終章『復讐を嫁そう』
リビングのソファに腰かけて、好きな本を読みながら夕食を待つのが好きだった。
中島愛美はこの日も、柔らかいソファに身を沈め、学校の図書館で借りてきた本を読んで待っていた。
隣では父親が携帯電話をいじっていて、キッチンでは母親が夕食を作っている。
ハンバーグを焼くのはコンロの自動調理に任せ、自身は付け合わせのポテトサラダを手際よく作っている。
兄と同じく、愛美も母親の作るハンバーグが好物だった。
既に完成して皿に載っている分から、肉の焼けた香ばしい香りが届き、思わずお腹を鳴らしてしまう。
それを聞いた父親が、愛美を見て笑った。
愛美も照れ笑いを返した。
ふと、愛美は誰かに見られているような気がした。
両親ではない。
視線を感じるのは、庭に面したテラス、壁とカーテンの隙間の方からだ。
気付かなければ良かったと思ったが、恐る恐る確認してみる。
少女が立っていた。
壁とカーテンの隙間は三十センチほどあったので、全身を確認できてしまった。
肌は雪のように白く、黒い髪を長く伸ばし、全身を真っ白な服で統一している。
アウターもトップスもスカートも、靴もソックスも真っ白なのが病的な印象を与えた。
まるで私服版看護服とでもいうような……
少女は、うっすらと愛美に微笑んでいる。
怖くなった愛美は、そばにいる父親の腕を引っ張った。
「お父さん、へんなお姉ちゃんがいるよ」
父親の方も、既に少女の存在に気付いていた。
「お母さんの所へ行ってなさい」
小声で告げ、立ち上がる。
愛美はいつもの習慣である、しおりを挟むことも忘れて本を放り投げ、慌てて母親の下へと這うようにして行く。
テラスとリビングを隔てるガラス窓が開く音がした。
「どうして君がここに……」
背中越しに聞こえた父親の声は、そこで途切れた。
ゴトン、という鈍い音が床を打つ。
愛美は振り返れなかった。
代わりに、キッチンに立つ母親の姿を見た。
母親は、愛美が今まで見たことがないほど怖い顔をしていた。
右手に持っていた包丁が震えている。
――お母さん。
声をかけるよりも早く、また母親が何か声を発するよりも早く、テラスの方から長く伸びてきたタコの足のようなものが母親の首に巻き付いた。
折れる音。
包丁が床に落ちる音。
体が崩れ落ちる音。
タコ足によって両親が抉られ、部屋中を振り回され、千切れ、潰されていくまでの過程全てが、愛美の目にはスローモーションで映った。
気が付いた時には、部屋中が赤と黒で塗り潰されていた。
「うーん……復讐してお父さんたちの仇を取ってみたけど、あんまりスッキリしないなあ。やっぱり私は、憎むより憎まれる方が幸せなんだろうな」
およそ惨状に相応しくない透明な声が、愛美の耳に入った。
「こんばんは、中島愛美ちゃん」
名前を呼ばれて、愛美は凍り付く。
「お父さんとお母さん、殺しちゃった。私のこと、憎い? 嫌いって思った?」
「あ……あ……」
声が出ない。
高熱に襲われたように、悪寒で体が震え出す。
「喋れない? まあいいか。瑞樹君だけいれば」
お兄ちゃん?
「という訳で、いきなりだけどお別れだね。大丈夫、痛くないようにするから」
愛美は、いきなりに一方的な未来を突きつけられた。
わたしも、お父さんやお母さんのように……
想像するだけで、目の前が歪んでいく。
いやだ。いやだ。痛いのはいやだ。苦しい思いをしたくない。
死にたくない。助けて。お父さんお母さんお兄ちゃん助けて。
死の恐怖。苦痛への恐怖。少女への恐怖。
「あ……」
それは天啓か、内に秘められていた可能性の発露か。
突如、新たな心の力が芽生えたことに気付く。
使い方も、手に取るように分かる。
これを使えば、なんとか……死なずに済む。
でも、使ってしまえば……きっと全部忘れてしまう。
大好きな家族のことも、兄のことも。
「バイバイ」
もうダメだ。
閃光。少女の声。暗闇。柔らかいソファ。変な臭い。読みかけの本。汚れてしまったしおり。
全てが曖昧な世界の中で、愛美は恐怖から一心に願い続けていた。
お兄ちゃん、助けて。
お兄ちゃんなら助けてくれる。
お兄ちゃんならこの人をやっつけてくれる。
いつもいじめっ子からかばって助けてくれた兄。
どんな時も味方でいてくれた、大好きな兄。
今の愛美にとっては、瑞樹こそが最大の、そして最後の希望であった。
これまでに過ごしてきた全ての思い出までもが意識から消えてしまう直前、愛美は願う。
――ごめんね、お兄ちゃん。わたしたちの、かたきを討って。
――それと、またいつか、お兄ちゃんとまた会って、今度はずっといっしょにいられますように。




