない。物が少ない家の中のように見えるし、横にある、ベランダへ続く窓は無防備に開けられており、出ようと思えば容易に出られそうだ。もしかしたら彼女の自宅かもしれない。
「君が我々に協力し続ける限り、この状態は継続されるだろう。しかし……」
「……分かった、もういい、です」
「そう言わず聞きたまえ。ここにいる阿元君についてだが――彼は、触れたものを吹き飛ばす能力を持っている。起爆が可能な範囲もそれなりだ。これが何を意味しているか、君なら既に理解しているだろう」
瑞樹はそれ以上何も言葉を発しなかった。
炎は霧消し、拳を作った両手をテーブルにつき、そこに突っ伏す勢いで上体を折り曲げた。
それは奥平に、血守会に屈したことを意味していた。
だが――心まではまだ折れていない。
きつくつぶった目の奥に、栞の笑顔が浮かぶ。
このまま終わってたまるか。
自分がどうなろうと、栞は必ず守る。
そして、こいつらも必ず叩き潰す。
血守会に対する敵意、憎悪がこの瞬間、瑞樹の中で決定的なものになった。
「坊ちゃん、そんな所でベソかいてないで見てな」
追い打ちと言わんばかりに、阿元は先程瑞樹が血判を押すのに使った小刀をテーブルから拾い上げた。
そしてそれを誰もいない方向へと放り投げる。
小刀が鳴らしたのは、硬い床とぶつかりあう金属的な音ではなく、小さくも暴力的な爆発音だった。
爆風も、煙も上がらない。
しかし小刀は、数え切れないほどの細かな破片に砕け散り、床に降り積もった。
「チッ、イマイチだな」
小刀の辿った結末と、栞の笑顔が脳内で交差して、瑞樹は狂おしいほどの吐き気に襲われた。
「顔色がすぐれないようだ。今日の話し合いはここまでにしておこうか」
奥平はおもむろに立ち上がり、瑞樹を見下ろす。
闇の果てへ向かって開く大穴だった眼が、暗黒の太陽に変化していた。
黒き光は瑞樹に降り注ぎ、心身を蝕んでいった。
「当面、君に課す任務はない。追って沙汰するまで、学生生活や変異生物駆除の助手を満喫してくれたまえ。五相君、彼を送り届けたら、私の部屋へ。阿元君は柚本君とコンタクトを」
奥平が退出した後も、瑞樹はしばらくの間、立ち上がることができなかった。
心を水槽に喩えたとする。
汚れた手をそこに突っ込まれ、思いっきり掻き回されたことで、瑞樹は激しく消耗した。
いてもたってもいられなかった。
来た時同様、瞬間移動でアジトを出て、東雲を発った後、瑞樹は五相に栞の位置を探知するよう依頼した。
悠長に返事が来るのを待ってなどいられない。
彼女のレーダーが指し示した位置は、東京都北区王子。
栞の自宅がある場所である。
五相の提案に従い、このまま車に乗って彼女の自宅まで移動することにした。
五相はそれ以上、自分から瑞樹に言葉をかけることはしなかった。
というよりも、何を言ってやればいいのか分からずにいた。結局の所、自分も血守会の構成員に過ぎないのだから。
無言のまま、音楽もラジオもつけず、走行音や外部からの音だけを車内に響かせ、車は進んでいく。
真昼間ということもあり、道路は比較的空いていた。
そのためスムーズに目的地まで辿り着くことができた。
「……五相さん。少しだけ、外で話に付き合ってくれませんか」
ドアに手をかけ、ぽつりと瑞樹が漏らした。
察した五相はエンジンを切り、日傘を出して外へ出た。
駅からさほど離れてはいなかったが、閑静な場所だった。夏休みにかまけ遊び回る子どもたちの声も聞こえてこない。
二人は車から少し離れた木陰へと移動した。
それでも真夏の炎天下、コンクリートジャングルは相当にこたえる暑さだ。元気なのは蝉ぐらいのものである。
「すみません、暑い中」
「いえ」
「今の僕にも栞に、彼女についているような監視があるんですか」
「……調べてみましたが、何もないようです」
目を閉じ、間を空けて、五相が答える。
それを聞いて、瑞樹の表情が少し緩んだ。
「僕は、五相さんを憎んではいませんから。お願いです、これから僕にも力を貸して下さい」
「そんな……どうか、そんなお願いなどおっしゃらないで下さい。中島さんは被害者なんですから」
「いえ、違います。僕にとって、連中は完全に敵となりました。もう被害者面はしていられない。戦わなきゃいけないんです。守るために」
蒼白だった顔には、既に気迫の血色が戻っていた。
まっすぐに五相を見る眼差しにも、強い意志と覚悟が宿っている。
ああ――なんて強い人なんだろう。
逆に五相の方が深刻になり、少し泣きたくなってしまう。
慌てて顔を少し上に上げた後、掠れとも震えともつかない声で言った。
「はい……はい。共に止めましょう、彼らの凶行を。私の全てを、貴方に捧げます」
「五相さん……?」
彼女の両手で右手を包み込まれ、瑞樹は少々狼狽してしまう。
「あ……あ? ご、ごめんなさいっ! つい……!」
五相が我に返ったのは、無意識に放り出した日傘が風に揺れ、コンクリートと擦れてカラカラ音を立てたのと同時だった。
少々五相の感情の高ぶりがあったものの、互いに決意を固め直したところで二人は別れた。あまりに五相の帰りが遅くなっては怪しまれてしまうかもしれない。
さて――瑞樹は眼前のマンションへ向き直り、見上げる。
「ここが栞の家か……来るのは初めてだな」
鋭角的なデザイン、グレーの外壁に透明なベランダ柵。外装からして、かなりのグレードに見える。
出入口はオートロックになっているため、気軽に入っていくことはできない。
瑞樹は栞と交際して二年ほどになるが、未だ彼女の家に入ったことがない。
泊まらずとも少し行ってみたいと、何度か提案したことがあるが、その度にはぐらかされてしまわれていた。
栞の両親は既に事故で亡くなっており、現在は姉と二人暮らしをしているらしい。
だから色々と事情があるのだろうと、瑞樹はこれまで深入りをしてこなかった。
だが今はそんなことを言っていられない。
確かめたかった。会いたかった。少しでも話をしたかった。
年賀状をやり取りしたことはあるため、部屋番号は分かっている。
集合玄関機から、栞の部屋番号を押して呼び出す。
反応がない。
予想通りだ。
瑞樹はすぐさま携帯電話で栞に通話を試みる。ほとんど同じタイミングでインターホンと電話を鳴らせば、同一人物だと結び付けてくれるかもしれない。
が、それでも反応が返ってこなかった。
瑞樹は諦めない。
一度でダメなら、もう一度行えばいい。
回数を重ねるほど、偶然は必然に近付き、無視できない押しの強さを感じさせられる。
二度目に電話をかけた時だった。
「…………もしもし」
長い呼び出し音の後、栞のか細い声が聞こえてきた。
最後に別れてから一日と経っていないというのに、何年かぶりに聞いたように久しく感じれる。
そして、まず何より、安堵した。
生の声が聞けたということは、生きているということだ。
「栞……ごめん、何度もしつこく連絡して。でも、どうしても今すぐ話をしておきたかったんだ。少しだけでいい、会ってくれないかな」
長い沈黙が流れた。
実際には十数秒ほどであったが、瑞樹には長く感じられたのである。
「…………わかった、開けるから、入って」
そう言って、電話が切れた。




