十章『私はあなたを阻む指、私はあなたの望む目』 その1
「瑞樹君、その人の誘いに乗っちゃダメッ!」
沙織が、声を大きく張り上げ、必死に訴えかけている。
そこにいつもの超然とした、掴み所のない振る舞いは見られない。
何事かと振り向く通行人の目も構わず、一心に瑞樹へ言葉を注ぎかける。
五相から離れること、誘いに乗ってはいけないことを幾度も主張する。
沙織の出現で、瑞樹の心中に憎悪と疑問が急激に込み上げ、混乱をもたらす。
思考が止めどなく次々と浮かぶ。
五相から離れろ、誘いに乗るなというのは何だ?
今まで、山手線の中に沙織が現れたことはなかった。
なのに何故今日は現れた?
結界の中に入れるということは、化物ではなく、本当に人間だったというのか?
それに、毎年一回会うと言っていたのに、今年はこれで三回目だ。
自分で押し付けたルールを破って訴えに来なければならないほど、切羽詰っている問題なのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
回数が増えたのならば、それはそれで願ってもないことだ。
そう、理由は何にせよ、目の前に現れたのならば、復讐心に従って殺すだけだ。
どこであろうと。例え、結界の中であろうと。
――結界?
瑞樹にある閃きが生まれる。
山手線の内側、結界の中にいる者は例外なくEFを封じ込められる。
自分も炎を出すことができないが、相手とて同様だ。
ここでは変態させることができない。
つまり今の沙織は、ただの女だ。
何か武器を隠しているかもしれないが、少なくとも能力は使えないはずだ。
能力抜きの単純な戦いになった場合、どちらが勝つ?
身長が足りなくとも、身体能力においては男である自分の方が有利なはずだ。
それに……瑞樹はバッグの中に入れている武器を思い出す。
自衛のためにいつも持ち歩いている拳銃とナイフ。
能力を発動させている時ならともかく、生身に弾丸を撃ち込むか、刃物を差し込んだならば……
「中島さん……」
幾分の不安を孕んだ五相の声。
瑞樹はバッグに伸ばしかけた手を止めた。
理性が囁きかけてくる。
そうだ、ここで発砲すればどうなる。
相手は変異生物じゃない。人間だ。
家族を殺した犯罪者ではあるが、それを赤の他人に証明する有効な手立てがない。
最悪の場合、こちらが殺人犯として逮捕される可能性もある。
それに、流れ弾を通行人に当ててしまう可能性がある。
いや、それがどうした。
無関係の人間を巻き込むのはともかく、捕まったから何だ。
他人から人殺しとそしられたから何だ。
今更その程度のことで思い止まり、諦めるほど、自分の思いは惰弱ではないはずだ。
十年余の憎しみは、その程度で砕けはしない。
そして今、こうして千載一遇の好機が舞い込んできた。
逃すわけにはいかない。
後のことなど、知ったことではない。
全ては、あの女を殺した後に考えればいい。
「あなた、瑞樹君から離れて!」
言葉だけでは足りなくなった沙織が歩み寄ってくる。
その姿はあまりに無防備だった。
何か武器を隠し持っているようには見えない。
「……バカが」
自然と、瑞樹の口から侮蔑の言葉が漏れた。
五相は息を飲んだ。
唇を歪め、歯を食いしばり、眉の間に深い皺を刻み、くっきりした目を鋭く細めた瑞樹の面貌は、想像以上の憎悪を顕していた。
(これが、彼が言っていた本性……)
焦熱地獄を思わせるほどの殺気にあてられたせいで、五相は一瞬出遅れてしまい、彼の初動に対応することができなかった。
瑞樹はバッグからナイフを出した。
バッグを、引き抜いた鞘を放り投げる。
その勢いで左手の指を切ってしまったが、蚊に刺されたほどにしか感じない。
「家族の仇だッ! 死ねッ!」
吠えて、強く地面を蹴り出す。
瑞樹と沙織の間には誰もいない。通行人たちは、二人が放つただならぬ空気に触れまいと避けて通って、あるいは立ち止まっていた。
瑞樹は、遮るもののないコンクリートの道を全速力で詰める。
沙織は驚きと、喜びの入り混じった表情を見せている。
常人とは異なった本能機構のままに、いつものように瑞樹の憎しみを愛に変換してしまったのである。
それが沙織の防御、回避行動を鈍らせた。
忘我にも似た境地に漂う沙織へ、瑞樹は肉薄する。
狙いは下腹部中央。
ここを刺せば激痛と大量出血で動きが止まり、高確率で死に至らしめることができるはずだ。
――殺れる!
