五章『兄と妹』 その4
栞が柵をまたぎ始めたと同時に、瑞樹は敵へと突進していた。
両手には既に炎の塊が生成され、尾を引いている。
無辜の市民をいたずらに傷付けるのを見て生まれた"嫌悪感"は、火付けに充分であった。
チャイルド・プレイは既に電話ボックスへの攻撃を止めており、思い思いに散らばって、逃げる人間を追い回していた。
統率性はなく、それぞれが本能に基づいて勝手な動きをしているように見える。
その方が厄介だった。
注意を引き辛く、まとめて倒せずに被害が拡大してしまう。
仕方がないので各個撃破だ。
瑞樹は臍を噛みながらも割り切り、自分から最も近くにいるものを最初の標的にする。
目の前で、幼い男女が逃げていた。
年齢差からして兄妹だろうか。兄が妹の手を引っ張って必死に走っている。
妹が足をもつれさせ、転んでしまう。
起き上がる気力を全て零してしまい、火がついたように泣き喚く。
引っ張るのは無理だと悟ったのか、目に涙を浮かべつつも、気丈に妹を守ろうと背中を丸めて上に覆い被さる兄。
そんな二人を笑って見下ろし、斧を振りかぶっているチャイルド・プレイ。
斧が振り下ろされる直前、乾いた銃声が公園に響いた。
兄は見開いた目で、起こったことをスローモーションで見ていた。
自分たちを殺そうとしていたオバケが、斧を振り下ろしてこないのを。
左の肩から血が噴き出したのを。
オバケの後ろで銃を向けている人間の姿を。
「お前の相手はこっちだッ! それ以上その子ども達に危害を加えるなら、頭を撃ち抜くぞッ!」
何とか狙い通り、肩口に命中させられた瑞樹は、大声で吠えた。
宣戦布告としては充分だった。
チャイルド・プレイは標的を瑞樹に再設定し、手足を激しく上下に揺らすおどけた動きで一目散に駆けてきた。
瑞樹の目は既に、それへは向いていなかった。
薪割りの要領で瑞樹を両断せんと、縦に走る斧を半身になってかわし、振り返りもせず、すれ違いに掌から火炎を放つ。
炎は一瞬にして幼い体躯を包むが、熱を受けたのは背後の黒い霧だけだった。
ガラスを引っかいたような断末魔が上がり、チャイルド・プレイの黒幕はこの世から蒸発して消えた。
元に戻った幼子が芝生に崩れ落ちる間に、瑞樹は兄妹のすぐ目の前に迫っていた。
兄の方が声を発するよりも早く、瑞樹は両腕を広げて炎の壁を作った。
新たに二体のチャイルド・プレイが、刃物を携えて飛びかかってきていたのである。
間一髪、本体だけを焼却して動きを止めることができた。
瑞樹は他に接近する敵がいないことを確認してから、兄妹に声をかけた。
「大丈夫? ケガはない?」
途端、兄の方の目に溜まっていた涙がぽろぽろと溢れ出した。
顔をくしゃくしゃにし、嗚咽しながら何度も頷く。
「よしよし、よく頑張ったね。妹をちゃんと守ってあげて偉いぞ」
兄につられて妹も再び泣き始め、デュエットになる。
無理もないと瑞樹は思う。
刃物を持っていきなり襲われれば大人だって恐怖する。
しかし、このまま泣かせておく訳にもいかない。
聞きつけた新手が引き寄せられてくる危険もある。
瑞樹は両手の火を消し、二人の頭をそっと撫でて言った。
「二人とも、少しだけでいい。泣いてもいいから、声は出さないで、お兄ちゃんと一緒に来てくれないかな」
栞の時は消波ブロックに隠れさせる余裕があったが、この幼い二人を同様に扱うのは危なっかしい。
一緒に連れていき、護った方が安全だと判断した。
瑞樹の炎はその特性上、防衛に向いている。
幸いにして、兄妹揃って聞き分けは良いようで、声をぴたりと止め、しゃくりあげながらも頷いた。
「あの、ぼくたち、アイスを買いに行ったんです。そしたらいきなり、あのオバケが出てきて……」
「ねえ、パパは? ママは? あたし、こわいよぉ……」
「一生けんめい逃げてたから、はぐれちゃって」
「パパ、ママ、どこにいるのぉ……?」
そして兄妹から代わる代わる話しかけられる。
こんな状況だ。こうなるのは致し方ないと十分承知していた。
「大丈夫。パパとママも一緒に探してあげるし、襲われても、今みたいに僕がみんなやっつけてあげるよ。だから、行こう」
