三十八章『夢の国』 その1
綿菓子のような雲が空のあちこちに散らばっていたが、太陽がその隙間から暖かな光を注いでいる。
眼下には石造りの小さな円形空中庭園だけがあり、宙に浮かんでいた。
ダリア、シクラメン、ゼラニウム、ヒガンバナ、バラ……赤い花ばかりが、季節や配置を無視して無造作に咲き乱れている。
花壇など設けられていない。言うなれば、地面全てが花壇だ。
円周部分には細い水路が設けられており、花を潤すと同時に、遥か下方に向けて水を垂れ流してもいる。
そんな歪な場所で、瑞樹と沙織は逢瀬していた。
「色々と犠牲が出ちゃったけど……血守会のこと、やっと全部終わったね」
ダリアを愛でながら、沙織は語りかける。
瑞樹は何も言わず、俯いて足元の土をじっと見つめていた。
これまで沙織に対しては、彼のEFの原動力でもある憎悪ばかりを抱いていたが、この時は違っていた。
「どうしたの? いつもと様子が違うみたいだけど。先生さんとは、また違ったことで悩んでる?」
瑞樹は、ぴくりと眉を動かした。
まさしく沙織の指摘した通りであった。
「こういうのは柄じゃないけど。良かったら私に話してみない?」
「話すも何も」
お前のことなんだよ。瑞樹は心の中で付け加える。
「あれ、もしかして私のことだったりする? わあ、嬉しい! そんな真剣な顔して考えてくれてるなんて」
瑞樹は苛立たしげに舌打ちする。
そのような反応を取ることが、沙織を喜ばせてしまうだけだと知りながら。
「……自分の気持ちに、整理がつけきれてないんだ」
それでも、瑞樹は話し始めた。
「僕が力を暴走させた時、先生が来るまでの間、お前がずっと呼びかけていたから自我を失わずにいられて、自分自身を焼かずに済んだ。そのことは理解している」
「うん」
「でも……それでも、僕はどうしてもお前を許すことはできない。僕の家族をあんな目に遭わせた、お前だけは」
「うん、それでいいよ。恩を着せようなんて思ってないし、単純に私は瑞樹君のことが大切でそうしただけだから」
「僕もそうしたい」
そこで、瑞樹は言葉を切る。
「……炎が上手く出せないんだ」
右手を固く握り締め、見つめる。
「この力は、僕の思考以上に正直者だ。嘘を許してくれない。これまではお前のことを考えるだけで力が使えたのに……」
「私のことなんかどうでもいいって、本心がそう思っているんじゃないかっていうのが不安?」
沙織はどこまでも、瑞樹の本質を正確に把握していた。
「いいんじゃない?」
だからこそ、あっけらかんと言ってのけた。
「私にとっては、別に力が使えなくても構わないもの。こうやって瑞樹君が眠っている間だけでも会えることができて、憎んでもらえるだけで、充分幸せだから。それに先生さんのおかげで、もう起きている間は私のことを感じられなくなっちゃったんでしょう? 無理しなくてもいいじゃない」
「……やっぱり、お前なんかに話したのが間違いだった」
瑞樹は忌々しげに顔を背ける。
だが、そうまで言われても、炎が戻る兆しさえ見られない。
じれったいにも程がある。いい加減自己嫌悪するのが抑え切れなくなりそうだ。
衝動に従った方が楽なのは分かっていたが、それでは解決にならない。
自己嫌悪から来る力では足りないのだ。
更に、炎が出せれば、"炎が出せないことに由来する自己嫌悪"は薄れてしまう。
ループするだけで、根本的な解決にならない。
「少し耳が痛くなるようなこと、言ってもいいかな」
沙織は構わず、言葉を続けていく。
「瑞樹君は、能力に頼りすぎなんだよ。なまじ一度私を焼き殺せてるから、なおさら依存してるように見える。もっと自分のことを信じてみてもいいんじゃないかな」
耳の中に細長いドリルを入れられたような衝撃を、瑞樹は味わった。
彼女が新発見をもたらしてくれたからではない。
自分でも薄々分かっていたことを暴き出されたのが痛かったのである。
そうだ。その通りだ。
今まで自分は、小さな体に対するコンプレックスを、炎のEFという力で覆い隠していた。
これがあれば、体格で劣る相手にも負けはしない。
それに、円城寺沙織という化物相手では炎が必須だ。
生身で勝てるとは到底思えない。
瑞樹は、悔しさを満面に出し、沙織を睨み付ける。
「先生さんの弟子なんでしょう? 大丈夫、瑞樹君は強いよ。私が保証する」
先生、という単語を出され、瑞樹は急に我に返る。
