十章『私はあなたを阻む指、私はあなたの望む目』 その2
「……は? 救世主だって?」
流石の瑞樹も、この大それた言葉には呆れ返ってしまったようだ。
「冗談のように聞こえるかもしれませんが、大真面目です。私達の目的を果たすため、中島さんが絶対に必要な存在である以上、警察の手に渡す訳にはいかなかったのです」
五相は真顔だった。
また、嘘を言っているようにも見えない。
強い意志の宿った、後ろめたさが欠片もない瞳が、瑞樹に真っ直ぐ向けられていた。
「一体、あなたは何者なんですか? それに、目的って一体……?」
――これを話してしまえば、彼はきっと私を軽蔑するだろう。
数時間前までは笑顔で会話できていたのに。
もう少しだけ、そんな幸福な時間は続くはずだったのに。
五相の胸に様々な後悔が去来するが、今更泣き言など言ってはいられない。
それにどのみち、辿り着く結末は遅かれ早かれ同じになっていたはずだから。
五相は臍を固め、真実を腹から喉を通して絞り出した。
「私は現在、血守会というグループに所属しています。目的は……山手線の結界を破壊すること」
血守会。
その名は瑞樹も耳にしたことがあった。
かつて自分が生まれるよりも前に活動していた、結界撤廃派の最右翼。
両親と秋緒の活躍により、山手線の結界は守られ、組織も壊滅した。
これくらいの情報は瑞樹も持っていた。
「……ふざけるな。そんなことを聞いて、僕が黙ってると思うのか。僕の両親は――」
「存じ上げています。血守会を壊滅に追い込んだ立役者、トライ・イージェス社の中心人物たち。あなたはその息子であり、教え子」
「それを知っていて、救世主なんて呼び方をするのか。嫌味のつもりか」
五相は何故か、悲しそうな顔をした。それを見て、瑞樹の胸がちくりと痛む。
「そんな顔には騙されない」
痛みを振り払うように吐き捨て、膝をついて立ち上がろうとしたが、五相に手首を掴まれ阻止される。
五相の顔は、悲しげなままだった。
「…………がうんです」
掠れ気味の声で囁いたため、更に不明瞭に聞こえる。
「違うんです。他のメンバーにとっては、あなたが思っている通りの意味でしょう。でも、私には……」
瑞樹の手首を掴む手に力が入る。瑞樹が痛みを感じるほどに。
五相は手を離さずに項垂れ、懇願の言葉を絞り出した。
「お願いです中島さん。血守会の計画を……止めて下さい」
蒸し暑い部屋を強烈な閃光、そして壁を揺るがす大音量の雷鳴が貫いた。
雨脚は未だ弱まる気配がない。
「詳細な理由までは知らされていませんが、私達のリーダーは、あなたの力を欲しがっています。私は、あなたを引き入れるため、あなたに近付いて親しくなるよう命を受けました」
「バカな。僕がそんなことで仲間に入る訳が」
「もちろん、あなたがそう答えることは充分想定済みでした。その場合、血守会はどういう行動に出ると思いますか? ……あなたの恋人、青野栞を人質に取るでしょう。それに適した能力を持つメンバーもいます」
「なっ……!」
「ですから、こうして事前にお伝えしたのです。今日、円城寺沙織が出現したのは完全に予想外でしたが、ある意味では思わぬ好機だったのかもしれません」
瑞樹は、自分の心臓が歪な鼓動を打っているのを体感していた。
加えて、未だ五相に握られたままの手首がじわりと不愉快に熱い。
突然に告げられた血守会の存在。
自分が"救世主"として目を付けられ、勧誘を拒めば栞に危険が及んでしまう。
表現の誇張を差し引いたとしても、恐らく五相の発言はほぼ真実だろう。
身辺の情報を調べ上げられている所に信憑性があった。
だが、どうすればいい。瑞樹は考え続ける。
血守会を止めろと言われても、一人で戦えというのか。
秋緒や生前の両親は語ろうとしなかったが、血守会の狂気と武力が尋常でないことぐらいは知っている。
容易に打倒できると思えるほど、瑞樹は自身の力を過信できなかった。
しかし。
「……まず僕は、何をすればいいんです」
逃げてはいけないと思った。
中島雄二、加奈恵の息子として。
瀬戸秋緒の教え子として。
そして、栞を守るために。
詳しくは分からないが、できる範囲から、やれることはやらなくてはならない。
「中島さん……!」
五相が頭を上げる。
