一章『燃える家と燃やされる犬』 その2
剛崎の来訪という形で思わぬ中断が入ったが、二人は朝の作業を再開した。
今日は朝から仕事の依頼が入っているのだ。
そのために必要な準備を行いつつ、朝食を作る。
もっとも、大掛かりな準備が必要な訳でもないし、献立もトーストにサラダと目玉焼きにコーヒーと、至って簡素なものだ。手間も時間もほとんどかからない。
寝坊したわけでもなく、時間にゆとりはあったので、剛崎が五分ほど時間を取ったところで、特に影響はなかった。
瑞樹が目玉焼きを皿に載せ終え、コーヒーをカップに注いだ所で、二人は朝食を取り始めることにした。
先生曰く、コーヒーの香りを楽しみながら食事をするのが良いのだそうだ。
猫舌だから少し冷ましておきたいという理由もあるのだが、このことは瑞樹に話していなかった。
先生というのはもちろん本名ではない。
名前は瀬戸秋緒。
十一年前、家族が殺されたことで身寄りのなくなった瑞樹を引き取って育て、現在に至るまで同居している。
両者の間に血の繋がりはないが、瑞樹の両親と秋緒は元同僚の間柄であり、瑞樹のことは産まれた直後からの縁があった。
瑞樹が先生と呼んでいるのは、彼にとって秋緒は上司であり、雇用主であり、また師匠でもあるからだ。
一時期、仕事中は『社長』と呼ぼうとしたことがあったが、秋緒から即座に却下された。恥ずかしいとは彼女の弁である。
二人の食事の席では、普段からあまり会話が飛び交うことはない。
BGM代わりについているテレビの方が圧倒的に雄弁である。
とはいえ、会話が少ないことを、互いに全く気にしていなかった。
いつも通りの、二人の穏やかな朝の時間。
皿の上が全て空になる頃には、秋緒の精神状態は既にニュートラルへと戻り、眠気もすっかり覚めていた。
「ごちそうさまでした」
砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲み干し、瑞樹は椅子から立ち上がる。
秋緒とは対照的に、瑞樹はブラックが苦手な上、食事をしながら平気で甘いコーヒーを飲むことができるため、カップが空になるタイミングが料理とほぼ同じなのだ。
瑞樹はリビングの端に置かれたままの、今日の仕事で使う道具の点検を継続する。
今朝の洗い物は秋緒が引き受けることになっていた。
秋緒はぼんやりと、どこを見るでもなく、ブラックコーヒーを口に含み、広がる苦味をじっくりと楽しんでいた。
秋緒のカップが空になった頃には、瑞樹の方の準備は既に完了していた。
秋緒が食器を洗っている間、瑞樹が身支度を整え、秋緒が食器を洗い終えると同時に、スーツ姿に着替えた瑞樹は荷物を携え、一足先に外へと出ていった。
秋緒が身支度をしている間に、ガレージで車の用意をしておくのである。
瑞樹はガレージと車のドアを開け、助手席に荷物を置き、自分は運転席に乗る。
始動はさせず、携帯電話をいじりながらぼーっと過ごす。
十分もしないうちに秋緒が現れ「待たせたな」と一声かけて後部座席へ乗り込んだ。
外見に全く無頓着な訳ではないが、化粧っ気や華美な装飾趣味とは無縁な人間なので、一般的な女性よりも遥かに準備が早いのである。
秋緒がシートベルトを着用したことをバックミラー越しに確認してから、瑞樹は自分のベルトを締め、車の始動スイッチを押す。
走行準備が整った後、ゆっくりと車を発進させた。
「さて社長、本日のスケジュールですが」
「社長はよせと言っているだろう」
わざと固い口調で話しかけた瑞樹に、秋緒は苦笑しながら答えた。
瀬戸秋緒と中島瑞樹は『瀬戸クリーンアップ』という変異生物駆除業者を営んでいる。
構成員は事業主の秋緒と、助手役の瑞樹、この二人のみ。極めて少数精鋭である。
正確には瑞樹はまだ大学生なので、正社員ではなく助手、アルバイトの扱いである。
基本的には講義のない日や土日祝日のみの手伝いとなり、秋緒一人で仕事を請け負うことの方が圧倒的に多い。
しかし初めから利潤追求を目的にしてはいないので、一人でも十分回していけるし、生活に困ることもなかった。
また、大々的に広告を打っている訳ではないのだが、業績は中々に好調で、閑古鳥が鳴いているような状況でもない。
