八章『有明コロシアム』 その2
その後もクラスを上げつつ、次々と試合が進行していく。
最初の試合のように一撃で片がつくこともあれば、泥仕合の様相を呈するものもあった。
基本的に試合は時間無制限・フリーノックダウンで行われるため、どちらかが負けを認めるか戦闘不能になる、あるいはダウンして十カウント以内に立ち上がれなくなる限り、戦いは継続される。
最初のうちこそ栞は目を背けたりもしていたが、少しずつ慣れてきたようで、試合の節目に合わせて拍手を送ったりするくらいになっていた。
試合の安全性を実感したのと、今の所凄惨な展開がなかったのが理由だろう。
「そういえば、選手の能力とか、発動に関係する感情は紹介してくれないの?」
泥仕合の最中、新たな質問をする余裕も生まれていた。
「選手のEFに関する情報は、非公開が原則になってるんだ。中には自分で喋っちゃう、自信満々な人もいるけど」
選手個人のEFがパンフレットに記載されることはなく、リングアナなどがコールすることもない。
他者は選手のEFに関する情報を開示しないのが暗黙の了解となっていた。
「まあ結局、今はネットがあるから、感情はともかく能力に関してはルーキーでもない限り調べれば分かっちゃうもんなんだけどね」
インターネット上ではEF格闘技の熱心なファンが作ったサイトが幾つもあり、早い所ではリアルタイムに近い勢いで出場選手の能力がデータベース化されていたりもする。
「ただやっぱり、トリガーとなる感情に関しては、攻撃的な人が多いだろうね」
「なるほど」
そんなやり取りをしていると、次の試合まで一時間ほど間隔を開け、休憩時間を設ける旨の場内アナウンスが流れてきた。
総体的に見ると、試合を消化するテンポが少々早かったようで、その調整だろう。
その間、栞は席を立ち、瑞樹はすっかり温くなった残り少ないコーラを流し込んで一息入れ、観戦で力が入っていた体を緩める。火照りは冷房に任せて鎮める。
試合を重ねるうちに観客も段々と増えており、今では八割以上の席が埋まっていた。満員になるのも時間の問題だろう。
残る未消化試合は一つ、メインイベントだけだからである。
リングを挟んだ向かい合わせの観客席中段付近では、既に横断幕が張られつつある。
瑞樹自身も当然、メインマッチが一番の楽しみであった。
これまでの試合も楽しんで観戦していたが、やはりSクラス、最高峰の戦いに勝る魅力はない。
栞が戻ってきたのは、三十分ほど経ってだった。
「おかえり。混んでた?」
「うん、混んでたけど、ついでにお姉ちゃんにちょっと電話もしてきたから、遅くなっちゃった」
「そっか」
瑞樹は、まだ栞の姉に会ったことがないことを思い出した。
なんでも仕事が多忙でほとんど家におらず、いつもあちこちを飛び回っているらしい。
時機を見計らって一度きちんと挨拶をしたい、ついでに一度も入ったことがない彼女の部屋にも入ってみたい、なんてことを考える。
残りの時間を、雑談と瑞樹のEF格闘技講釈で潰し、またあちこちに配備されたテレビ中継の機材や人員を発見したりしているうちに、ついにメインイベントの試合時間となった。
会場の照明がまた落とされる。
しかし、これまでのように、いきなりリング中央にスポットは当たらず、代わりに赤、青、緑のレーザー光線が天井から闇を裂いて降り注ぎ、縦横無尽に走り回る。
それに伴って鳴り出した重低音のBGMが、観客の鼓膜から心臓を激しく揺さぶる。
――オオオオオオオォォオ!!