白いワンピースが眼前にまで迫った瞬間、瑞樹は殺人の完遂を確信した。
その時何故か、ランチの時に少しだけ見つめた真っ白なテーブルクロスが脳裏をよぎった。
だがすぐに忘れる。
身を屈め、積もり積もった恨みを、怒りを乗せ、渾身の力でナイフを繰り出す。
右手に伝わる刺突の感覚は、やけに軽かった。
復讐のクライマックスにしては薄っぺらい手応えだと、瑞樹は拍子抜けする。
しかしすぐに理解する。
違う。
軽くて薄っぺらいのは、ナイフが刺さらずに、宙を泳いだだけだからだ。
剥き出しの銀の刃がやけにはっきりと視界に映り、丸の内の街並みがぼやけている。
沙織の白いワンピース姿も彼の目から消えていた。
どういうことだ。
瑞樹は体勢を立て直し、沙織を探そうとするが、何故か足に力が入らない。
脳から出した指令を全身の筋肉が無視しているのだ。指揮系統が麻痺していた。
握り締めていたナイフが指から滑り落ち、その場に崩れ落ちてしまう。
アスファルトに頬が接地するが、照り返しの熱をほとんど感じない。
それどころか、左指に作った切り傷の痛みも段々と鈍く、遠くなっていくようだ。
声が出せない。
全身の筋肉が引きつって動かない。
視界が狭まっていき、目蓋が耐えられないほど重くなる。
「行き……い! 円城……織……!」
「瑞…………しな……!」
「す……来て! 手を……して……!」
「もし……たら、わた……たい…………から!」
頭上で、足音や声が忙しなく飛び交うが、今の瑞樹にはほぼ成す術がない。
意識が途切れるまで、ノイズがかったラジオのようなこれらの音を必死に拾うことしかできなかった。
彼が目を覚ましたら、きっと私は激しく恨まれるだろう。
当然だ。
長年の悲願がようやく達成されるであろう瞬間を妨害したのだから。
殴られても、焼かれても仕方がない。
五相はこれから後に起こるであろう出来事を覚悟していた。
膝の上に乗せた瑞樹の寝顔を覗く。
先程の煮えたぎる殺意はチリほども残っておらず、あどけなさすら感じるほど幼く見える。
「全く、世話のかかる坊ちゃんだな。よりにもよって丸の内のど真ん中で暴走しやがって。こりゃ揉み消しに一苦労だぜ。ま、俺にゃ関係ないがね。管轄外だし」
運転席の男が、ブレーキペダルを踏みつつ、呆れたように言う。
明るい茶髪にサングラス、ロックファッションにシルバーのアクセサリーを各所に装着した派手な格好をしているが、声色は至って冷静で落ち着いている。
五相は何も答えず、瑞樹から車窓へと目を移した。
五相と男、眠っている瑞樹を乗せた車は丸の内を離れ、昭和通りを北上している。
「しかし、円城寺沙織が急に出てくるとはね」
「外周班の方たちは牽制できなかったのかしら」
「全く分からなかったらしい。でも仕方ないだろ、何せ神出鬼没なんだから。あんたじゃなきゃ捉えられないんじゃないか」
「私でも完全に位置を掴めるかどうかは分からないわ。正直、個人的には強く興味のある対象でもないから」
