三十八章『夢の国』 その3
しかし……瑞樹はため息をつく。
沙織との決着をつけるにあたっては、特に関係がなさそうなものばかりだ。
自分が今求めているものとは違う。
空想の実現ではなく、内面に棲みつく仇敵を完全に滅ぼしたいのだ。
どうすればいいと、考えを巡らせようとするが、できない。
目蓋がどうしようもなく重たい。欠伸が止まらない。
徹夜による眠気が限界まで迫ってきていた。
ダメだ、一度寝よう。瑞樹はそのままフローリングに仰向けになり、眠ってしまった。
「大丈夫だよ」
「うわっ!」
体感時間的には、目を閉じてすぐだった。
無数の歯車やネジなどが積もった狭い部屋でパソコンをいじっていると、沙織が突然背後から話しかけてきた。
「急に話しかけるな! 夢の中でも驚くんだ」
「ごめんごめん。それはともかく、安心してよ」
スカートが広がった純白のドレスをひらひらと翻し、沙織は笑顔を作る。
「夢の国のこと、あとは私が何とかしてあげる。せっかく瑞樹君が頑張ってデートのセッティングをしてくれたんだもの、私も頑張っちゃうよ」
そこで沙織はふうっと一息ついた。
その後、透き通った瞳を真っ直ぐに向け、瑞樹を覗き込んだ。
「それで、私から二つお願いがあるんだけど。まず一つ目は、栞ちゃんも夢の国へ連れてきて欲しいの」
「栞を? どういうことだ」
栞の名を聞いて一瞬、立ちくらみのように気が遠くなりかけたが、すぐに治まる。
「一度だけでいいから、会いたいの。当たり前だけど、もちろん危害を加えたりしないから、安心して」
瑞樹は訝しむ。何故急にこんなことを言い出す。
同意しかねたが、ここで沙織の機嫌を損ねてしまってはまずい。
せっかくの希望の灯を消してしまう訳にはいかない。
「……相談してみる」
苦渋の選択だった。
「ありがとう。よろしくね。多分栞ちゃん、いい顔をしないと思うけど……絶対に連れてきて。そうじゃないと、終わらせられないから。二つ目のお願いは簡単だから安心して。瑞樹君に、情報を集めて欲しいの」
「情報だと?」
「夢の国の霧に関係することで、色々調べておきたいことがあるの。代わりに情報を仕入れておいてくれない? 今の私はここから外に出られないから、集めようにも集められないんだもの」
「具体的にはどうすればいいんだ」
「読むだけでいいよ。瑞樹君が見聞きした情報が、そのままこっちに入ってくるから。脳に定着しやすくなる分、音読してくれるとより嬉しいかな。あ、理解しようとしなくてもいいよ。とりあえず情報だけ送ってくれれば、私の方で何とかするから」
能力を疑われているようで少々気に障ったが、沙織が続けて述べていく単語を耳にした瞬間、瑞樹は早々に理解を諦めた。
完全に自分の範囲外である、専門用語のオンパレードだった。
「それじゃあ、お願いね。媒体はインターネットでも本でも、何でもいいから」
やっぱりこの女はおかしい。そして、嫌いだ。
瑞樹は復讐心に加えて、しょうもない逆恨みも抱くのであった。
運命を司る神のようなものが実在するとするならば、二人の決着を後押しして、急がせているとしか思えない。
瑞樹の下へ五相から連絡が入ったのは、目を覚ました後、早速沙織に依頼された情報収集を開始して数時間後のことだった。
「夢の国に立ち入れる目処がつきました」
なんと、もう最終決戦の日取りが決定してしまったのである。
時間がかかると鬼頭からも言われていたため、もう少し先のことだろうと思い込んでいた。
「いつですか」
「一週間後、土曜日の深夜です」
何でも、その日以外は都合がつかないらしい。
血守会のアジトが夢の国の内部にあったというのは、警察ですらまだ把握していない、トライ・イージェス社のみが知る秘密事項だ。
公表すれば、夢の国は一時休園せざるを得なくなり、運営会社が被る損失は莫大なものになってしまう。
そこで閉園時間の内に、秘密裏に調査諸々を済ませてもらいたいと、トライ・イージェスと"取引"を行ったらしい。
複雑な利権の産物か。納得はしがたいが、理解はできた。
「土曜深夜ですね、分かりました。……それと、付け加える形で恐縮なのですが、お願いがありまして。彼女を同行させる必要が出てきましたので、取り計らってもらえないでしょうか」
「私からは回答しかねますので、聞いておきますね」
善処しますからと付け加えられ、電話が切られる。
途端、武者震いが瑞樹を襲う。
