十二章『血の呪縛とつながり』 その2
東雲駅の南側は、人気のほとんどない、うら寂しい工業地区となっている。
ボディを真紅に塗られた派手な車が走っても、特に気に止めるものはいない。
自動車販売店やリース店も少数ながら存在しているため、尚更だ。
そんな区域の一角にひっそりと建つ、二階建ての小さな建物の前で車は停車した。
外見はなんてことのない、小さな倉庫である。
三角形の赤いトタン屋根、そして正面にはスライド式の鉄扉がついている。
助手席の五相だけが降り、何やらセキュリティシステムのようなものを操作して、シャッターを開けた。
ここが――
「ここが血守会のアジトか、なんて思うなよ」
阿元が鼻を鳴らして言った。
「違うんですか?」
「言ったろ。面白い体験ができるって。ここからさ」
阿元は車のヘッドライトを付け、倉庫の中へと車を進める。
瑞樹はライトに照らし出された空間を、目を凝らして観察してみた。
が、内部も何ら変わったところは見当たらない。
以前、栞と訪れた横浜の赤レンガ倉庫のように洒落てもおらず、本当に工業を目的とした、無骨で無機質な倉庫だ。
いや、無機質すぎた。
物が置かれていないに等しく、がらんどうだ。
使用している形跡が見られず、基本的に放置しているようだった。
瑞樹がそうこう考えているうちに、鉄扉が閉ざされる重く鈍い音が響き、五相が再び車内に戻ってきた。
「ご苦労さん。じゃ、そろそろ行きますか」
「中島さん。少し眩暈を感じると思いますが、体に悪影響はありませんので心配なさらないで下さい」
「車から出るなよ」
二人から念を押される。
一体何が起こるというのか。瑞樹の緊張が少しずつ高まっていく。
――と、不意に、瑞樹は脳を直に揺すられたようなショックを味わった。
苦痛はないが、視界が暗転し、気が遠くなっていく。
音が聞こえない。全身の力が抜けていく。
しかしそれらの症状はすぐに治まった。
意識もすっかり回復し、車窓の外からぼんやりと光が映っているのを知覚できる。
瑞樹はガラス越しに外を見て、息を飲んだ。
殺風景な倉庫だったはずの風景が、濃灰色のコンクリート壁に変化していた。
左右の壁までの距離は意外と近く、道路で例えると一車線、それよりもわずかに広いくらいだ。
どこかの通路なのか、道は前後に延々と細長く、同間隔で伸びている。
目を疑うような出来事を体験したにも関わらず、瑞樹は意外と冷静であった。
図らずも昨晩、八幡の藪知らずに潜り込んだ経験がその理由だった。
「瞬間移動……」
「なんだ、分かってたのか」
つまらなさそうに阿元が呟く。
阿元も五相も、変わらず座席に座ったままだった。
「まあいいや、行くぞ」
「具合はいかがですか? もう少しで着きますのでご辛抱下さい」
車はゆるゆると徐行で走り出した。
瑞樹は腕時計に目をやる。意識を失いかけた時間は本当にごくわずかだったようだ。
次に、二人に気付かれぬようEFを使ってみる。
掌にごく小さな灯が生まれたのを見て、すぐ消した。
能力が使えるということは、少なくとも山手線内ではない。
ただ、分かったのはそれだけで、全く場所の見当がつかない。
どこかのトンネルなのだろうか。それにしては規模が小さいようだが。
四、五メートルほどの高さの円形の天井には白色光を放つライトが一定間隔で埋め込まれており、伸びている道は先端でゆるく右に曲がっている。
道中、天井から案内標識のようなものが一定間隔でぶら下がっていることに瑞樹は気付いた。
最初に見えたのは"五"と、白地に赤く漢数字で書かれた標識。
またある程度進むと次は"六"、"七"と、連番になっていた。
"九"の標識の真下まで行ったところで、車は停止した。
「あと数分、ご足労頂けますか」
五相が瑞樹に声をかける。
瑞樹は、二人が降りてから出ようとしたが、阿元も同じことを考えていたらしい。互いに硬直時間が生まれる。
仕方がないので、五相が開けたドアから外に降り立った。
不気味なくらい、音のない場所だった。
「あ~、眠い」
阿元の声も、足音も、やたらと大きく反響して聞こえる。
三人の他には何の気配もない。
また暑くも寒くもなく、通気口は見当たらない。奇妙な場所だった。
それでもたっぷり一時間半は乗車していたからか、このような閉塞的な場所でも外の空気を吸えるのは瑞樹にとってありがたいことだった。
「んじゃ、行くか」
伸びを終えた阿元は、キーを車に差しっ放しにしたまま、車の右側へと歩き出し、コンクリート壁の前に手をかざした。
