十一章『復讐火葬』 その3
殺意と緊張で、心臓が早鐘を打ち出す。
全身の毛穴がブワっと開くのを感じる。
冷たい汗が噴き出してくる。
木々の隙間に目を凝らす。
沙織が具体的に何を行おうとしているのかは分からない。ややうつむき加減に、光の結晶の発生源である地面を見つめているようだ。
身を潜めている瑞樹の存在にはまだ気付いていない。
ここからが重要だ。
瑞樹は強靭な意志の力で焦りと動揺を抑え込む。
彼の視界が、闇に閉ざされた。
あろうことか瑞樹は、最大の敵を前にして、自ら目を閉じたのである。
目から入ってくる過剰な憎しみを抑えるため、恐怖を無理矢理にねじ伏せ、闇に身を委ねることを選択したのだ。
瑞樹は数字を数えだした。
無論、声には出さず、頭の中で。
一。二。三。四。五。六。七。八。九……
数が十を超えると、心の水面は静かになった。
ただし憎悪が消えた訳ではなく、底で泥のように沈殿している。
理想のコンディションへと持っていくことができた。
薄目を開ける。
変わらぬ姿で沙織がいる。心の揺らぎは最小限で済んだ。
これ以上接近すれば、いくら気配を殺そうとも気付かれてしまうだろう。
沙織がいる辺り、光の結晶の半径二メートルには草も木も生えていない。
奇襲は無理だ。武器に乏しく、あの光の正体も分からない。
現状を鑑み、瑞樹は早々に判断した。
しかし彼に焦りはない。
元より準備不足、急いで乗り込んだのだ。上手く不意をついて暗殺できれば儲けもの、ぐらいに考えていた。
心を鎮めたのには、冷静に攻撃を仕掛けようとした他にも、もう一つの狙いがあったのである。
瑞樹はそっとナイフを土の上に置いた後、やにわに立ち上がり、前方へと飛び出した。
木や草が触れ、ガサガサと派手な音が鳴る。
沙織は跳び上がり、振り返った。
驚きが浮いた表情は一般の女性のそれと何ら変わりがなく、とても異常性を内包しているようには見えない。
「……瑞樹君!?」
が、瑞樹の姿を視認すると、徐々に驚きから、戸惑いと喜びが入り混じった複雑なものへと変化していく。
「どうして、こんな所に」
「理由なんてどうでもいいじゃないか。たまには僕の方から会いに来たって構わないだろう? 男として、いつも受け身だと面白くないんだ」
沙織の心臓に、僅かな電流が走った。
(瑞樹君がそんな言葉を、しかも冷静に言うなんて)
想像の外であった。
あの日、中島一家が殺害されて以来、瑞樹が沙織に話しかける時は、常に燃えたぎるような怒りや憎しみが伴っていた。
なのに今はどうだ。
可愛らしい顔をニヒルに歪ませ、口説くような軽妙さで話しかけてきている。
「少し話がしたいんだ。付き合えよ」
「え、え、でも」
「話がしたいから奇襲せず、武器も持たず、こうやって出てきたんだ。いいだろう、付き合えよ」
重ねて同じことを、更には強引に迫られ、さしもの沙織も精神的な動揺を見せ始めた。
「……う、うん、瑞樹君がそう言うなら」
押し切られる形で頷いてしまうのであった。
「それにしても、私達のデートは年に一回って決めてたはずなのに、今年はもう何回も会っちゃってるね」
「決めたも何も、お前が勝手に押し付けたことだろう」
瑞樹は一歩、二歩と、沙織への距離を縮め、尋ねる。
「で、お前はこんな所で何をしてたんだ。それとその蛍の光みたいなものは何だ」
「花火を見に行こうと思ってたの。瑞樹君たちと一緒だよ」
「冗談はやめてくれ。こんな所でどうやって……」
「冗談じゃなくて本気だよ。瑞樹君、知らないの? この光を利用すると色々な場所にワープできるんだよ。エネルギーを溜めないといけないし、コツを掴まないと危ないんだけどね。入ると出られないっていう藪知らずの言い伝えは、ここから来てるんじゃないかな」
瑞樹は、沙織が神出鬼没である理由を垣間見た気がした。
もしや今までも、これを利用して自分の所へ瞬間移動してきたのではないだろうか。
「ねえ、瑞樹君はどうして私がここにいるって分かったの? ……やっぱり、あの女の人の仕業?」
今度は沙織の方が質問してきた。
「ああ、あの人の能力で、お前の位置を探し出した」
瑞樹は包み隠さずに回答した。
「そうなんだ」
