五章『兄と妹』 その3
紙袋の中身は瑞樹の好物であるティラミスだった。
早速デザートとして秋緒と二人で食べる。
濃厚な甘さにエスプレッソの苦味が仄かに混じり、二人に幸福と元気をもたらす。
秋緒は瑞樹に疑いがかかった件を、少なくとも表面上は許していたようだ。
夕食の直前、電話で剛崎に差し入れの礼を述べていたが、その時の口調は幾分柔らかめだった。
ティラミスを食べ終えた後、秋緒が切り出した。
「八柱霊園へ行く前に、幾つか確認しておきたいことがある」
「はい」
「妹と会って、どうするつもりだ?」
「まずは話をしてみます」
「話ができない状態だったら?」
「その時は……除霊します」
秋緒は眼鏡越しに瑞樹の目を覗き込む。
既に覚悟を決めているのが読み取れた。
「愛美の除霊は、僕にやらせて下さい。お願いします」
「元よりそのつもりだ。ただし――」
「分かってます。もし僕が負傷していたり、迷ったり、暴走しそうになった時は……僕の意向を無視して下さって構いません。先生に判断を委ねます」
秋緒は小さく頷く。
そして決意を固め直す。
自分は彼のサポートに徹し、例えどんな状況になろうとも彼を守り抜き、無事に帰還してみせると。
大型連休中、瑞樹は栞と約束した通り、横浜でデートを行った。
電車を乗り継いで、まずは中華街へと足を運ぶ。
連休中ということもあり、普段以上に人でごった返していた。
中国人によってばら撒かれる栗を回避しつつ、蟹炒飯やエビチリ、野菜白湯などに舌鼓を打ち、その後は山下公園や赤レンガ倉庫を散策していく。
幸い天候にも恵まれ、暖かな空気に包まれた中、歴史と情緒溢れる港町の雰囲気を存分に楽しんだ。
来て良かったと、二人は心から思う。
横浜周辺に張られている結界は、山手線のものほど強固ではないが、並の外敵を寄せ付けないだけの防衛力はある。
そのため変異生物の襲撃事件も少なく、基本的には治安の良い場所である。
訪れる人々の表情も緊張感が薄く、穏やかなものが多い。
しかしこの日襲来した変異生物は、並の相手ではなかった。
日が大分傾きかけてきた頃、瑞樹と栞は、湾岸沿いの石畳の道をゆっくりと歩いていた。
右手は東京湾で、穏やかな水面の先には首都高湾岸線や工業地帯の煙突が見える。
地図上ではさして広くないようだが、実際生で見てみると意外と広大に感じられる。
今、二人が立っている石畳を挟んだ左手の陸側には、芝生と木々が植えられた公園が広がっており、その先にはタワーマンションや観覧車などの高層建築物が林立している。
「東京とはまた違った雰囲気だよね」
陸と湾を交互に眺めながら、栞は声を弾ませる。
「確かに。それと、結界があって平和なのも影響してるんだろうな」
先日の青海での戦いの時とはまるで違う穏やかさだ。
瑞樹も目を細め、この太平な空気を満喫していた。
いつまでもいたくなるような魅力がある。
復讐のことや妹のことを忘れた訳ではないが、自然と心が落ち着く。
「もう少し散歩したら、どこかでお土産でも買いに行こうか」
「そうだね」
その時だった。
二人の後方から悲鳴が上がった。
驚いて振り返ると、数十メートル先の芝生で、人間が倒れているのが映った。
二人の男女だ。周りの芝生がドス黒く変色している。
それを見下ろすように立っているのは、幼い男児だった。
髪はぼさぼさ、目は赤いビー玉を埋め込んだようにつぶらで、口は左右に大きく裂けて笑顔を作っており、手に何かを握っている。
それが牛刀だと分かった時には、犠牲者がまた一人増えていた。
平和だった公園が突然に、惨劇のステージへと変わった。
逃げ惑う人。
追いかけ、切っては刺す男児。
血飛沫と悲鳴が迸る。
動きは拙い操り人形のようにぎこちないが、恐怖で動きを縛り、あるいは単純な脚力で追いつき、背中をめった刺しにし、あるいは手足や首を切り付ける。
瑞樹はすぐさま栞を背にかばい、バッグからオートマチック拳銃を出した。
念の為、遠出をする時は、最低限の武器と所持許可証を持つようにしている。
瑞樹の能力発動に係る感情を考慮すると、状況を問わず安定して使えるとは限らないためだ。
