三十九章『愛憎のあいびき』 その1
夢の国を覆う"夢の霧"の中に立ち入っても、特に心身への違和感は感じない。
それに、外からは全く中の様子が見えなかったのに、こうして中へ入ってしまえば、視界は非常に明快だ。
時折光の粒がちらついて舞うくらいで、霧の外と変わらない。
何より、今は真夜中だというのに、暗くないどころか明るい。
恐らく霧の性質で二十四時間、この明度が確保されているのだろう。
初めて立ち入る場所に、栞は戸惑っていたが、瑞樹は別段疑問を感じていなかった。
事前に夢の国について入念に調べておいたこともあるが、それ以上に実際に長期間滞在していた経験がものをいった。
"小さき世界"の内部にあったという、血守会のアジトへ軟禁されていた時も、心身の変化を感じることなく通常通りの活動を行えていたからだ。
もっとも、いちいち影響を与えてしまうような不安定さでは、テーマパークの運営など行えないだろう。
栞は、落ち着きなく周囲を見渡しつつ息を殺し、おっかなびっくりといった足取りで瑞樹の後ろをついていく。
同時に、彼の雰囲気が明らかに変わっているのを感じていた。
二人になった瞬間、いつもの心安らぐ柔和さが消え、戦う者としての冷厳なオーラが張り巡らされているのが伝わってくる。
「ちゃんとしたデートできたかったね」
「今度はデートでこようね」
そんな声をかける精神的余裕などなかった。
やはり、こういうのは苦手だ。栞の胃がキリキリ痛む。
話しかけ辛いどころか、近寄るのもためらわれる。
どうしても、一歩引かざるを得なくなる。
"小さき世界"の調査にあたるトライ・イージェスの社員たちとは入口で別れており、二人で行動していた。
これは幾つかの注意事項を遵守することで許された"特別措置"である。
まず、大前提として余計なもの、すなわち機械類やアトラクションを構成するセットなどをいじらないこと。
それを守れば原則、園内を自由に移動しても構わないと言われている。
被害を出さないように戦う配慮をする必要があったが、幸い瑞樹の能力はそれに適しているため、彼自身はさほど問題視していなかった。
次に、制限時間。
夢の国の開園時間が午前八時となっているため、緊急で原状回復作業を行う時間を考慮しても、午前六時までに社員たちと別れた出入口へ戻らなければならない。
つまり、瑞樹たちに与えられたのは、六時間。
想定よりも短かった。
睡眠中、夢で対峙できる時間より少々長い程度だが、決着をつけるには充分だろう。
それに、空間が安定しているという、夢の国ならではのメリットもある。
睡眠中の夢では、どうしても瑞樹の心理が反映されてしまい、戦いにくい地形になる可能性もある。
制限時間についてはそこまで悲観視していなかった。
保険、というには不確定要素が多かったが、瑞樹には切り札があった。
今夜が駄目でも、八幡の藪知らずを利用して、夢の国への瞬間移動を行えばいい。
藪知らずに張られた結界の解除は、手段を選ばなければどうとでもなる。
無論、そんな展開にならないのが一番だが。
一対一での戦いは保証されていた。
図らずも依頼料を払い込んでいる形になったこともあり、トライ・イージェスの社員たちは一切戦いに介入しないことを約束してくれた。
そのため、約束を破られることはまずないと見ていいだろう。
瑞樹は以上の注意事項を忘却することなく、理性をはっきりと維持していた。
かつては臓腑の全てを溶かすほどに内で燃え上がらせていた、憎悪と復讐心も鎮まっていた。
決着をつける。終わらせる。勝つ。
愛好している格闘技観戦を求める熱にも近いもの――純粋な闘争心。
今の彼から溢れている感情は、それに近い。
そこに、別の気持ちが加わる。
夢の中だけでも、漠然とした存在感だけでも構わないから、あの女を消して、二人に会いたい。
そういった意味では、未だ仇への憎しみは消えていないと言っていい。
瑞樹の足に迷いはない。
夢の国へ立ち入った時から、既に沙織の気配を捉えていた。
――こっちへ来て。私はここにいるよ。
音無き声を心の耳が捉え、誘われるがままに、待ち合わせ場所を目指す。
そこは、園内のほぼ中央に位置する円形広場だった。