ピピっと電子音が鳴り、かざした手の近くの壁が左右へと割れ、人間二人分通れるほどのスペースが生まれた。見えない認証システムでもついていたのだろうか。
阿元が先頭に立って中へと入り、続いて五相が「こちらです」と、瑞樹を促す。
どうやら二人は彼の前後を挟む形で歩きたいようである。瑞樹は黙って従うことにした。
「車はあのままでいいんですか?」
「ああ、誰かが回収してくれるよ」
阿元は振り返りもせず答えた。
隠し通路は狭く、大人が両手を大きく横に広げると壁に指が触れそうなほどの幅である。
足元は階段で、緩やかな段差で下へ向かっていた。
上にも一応ライトはついているが、明度は先程のトンネルよりも低く、数もまばらであるため、ひどく薄暗い。
「足元に気を付けて下さいね」
手すりなどないので、壁の片側に寄り、ゆっくりと降りていく形になる。
瑞樹は巨大な蛇に生きながら飲まれていく錯覚を軽く味わいながら、再び考えを巡らせ始める。
具体的な場所は分からないにしても、だいたいの見当はつけられないだろうか。
例えば、瞬間移動を行った地点を基準にして考えてみる。
推察にすぎないが、恐らく移動距離や手段、環境に制限があるはずである。
もし何も制限がなければ、場所を指定する必要はなく、人気のない場所であれば好きな所からアジトへ移動すればいい。
つまり、アジトは東雲からそう離れていない場所にあるのではないか。
臨海地区は変異生物などの影響で人気が少ないため、防衛策さえ取れていれば、潜むにはにはうってつけだろう。
既にやっているかもしれないが、後日、五相の能力で調べてもらおう。
そこまで考えたところで階段が終わり、目の前に端末付の金属扉が行く手を阻んでいるのが見えた。行き止まりだ。
阿元が慣れた手つきでキーを入力すると、解除音の後に扉が横へスライドしていく。
中はオフィスの休憩室を思わせる部屋になっていた。
およそ十メートル四方の空間に白いテーブルと椅子が規則的に配置され、左側の壁には冷蔵庫や流し、食器などが入った棚なども据え付けられている。
ここまで通ってきた道に比べれば、随分と人間味の感じられる空間であった。不覚にも瑞樹はほっとしてしまう。
ただ、四方のいずこにも窓が見当たらない。地下だからだろう。
「なんだ、奥平さんはまだ来てないのか」
阿元はぼやきながら、一番近くの椅子に腰を下ろした。
「坊ちゃんも適当に座りなよ」
促され、瑞樹は阿元から少し離れた椅子に座った。
「なんだよ、そんなに俺が嫌いか?」
何だかこの男、自分に対して突っかかるような物言いが目立つ気がする。
流石の瑞樹も少しむっとしたが、感情を抑え、つとめて平静に答えた。
「同じテーブルだからいいじゃないですか」
「あ、私、飲み物を用意しますね。お疲れでしょう」
両者をとりなすように、五相は軽く両手を合わせ、冷蔵庫へと歩き出した。
「お二人は何が飲みたいですか? 色々種類がありますよ」
「ビール」
「コーラ」
「ダメでしょ、お酒は。中島さんと同じコーラでいいわね?」
「はいはい」
両者の回答を得て、五相は冷蔵庫からコーラのペットボトルを、棚からグラスを三つ取り出す。
グラスに氷を入れて注ぎ、二人の所へ運んでいった。
「サンキュー」
「ありがとうございます」
「いえ、このくらい」
五相は阿元と瑞樹の中間位置にある席に座り、コーラに口をつけた。
車に乗ってからというもの、瑞樹の口は重い。
また明らかに、周囲を子細に観察して少しでも情報を得ようとしている。
当然の振る舞いだと思うと共に、冷静かつ前向きに行動する姿を、彼女は好ましく思った。せめて彼の邪魔をしないでおこうと決める。
瑞樹はコーラを飲みながら、堂々と部屋を見渡す。
ここまで来て下手にコソコソすれば逆効果だと判断したのだ。
部屋に出入口はもう一つある。
何も据え付けられていない側の壁に、レバーハンドル型のドアが一つついていた。
しかし認証端末があるため、自由に行き来はできないようだ。
今の所、実行するつもりはないが、ここまでセキュリティが厳重では、逃走することは不可能に近いだろう。
そういえば荷物検査をされていないが、いいのだろうか。
瑞樹は疑問に思ったが、それをわざわざ口に出して伝えるほど不用心でもない。
それにいざとなれば、この阿元という男が盾となり、剣となるのだろう。