救いを与えられた信仰者、背信者の顔が、フラッシュで一瞬青白く染まる。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
雷鳴、震える窓。
「お礼はいりません。それよりも」
「はい。とりあえずは、今まで通り過ごして頂いて構いません。時期ではないということで、まだ中島さんを引き入れる命令は出ていませんから。……ただ、このことは誰にも話さない方がいいでしょう。特に瀬戸秋緒さんには」
釘を刺されてしまい、瑞樹は唇を固く結んだ。
「そして、できれば血守会が本格的に動き出すよりも前に、目的を果たしてしまった方がよろしいかと」
「そうだ、五相さんの能力について詳しく教えて下さい」
瑞樹が問うと、五相はようやく瑞樹を掴んでいた手を離した。
立ち上がって部屋の隅にある木製のローデスクへ移動し、机上にあったタブレット端末を持って再び瑞樹の前に座る。
「私のEFは、"執着心"を糧に、探している対象の現在位置を脳内で把握する力です。もっとも、対象がEFを減衰・遮断する結界の中にいれば、精度が落ちてしまったり、役に立たなくなってしまうのですが」
説明しながら、五相はタブレットを操作して地図アプリを立ち上げ、画面いっぱいに東京都全域の地図を表示させる。
「その能力で地図上に対象の位置を投影できるんですか」
「いいえ、これはあくまで人にお伝えする際の補助にすぎません」
「そういえば、ここはどこなんです?」
「私の家です」
汚く狭い所で恐縮ですが、と苦笑して付け加える。
「試しに何かで実験して見せましょうか」
「いえ、いいです。その力を使って、僕に近付く機を窺ってたんですよね」
瑞樹の口調の鋭さは責めるというよりも、一刻も早く沙織の居場所を知りたいという気持ちから来ていたのだが、五相は前者として解釈してしまった。
「……すみません」
沈んだ声で一言詫びてから、
「では、円城寺沙織の位置を探ってみます」
瑞樹が無言で頷いたのを確認し、五相は目を閉じて念じ始めた。
彼女の頭の中に今浮かんでいるのは、沙織の姿。
つい数時間前に見たばかりなので、鮮明に思い描ける。
――これは中島さんのため。彼の心の慰みのため、円城寺沙織の場所を探る。見つけなければならない。
沙織の姿と、瑞樹に対する感情を連結し、五相は思念を放射した。
放たれた思念は不可視不可知の電波となり、五相を中心として円形に拡大されていく。
対象に接触し、所在が判明すると、反射波が五相の元へと走り、位置情報となって脳内へと届けられる仕組みだ。
およそ短いコマーシャル一本分の時間、瑞樹は固唾を飲んで見守っていた。
五相が目を開いた。
「……見つかりませんでした。半径四十キロ辺りの範囲にはいないようです。それか結界の中にいるか……」
申し訳なさそうに言うのを聞いて、瑞樹は肩を落とした。
やはり、あの時邪魔されずに殺せていれば……
「あ、あの、これからも適宜、能力で位置を探って中島さんにお伝えしますから」
五相が慌てて弁明する。
今後も定期的に能力を用い、もし沙織の位置が掴めたら速やかに連絡を入れ、かつ追跡に協力するという約束を取り付けることで、どうにか瑞樹は納得した。
夕立はようやく終息の気配を匂わせ始めていた。
雨の勢いも大分落ち、雷音も一発ごとの間隔が空き、音が遠ざかっているのが分かる。
「何もありませんが、雨が上がるまでここにいてはいかがでしょう」
本当はあまりここにいたくはなかったが、好んで雨に濡れたくもない。
瑞樹は渋々ながら提案を受け入れた。しかしお茶菓子を用意しましょうかという申し出は断った。
会話のほぼない、重い時間が流れる。
手持ち無沙汰になった瑞樹は改めてちらりと部屋を観察してみる。
建物自体が古いようだ。壁には経年劣化と思われるヒビ割れが走り、畳も色褪せている。
しかし掃除は行き届いており、蜘蛛の巣はおろか、埃一つ落ちていない。
寝かされていた布団やブランケットも、ショッピングセンターの二階で売っていそうな品質とデザインで、高級さはなかったが清潔感があった。
また、部屋の中はよく片付いており、必要最低限の家具以外は置かれていない。
ローデスク、脚が畳まれて壁に立てかけられたテーブル、洋服ダンス、扇風機ぐらいで、テレビやコンポの類はなかった。
「すみません、エアコンがなくて。蒸し暑いですよね」