正面には、高貴な白と透き通る青の水晶で形作られた西洋風の巨大な城が高々と建ち、花壇には小さく美しい花たちが虹のような並びで咲き、今にも歌い出しそうなほどの瑞々しい生命力を放っている。
中央にある噴水のほとりに、円城寺沙織は腰かけていた。
オーバーチェックのワンピース、薄いベージュのニット、黒いタイツにウェッジソールを身に着け、長く美しい黒髪を垂らして、にこやかな笑顔を瑞樹と栞に向けている。
彼女を中心とした構図で、この風景を写真にして切り取ったならば、きっと様々なコンクールに入賞できるだろう。
瑞樹の顔つきが変わる。
眉の間にしわができ、目は細まり、唇が固く結ばれる。
速度を落とさず、無言で距離を詰めていく。
栞は途中で足を止めたが、瑞樹は構わずに進む。
もはや栞の存在が、眼中にないかのように。
「こんばんは。もう、ダメだよ、女の人を待たせるなんて」
「……茶番はいい。早く始めるぞ。時間が勿体無い」
瑞樹の低く押し殺した声に、栞は身震いする。
あの声が生涯、自分に向けられることはないだろう。
しかし、誰かに向けられるのを聞くのも嫌だ。それが正直な感想だった。
「デートなんだから、少しくらい楽しんでもいいと思うんだけどなあ」
当の沙織は殺気など全く気にせず、頬を膨らませて不満げに顔を逸らす。
が、栞からの視線に気付き、にっこりと微笑みを返した。
「栞ちゃん、来てくれてありがとう」
お姉ちゃん、と、喉まで出かかった言葉を、栞は飲み込んだ。
かといって、代わりに言うべきことが思い浮かばない。
思考ばかりが次々と浮かぶ。
本当に、また生きている姿を見ることができるなんて。
最後に会ったのはいつだったっけ。
結果、驚きと戸惑いが籠った、頻繁な瞬きと定まらぬ視線を送り返すしかできなかった。
沙織は、栞の無言のメッセージを、寸分の狂いもなく解読していた。
大丈夫だよ。一度小さく頷き返し、答えとする。
「それじゃあ、せっかちな瑞樹君のために、もうデートを始めちゃおうか……ってちょっと待って」
瑞樹の気配が本格的な戦闘態勢へと変化する刹那、沙織が手で制する。
「この場所も素敵だけど、周りを壊さないようにとか考えると、思いっきり楽しめないでしょ? 少し場所を変えましょ」
前に出した手を、そのままくるくると回転させる。
すると、手の周囲に淡い光が現れ出し、段々と増えていく。
あれは……瑞樹は目を見開いた。
蛍光色をした球状の発光体に、見覚えがあった。
夏、禁足地、小さな森の中……幾つかのキーワードが連鎖的に浮かぶ。
八幡の藪知らずで、沙織を一度殺した時に目撃した、物体を瞬間移動させるという光だ。
「凄いでしょ」
沙織が、自慢げな顔をする。
「これも勉強の成果だよ。さあ、行きましょう。今更騙したりなんかしないから、ほらほら」
瑞樹の思考を先読みし、沙織は手招きする。
「わたし、瑞樹くんについていくよ」
背中から、栞のはっきりした宣言が聞こえてくる。
「……よし」
瑞樹は振り返らずに、後ろへ手を差し出した。
ほどなく、掌に柔らかく温かな感触が乗せられる。
普段はこうすることで優しい気持ちになれたが、この時は何の効果ももたらさなかった。
ただ移動の際にはぐれないよう、そうしたに過ぎない。
二人は、光が舞う中へと身を投じた。
「呪文を唱えなくてもいいから。少しだけじっとしてて」
沙織の声がした直後、あの特有の消失感――脳を直に揺すられるような感覚が襲う。
恐怖しているのだろう、栞が握っている手の力が強くなる。
瑞樹も少しだけ強く握り返し「大丈夫だ」というメッセージを伝える。
意識が戻った先にあったのは、見慣れているようで見たことのない、奇妙な錯覚をしてしまう広い部屋だった。
学校の教室ほど広い周囲を見渡してみて、違和感の原因にすぐ気付く。
混ざっているのだ。
両親と暮らしていた時、リビングに置いてあった木製のローテーブル。
秋緒と暮らしていた時、自室に置いていたデスクと椅子。
フランク多嘉良のコーヒーメーカー。
八柱霊園から担ぎ込まれ、入院した時に寝かされた白いベッド。
栞の家にあった細長い観葉植物。
モザイクのように張られた、五相ありさの部屋の畳と血守会アジトの冷たい床。