正直、そこまでの手練れには感じられなかったが、能力や実力は全くの未知数なため、できるだけ戦いは回避しておきたい。
無言でいる瑞樹をよそに、二人はまだ到着していない人間について話し始めた。
「約束の時間通り着いたってのに、奥平さん、何やってんだか。ここ、携帯繋がらんから連絡取れないんだよなぁ。なあ、今どの辺にいる?」
阿元の問いかけに、五相は「仕方ないわね」と言い、精神集中を始める。
すぐに意識を戻し、
「もう近くにいるわ。五分くらいで着くんじゃないかしら」
と告げる。能力を使い、奥平の現在位置を探ったのである。
五相の予告通り、血守会のリーダーが現れたのは、きっかり五分後のことであった。
瑞樹たちが出入りしたドアが開く音がした瞬間、ドアを背に向けていた五相と阿元が立ち上がり、背筋を伸ばす。
「待たせたな」
低い声と共に現れたのは、黒スーツを着用した中年の男。
白髪混じりの髪はオールバックに撫でつけられ、深く刻まれた皺が幾つも走る顔は岩石を連想させる。
他には、目の下がやけに黒ずんでいるのが特徴的だ。
身長は少なくとも180cm以上はあるだろう。体も分厚く、相当強靭な筋肉を有しているようだ。
何より、放たれている重厚な威圧感が尋常ではなかった。
常に腹に力を入れておかないと押し潰されてしまいそうだ。
席を立つつもりはないのか、立てなかったのか、その区別すら分からなくなりそうだ。
(鬼頭さんに似ている……?)
瑞樹はほんの一瞬顔を合わせただけで、只者ではないことを感じ取っていた。
「お疲れ様です!」
阿元と五相は声を揃えた。
特に阿元の方は、先程までの軽薄な態度など、何処かへ吹き飛ばされてしまったようである。
「二人もご苦労だった。……君が、中島瑞樹君か」
部下を一瞥した後、男の双眸が、ゆっくりと瑞樹へ向けられた。
夜の底の底、奈落の果てのように光が一切感じられない、黒々とした瞳だった。
覗き込むだけで落ちてしまいそうだ。瑞樹はほとんど本能的に目を逸らしてしまった。
「二人から紹介があったか分からないが、改めて名乗らせてもらおう。私は奥平、現在血守会を取りまとめている立場ではあるのだが……あえて幹部だ、と言っておこうか。本日は多忙な中、召還に応じて頂き感謝する」
こちらのスケジュールなど知っているくせに。
と、瑞樹は言おうとしたが、言わなかった。
どちらかといえば、言えなかったという方が正しい。
「五相君、バーボンをストレートで持ってきてくれ。阿元君は灰皿を」
「かしこまりました」
両者は直ちに用意にかかり始めた。
奥平は瑞樹の真正面に腰を下ろし、懐から木製の葉巻ケースを出して一本抜く。
そして阿元によって速やかに用意された灰皿の上で、葉巻に吸い口を――黒い手袋をした手刀で作り出した。
その行動に驚くことはなく、ごく自然に受け入れていた。
むしろ小道具に注目していた。葉巻以前に喫煙者ですらない瑞樹には詳しい値打ちが分からなかったが、低級な品物でないことは見て取れる。
「試してみるかね」
「結構です。それより、火が要るなら僕がつけましょうか」
瑞樹の切り返しに、五相と阿元はぎょっとした。
一体何を言い出すんだ。浮かぶ言葉は共通していた。
しかし奥平はというと、
「うむ、君の火でどのように風味が変化するのか、気にならないこともないな。やってみせてくれたまえ」
顔に刻まれた皺を更に深くし、葉巻を突き出してきた。
「危険です。彼はまだ正式な協力を約束した訳ではありません。それに」
「いい」
阿元の進言は切って捨てられた。
奥平が取った予想外のリアクションに、言い出した瑞樹の方が少し困惑してしまう。
だが今更引いてしまっては、わざわざこちらから打って出た意味がなくなる。
「火力はライターやマッチほどでいい」
瑞樹は人差し指の先に、言われた通りの火を出した。
近付けられた葉巻のフット部分が、火の輪郭部分で少しずつ燻され、焦げ目ができていく。
煙が立ち上り始めたところで、奥平は葉巻を引き寄せて吸い始める。
紙巻きよりも遥かに濃厚な煙に、瑞樹の心と肺が不快感で満たされていく。
鬼頭さんとは大違いだ、と思った。
「……大して変わらんな」
奥平は無機質に言い、葉巻を灰皿に置いた。
失望感はなく、全ては予想の範疇だった、とでも言いたげであった。
次に、五相が運んできたバーボンをほんの一口だけ含んだが、これに対しても何ら感想を述べたり、感情を動かすことはなかった。
まるで、喉も渇いていないのに水道水を飲んだかのように。