心の準備ができていないなどと、寝言を言うつもりはない。
そう、これは喜んでいるんだ。強く言い聞かせる。
ふいにはできない。何としても間に合わせ、確実に成功させるのだ。
「……わたしがいたら、邪魔にならない?」
その勢いのまま、すぐさま栞に連絡を取った所、色よいとは言えない答えが返ってくる。
沙織が予想していた通りだった。
言葉以上に戸惑いと迷いのこもった、気乗りが薄いニュアンスを感じる。
しかし、どうしても同行してもらわなければならない。
「怖いのは分かる。酷なことを言っているのも分かる。その上で……頼む。全てを終わらせたいんだ。その後の僕の人生、全部栞に捧げても構わない。だから」
「ううん、そうじゃなくて……おかしいって思ったりしてない?」
「思ってるよ。あの女、一体どうして栞を呼び出したりしたのか……」
「ちがうの。えっと、特に瑞樹くんから言いたいことがなければ、別にいいの。うん、行くよ」
どうにも要領を得ないが、とにかく同行はしてくれるようだ。瑞樹は安心する。
「ありがとう。大丈夫、絶対危ない目に遭わせはしないから。……あの女もそう言ってたし、そこだけは信じても構わないと思う」
「…………うん」
切電。
瑞樹は脱力し、床へ仰向けになる。
「やってやったぞ」
天井を見つめながら、心の内へ潜む美しき悪魔に語りかける。
「お前も絶対、やってみせろ。そして、次で、全部終わりだ。いいな」
瑞樹はすぐさま身を起こし、その相手から頼まれた調べ物に取りかかり始めた。
最後の"デート"の日までの時間は、速くも遅くもなく、極めて淡々とした等速に感じられた。
「調べ物、終わったよ。ありがとう。夢の国に入ったら私の方から会いに行くから、任せておいて」
夢の中で沙織にそう言われたのは、依頼された翌日の夜だった。
「ムードを出すために、デートの日まで私、消えてるから。だからといって先生さんたちには会えないだろうけど、せめてゆっくり休んでおいてね」
宣告の通り、この日の夜以降、沙織が夢に出てくることはなかった。
そして、代わりに秋緒や知歌と会えることもなかった。
正直、気が気ではなかったが、大学へはきちんと通う。
今更訓練も何もない。出来るのはせいぜい、当日に向けて少しずつ精神を整えていくことぐらいだ。
大学以外の時間は、友人との付き合いもそこそこに、栞と一緒にいるよう努めた。
電話した時に醸し出していた不明瞭な雰囲気は既に消え、普段通りの大人しげで可憐な彼女が戻っていた。
流石に遊んだりするゆとりは、今の瑞樹にはない。
静かに、穏やかに過ごすのみである。
彼女の機嫌取りなどではなく、彼は単純に安らぎを求めていたのだ。
戦いを控えた人間がするには、少しばかり女々しい思考かもしれない。
だが、今の自分に一番必要なのは精神の安定であり、最後の戦いで一気に力を解放するためにもその方がいいと、瑞樹は考えたのだ。
また、本人は無意識に目を背けていたが、EFの暴走に対する恐れがそうさせていた。
二人の過ごし方は決まっていた。
共に電車に乗って移動し、着替えなどを取りに行くために栞の家へ寄った後、最寄りのスーパーマーケットで食材を買い、瑞樹の家に行く。
大学卒業後の本番を前にしての、土曜日までの同棲だった。
夕食は二人にとって大切で、何より楽しい共同作業であった。
材料は大きく切る、サイズを揃える、カレーに入れる肉は鶏肉、いいや豚肉だよ、今日は面倒だから鍋にしちゃおうか、そんなやり取りを交わしながら台所に並び、テーブルを挟んで温かな食事を取る。
寝る時は同じベッドで、キスをしてから手を繋いで目を閉じた。
それ以上のことはしなかった。
正確には火曜日の夜、どちらともなく行為に及ぼうとしたのだが、やはり瑞樹の方が反応しなかったのである。
今回は特にナーバスになっているからではと栞は気遣ったが、瑞樹は別の違和感を感じていた。
上手く言えないが、本当にそれだけだろうか、と。
しかし考えても答えは出ないので、持ち越すことにした。
全てが終わってからゆっくり考えればいいし、全ての呪縛から解放されれば、きっと肉体的にも栞と通じ合えるはずだ。
それが、戦う理由にもなる。
そしてついに土曜日を迎えた。
この日は朝から雨だった。
いつも通りの時間に起床し、朝食を取る。
バターをたっぷり塗ったトースト、ふわふわのスクランブルエッグ、油を多めにひいて焼き上げたソーセージ、インスタントのコーンスープを食べ、最後はブラックコーヒーで締める。
