十一章『復讐火葬』 その2
電車が本八幡駅に着き、ドアが開いた瞬間、瑞樹は飛び出した。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、一番近い目の前の自動改札機に再び電子乗車券を叩き付ける。
「中島さんっ!」
改札を出た瞬間、ハスキーな女性の声が瑞樹の名を呼んだ。
ロックファッションに身を包んだ五相が立っていた。
瑞樹は急停止し、挨拶を抜かして尋ねる。
「奴の位置は?」
「まだ動きはありません。あちらの階段から外へ出ましょう」
五相が指差したのは、近くではなく遠くの階段だった。
その方向へ瑞樹は走り出す。五相は慌てて後を追った。
階段を上がり、外に出ると、空の青色はほとんど黒に押されて消えかかっていた。
瑞樹は重ねて五相に聞く。
「奴はどこです?」
「……不知森神社、"八幡の藪知らず"の中です」
少し言いにくそうに間を空けて、五相は答えを返した。
「八幡の藪知らず……」
実際に近くへ行ったことはないが、聞いたことがある。
中へ足を踏み入れると、二度と出られなくなるという森。
禁足地とされているはずの場所だが、その中に沙織がいるというのか。
「とにかく、近くまで行ってみましょう」
二人は千葉街道を東南東へ歩き出した。
走らなかったのは、沙織に気配を読み取られるのを警戒したためだ。
気配を殺し、平静を装って歩を進める。
不知森神社は駅から三百メートルほどしか離れていないため、今更急ぐこともないと瑞樹は考えた。五相と合流したため、移動されても何とか追跡はできるはずだ。
ものの数分で道の先に歩道橋が見え、そのすぐ右手から木々がはみ出している区画が映った。
あそこが八幡の藪知らずか。
瑞樹は目よりも先に肌で感じ取る。
一歩一歩近付くごとに、霧のように漂っている、神聖でもあり不気味でもあるような気配が濃くなるのが分かる。
とはいえ、心身への悪影響はない。道路や建物が隣接しており、車や通行人が普通に通過しているのもその証左だ。
「五相さん、この辺りに来たことは?」
「ありません」
そうだろうな、と瑞樹は思った。
そこで、まず歩道橋の上に上り、様子を窺うことにした。
軽く二十メートルはある孟宗竹がびっしりと生い茂って壁を作っているため、沙織の姿はおろか、入ってすぐの中の様子を目視することもできない。
何でもジアースシフト後、更に植物の成長・繁殖が加速したそうだ。
また、立ち込める異様な空気に邪魔をされ、中の気配を探ることもできない。
「森のほぼ中央辺りにいるようです」
瑞樹の思考を察した五相が、横から解説を入れた。
「それと、中島さんが到着する前に調べておきました。森と市街の境目には、遮断型の結界が張られているようです」
遮断型結界とは、簡単に言えば壁を作るタイプの結界だ。
破壊が不可能な訳ではないが、破壊すると同時に警報が鳴るシステムがついている場合もある。迂闊に手を出すのは危険だろう。
「おい見ろよ、なんか変な組み合わせのカップルがいるぜ」
「マジだ、姉弟みてー! キンシンソーカンってヤツ!? うわー犯罪じゃねーか!」
対策を考えようとした時、大きなガラガラ声が響いた。
歩道橋の上で座って喫煙し、たむろっていた二人の男が、瑞樹と五相を指差してからかい始めたのである。
ニヤニヤと薄笑いを浮かべて立ち上がり、下劣な言葉を煙と共に吐いて瑞樹と五相に手を伸ばそうとしてくる。
「ねーねー二人でなにヤろうとしてんのー?」
「俺らも混ぜてよ」
無視していたのに、どいつもこいつも……
瑞樹の苛立ちは既に凶暴な攻撃性へと変化していた。無防備に間合いまで近付いて来るのを待つ。
そして躊躇なく一人に目潰しを食らわせ、呻き声を上げて怯んだ所へ、体重を乗せた前蹴りを鳩尾に入れた。
続いて、もう一人が驚いている隙に金的を食らわせ、膝を折って頭が下がったと同時に、後頭部へ拳を打ち下ろす。
「燃やされないだけありがたく思え」
とうに意識を失っている相手に、瑞樹は吐き捨てた。
瞬く間に二人を昏倒させた瑞樹の姿に、五相は言葉を失った。