「……はい、わかりました」
「……うんっ!」
断言したことが好結果をもたらしたらしい。兄妹は素直に従う姿勢を見せた。
「ねぇ、おてて、あつくないの?」
不思議そうに見上げる妹に、瑞樹は微笑んで答えた。
「この火はね、悪い奴だけを焼いちゃうんだ。今はまだ熱くないよ」
悲鳴や絶叫、サイレン、銃声の音が、波音に混じって混沌の協奏曲を奏でている。
栞は瑞樹の言葉を忠実に守っていた。
身を縮め、息を殺し、彼が「終わったよ」と顔を出すのを待ち続ける。
湾の水位はまだ低く、満ち潮になるまでは時間があるようだ。
栞の懸念は水ではなかった。
陸側、いつあの柵の向こうから、瑞樹ではなくあの狂った笑顔のチャイルド・プレイが出てくるかと思うと気が気ではない。
――怖い。
戦う力がない栞は、襲われてしまえば何も成す術がない。
しかし、瑞樹に対する信頼は、恐怖を凌駕するほど強かった。
瑞樹くんならぜったい、逃げる人たちを助けてくれる。
わたしを守ってくれる。
わたしの代わりに戦って、勝ってくれる。
自分に戦える力や、助けられる力がないことが歯がゆい。
勇気のなさが恨めしい。
でも。
だったら、せめてわたしは彼の癒しになろう。
憎悪や嫌悪を糧に炎を生み出す彼が、飲まれてしまわないよう精神的な支えになろう。
そして今は、恐怖に負けないよう戦おう。
栞は固く決意していた。親指の付け根を噛んで震えを止める。
ふと、怪鳥の鳴き声を連想させる、不気味なサイレンの音が止まった。
その現象の意味するところはたった一つだ。
石畳と擦れ合う、乾いた靴音が段々と大きく近付いてくる。
栞の心拍数が、わずかずつ下がって落ち着いていく。
靴音が止まった。
「あ……!」
「お待たせ、終わったよ」
小さくも頼もしい騎士・瑞樹の姿が、柵の向こうから見えた。
チャイルド・プレイ襲撃事件が鎮静化しても、二人はすぐには帰ることができなかった。
当事者として、警察に事情を説明しなければならなかったのである。
瑞樹は栞に、長引くかもしれないから先に帰っても構わないと言ったが、彼女は固辞し、待ち続けた。
警察や警備隊が到着した時点で、ほとんどの敵が瑞樹の炎によって蒸発していた。
駆除にあたり、取り憑かれた子どもを何人か銃撃してしまったが、いずれも命に別状はないダメージに留められていた。
もっともこれは瑞樹の腕というより、運が良かったからかもしれない。
ちなみに、炎で火傷を負った子どもはゼロであった。
今回の活躍にあたり、感謝状や報奨金が贈呈されるであろうことを警察から示唆されたが、瑞樹は受け取りを一切辞退した。
清廉さゆえというより、あまり目立ちたくないというのが主な理由であった。
人を助けられたことは誇らしかったが、それを驕る気持ちは一切なかった。
尊敬する両親や秋緒、剛崎らにとって、こんなことは日常茶飯事であったはずだからだ。いちいち調子に乗っていては身が持たない。
それに、全ての人を助けることができなかった時点で、彼の中では成功とは言い難かった。
正確な数字は把握していないが、決して少なくはない死傷者が出たらしい。
ただ、兄妹の両親が無事見つかり、家族揃って感謝の言葉をもらったことは、瑞樹の心を大いに満たした。
抱き合って家族が一塊になる姿を見て、瑞樹は微笑ましい気分になると同時に、少しだけ羨ましさを感じた。
全ての片がついて解放された頃には、時刻は既に午後九時半を過ぎていた。
警察署を出てすぐコンビニへ行き、おにぎりやサンドイッチなどを買い、即イートインで胃におさめる。
休憩もそこそこに電車に乗り込み、帰途へつく。
この時間帯になると車内も空いており、ゆとりをもって座ることができた。
東京駅に着くまでの間だが、ようやく人心地がついた。
「とんだトラブルに巻き込まれちゃったね。栞、大丈夫?」
「うん、平気」
栞は明らかに疲弊していた。
しかし戦いに奔走した瑞樹が平然としている以上、隠れていただけの自分が弱音を吐く訳にはいかないという思いが、彼女を気丈に振る舞わせていた。
瑞樹は上着のポケットから、ビニールで包装された飴を取り出した。