「坊ちゃんだったら、どれくらいの距離までイケる?」
「難しい質問ね。……少なくとも、関東までは分かると思う」
「ふうん。なるほどねえ」
男の言い方には思わせぶりな要素を含んでいたが、五相はあえて深入りしなかった。
その後は無言が流れる。
が、二十分もしないうちに目的地に到着したため、それも長くは続かない。
「あなたは戻っていいわ。私一人で何とかできるから」
車から降ろした瑞樹を背負い、五相は男に言う。
「で、でも、坊ちゃんに暴れられたらどうするんだ。ここは結界の外だから、万が一のことがあったら」
「大丈夫よ。彼はきっと攻撃してこないわ。それに、仮に私が死ぬようなことがあったとしても、それはそこまでの運命だったってことね」
あまりにきっぱりと言われ、男は二の句が継げなくなった。
やがて、やれやれといった顔をわざとらしく作り、甲高いエンジン音を鳴らして一人車で去っていった。
男と別れた五相は、そのまま目の前の建物へと移動する。
築何十年も経っていようかという古い木造アパート。
錆の浮いた外階段を上っていくたび、カンカンと音がした。
瑞樹の体は軽く、更に五相の腕力を持ってすれば重荷にもならなかったが、高温多湿の気候が否が応でも汗をかかせる。
二階の一番奥にあるドアの前で立ち止まった。
事前に車中で出しておいた鍵をノブに挿し込み、回して開けた直後、濃灰色の空いっぱいに雷音が轟き渡る。どうやら間一髪で夕立に巻き込まれるのを避けられたようだ。
ドアを開けるとすぐ、目の前にガラス戸がある。
外出時、いつも戸を閉めている習慣が仇となったと、五相はため息をつく。
一旦、左手にある狭い台所のスペースへ瑞樹を慎重に下ろし、脱がせた靴を玄関に揃えて置く。
ガラス戸を開けると、もうすっかり見慣れた六畳の和室が目に入る。
押入から布団を取り出して中央に敷き、瑞樹をそこに寝かせる。彼は未だ静かに寝息を立てていた。
木枠の窓の外から、バケツをひっくり返したような激しい雨音がしだす。
時折窓いっぱいに閃光が走り、ほとんど間を空けずに落雷音が追随する。
五相は扇風機の電源を入れ、続いて押入上段に入れてある薬箱から回復薬を取り出す。市販の容易に入手できるものだが、切り傷程度ならば充分なくらいだ。
瑞樹の左手には五相のハンカチが巻かれており、人差し指付け根の辺りに赤い染みが滲んでいる。
ハンカチを解き、傷口に薬を塗ると、瑞樹は反射で一度体をビクっとさせたが、目覚めるまでには至らなかった。
水槽の中の金魚を観察するように、五相は傷の修復が行われていくのを眺めていた。
泥の海から脱出したような重たさを引きずって、瑞樹は意識を取り戻した。
最初に映ったのは、木造の天井。
薄暗い、見知らぬ天井だった。
かなり古いのか、経年劣化で変色しているのが鈍い視界でも分かる。
瑞樹は跳ね起きた。
何故こんな場所で、自分は眠っていた?
