六章『儚き焼失』 その3
四本の腕が八方へ振り回されるたび、樹木が千切れ、周辺にいるゾンビや巨大蟲が巻き添えを食って張り倒される。
Y母子に敵味方という概念は存在しない。
ただ自分達、いや、唯一自分だけが尊重すべき個であった。
秋緒は飛来する全てを、完全に見切って回避していた。
一瞬で全ての物体の位置を把握、軌道を読み、安全地点へ身を滑らせる。
その後すぐ攻撃に転じる。
振るった剣から風の刃が飛び、Y母子の腕が切り飛ばされる。
腕以外のY母子の動きは鈍重であったが、再生能力が高く、傷を負わせたそばから即座に再生してしまう。
今切り落とされた腕も、既に根元から生え変わり始めている。
――面倒だ。
秋緒が抱いていた感情は、恐れでも焦燥でもなかった。
敵はY母子だけではない。周りでうろつくゾンビや邪霊が味方になった訳ではない。秋緒に襲いかかってくることに変化はないのだ。
少なくともY母子だけは始末し、瑞樹の下へ向かわなければならない。
急がなければ。
腹を括っているのに偽りはないだろうが、想定外の事態が起これば迷いが生じるだろう。
秋緒は瑞樹の心情をある程度正確に把握していた。
仮にそうなっていたならば、手を下すのは自分の役目だ。
秋緒もまた、決意を固めていた。
男の顔の形をした人魂が、大口を開けて正面から秋緒の顔面に迫ってきた。
秋緒は姿勢を低くしてかわし、土を蹴ろうとした。
が、足首に何かが引っかかる感覚で遮られる。
いつの間にか付近の木の根が伸びて絡みついていた。
かわされた人魂は、弧を描いて軌道修正しながら、再度秋緒への突撃を試みる。
両側からは手を伸ばすゾンビ。
前方では、ニタニタ笑いながら手を振り上げているY母子。
周りもろとも秋緒を叩き潰す腹である。
秋緒は、両足に心の力を注ぎ込んだ。
ブーツが腐土を蹴り上げ、根を引き千切って、彼女の体が高く、足首に木の根をつけたまま、Y母子の頭上よりも高く舞い上がる。
空中で素早く浄光銃を抜き、引き金を引く。ダブルアクションのため、即座に撃発が可能である。
一度目の閃光は眼下のゾンビや人魂を、Y母子の両腕を焼き、この世から跡形もなく消し飛ばした。
着地後に放った二度目の閃光は、近距離で浴びたY母子の顔面を焼け爛れさせた。
嬰児と母親の絶叫がレゾナンスし、動きが止まる。
その隙に秋緒は銃を宙に放り、両手持ちした刀に力を注ぎ、Y母子に斬撃の嵐を見舞った。
十、二十と、幾筋もの線がY母子に走ったかと思うと、次の瞬間には揺らされた積木細工のようにバラバラと崩れ落ちていた。
秋緒は銃を拾ったあと、寄り添うように転がっている二つの頭部を、母親、嬰児の順で踏み潰した。
声はなく、ただグチャっとした音だけがした。
ヒルのように蠢いていた散らばった肉片が、ぴたりと動きを止めた。
Y母子の活動停止を確認し、秋緒は走り出した。
道を塞ぐゾンビを一刀の下に斬り沈め、調整池に着いた秋緒の目に映ったのは、Y母子の存在を忘れさせるものであった。
「あれは……! 瑞樹君ッ!」
池のほとりで倒れ伏しいている瑞樹。
その傍で、青白い光を放ち、見下ろしている少女。
包囲の輪を縮めて迫る邪霊やゾンビの一群。
秋緒は風よりも早く飛び出していた。
直線状の敵を蹴散らし、瑞樹の前で膝をつく。
秋緒は息を呑んだ。
瑞樹の左脇腹に、腐敗した魚が深く突き刺さっており、流れ出た血が下の草を赤黒く染めている。
異形の母子を踏み潰した時も眉一つ動かさなかった人間が、負傷した弟子を見ただけで感情を揺り動かしていた。
「う……ぁ……ま……ま、な……」
瑞樹は苦悶の表情でうわごとを言っている。
幸い、致命傷は避けているようだ。
秋緒はジャケットの内ポケットについたホルダーから二つの小瓶を引き抜き、封を切って、うち一つを魚に浴びせた。
先刻の霊園突入前、愛刀に浴びせたものと同じ聖水である。