かつて丸の内で食事した時に言っていた"本性"を、言葉でなく実際に見てしまった。
しかし、過剰な恐怖は浮かばなかったし、嫌悪感はなかった。
叩きのめした男達が同情に値しない相手だったからではない。
それに「受け容れる」といった言葉を嘘にしてしまっては、瑞樹に申し訳が立たないと思ったのだ。
「あの、お言葉ですが、入る手を考えるよりも、標的が出てくるのを待った方がよろしいのではないでしょうか」
話題を切り替える意味も込め、五相は瑞樹に声をかけた。
彼女の提言はもっともであった。
何も立入が禁止されている場所に、リスクを冒してまで踏み込んでいくこともない。五相という強力なレーダーが手の内にあるのだから。
だがそれでも、瑞樹の心には引っかかりがあった。
待つという行為は最適解ではないと、頭のどこかから呼びかけてくるのだ。
理由の一つは視覚が教えてくれた。
ここからチラリと見えている、森の中に捨てられている小さなゴミ袋。
草陰に隠れている形になっているため、歩道橋の上から覗いたとしても、一見しただけでは分かりにくい。瑞樹が隈なく観察した成果であった。
遮断型の結界ならばゴミさえも弾くはずだ。
なのに森の中に捨てられている。
完璧に結界が作動しているならばありえないことだ。
どこかに不具合があるのではないか。
次に、沙織はどうやって中へ入ったかだ。
森の周囲で騒ぎが起こっていない以上、結界を破って侵入したとは考えにくい。
考えられるのは、どこか抜け穴になっている場所から潜り込んだ、ということだ。
では、その抜け穴はどこにあるのか。
瑞樹はゴミを起点として推察してみることにした。
こっそり不法投棄した不届き者の心理を考えてみる。
余程の鈍感や悪党でもない限り、入ったら出られない禁足地であるという恐怖は大なり小なり潜在的にあるはずだ。
できるだけ早く投棄して、一刻も早く脱出したくなるのが人情だろう。
あるいは、穴から中へと投げ込んでそのまま立ち去るかだ。
つまり、抜け穴はゴミのすぐ近くにある可能性が高い。
眼下の、森と隣接した駐輪場の辺りだ。
駐輪場ならば、タイミングを窺うために留まっていても、少しの時間ならばさほど不自然には見えないし、充分余裕があるだろう。
「五相さん、森の中に捨てられているゴミの位置を探ることができますか」
「この近距離なら可能なはずです」
瑞樹の真意が掴めなかったが、五相は言われた通り、森の中に落ちているゴミをEFで探査した。
「……落ちているゴミは、ここから見える分だけです」
ビンゴだ。瑞樹は思わず笑みを漏らした。
「中島さん?」
「あの中へ入ります」
「で、ですが」
五相は途中で言葉を切った。瑞樹の凛とした目力から、あらゆる説得をも聞き入れないという意志を感じ取ったからだ。
瑞樹は歩道橋を下り、藪知らずに隣接している駐輪場へと移動する。
道路を時々車が通り抜ける以外、折よく人の気配はない。
途中、自動販売機でミネラルウォーターのペットボトルを買い、すぐさまキャップを開けた。
そして駐輪場へと入り、森との境界にあたる、ゴミが捨ててある場所の目の前まで移動する。
周辺に監視カメラがないこと、後ろの管理室からは死角になっていることを確認した後、瑞樹は金網の向こうの結界に向かってペットボトルの中身を撒いた。
水ならば結界に触れても問題はないと踏んでいた。水にも反応するのなら、雨天の時に大変なことになるはずだ。
小さな蛇のような形に吐き出された水は不可視の障壁にぶつかり、重力に従って流れ、垂れ落ちていく。
瑞樹は数度、着弾点を微妙に変えつつ同様の行動を繰り返す。
一ヶ所、水に濡れない場所があった。
上から垂れる水がある点を境に線ではなく雫となり、その線の下に水をかけると、壁にぶつからず、向こう側の草薮を濡らすことができる。
――ここだ。
ゴミ袋のすぐ隣に、長方形をした結界の抜け穴を発見した。
瑞樹の小柄で細身の体格ならば、四つん這いになれば多少のゆとりができるほどのサイズだ。
何故こんな所に穴があるのか、理由はどうでもよかった。
「ここからは僕一人で行きます」
「……分かりました。お気を付けて。どうか無事に戻ってきて下さい」