二人で仕事にかかる時は、運転手役が特に決まってはおらず、いつもその場の成り行き次第でどちらかがハンドルを握っていた。
今回は瑞樹が運転を行っていた。
秋緒は後部座席の左側に座っている。
これは移動中に何かあった時、即座に対処できるようにするためである。
同様の理由で、車種もデザインより防御性能の高さを重視して選択していた。
「いいじゃないですか。変異生物駆除率100パーセントの敏腕女社長。カッコよくないですか?」
「私は敏腕なんてガラじゃないよ。ただ斬るしか能がない女さ。それでもやっていけているのは瑞樹君、キミのおかげだ」
今度は瑞樹の方が笑みをこぼす番だった。
瑞樹はバックミラー越しに一瞬、秋緒の右隣へ視線をやった。
そこには一振りの日本刀がシートに横たわっている。
大分前に銃刀法の規制が緩和されていたため、現在は変異生物駆除目的で武器類を所持していても罪に問われることはない。
――本当に斬るしか能がなかったら、今の僕はここにいませんよ。
瑞樹はあえてその言葉を口にはしなかった。
代わりに今回の仕事の話を続けることにする。
「今日の案件について再確認ですが……」
四十分ほど車を走らせ、瑞樹と秋緒は今回の目的地、東京都日野市に到着した。
今回の案件の依頼人である市役所の人間とは、役所ではなく、そこから少し離れた現場で直接待ち合わせることになっている。
さらにもう少し車を走らせると、右手に現場が見えてきた。
何も建造物が存在しない、雑草の伸びるままに任せた原っぱだった。
広さは学校の校庭ぐらいだろうか。鉄製の注連縄のようなものが、成人の背丈ほどの高さの所に張られ、所々に打たれた鉄杭と共に敷地の外枠となり原っぱを囲っている。
雑草は囲いの高さほどは伸びていないが、それでも一メートルほどはある。
左手に、そこそこ広いスペースの駐車場がある。
出入口の前に背広姿の中年男が立っていた。
あれが恐らく依頼人だろう。
目が合うと男は一礼し、両手を駐車場の空きスペースへと向けるジェスチャーを取る。
指示通りの場所へ駐車し、二人は車から降りる。
依頼人が、待ち焦がれていたかのように小走りで寄ってきた。
「おはようございます。お待ちしておりました」
薄くなった頭頂部を見せつけるかのように、依頼主の中年男は深々と頭を下げる。
瑞樹と秋緒も挨拶を行うと、鈴木と名乗った男性は二人に名刺を渡しながら、早速と言わんばかりに早口で説明を始めた。
「事前の連絡でも申し上げましたように、一週間ほど前から、あちらの市有地を変異生物に占拠されてしまいまして……幸い、結界を破れるほどの力は持っていないようで、敷地の外から出さずに済んではいるのですが、このままだとキリなく繁殖されて手が付けられなくなる危険性があります。方法は全てお任せしますので、どうか一刻も早い完全駆除をお願い致します。ああ、こちらが結界のスイッチです。操作認証は既に解除しておりますので」
「承りました、お任せ下さい」
二人で仕事をする時、外交役はもっぱら瑞樹が担っていた。
結界のオンオフを切り替えるリモコンスイッチを受け取り、ハキハキとした態度で応対する。
「申し訳ありませんが、私、これから役所の方で至急片付けなければならない仕事がありまして、一度これにて失礼させて頂きます。お手数ですが、終わりましたらご一報下さいますでしょうか」
再度頭を深く下げ、鈴木はいそいそと別スペースに停めてあった白い車に乗り込んでいく。
相当急いでいるのか、すぐにエンジン音が響き渡り、高い駆動音を上げて走り去っていった。
「早速取りかかろう」
見送りもそこそこに、秋緒は瑞樹を促す。
瑞樹は頷いて、助手席から荷物を取り出した。
午前九時ちょうど、瀬戸クリーンアップの社長と助手、現場にて駆除作業を開始。
秋緒は腕時計と眼鏡を、瑞樹はネクタイを外して、持参していたトラベルバッグの中へと入れる。
瀬戸クリーンアップは服装規定が特に存在しないが、瑞樹は秋緒に倣い、スーツを着用することを心がけていた。
従業員としての自覚を持つため、尊敬する先生に倣ってだと言う。
余談だが、瑞樹のスーツは秋緒のものと同様、既製品ではなくオーダーメイドで仕立てたものである。
小柄でやせ気味な瑞樹の体型を考慮し、シルエットを細めにオーダーしている。