沙織は光の結晶が舞う場所から離れ、近くにある太い竹の幹に背中を預ける。
「瑞樹君。どうして私があの人と会っちゃダメって言ったか、分かる?」
「……血守会の一員だから、だろう」
「知ってたんだ。本人から聞いたの?」
「ああ」
「なんて言われたの?」
「……救世主になれ、と」
ふうん、という沙織の呟きが闇に溶けた。
「まだ、諦めてないのかな」
「どういうことだ」
「言葉通りの意味だよ。血守会の一番の目的は、山手線の結界を壊すことじゃない。そのことも聞いているはずだよ」
言われるまでもなくその通りだ。と瑞樹は思う。
それと同時に、徐々に話のペースを相手に握られかけていることに気付く。
「――なんだろうな」
「えっ」
突然、瑞樹が苦笑したのを見て、沙織は思わず声を上げた。
「不思議な気分になるんだ。家族を殺したお前を殺してやりたいくらい憎いという気持ちは変わらない。……でも、最近、お前のことを考えてると、何というか、それだけじゃないというか……」
瑞樹は胸を押さえ、俯いて言葉を切る。
耳鳴りがするほどの静けさが、二人に突き刺さる。
光の結晶は変わらずに、意志を持たぬまま浮遊を続けている。
沙織は無言のまま、続きを待っていた。
「――お前のせいで、僕の心は狂わされてしまったのかもしれない。こういう感情を持つのは初めてだ。正直に言わせてくれ。……今の僕は、お前のことを殺したくて、それと同じくらい好きで、愛したい気持ちがある」
「うそ……!?」
「嘘じゃない。だから五相さんの力を借りてまで、こうやって会いに来たんだ。気持ちが――どうしても抑え切れなくなったから。憎まれることで愛を感じると言っていたお前の気持ちが、今なら分かるかもしれない。気持ちいいよな、背徳感と嗜虐心が混じったこの感覚。理性では拒んで隠そうとしながらも、人間が本能的に欲しがっている部分を刺激されるんだ。そうだよな? 沙織」
瑞樹は、沙織の目を真っ直ぐに見つめて言った。
沙織は瞳をしばたたかせる。
予想もつかなかった、突然の愛の告白。共感。
(瑞樹君から、こんなことを言われるなんて! 名前を呼んでもらえるなんて――!)
情動が、心ではなく脳から迸る。
電流となって脊髄を下り、神経を伝って手足へ駆け巡っていく。
瑞樹に対してこんなにも気持ちを揺さぶられたのは、出会ってから始めてかもしれない。
「……なに、それ」
そして、こんなにも強い失望感を抱いたのは。
「沙織……!?」
「私、そんな演技に騙されないよ。油断もしない。それ以上に、例え本音だったとしても、瑞樹君にそんなこと言われたくはない」
沙織は温度のない顔で、雪女の吐息を思わせる声色で、否定の言葉を吐く。
百年の恋も一時に冷める、という慣用句がそのまま当てはまったかのように。
冷気にあてられたことで一瞬、瑞樹の顔に狼狽が滲み出かけたのを、沙織は見逃さなかった。
「瑞樹君、まさか」
「何でッ! 何でそんなことを言うんだ! お前は家族だけじゃなく、恋愛感情さえも奪っていくのか! 僕のこの想いを、嘘だって決め付けるのか! 僕は本当に」
「やめてっ! 私はもっと純粋な気持ちで瑞樹君を愛してるの。悪いことをしているなんて思ってないし、苦しめて喜ぶなんてあるわけもない。単純に憎まれるだけでいいんだもの。そんな、そんな汚い気持ちな訳がないんだよ」
――そうだよな、異常者め。
「頼む、分かってくれ。僕は本気なんだ。沙織のことを、付き合ってる彼女よりも頭で考え続けてるんだ」
瑞樹は少しずつ、すり足で沙織へにじり寄っていく。
「お願い、そんなこと言わないでっ! ウソをついて、栞ちゃんまで汚さないで!」
沙織は耳を塞ぎ、髪を振り乱し、叫んだ。
濁りのない声が鋭い槍となって、闇の藪知らずの方々へと飛ぶ。
愛に夢を見る理想主義者にしても、少々枠を外れた取り乱し方であった。
しかし瑞樹は、ここを好機と見た。
「分かれ! 頼むから分かってくれよ! 僕の思いを! この気持ちを!」
瑞樹は叫び、沙織を抱きしめようとした。
が、両腕を広げた所で彼女にすり抜けられ、空を切る。
「ごめんなさい、今の瑞樹君には触って欲しくない」
――じゃあ、焼かれて死ね!