古い型だと思われる緑色の扇風機を見ていたら、五相が少し申し訳なさそうに言った。
「いえ、平気です」
「意外、でしたか? こんな部屋で」
「正直に言えば、そうですね。でも、質素で小奇麗な所が五相さんらしいとも思いました」
「……ありがとうございます」
五相がそう言ったのは、ライフスタイルを賞賛されたからではない。
「五相さんは、義肢に関わる仕事をされてるんですか」
瑞樹が尋ねる。
ローデスクの片隅のブックスタンドに、"義肢"、"人工筋肉"といった言葉が背表紙に書かれた書籍を目にしたからだ。
「いえ、興味があって勉強しているだけで、専門的な仕事をしてはいません」
「そうですか」
どうにも会話は弾まない。
これまでのような、和やかな関係に戻れることは恐らくないのだろう。
互いに薄々感付いていた。
雨が完全に上がり、窓の向こうが滲んだオレンジの光を放ち始めた頃、瑞樹は部屋を出る決断をした。
五相は最寄り駅まで送ると言い、瑞樹に付き添って歩き出した。
雨上がり直後の下町の夕方はノスタルジックで美しい情景だったが、不快指数は生半可なものではない。
二人は数分歩いただけで、再び肌に汗を滲ませ始める。
「すみませんでした、きつい言葉を浴びせてしまって」
「いいんです。それに、どうか私のことはあまり信用しないで下さい。立場上、どうしても血守会寄りにならざるを得なくなる場合の方が多くなるでしょう。常に中島さんの味方をすることはできないと思います」
道中、二人が交わした会話はこれだけだった。
五相と別れた瑞樹は電車に乗る。
五相曰く、丸の内での一件は"処理"したそうで、面が割れる心配はしなくていいそうである。
山手線の中は今日も平和だった。
両親や秋緒たちが守ったこの空間を、壊す訳にはいかない。
壊させる訳にはいかない。
そして、栞を危険な目に遭わせはしない。
新たに加わった重荷に潰されはしないと、瑞樹は改めて腹を括るのだった。
家に帰って夕食を食べた後、瑞樹は秋緒から声をかけられた。
また微細な気配の違いを読み取られてしまったのかと思ったが、その予想は外れた。
「今日の夕食は、どうだった?」
珍しいことを聞いてくるな。瑞樹は少し不思議に思った。
秋緒が作った今日のメニューに、変わったところはない。
白米、豆腐とさやえんどうの味噌汁、アユの塩焼き、煮物。
「美味しかったですよ。いつも通りに」
瑞樹の好みに合わせ、濃い目の味付けにしてあったことを差し引いてもだ。
「そうか、ならば良かった」
「どうしたんですか、そんなこと聞いてくるなんて」
「い、いや……」
剛崎から血守会の活動再開を聞いて以来、秋緒は考え続けていた。
このことを瑞樹に教えるべきか。
何をしてでも、命をかけて彼を守ることに今更異存はない。
しかし、どうしても常時目をかけていることは不可能だ。
何よりそんなことをすれば彼が嫌がるだろう。
結局、今は時機ではないと、この日も決断を先送りしてしまうのだった。
下手に情報を与え、精神的な動揺を与えてしまうと逆効果になってしまうかもしれないと考えたのである。
それに、情報漏洩のリスクは避けなければならない。
「作っている時に、味付けが薄いかもしれないと思ってな。聞いてみたんだ」
「そうですか。先生の味付けは料亭顔負けの天下一品なんですから、自信持って下さい。美味しかったですよ」
半分おどけ、もう半分は本気で言いながら、瑞樹は考え続けていた。
五相から聞かされたことを、秋緒に話すことはおろか、気取られてもならないと。
秋緒の性格上、事実を知った瞬間、秘密裏に行動してでも全てを解決しにかかるだろう。
栞に対して素っ気ない所があるとはいえ、彼女に危険が及ぶリスクは最大限避けてくれるだろうが、今は五相の言う通りにした方が賢明だろう。
細心の注意を払って秋緒に察知されるのを避け、問い質されても白を切り通さなければならない。
もはやEF格闘技のことで悩んでいる場合ではなかった。
「明日は僕の当番でしたよね。先生は何が食べたいですか?」
「キミが作ってくれたものなら、何でもいい。だが、そうだな……炒飯が食べたいな。瑞樹君の作る、卵の柔らかいやつがな」
瑞樹の頭をそっと撫で、秋緒が微笑んだ。
炒飯は瑞樹の十八番の一つだった。