瑞樹からスーツを着たがる理由を聞いた時、思わず買ってしまったのだ。
また、スーツに合わせているサイドゴアブーツも、実績と歴史のある名門ブランドのものである。
二人が今立っているのはちょうど出入口に相当する場所である。
隙間がないよう囲わなければならない結界の性質上、正確には出入口という概念は存在しないのだが、ここが市有地であることを示すものと、変異生物がいるために近寄りを禁止することを示すもの、二つの立て看板が刺さっているため、便宜的に出入口と認識していた。
「広い土地持ってますね、自治体さんは」
瑞樹は誰ともなしに呟きながら、板チョコを一回り大きくしたくらいのモバイル端末を操作している。
「もう一度確認しましょうか。今回駆除する変異生物は、全て犬の変異体。確認できている数は、昨晩の時点で十六匹。今の所、人や物に対する被害はなし。駆除方法は自由、とにかく全滅させればOK……こんな所ですね」
原っぱの中は、不気味なほど静かだった。
周辺にも住宅や公園などはなく、遠くから車やバイクの音が聞こえ、また、時折晴天の下を吹き抜ける風がざわざわと草を揺らした音を鳴らすくらいだ。
本当にこの中に生き物が潜んでいるのかどうかは、常人では分からないだろう。
「今回は楽な仕事ですね。僕の火で簡単に終わりますよ」
二人の態度は、実に落ち着いたものだった。
瑞樹は握り拳を作ってアピールするが、秋緒は首を横に振った。
「いや、まずは私だけで行く」
「大丈夫ですよ、火加減は上手く調節できますから」
「キミの力を信用していない訳ではない……が、結界を破ってしまう可能性もゼロではないだろう。それと今朝、剛崎君から言われたこともあるからな。まずは私に任せて欲しい」
「……分かりました」
少々不服だったが、社長命令とあらば仕方ない。
瑞樹は大人しく従うことにした。
「瑞樹君は結界の外で待機し、変異生物が万が一外へ出てきた場合、あるいは外部で不測の事態が発生した場合、対応して欲しい」
不満を表に出さなかったのは、このように秋緒が何だかんだとフォローをくれるのも理由の一つであった。
瑞樹は任せて下さいと答え、バッグを開ける。
中にはナイフや銃器、応急手当セットなど、変異生物駆除にあたって必要と思われる様々な道具が入っている。
瑞樹はその中から拳銃を取り出して腰の所、スラックスとワイシャツの間へ挟み込んだ。
恐らく使うことはないだろうが、念のためである。
秋緒は鞘から愛刀を抜き放ち、軽く振って感触を確かめた。
銀色の刀身が、日光を受けてギラギラと光を放つ。
業物ではないが、以前の仕事に就いていた頃から今に至るまで、数え切れないほどの戦いを共に潜り抜けてきた愛刀だ。
「そろそろ始めよう。結界を切ってくれ。私が入ったら、すぐスイッチを入れ直すように」
目の前に張られている結界は、とある企業が開発した製品である。
かつては眉唾物、オカルトの一種としか考えられていなかった概念だったが、現在はれっきとした外敵からの護身・防衛用具として扱われており、世界中で採用されている。
無論、昔から言われている、人為的なものや人外の存在によって発生する結界も、本物として認知されている。
日本製の結界は海外からも評価が高く、輸出品の主力となっていた。
規模や用途、対象に応じて様々なタイプの結界発生機が販売されている。
今回この場所に使われている結界はかなり強力な部類で、生物を無差別に遮断するタイプの結界だった。
生物が注連縄や鉄杭、もしくは結界の"見えない壁"に触れると、死には至らないものの、感電に似た強烈なショックを受けることになる。
欠点としては、遮断力が強い反面、一度結界のスイッチを切った後に再びオンにすると、壁が形成されるまで時間がかかることが挙げられるが、その点はメーカーも考えており、結界の一部分だけオンオフ切り替えが可能になるように設計されていた。
金属製の注連縄の紙垂にあたる部分にはそれぞれ連番で数字が刻印されており、リモコンにその数字を入力することで操作ができる仕組みだ。
つまり目の前の結界だけを解除すればよく、解除と再展開の間隙を縫って変異生物が飛び出てくるリスクに対しても、瑞樹はこの場所だけを警戒すればいいということになる。