こればかりはインスタントという訳にはいかず、きちんと豆から挽いたものを淹れて飲む。
「ついに来たね」
「うん」
当日だというのに、二人の間には和やかな空気が流れていた。
会話量も減ることなく、穏やかな笑みを交わし合い、合間に瑞樹は瞑想、栞は読書をしたりしながら時を過ごす。
第三者が観察していたとして、これが今夜、特殊な環境下で戦いに臨む人間の姿だとは中々思えないだろう。
テレビを消して、しとしと降る雨の音を背景音楽にするのは、とても心地良い。
誘っているようにさえ聞こえ、雨だというのに外へ出たい気分にさせる。
「お昼を食べたら、少し散歩する?」
「うん、行こっか」
昼食にナポリタンとシーザーサラダ、それぞれケチャップとドレッシングを多めにかけたものを食べた後、二人は傘を一本持って外へ出かけた。
時間をかけて、近所の公園をゆっくりと一周し、カフェで一休み。
そして陽が傾き始めた頃、夕食の買い出しをして家に戻る。
栞は、段々と不安を抱き始めていた。
戦いの時が刻一刻を迫っているというのに、全くと言っていいほど瑞樹が心を揺らす様子を見せない。
あまりに静穏すぎる彼の立ち振る舞いが、かえって心配に見えてきたのだ。
「大丈夫、心配いらない」
瑞樹は、恋人が向けてくる眼差しに込められていた意図に、しっかりと気付いていた。
「最高のコンディションだ。僕は、絶対に勝つ」
「……うん」
栞にできるのは、彼を徹底的に信じ抜くことだけであった。
夕食のメインは、栞が一人で作ったシーフードパエリアだった。
そういえば、いつか食べたいって言ったっけ。瑞樹は過去、自分がした発言を思い出す。
直後、何度もリクエストすれば良かったと少し後悔する。
それほど、言葉にしがたいくらいの美味だった。
「ずっと練習してたんだよ」
はにかむ栞の顔もまた、いいスパイスである。
「また食べたいな」
「無事でいてくれたら、好きなだけ作ってあげるよ」
夕食後は丁寧に歯を磨き、早めに入浴を済ませ、先日、トライ・イージェスから送付されてきたスーツに着替える。
二着分のスーツが、先日五相へ託した頼みに対する先方からの回答だった。
もっとも、サイズを合わせなければならないために事前に申告しており、その時点で彼女の同行が許可されたことを知ってはいたのだが。
名目上、二人もトライ・イージェス社の人間として立ち入ることになるため、スーツ着用は必須だった。
当然、社員バッジも付属している。
「なんだか、わたしがトライ・イージェスのスーツを着るなんて、変な気分」
栞は苦笑いした。
互いに準備が整ったところで、瑞樹は腕時計を見る。
午後九時前。ちょうどいい。
夢の国の閉園時間は午後十時のため、立入が可能になるのは、恐らく日付が変わる頃だろう。
タイミングを見計らったかのように、瑞樹の携帯電話が鳴り出す。
三コールの内に取り、短い言葉をやり取りして、すぐに通話を終える。
「車、近くに来てて、いつでも行けるって」
「……わかった」
栞は、読んでいた、というより字面を目の表面に流していただけの本にブックマークを挟んで閉じ、立ち上がる。
瑞樹は懐に手をやり、ちゃんと"お守り"を忘れていないことを確認する。
互いに顔を見合わせ、静かな足取りで家を出た。
地面はまだ濡れていたが、雨はもう上がっていた。
夜空には白銀色の弓張り月が見え、空気は冷え冷えとしている。
自宅に面した道路の脇に、見覚えのある車が停まっていた。
運転席と助手席にいる男女――トライ・イージェス社員・六条慶文、五相ありさと目が合い、軽く会釈する。
「こんばんは、お二人さん」
六条は相変わらず、気さくな男だった。
瑞樹と栞も挨拶を返す。
「今回は色々ご無理を言ってすみません。お忙しいのに……」
「ああ、気にしないで。いや本当に。この間、アドバイスや引っ越し云々でくれた謝礼あるじゃない? あれね、ちょっと多すぎることが判明したんだ。だから余った分は、今回の件に関する僕らへの依頼料に振替えさせてもらったよ」
「ですから、クライアントとして堂々としていて下さいね。私達は仕事としてお引き受けしたんですから」
「……ありがとうございます」
相場を考えれば、謝礼全額でも足りないはずだ。
瑞樹はつくづく頭の下がる思いをする。
高速道路を利用すれば、さほどの時間もかからずに夢の国へ着く。