「そうだ、助けた女の子から、報酬としてこれを二つもらったんだ。いる? 美味しいよ」
「ううん、瑞樹くんが食べて。わたしは、なにもしてないから」
栞は首を振った。
そんなことを気にする必要はないのにと、瑞樹は思った。
だが、彼女の沽券に関わるのだろうと察していたので、強要はしなかった。
栞は、瑞樹の手をそっと握った。
「痛くない?」
瑞樹の頬には絆創膏が張られ、腕や足にも二三、包帯が巻かれている。
「全然。かすり傷だから、別にここまでしてもらわなくても平気だったんだけど」
強がりで言ったのではない。
警察や医者、助けた兄妹の両親、そして何より栞から押し切られるような形で受け入れた治療である。万が一があっては大変だからと。
それに、この程度の傷に怯むようでは、変異生物駆除の仕事は務まらない。
(先生だったら、無傷で全滅させてただろうな)
尊敬する人に追いつく道はまだまだ険しいと、瑞樹は微かにため息をついた。
「前々から思ってたけど、やっぱり瑞樹くんは強いよね。あんなことがあったのに、普通でいられるんだもん」
「慣れだよ。半人前なりに、先生の仕事を手伝ってる身だから。……それと」
「それと?」
「栞がいるおかげで、凄く助かってるよ。君がいるから、精神的に安定して戦えてるんだと思う。感謝してるよ」
「ううん、こちらこそ、いつも守ってもらってばっかりでごめんね。わたし、瑞樹くんに何もしてあげられてない気がする」
「いいんだ。僕が好きでやってることだから」
瑞樹は感じていた。
誰かを助けた時、胸に感じる温かい感情が、栞の場合だとその数倍にもなることを。
恋人だから、最も大切な相手だからだろうか。
それきり、東京駅まで二人の会話は途切れがちになった。
電車の揺れる単調な音とリズムが栞の眠気を誘発して、舟を漕がせる。
瑞樹は段々と明るさを増し、建物が高く変化していく夜景をぼんやり眺めていた。
東京駅に着いたところで一度下車する。
栞を、家まで送ろうかと瑞樹は申し出たが、
「駅から近いし、だいじょうぶ。瑞樹くんも早く帰って、ゆっくり休んで」
と頑なだったので、仕方なく彼女の言う通りにさせてやることにした。
そうなると東京駅からは乗る路線が異なるため、このままホームで別れることになる。
別れ際、微かに笑って手を振る栞を見て、瑞樹は少し安心した。
中央線は東京駅から始発のため、電車待ちの列で後ろにならなければ座れる可能性は高い。
しかし瑞樹は座らず手すりにつかまり、もらった飴を一つ、口に放り込んだ。
何の変哲もない、市販されているイチゴ味の飴だったが、不思議なことに、なめていると体力が戻ってくるようだ。糖分が疲労回復に効いているのだろうか。
目の前の窓ガラスが、反対側の座席で互いに身を寄せ合って座っている幼い兄妹を映す。
無論、昼間の二人とは別人で、姿形もまるで違う。
しかし瑞樹は、窓ガラスへ幽霊のように映る映像を見て、連想せずにはいられなかった。
あの兄妹を助けられなかったら、残留思念となってこの世に留まり続けてしまっていただろうか。
自分を恨んでいただろうか。
無意味な仮定はやめよう。瑞樹は大分小さくなった飴を噛み砕いた。
自分は二人を助けられた。それが事実だ。
そして愛美のことも、きっと救うことができる。
家に着くなり、玄関で待っていた秋緒から矢継ぎ早に言葉を投げかけられた。
「瑞樹君ッ! 怪我は? 疲れは? 食事はどうした?」
秋緒はまだ、いつものスーツ姿から着替えていなかった。
夕方に一度連絡したため、瑞樹の事情は既に知っている。
仕事は既に片付いているため、今から車で迎えに行くと電話で言われたのだが、断っていた。
瑞樹は質問の一つ一つに対して順番に答えていくと、
「無事で良かった。気にせず今夜はゆっくりと休みなさい」
と、言われた。
瑞樹の心身に蓄積されていた疲労に、秋緒は一目見て気付いていたのである。
用意してもらったお茶漬けをかきこみ、シャワーを済ませる。
安心感と共に体が温まった途端、猛烈な眠気が襲いかかってきた。
秋緒に一声かけてから自室へ入り、ベッドに潜り込んだ。
数分とかからず、瑞樹の意識は深い眠りの底へと沈み込んでいった。