聖なる力を凝縮した液体を直に浴びたことで、魚は肉を溶かし、骨がボロボロに崩れ、塵と消えた。
魚の消滅とほぼ同時に、瑞樹の腹部から鮮血が溢れ出た。
彼の顔が更なる苦痛に歪み、体を弓なりにしならせ、咳き込みながら吐血する。
秋緒は素早くもう一つの小瓶から、中に入っている緑色の液体を傷口に注ぎ込んだ。
「ぐぁぁッ!! ……ぅぅ」
肉の焼けるような音と共に、今度は瑞樹自身の肉体、傷口から煙が立ち上がる。
瑞樹は一度大きな呻き声をあげた後、ぐったりと動かなくなる。
血の流出が、止まっていた。
それどころか、目に見て分かるほどの速度で傷の再生が始まり、既に新しい薄皮が張り始めている。
「よし、ひとまずは大丈夫だ」
秋緒は安堵する。
今用いた液体は、先程瑞樹が足の治療に用いたものよりも更に強力な回復効果を持つ薬草エキスである。
回復薬というよりも秘薬の類で、市販されていない。
超凝縮されている分、刺激も強烈で、下手をすればショック症状が出る可能性もあったが、手段を選んでいる余裕はなかった。
「おば、ちゃん、だ、れ?」
治療を済ませたところで、自分たちを見下ろしている少女を、秋緒は睨みつけた。
秋緒の細い目が見開かれる。
「まさか、本当に……」
気配こそ異様で、両目は黒い洞だったが、顔も声も、確かに瑞樹の妹そのものだった。
「だ、れ?」
誰何の声に、秋緒は顔を歪めた。
似ていることが、不愉快でたまらなかった。
歯ぎしり、舌打ちしたくなるのをこらえ、冷静に問い質す。
「キミは本当に、愛美……ちゃん、なのか」
「まな、み……わかん、ない。わかん、ない、よ」
愛美は首を傾げ、機械的な口調で同じ言葉を繰り返した。
「わか、んない、けど、わた、し、おば、ちゃん、すき、じゃな、い」
愛美が手をかざすと、背後の汚水の山から死魚の弾丸が二匹、秋緒目がけて撃ち放たれた。
しかし秋緒は瑞樹ではない。
刀の一振りによって、刃と接する前に衝撃波で叩き落された。
「やめるんだ」
「……どう、して。ど、うし、て、じゃま、する、の」
断続的に放たれる死魚の弾丸。
秋緒はその全てを問題なく撃ち落とす。
無論、瑞樹が一切巻き添えを食わぬよう守りながら。
魚特有の生臭さを伴う腐臭がきつくなるのと比例して、愛美の顔がぐしゃぐしゃに歪められていく。
打ち止めになったのか、やがて死魚は出なくなった。
「じゃま、し、ない、でっ!」
甲高い声で愛美が喚くと、池の中の汚水が全て中央に寄り集まり、山が更に高く盛り上がる。
そして、秋緒と瑞樹を丸ごと飲み込まんと、波となって覆い被さってきた。
瑞樹を抱えて回避する猶予はない。
秋緒は刀を大上段に構え、
「はぁぁっ!!」
渾身の剣気を込め、振り下ろす。
その一太刀は、海を割った古代の指導者が如く漆黒の波を両断し、秋緒と瑞樹を汚水の凌辱から守った。
二人の周囲で、水が地面に叩き付けられる音が派手に響き、辺りに黒い水しぶきが飛び散る。
嫌な臭いを立ちこめさせながら草や地面を蝕み、生気を奪っていく。
「なに、する、のっ! おば、ちゃん、きら、いっ!」
秋緒は無視し、瑞樹を抱えて汚水の散った付近から跳んで離れた。
瑞樹の負傷は既に完治しかけている。あとは意識が戻るのを待つばかりだ。
それまでに迫る外敵は、自分が退ける。
秋緒は剣を構え直す。
「かえ、してっ! その、おにい、ちゃん、わた、し、に、かえ、してっ!」
愛美は駄々っ子のように、宙に浮かせた手足をばたつかせている。
それに呼応して、この場を取り巻くゾンビや邪霊たちが更に勢いづき始めた。
標的を秋緒に定め、血肉を貪り、精神を穢し尽くさんと殺到しかける。
その中の一群が、炎に包まれ、呻き声と共に灰になった。
秋緒はその出所をハッと見やる。
「瑞樹君!」
顔に汗を浮かせた瑞樹が、片手を突き出して、立ち上がっていた。
「傷は大丈夫なのか?」
「はい。……すみません、貴重な薬を」