「変異生物やEF保有者……じゃないよな。何かに憑依されてるのか? 結界も完璧じゃないってことか……!」
目を凝らすと、男児の背中から首のあたりにかけて黒い霧のようなものが貼り付いているのが見える。
恐らく邪霊に取り憑かれているのだろう。
瑞樹は思い出した。
聞いたことがある。
幼児に取り憑いて、人形のように動かし、刃物による殺戮を行う霊。
確か名前はチャイルド・プレイ。
瑞樹は状況を分析しつつ、銃の照準を合わせる。
"人形"を停止させれば、憑依は解除されるはずだ。
しかし引き金を引けない。
動きが速すぎて捉えられず、一般市民を誤射してしまう可能性がある。
それに、今下手に注意を引けば、栞を危険に晒してしまいかねない。
「み、瑞樹くん……わ、わたし……!」
栞は瑞樹の背後で体を震わせている。
彼に掴まることは最後の理性で抑え込んでいたものの、今にもその場で蹲ってしまいそうだ。
そうなれば事態は一層悪くなる。
緊急事態で一度気力を失った人間が再び力を取り戻すことは難しい。
「栞、動ける?」
なるべく優しい声色で聞いてみたが、既に肉体は恐怖に支配され、硬直してしまったようだ。
言葉になっていない声を、どもりのように漏らしている。
(ダメか)
周囲を見回す。
まだ警察や私設パトロールは到着しておらず、戦えそうな一般市民はいないようだ。
しかし非常警報サイレンは既に鳴っており、公園全体をけたたましい音が覆っている。
緊急避難用の電話ボックス型結界は既に満員だった。
中に入れなかった人々が必死にガラスを叩いているが、扉は開かない。
怯えと、少々の罪悪感を外に向けるだけだ。
外側には、せめて我が子だけでも中にと懇願する母親もいた。
やがて一人一人と、刃物を持った子どもたちに刺されていき、苦悶の顔のまま、強化ガラスにべっとりと血を塗りたくり、静かになる。
公園内にいた惨劇のプレイヤーは一人だけではなかった。
ボックス周辺には四人の刃物を持ったチャイルド・プレイがおり、一様にクスクス、ケタケタと返り血を浴びて不気味な笑いを浮かべている。
ボックス内の人々が絶叫する。
その声に反応して、子どもたちがボックスの四方から包丁を突き立ててガラスを破ろうとする。
しかし結界を破れるほどの物理的な攻撃力はないようで、ヒビすら入れられずにいた。
(結界で力を抑えられているのか、一人一人の力はそこまででもないみたいだ。あれなら……力を出し切れなくてもやれるか)
瑞樹は決意した。
「栞。僕が、絶対に君を守るって言ったら、信じてくれる?」
振り返らずに尋ねる。
数秒の無言。
その後、瑞樹の背中に伝わる、二つの小さな掌の感触。
「信じるよ。何があっても」
震えは取れていなかったし、力強さもない。
しかし、確かに栞は、瑞樹への信頼を口にした。
「ありがとう。これはケンカじゃないし、争い事とは少し違うから、ノーカウントで頼むよ」
瑞樹が念を押すようなニュアンスで言うと、栞は「う、うん」と曖昧な返事をした。
「よし、それじゃあ、そこの柵を越えて消波ブロックの所に隠れててくれ。そこまでは連中も追って来ないはずだから、何があってもそこから離れないようにね。満ち潮になるまでには終わらせるよ」
「……わかった。ぜったい、無事に戻ってきてね」
「大丈夫。負けるわけないさ。これでも一応駆除業者だ。それに、僕にはまだまだやらなきゃいけないことがあるんだから」
なだめるように優しく語りかけると、先程よりもはっきりした相槌が栞から返ってきた。
「今ならまだ連中も気付いてないし、服が汚れても今度新しいのを買ってあげるから、慌てなくていい。さあ!」
瑞樹の合図で、栞は体に鞭打って動き出し、柵に足をかけ始めた。
柵の高さは成人男性の腰の辺りまでしかないので、運動が不得手な栞でも何とか跨いで逆側へ行くことができた。
スカートではなくパンツルックなのも幸いした。
言われた通りに消波ブロックの上へと恐る恐る足を伸ばし、身を屈める。
――瑞樹くん、勝って!
再び湧き起こる恐怖を忘れるように、栞は一心に祈りを捧げた。