瑞樹は沙織の方を見もせず、手を横へ出し、火炎を放った。
緩急の差がない、極めて自然な流れるような動きだった。
ここまで溜め込み続けていた憎悪と、例え空々しい演技とは言え、憎む相手に慕情めいた振る舞いをしてしまった自己嫌悪。
これらの思いをEFで素早く炎に変換し、不意の一撃を見舞ったのである。
奇襲が不可能だと判断した瑞樹は、次にこう考えていた。
いくら火力を上げようとも、沙織には全く通用しなかったのは、これまでの戦いで痛感していた。正攻法で勝利するのは難しい。
ならば、能力を封じればいい。
ないしは、力を弱めて効力を低下させ、火炎による攻撃が効くようにすればいい。
沙織のEFが発現するのに必要な感情は『愛情』だ。
言い換えれば、相手の愛情を揺るがすことをすればいい。
憎まれることで愛を感じるというのなら、憎むことをやめた振る舞いをしてみせればいい。
例え偽りであっても多少の効果が見込めるはずだ。
一般的な恋人同士に置き換えれば分かりやすい。嘘でも「嫌い」「お前の顔など見たくもない」と強い調子で言い続ければ、多少なりとも心は揺らぐはずだ。
話の主導権を沙織に渡そうとしなかったのも、本意ではない感情を寒々しくぶちまけてみせたのも、全ては沙織の力を削ぐための策。
これほどまでに効果覿面だったのは予想外であったが。
拡がった大炎は暗闇を夕暮れ色に焼き上げながら、沙織に灼熱をもたらした。
瑞樹は怒りも憎しみも、体では表現しなかった。
ただ無表情のまま、微塵も緩めない火勢で示し続ける。
骨をも残さぬと、溢れる思いのままに彼女を焼き続ける。当初の見立て通り、この森の中ではEFが減衰することはないようだった。
やがて、強く発し続けた瑞樹の心の力が一時的な息切れを起こし、噴き出る火炎が衰えていく。
瑞樹はEFの使用を止め、様子を窺う。
沙織は火だるまになっていた。
さながら炎で人型を象ったように見え、最後にいた位置から直立不動でいた。
悲鳴どころか、呻き声や呼吸音さえ聞こえてこない。
胸のむかつく臭いが鼻を刺激する。
それに伴ってわずかに込み上げてきた吐き気は、強烈な喜びが塗り潰してくれた。
臭うということは、焼けているということだ。
焼けているということは、攻撃でダメージを与えられたということだ。
今までは水ぶくれ一つもろくに作らせられなかった。
だが、今は確実に深い火傷を負わせることができている。
――このまま行けば、殺せるかもしれない。
微かな期待が胸の内に灯る。
今夜こそ、遂に、長年の悲願が成就するのか。
だが、希望の火は、何故か突如として勢いを急速に弱め始めた。
ほどなく、微かな黒煙だけを残して消滅する。
瑞樹が無意識に消してしまったのか、沙織がEFで逃れたのか、理由は不明である。
瑞樹は驚愕したものの、絶望感を抱くことはなかった。
煙の奥から覗いた沙織の姿が、元の美しさなど見る影もなく変貌していたからだ。
白かった肌は全身にわたって醜く焼け爛れ、炭化している箇所もある。
衣服は全て焼失し、黒絹のようだった長い髪は焼けと縮れでひどく不揃いになっていた。
そして楚々たる雰囲気を象徴していた顔も――
瑞樹は顔をしかめはしたが、目を逸らしはしなかった。
自分と家族が受けた苦痛と絶望を思えば、当然の報いだ。
罪悪感などない。
あるのは「いい気味だ」という暗い歓喜ばかり。
「……瑞樹君に、して、やられちゃった。防ぐの、間に、合わなかったよ」
沙織の声は思いのほか明瞭であり、痛々しさは欠片もなく、透明さも失われていなかった。
瑞樹ははっとする。
そうだ、この女の能力ならば、肉体を高速で再生することもできる。
早く追撃を加え、完全に焼き殺さねば。