「そんなことはいい。それよりも」
「分かってます。先生の指示に従います」
瑞樹は声を落とす。
このような醜態を晒した以上、もはや言い訳のしようもなく、我を通す資格もない。
何を言われても、秋緒に従うつもりでいた。
しかし、秋緒が瑞樹にかけた言葉は、彼にとって予想外のものであった。
「なら、言うぞ。今度こそ、キミの妹を救ってやるんだ」
「え……?」
「周りの連中は私が引き受ける。瑞樹君は妹を救う。計画は何も変わらない。なに、あの程度の連中、問題にすらならないさ」
秋緒は微笑んだ。勇気づけるように。
それが瑞樹の"自己嫌悪"を薄め、火力を削いでしまうと分かっていても、言わずにはいられなかった。
しかし皮肉にも、瑞樹は秋緒の励ましを、ある意味逆に解釈していた。
「……分かりました。今度こそ」
――自分が弱いから、先生にあんな気遣いをさせてしまったのだ。
自己嫌悪感が、瑞樹の心の炎を熱く滾らせた。
「愛美」
一歩、二歩、瑞樹は愛美に歩み寄る。
周りの喧騒が、まるで壁一枚隔てた外の出来事のように感じていた。
秋緒への絶対的な信頼もあるが、何よりこれからすべきことにしか、意識が向けられなかった。
「おに、い、ちゃん」
愛美の声は、やはり愛美のままだった。
もうこれ以上、会話で長引かせるのはよそう。
愛美の魂を、解き放ってやるんだ。
「そば、にい、てく、れない、の? わた、し、のこ、と、きらい?」
瑞樹は鼓膜をコンクリートに変えた心持ちで、愛美の漆黒の目をまっすぐに見つめ返した。
風もないのに炎の輪郭が揺れる。
「……うわ、わ、わわ、わわわわわわわわわ、あああああん!」
まだ火をつけていないのに、愛美は泣き始めた。
涙が出せない代わりに、鼻水と涎が、獣のように垂れ流される。
瑞樹はそれを汚いとは思わなかった。
不気味にも感じなかった。
かつて生前そうしたように、ふっと微笑みかけるだけであった。
そして、両手を広げて、
「おいで」
愛美をそっと抱きしめた。
強い力を入れれば、いとも容易く砕けてしまいそうな儚い感触。
服越しにも体の冷たさが感じられた。
「あああ、あああああああ、あああああああん!」
思う存分、泣かせてやる。
愛美が直接的に攻撃する術を持っていないことは、何となくだが分かっていた。
瑞樹は思い出していた。彼女がいじめっ子に泣かされて家に帰ってきた時、いつもこうしてあげていたことを。
そしてその後、自分が代わりに戦いへ赴く。
当時は同年代でも中くらいの身長があったから、体格差が不利になることはなかった。
愛美に謝らせるまでケンカした。
もちろん素手だ。
妹を泣かせ、傷付ける相手は許せなかった。
「懐かしいな……」
あの時は兄として誇らしい気分だった。
今はどうだろうか。
誇らしいどころか、自分の弱さを思い知るばかりだ。
十年以上経っているのに、未だ復讐を果たせずにいる。
情けない。
それでも。
立ち止まる訳にはいかない。
妹と一緒には行けない。
「愛美……まだ少し、時間がかかっちゃうかもしれないけど……僕が、必ず仇は討つから。父さんや母さん、愛美の分まで」
「や、やだ、わ、わた、し、わ……」
「だから、今は……おやすみ」
瑞樹は、炎を解き放った。
彼の腕の中で一輪の紅蓮が咲き、少女を包み込んだ。
どれほどの熱さや痛みを感じているのかは分からない。
せめて、一瞬で終わらせたい。
瑞樹は祈りを込めて、最大火力で愛美を送る。
葬送の炎。
もう愛美の声は聴こえない。冷たい感触も崩れて消えていく。
瑞樹の目に涙はない。
あるいは流れるそばから乾いてしまっているのか。
開いた口に声はない。
既に枯れてしまったからか。
腕の中には、骨も何も残らなかった。
空虚だけが、彼の内外に満ちていた。
日はますます高く昇り、気温も上がっているはずなのに、瑞樹が感じているのは、骨まで冷えるような寒さばかりだった。