その間、車内では和やかなムードで会話が弾んでいた。
最初に六条が、
「ええと、普通に喋りかけた方がいい? それとも黙ってた方がいい?」
と問いかけ、
「いつも通りお話したいです」
瑞樹がこう返答したためだ。
この場にいる四名全員、対人能力に問題はなく、温厚な気質のため、六条や五相とは初対面だった栞もすぐに打ち解けられた。
五相も、秘めていた気持ちをおくびにも出さなかった。
同時に、納得せざるを得なくなる。
お似合いのカップル、という言葉では足りない。
何とも名状しがたいが、相性を超越した、もっと深い部分で繋がっているのが伝わってくる。
最初から勝ち目などなかったのだ。
午後十時半、瑞樹たちは夢の国がある千葉県浦安市舞浜に到着した。
正面からではなく、堤防沿いの道路を走り、裏に回り込む。
夢の国を覆う薄桃色の霧は、淡い光を放ち、夜の闇から浮かび上がっている。
こうして外側、業者用駐車場の隅から眺めているだけでも幻想的だった。
同時に、これなら周りは街灯いらずで節電にもなるなと、瑞樹は思う。
停車後、六条は携帯電話でしきりに連絡を取り合っている。
流石にこの時はもう、車内から会話は消えていた。
全員、神妙な顔つきで待機していた。
一台、二台と同種の車が到着するのを待つ間、瑞樹はほとんど何も考えていなかった。
ひたすらじっと、瞑想にも近い状態で、車窓から見える"夢の霧"に視線を注ぎ続ける。
憧れていた場所へこんなにも近付いているのに、栞は何の感動もしていなかった。
理由は単純である。今回の来訪は彼女にとって"デート"ではないからだ。
午後十一時四十五分、六条に促され、瑞樹たちは車を降りた。
他の車からも続々とスーツ姿の人間が現れ――トライ・イージェス社の社員九名が勢揃いする。
全員来ることは事前に聞かされていたため、瑞樹は驚かなかった。
しかし栞は圧迫感を覚えてしまう。特に鬼頭高正や庄典嗣に対して。
思わず瑞樹と手を繋いでしまいそうになるが、義務感となけなしの勇気を振り絞って思い止まった。
「皆さん、今夜は本当にありがとうございます」
瑞樹は最敬礼し、改めて謝意を示す。
栞もそれにならう。
「勘違いするな。あくまで仕事の一環だ」
「またまたぁ。ダンナってば無愛想なんだから」
剛崎健が苦笑いして鬼頭を嗜める。
「まあ何にせよ、ここで全部終わりにできる。そうだな?」
「はい」
瑞樹は、自身を取り巻く社員たちの一人一人に視線を送る。
「瑞樹さん……どうか、お気を付けて」
「五相さん。色々ありましたけど、あなたに会えて良かったと思ってます」
「……私も、です」
五相ありさは、笑顔を作って答えた。
「君の内に棲みつくご家族の仇のこと、私には未だ半信半疑だが……成功を祈っている」
「ありがとうございます、社長」
花房威弦と握手を交わし合う。
「千葉さん、遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。まあ、頑張ってきなよ」
千葉悠真は、少し照れながら、眼鏡に手をやった。
「坊ちゃ……瑞樹君も早めに結婚を考えるといいよ。きっと幸せになれるよ」
「そうですね。家族って、いいものですよね」
六条慶文の言葉に、しみじみと思う。
「彼女のこと、ちゃんと守ってあげてね」
「もちろんです」
流石の天川裕子も、この時ばかりは瑞樹を誘惑しなかった。
「庄さん、相楽慎介のこと、ありがとうございました。友人も浮かばれたと思います」
「おう、朝飯前よ! 若、今度一緒に有明で試合観に行こうな」
庄典嗣は、右手でガッツポーズを作った。
「今度は正式なデートで来られるといいな」
「その時は、彼女にたくさんサービスしますよ」
遠野鳳次郎が、涼しげな顔で言う。
「勝って、任務を果たしてこい」
「はい」
鬼頭高正の鋭い視線を、真正面から受け止めて答える。
「瑞樹君……終わらせてこいよ。先輩たちのためじゃなく、何より自分のために」
「剛崎さん……これまで色々ありがとうございました。先生も、深く感謝していますよ」
「……や、やめてくれよ、こんな時に」
剛崎健は、自分の頬を張って、誤魔化した。
――僕は、負けられない。必ず、支えてくれた人たちの期待に応えて、生きて戻ってくる。
最後に花房たちから説明を聞き、午前零時ちょうど、中島瑞樹と青野栞の二人は夢の国の中へと足を踏み入れた。