疑問はすぐに解消される。
枕元で正座し、神妙な顔をしている五相が解答だった。
「色々と言いたいこと、聞きたいことがあるでしょうが、まずは水分補給して下さい。だいぶ汗をかかれているでしょう」
瑞樹は、五相が差し出したスポーツドリンクのペットボトルを受け取り、一口飲む。
温かったが、甘みを伴う液体が優しく速やかに体内へと浸透していくのが体感できた。五相の言う通り、かなり体から水分が抜けていたらしい。
「あの女は、どうなりました」
掠れ気味の声で、瑞樹が尋ねる。
そこには猜疑心が含まれていることを、五相は感じ取っていた。
「……逃げられてしまいました」
それを聞いた瑞樹は左手を振り下ろして布団を叩く。
その際、痛みがなかったのに気付いて、指を見てみる。
切り傷が綺麗に消えていた。
「勝手ながら、私が処置させて頂きました」
「あなたは、あの女と何か関係があるんですか?」
「……私は、無関係です」
「では何故、向こうはあなたのことを知っている風だったんですか」
「それは、分かりません」
「嘘だ」
瑞樹の鋭い言葉が、五相に突き刺さった。
やはりダメか。
五相は観念したように一度目を閉じ、静かに開いて、瑞樹をまっすぐに見つめ、言った。
「私が全てを把握していないのは本当です」
瑞樹の閉ざされた唇の内側が今、きつく食いしばられているだろうことが容易に想像できた。
五相は善意の知り合いではない。
瑞樹はこの時をもってそれを確信したのである。
瑞樹が五相を見る目に、もう純粋な好意は含まれない。
話しやすい年上の女性ではなく、この世で最も憎き仇の情報を持つ、疑わしき存在であった。
「私の知っている限りのことは、全てお話致します。私を害するのならば、その後にして頂けないでしょうか」
瑞樹は一瞬、残念そうな、悲しそうな顔をした。
が、すぐに無表情の仮面に覆われる。
「あの時、僕の邪魔をしたのは、あなたの仕業ですね」
「はい。あの日傘は、先端から麻酔針を撃てる細工がしてありまして。後遺症などは残りませんからご安心下さい」
「何故、邪魔をしたんです」
瑞樹の語調が、段々と強くなっていく。
「あの場で、中島さんを人殺しにさせる訳にはいかなかったからです。言うまでもないことでしょうが、丸の内の真ん中で事件を起こせば、たちまち警察が駆け付けて捕まってしまいます」
「僕が捕まることが、あなたに何の関係があるんです。まさか犯罪者になるのを止めてやったなんて綺麗事を言うつもりはありませんよね? あなたは知らないんだ。僕があの女に何をされたか。何を奪っていったか……!」
「…………すみません。知っているんです。中島さんが、ご家族を円城寺沙織に殺されたこと。その日以来ずっと、彼女へ復讐しようと戦いを挑み続けていることも」
「何、だって」
瑞樹は驚愕の表情を浮かべた。
秋緒と栞しか知らないはずのことなのに、他の人間に漏れていたとは。
「中島さんが、ご自分の何を犠牲にしても、ご家族を失った復讐を果たそうとなさっている気持ちは……私にも少しは分かるつもりです」
この時五相がわずかに唇を噛んでいたことを、瑞樹は苛立ちのせいで見逃していた。
「だったら、尚更邪魔しないで欲しかった! せっかくのチャンスだったのに!」
「それにつきましては、申し訳なく思っています。必ず埋め合わせは致します」
「どうやって!」
「私の"力"が、ある程度中島さんのお役に立てるはずです」
五相が、胸に手を当てて言った。
「私のEFを使えば、円城寺沙織の居場所を探知することができます。遠くにいすぎず、かつ山手線の結界内にいなければですが」
「……本当ですか!?」
瑞樹はブランケットを跳ね飛ばし、五相へ膝を進める。
彼女の言うことが本当ならば、相手のコンタクトを待たずともこちらから打って出られるし、上手くすれば奇襲をかけることもできる。
ただ、まだ腑に落ちないことがあった。
先程五相は、沙織に家族を殺されたことを知っていると言っていた。
どこからそれを知ったのか。
そして、警察に捕えられるリスクを避けさせたのは何故か。
「先程、中島さんの妨害をした本当の理由をお話しておきましょう」
納得行かない、といった雰囲気を読み取ったのか、五相が言葉を先んじた。
そして次に彼女が放った言葉は、瑞樹が想像もつかないものであった。
「中島瑞樹さん。あなたは私達の救世主になる方だからです」