三万人超え、満員御礼、BGMを掻き消さんばかりに巻き起こる大歓声。
その中の二人に、瑞樹と栞も加わっていた。
「待ってたぞーーーーーー!」
「早く始めろーーーーーー!」
痺れを切らした観客の野次が飛ぶ中、リングアナが会場の様子を説明しながら、煽り口上を高いテンションで述べる。
「Sクラス! 国内最強を表すのにこれほど分かりやすい言葉はありません! 本日相まみえる両雄はその中でも選りすぐりの猛者ッ! Sクラスの中でも最上位の座・SSクラスへ就くための挑戦権を得るためッ! 今夜ッ! 雌雄を決する闘いが行われますッ!! ――それではお待たせしました、両選手の入場ですッ!!」
レーザー光線が、青一色に切り替わる。
続いて、東側の入場口から太陽のように眩い円形の光源が現れ、その前に立つ男をシルエットとして浮かび上がらせた。
「青コーナーより、波照直宣ッ! 通算成績21戦21勝! 傷だらけの勝利が続きながらも、戦績にはかすり傷一つ無しッ! 今宵、帝王を地に落とすことはできるかッ!?」
紹介とブルーの光を受けながら、波照はゆっくりと花道を歩み、リングへと向かう。
「お、おい……」
「なんか様子がおかしくねぇか?」
大歓声の中にぽつりぽつりと、疑惑の声が混ざる。
彼の姿を間近で見ることができた瑞樹も、異変に気付いていた。
明らかに体調が優れていない様子だったのだ。
肌は蝋のように青白く、足取りもどこかおぼつかない。
光の色や緊張のせいではない。
しかし瑞樹は驚きもせず、一人納得したように呟く。
「今日は最初から絶不調なのか」
「どういうこと?」
「波照選手の能力は『苦しみ』で発動するという噂なんだ。だから今さっき『傷だらけの勝利』って説明があっただろう?」
「そういう感情で能力を使う人もいるんだね」
当の波照本人は、観客の反応などどこ吹く風といったように、少々おぼつかない足取りで、何とかリングへと辿り着いた。
満員の観衆の前に晒された姿は、神経質で頼りなさげとも映る青年だった。
黒いワイシャツ、グレーのスラックスから生えた、枯木のように痩せこけた手足は不気味に細長く見え、眼窩も窪んでいる。
「おいおい、生きてるか~!?」
「誰かに介護してもらった方がいいんじゃねぇのか!?」
純粋にそう思っていたり、あえて口に出したりするのは、彼の対戦相手の熱狂的なファンと、栞のようにEF格闘技に疎い者ばかりだろう。
ちなみに試合においてセコンドなど、選手以外の立ち入りは一切禁止されている。
波照は野次にも顔色一つ変えない。青白いままの無表情だ。
突然、レーザー光線が青から赤に切り替わった。
BGMも重低音から、勇壮なオーケストラへと変化する。
先程とは反対、西側の入場口に光源とシルエットが現れた。
「赤コーナー、宗谷京助ッ! 通算成績23戦23勝! その力は疑いようもなく圧倒的ッ!! ほとんど能力を使わず、ここまで勝ち上がってきました! 威風堂々たる立ち振舞い、帝王という言葉がこれほど相応しい男はいないでしょうッ!」
紹介があった直後、波照の時よりも更に大きな歓声が上がった。
「宗谷さーーーん! 頑張ってーーーーー!!」
「ぶちのめせ帝王ォォォォ!!」
老若男女、様々な色の声援が飛ぶ。瑞樹もその中に含まれており、
「いっけええええええッ!」
と、情動に任せた大声を発していた。
(瑞樹くん、この人のファンなのかな)
栞は内心苦笑し、彼のテンションを見守っていた。
本拠地だと錯覚せんばかりの大歓声を受けながらも、宗谷は無表情であった。
ある者には、大歓声を浴びるのが当然であると思っているように見え、別の者には、宗谷は他人に無関心な冷徹人間であるように見えた。
客観的な見目においては、明らかに宗谷の方が秀麗だった。
顔も肉体も引き締まっており、何より放つ雰囲気自体が、物を語らずとも、"帝王"の異名に恥じない他者を圧迫する威容を備えていた。
リングに上がり、両者を一目で比較できる形になると、その差は一層明確に浮き彫りとなる。
本日最初の試合で見た大男でも、宗谷と並ぶには足りない。
(どっちが勝ちそう?)