もはや愛情という偽りの仮面は投げ捨てていた。瑞樹は両手に炎を生み出し、第二撃を浴びせようとする。
「待って。……うん、そう。もういいかな。だから、ほんの少しだけ」
騙されるか。きっと先程の自分と同じことを考えているに違いない。
瑞樹は無視して火炎を浴びせた。
しかし今度は沙織に防御される。
左腕を盾のように変形させ、瑞樹からの炎を遮った。
瑞樹は火炎放射を止めた。
沙織の言葉を信じたからではなく、力の使い過ぎを警戒したためだ。これ以上無計画に放出しては、いざという時に決め手を欠く可能性がある。
彼の攻撃が収まるのとほぼ同時に、耐久力の限界に達した沙織の左腕が、盾の形をしたまま炭化してバラバラと崩れ落ちていった。
沙織は何故か、それ以上抵抗する様子を見せなかった。
ただ二、三歩、焼け焦げた身を引きずり、また立ち止まる。
光の結晶が、醜い火傷をそっと闇から照らし出す。
沙織は爛れのせいで歪になった笑顔を作り、瑞樹に告げた。
「瑞樹君。私を、このままここで殺して。その憎しみの炎で焼き殺して」
「なんだと?」
「安心して。この状態じゃ、もうワープして逃げられないし、今更体を治したりもしないから」
どういうことだ。
瑞樹は彼女の発言を鵜呑みにすることができなかった。
何か真意が、別の狙いがあるのではないか。
「ウソでも罠でもないよ。私は絶対、瑞樹君にウソはつかない。今までずっとそうだったでしょう?」
「……信じられない。今になって急に、そんなことを言い出すのが」
「一言で言うと、満足しちゃったから、かな」
「満足、だと」
「何だか……もう、体も心も、一瞬でいっぱいに満たされちゃった。瑞樹君からの不意打ちを受けた時、思ったの。もう、この世界でこれ以上愛されることを求めなくてもいいかなって。瑞樹君に興味がなくなったんじゃないし、侮辱するつもりもないからね。ただ」
「ふ……ふざけるなァッ!」
これ以上は聞いていられないと、瑞樹の怒声が森に木霊した。
同時に彼は沙織に飛びかかっていた。
崩壊寸前の彼女の肉体を殴る。
顔を胴体を、激情に任せて乱れ打ちする。
「全部ッ! 何もかもッ! お前の都合にッ! 振り回されてたまるかッ!」
沙織は避けることなく、全ての打撃を受け入れた。
一撃ごとに彼女の肉体は滅びへと近付き、瑞樹の両拳が潰れたザクロを塗ったように汚れていく。
瑞樹は気付いていない。
いくら拳を打とうと沙織の命を奪えないことを。
拳で崩れた分だけ、沙織は肉体を再生させていることを。
拳打が二十発目に近付いた時、沙織は残った右手で瑞樹の右手首を掴み、打撃を止めた。
「そんなのじゃダメ! さあ! 手を開いて焼いて! 私を殺して! ほらっ!」
「くっ……!」
瀕死とは思えない力。勢い。
瑞樹は僅かに怯んだ。
しかしすぐに、真っ黒な衝動が思考の全てを、全身を塗り潰していく。
今まさに、二人を包んでいる藪知らずの暗闇がそうしているように。
――そうだ。僕は何をモタモタやっている。こいつの望み通り、さっさと火を放って焼き殺してやればいい。
――復讐するんだ。家族の仇を、今取るんだ!
――殺す。殺す殺す。殺す殺す殺す殺す!
「瑞樹君! ハンバーグの味を忘れたの!?」
瑞樹の口内に一瞬、欠落していた記憶の一部が蘇った。
「う、うあああああああああァァァァッ!! がふっ……! げほっ、がはっ……!」
咆哮と共に、逆流してきた体液が口から溢れ出す。
そして、瑞樹の掌から一輪の大きな花が咲いた。
積年の憎悪を乗せた超高熱の花弁が、沙織の肢体を一瞬にして包み込んだ。
「…………また……」
赤と橙の光に溶け込む直前、円城寺沙織は、確かに笑っていた。