これまでの人生で瑞樹が身を置いてきた部屋の構成要素が、リサイクルショップのように雑然と配置されている。
左右の壁に窓はついているが、何も景色は映っていない。
天気や季節はおろか、昼なのか夜なのかさえ分からない。
曖昧なベージュ色の空間が果てしなく続いているだけだった。
正面の壁にはそれぞれ種類の異なるドアが三つあり、背面の方には襖が二つある。
いずれも、これまでの人生で見たことのある形をしていた。
「くっ……」
忌々しげに瑞樹が漏らす。
これでは眠っている時とあまり変わらない。
何より、見ていてあまり気分がいいものではない。
「あの人、どこにいったのかな」
栞はその場を一歩も動くことなく、不安げに部屋を見回して、独り言のように呟く。
とりあえず、どこかに移動した方がいいだろうか。
いまいち勝手が分からないが、ドアを開ければいいのだろうか。
それとも待つべきか。
瑞樹が逡巡していると、どこからともなく音楽が流れ出す。
無音だった部屋が急に賑やかになる。
聞いたことがある。夢の国で流れるパレードの音楽だ。
反射的に栞を庇うように身構え、周囲を警戒する。
正面のドアが、勢いよく開けられた。
出てきたのは、ネズミだった。
二本の足で立ち、ピエロのように派手な色彩の衣装を身に着け、手足は極端にデフォルメが効いて巨大で、顔は人を食ったように口を歪め、瞳孔を開いている。
実に趣味の悪い着ぐるみだと瑞樹は思った。
ネズミはBGMに合わせ、ひどくぎこちない動きで踊り出した。
見た子どもは泣き出し、大人は神経を逆撫でされるような、不快感に満ちた動作であった。
瑞樹は舌打ちする。
彼の心情など気にもせず、ネズミは段々とクライマックスのキメに向けて動きを激しくしていく。
そのまま、転げそうな足取りで、一歩、二歩と瑞樹に近付いてくる。
五歩目で足が止まった。
BGMはいつの間にか切り替わり、同じ音階のオーケストラヒットが連打されている。
「ふざけるなッ!」
我慢の限界に達した瑞樹が、怒号を放つ。
後ろで栞が驚いて飛び上がったが、気にしている場合ではない。
「あれ、面白くなかった?」
着ぐるみから透明な声がする。
続けてくるりと一回転すると、着ぐるみが発光した。
光の中でシルエットが女の人型へと変形していく。
光が収まると、沙織が先程と同じ服装で姿を現した。
「笑わせる自信があったんだけどなあ、今のネタ」
「早くしろ! この部屋でやるのか!? それとも外か!? お前の墓場を選べ!」
「どっちでもないよ。えいっ」
沙織が大仰な仕草で指を鳴らすと、混沌で彩られた大部屋が一瞬にして消滅し、辺りが完全な暗闇に包まれた。
重力は残っており、呼吸もできる。そして再びの無音。
不思議なのは、光源もないのに、瑞樹と沙織、栞の姿だけは何故かはっきりと見えることだ。
沙織は瑞樹の正面四メートル先に、栞は瑞樹の斜め後ろ、二.五メートルの所に立っていた。
「今ここは、私たちだけの世界。夢の中の夢、三人だけの世界」
沙織の声が、四方八方から反響して聞こえるのが気持ち悪く感じた。
「私たちの意識が、思いが、そのまま反映される場所」
「だからどうした」
「うん。栞ちゃんに、景色を作ってもらいたいなって」
「わたし?」
突如、話を向けられ、栞は狼狽した。
「最後のデートに一番ピッタリだって思う景色を、お願いしたいの。いいよね、瑞樹君」
「ああ、構わない」
栞の方を見ず、瑞樹は答える。
「でも……」
「僕のことは一切気にしなくていい。栞の思いついたままに従う」
「大丈夫、別に難しいことじゃないよ。五感を使って頭の中に強くイメージしてみて、それを自分の周りへ拡げてみるだけでいいの。焦らないで、ゆっくり、少しずつでいいから……」
まだ迷いは消えなかったが、やらないことには何も始まらないし、時間がいたずらに過ぎていくだけだ。
栞は覚悟を決め、目を閉じ、脳の活動を総動員して、架空のカンバスに筆を走らせ始めた。
色、匂い、温度……あれとあれを入れて……混ぜ合わせて……
構想もラフ画もなく、思い浮かぶがままに、できるだけ詳細にイメージして組み合わせていく。