五相はもはや止めようとしなかった。
瑞樹からバッグと携帯電話、ペットボトルを受け取り、彼の武運だけを祈ることにした。
瑞樹は最後にもう一度、人気と視線がないことを確認し、軽い身のこなしで金網を越える。
そしてナイフを抜き、身を伏せて結界の抜け穴へと身を滑らせた。
藪知らずの中へ入った瞬間、空気が明らかに変化したのを感じた。
蒸し暑さが、晩秋の頃のような肌寒さになった。
半袖でこの場に長時間いると、体温を奪われてしまいそうだ。
だが気にしてなどいられない。
遂にここまで来たのだ。沙織を討つ好機が。
瑞樹はサバンナに潜む猛獣になった気持ちで、音を、気配を殺し、草薮の中を慎重に進んでいく。
背中を見送っているであろう五相の存在はすでに忘却していた。
考えるはただ一つ、獲物のこと――
父を、母を、妹を殺した憎き女、円城寺沙織を殺すこと。
ただし、殺気はまだ抑えなければならない。
攻撃に出るその瞬間までは、なるべく穏やかな心で。可能ならば無の境地で。
瑞樹は脳内で音楽を流す。
"歩く安全"のインスト曲。
時を刻む秒針の音と、ミニマルなドラムとベースが気だるいスローテンポで無機質に流れる曲だ。
普段プレイヤーから流れてきたら飛ばしてしまうが、こんな時には最適である。
一辺のほぼ中央辺りから中に入ったから、直進すれば森の中心部に行けるはずだ。
だが、土にしっかり食い込み、群生している竹の密度が予想以上に濃く、真っ直ぐ進むことは不可能だった。
誰かが踏み入った足跡などは一切残っていなかった。
瑞樹は逸る気持ちを抑えて、方向感覚を乱さぬよう迂回する。
まだ五メートルも離れていないはずなのに、外界からの音が全く聞こえない。
森の中も無風で、葉擦れの音などもしない。
生命の存在を、蝉や鳥はおろか、蟻一匹も感じない。
街灯の光、車のライトさえも届かず、ほとんど視界がきかない。
だが逆に、この中で起こった出来事も、恐らく外部には届かないのだろう。
さしずめ天然の結界といったところか。瑞樹は好都合だと思った。
瑞樹の緊張は極限にまで高まっていた。
自身の心臓が脈打つ音が内ではなく、外から聞こえてくるよう錯覚してしまうほどだ。
気配を読むことは全くできなくなっていた。
中に入った時点から、あの神聖さと不気味さが入り混じった雰囲気が一層濃厚になり、第六感を支配してしまっているのだ。
生命の存在を感じないのではなく、単に麻痺していて分からなくなっているのではないか、とさえ思う。
それに、いつ背後から、
「瑞樹君、どうしてここにいるの?」
などと声をかけられるかもしれない。
また、沙織以外の存在が潜んでいるかもしれないという懸念。
生物ではなく、概念に近い高位存在。神や精霊とも呼称されるような存在。
瑞樹とて八幡の藪知らずという霊域に何の畏怖も抱かない訳ではない。
祟られるかもしれない。本当に出られなくなるかもしれない。
恐怖は常に付きまとっている。
ただ、今はそれを上回る復讐心が麻痺させているだけだ。
――そうだ。僕はやり遂げる。例えどうなろうと。誰と戦うことになろうと。
瑞樹は改めて、静かに誓う。
視界が悪く、密生する草木が動きを制限する。
相手が誰にせよ、先手を取られれば圧倒的に不利だ。必ずこちらが主導権を握らなければならない。
祟りとは迷信に過ぎなかったのか。
それとも見えない高位存在が彼の悲願を知り黙認したのか。
理由は知る所ではないが、瑞樹は植物以外からの妨害を受けることなく進むことができた。
瑞樹は動きを止める。
前方、五メートルほど先に、淡い蛍光色を発する物体が漂っていた。
その名の通り蛍が放つ光を思わせるが、自律的に動いている様子が見られないため、生物ではないようだ。
未知の現象に瑞樹は警戒する。
それらが放つ仄かな灯りが、ごく狭い周辺だけを茫と闇から浮かび上がらせていた。
光が映し出したものを見て、瑞樹は呼吸を止めた。
――いた!
光の結晶を身に纏うようにして、瑞樹に背中を向けて、長い黒髪を背中まで下ろした女の姿。
円城寺沙織が、八幡の藪知らずの中央に立っていた。