電源操作は容易で、電化製品と同じく、リモコンスイッチの操作一つでオンオフを切り替えられる。
ただし大抵の場合、セキュリティの関係上認証キーが必要となり、今瑞樹が持っているスイッチも例に漏れない。
鉄杭同士の幅、つまり注連縄一つの長さは、およそ5メートルほどといったところか。
瑞樹は紙垂部分に刻印された番号を確認し、リモコンに同じ数字を入力する。
「いいですか、解除します」
「頼む」
瑞樹はリモコンの先端を注連縄に向けながら、中央部にある赤いスイッチを押した。
モーターの駆動が止まるのにも似た低音が小さく唸り、注連縄の色が濃い銀色から黒色へと変化した。
と同時に、秋緒が素早くその下を潜り抜け、雑草の中へ入っていく。
瑞樹は即座にもう一度赤いスイッチを押す。ジジジジ、と火花が散るような音と共に、再び結界が張られ始める。
このタイプの結界の完成所要時間は238秒。
つまり約4分、瑞樹はこの場所を守らなければならない。
「行ってくる。後は頼んだぞ」
瑞樹にそう言い残して、秋緒は雑草の中をずんずんと分け入っていく。
虫がひっつくかもとか、糞を踏んでしまうかもなどということは一切気にしない。
この手の仕事をしていれば、排泄物が混入した泥水の中を長時間這いずり回ることもあるし、ヒルがウヨウヨいる沼地に息を潜め、獲物を待ち続けなければならないこともある。
こんな雑草の中など、何ともなかった。
また、当てずっぽうで突き進んでいる訳ではない。
自身の五感と第六感を研ぎ澄ませ、獲物の気配を探りながら進む。
秋緒は早くも変異生物の気配を捉えていた。
前方、およそ十数メートル先に、獣の気配が十。
固まって動かない。
それを遠巻きにして、四匹分の気配がウロウロしている。
残る二匹は、それぞれ左右を大きめに迂回して、秋緒の背後へとゆっくり近付いてきている。
どうやら敵は、既にこちらの侵入をお見通しらしい。
もっとも、秋緒にとってはどうでもいいことであった。
出入口の方へ向かう奴がいなくて良かった、としか考えていなかった。
こんな考えしか浮かばないのだから、策などあるはずがない。
いや、必要なかったのである。
秋緒は背後に二匹の獣を引き連れながら、固まりへ向かって一直線に歩いていく。
先にしびれを切らせたのは敵の方だった。
もっとも最初からチームプレーなど頭になかったのかもしれないが。
背後にいた二匹が、急激に速度を上げたのを秋緒は感じた。
草むらを掻き分ける音が段々と大きくなる。
秋緒は素早い動作で刀を逆手に持ち替え、左手は鞘を掴む。
ザッ!
と、一際大きく草を蹴る音がしたと同時に、秋緒は振り向きもせず刀を足元横の地面に突き刺し、左手に持った鞘を後ろへ振り払った。
甲高い獣の悲鳴がデュエットする。
秋緒は足元を覗いてみた。
右足の近くで、柴犬のような生き物が、脳天から串刺しになって息絶えていた。
薄茶色の短い体毛はハリネズミのように鋭く、目元は強酸を塗られたように爛れ、四足の先の爪は鋭く長く、不潔な色をして伸びていた。
左足に伏している方は、チワワをベースにした姿をしていた。
柴犬もどきほどグロテスクな変化はしていないものの、ハサミを入れたように口が大きく裂けている。
鞘で頭を強打されたため、裂けた口の端から泡を吹いて昏倒している。
こちらはまだ息があるようだった。
秋緒は柴犬もどきの胴体を踏みつけながら刀を引き抜き、躊躇いなくチワワもどきの頭部に突き立てた。
ビクンと一度、体を大きく体を震わせた後、チワワもどきは死んだ。
秋緒は表情一つ変えず、チワワもどきを踏みつけて刀を抜き取る。
ジャケットの内ポケットから懐紙を取り出し、刀身に付着した血を拭う。
秋緒の刀はこの程度のことで切れ味が鈍ったりしないのだが、愛着ゆえにそうしていた。
早くも変異生物二匹を駆除した秋緒は、前進を再開する。
前方にある気配の固まりが、明らかに活発に動き出したのが読み取れた。
たかが人間一人、二匹で容易に嬲れるだろうという当てが外れたことへの動揺か、それとも血の匂いを嗅いで興奮しだしたのか。
いずれにせよ、残りの獣どもは秋緒を本格的に敵として認識したようだ。
放たれる敵意を肌で感じて、秋緒の目が、鋭く細められた。