レフェリーが両者に説明している途中、栞はそう言いかけてやめた。
瑞樹の様子を窺うに、愚問にしかならないだろうと判断したからだ。
代わりに別の質問を投げかける。
「赤コーナーの人、ほとんど力を使ってないって言ってたけど、単純に格闘技が強いってこと?」
「うん、能力抜きでもAクラスまでは余裕で勝てるだろうね。そもそもEF格闘技自体、能力が強ければ勝ち進めるってものでもないから。これからの試合を観てみれば分かるよ」
我が意を得たとばかりに瑞樹が早口で答える。流石に栞は彼氏のポイントを分かっているようだ。
レフェリーの説明が終了し、両選手が握手を交わした際、会場全体を覆う大歓声の底で短い会話が行き交っていた。
「私を楽しませてくれるくらい、君が素晴らしい闘士であることを願う」
「どォォでしょうねェェ? ……ま、ご期待に添えられるよう頑張りますよ」
ニヤリと笑い、波照は振りほどくように手を離し、ぷいっと背を向けて所定の位置に向かう。
宗谷は何の反応も見せず、自身も所定の位置へと向かっていく。
「てめェ何様だ!」
「愛想よくしたらどうだーーー!!」
「いいぞそのふてぶてしさ!」
「帝王をやっちまえーーーー!!」
波照の行動にブーイングを起こすもの、逆に不敵や良しと声援を送るもの、反応は様々であったが、いずれにしても本人の耳には右から左であった。
瑞樹はどちらにも属していなかった。
ただ瞳を爛々と輝かせ、これから起こる全てを余す所なく脳に焼き付け、記憶におさめようとしていた。
所定の位置で両者が静止したと同時に、会場が水をうったような静寂に覆われる。
レフェリーの次の一言を、全員が固唾を飲んで見守っていた。
「夢幻実体、オン!!」
――ウオオオオオオオォォッ!!
万雷の声が言葉通り、地鳴りとなってコロシアムを揺るがした。
「始めッ!!」
という合図が、ほとんど飲み込まれてしまうほどであった。
真っ先に動きを見せたのは波照の方である。
ぎょろりとした目を零れ落ちんばかりに剥くと、彼の周辺にぼんやりと何かが浮かび上がっていく。
蟲だった。
波照が抱え続けている"苦しさ"が、握り拳ほどに大きい異形の蚊となって、一匹、二匹と具現化されていく。
「出たァァァァッ! 波照の"熱病蟲"!」
「アレに刺されたらひとたまりもないぜ! たちどころに高熱を発してじわじわ体力を奪われていくんだ!」
五匹ほどの熱病蟲が産まれた所で、波照は熱病蟲に攻撃命令を出す。
と同時に自身も地面を蹴って飛びかかった。
「アンタの血は何型だい? どうやらこいつらはAB型が好物らしくてね」
入場時の姿からは想像もつかない敏捷性であった。
最短距離を鋭く走り、宗谷へ肉薄する。
五匹のうち二匹ずつをそれぞれ左右へ回り込ませ、残る一匹を相手の頭上へ飛ばす。
発動者本人はそのまま真正面へ向かい、鋭いパンチを左、右へと繰り出す。
宗谷は表情一つ変えず、バックステップでパンチをかわす。
そこに左右から急旋回してきた熱病蟲が、口吻を突き出して飛びかかってきた。
狙いは四肢。
波照の命令によって、左右それぞれ、微妙に攻撃のタイミングをずらして飛ばされている。
一匹でも刺されれば瞬時に高熱を引き起こし、死には至らないものの、行動を著しく制限される。
この状況を、宗谷は最も単純な方法で切り抜けてのけた。
即ち、両の腕をもって四匹とも叩き落してしまったのである。
そして垂直に跳躍、空中で一回転。
数瞬前まで彼の背中があった場所を、残る一匹の熱病蟲が虚しく飛び抜けていった後、宗谷が着地した。
波照が飛来した熱病蟲を手で掴み、握り潰して拳を震わせる。
息も忘れて凝視していた観客に空気が戻り、驚嘆の大歓声が起こった。
「す、すごい……」
栞も思わずそう漏らしてしまうほどであった。
瑞樹は無言だった。既に感動しているのか、体を小刻みに震わせ、宗谷と波照の一挙手一投足を味わっている。
やはりモニタ越しとは訳が違う。
生の臨場感を、こんな至近距離で体感できる幸福。
熱を帯びずにはいられなかった。