「そうだ。先生や知歌とは会わなかったのか」
「会ってないよ。と言うより、会えないっていう方が正しいかな。何て言ったらいいのかなあ。お互いにいる"階層"が違うんだよね。先生さんたちは、瑞樹君本人でも辿り着けないくらい、もっと深い所にいるみたいなの。この夢の世界は、比較的浅めの階層だね」
そこまで言ったところで、沙織は何かを思いついたように、眼球を上へ動かした。
その後、人差し指を立て、にこやかな顔で、
「あ、瑞樹君の殺る気を取り戻す方法、思いついちゃった」
ひらめきを口にする。
「最初に言っておくけど、確実じゃないからね」
「早く言え」
「私を殺せたら、夢の中で先生さんや知歌ちゃんと会えるかもしれない」
「どういう理屈だ」
「だから確実じゃないんだって」
沙織は少し間を置け、説明を行った。
「……多分、私の存在が壁になってるんじゃないかなって。起きている世界の方と違って、夢の世界は私の影響力が強く染み渡ってるみたいだから。私が死んで瑞樹君の中に住みつくようになってから、夢を見る時には他の人が出てこなくなったでしょう?」
段々と瑞樹の周りの空気が変化していくのを、沙織は敏感に感知していた。
「確かに、そうだ」
「どう? 邪魔な私を憎んで殺す価値が出てきたでしょ?」
締めくくりに、沙織は透き通る声で物騒な誘いの言葉を吐く。
「……そうだな。お前のせいで先生や知歌に会えないのかと思うと、腹立たしくなってきた」
それに応えるように、瑞樹の周囲が揺らめき――瞬く間に猛る炎が全身を覆った。
「ふふ、素敵な殺気。やっぱりこうでなくちゃ」
熱にあてられた沙織は、白肌に桃色を差し、うっとりと蕩けそうになる。
「あとは時間制限も妨害もなく、気兼ねなくデートができる方法を探すだけだね。今すぐお相手したいのはやまやまだけど、もう朝だし、私、行くね。また次の夜にでも会いましょう」
沙織は浮ついた足取りで、空中庭園から身を投げた。
あっという間に下方の空へ吸い込まれて消えていく彼女の姿を見送りながら、瑞樹の意識が段々と曖昧になっていく……
心の靄は晴れた。
やはり、あの女は殺さなければならない。
目覚めたばかりだというのに、大義名分を得た瑞樹はひどく高揚していた。
とはいえ、色々と後処理をしなければならないことがあったため、"デート"の具体的な方策を考えるゆとりができるのに少しの時間を要した。
まずは、秋緒の遺言を守らなければならない。
厳密には彼女は死んでいないのだが、けじめをつけるためにあえて履行を決意した。
秋緒の部屋の机、引き出しの中に、遺言状が入っていた。
そこには、自分が保有していた資産は全て中島瑞樹に譲ること、瀬戸クリーンアップの事業継続については彼の意志に委ねる旨、そして遺骨の扱いについての三点が記載されていた。
付記されている日付から、今回の戦いに臨んでではなく、平時からあらかじめ用意しておいたもののようだ。
先生らしいなと、瑞樹は思わず表情を緩める。
有価証券の保有はなかったが、持ち家及び土地、事業に使用していた備品(この時代では武器類や聖水なども相応の資産価値がある)などをまとめると、計上された資産額はかなりのものとなった。
借入金や税金の未納がないのは当然のこと、銀行の預金額だけでも、瑞樹の学費や大学生活費はおろか、今後長期間、充分に生活していけるだけの金額が残されていた。
元々、秋緒があまり金を使う方ではなかったことは知っていたが、瑞樹が予想していた以上の額だった。
家計管理に関しては全て秋緒が行っていたため、これまで瀬戸家の正確な資産状況を知ることはできなかったのである。
事情が特殊なため、生命保険金が下りるのは難しいだろうが、気にしなかった。
自罰か、贖罪か。そもそも瑞樹は手にした金に関心を示さなかったのである。
相談に乗って色々と手伝ってくれた剛崎たちトライ・イージェスの人間に謝礼を、業者に手数料を支払った後、納税や学費などに必要な分だけを残し、資産のほとんどを、今回のテロに巻き込まれて被害を受けた人々へ寄付した。
"お詫び"として多嘉良から毎月振り込まれる金も、最低限の生活費だけを引いて、残りは寄付へ回すことを決めていた。
そんな折、家の片付けなどの雑事を手伝っていた五相から、こんなことを言われた。
「私が言っても説得力がありませんが、ご自分を責めすぎるのは逆効果になりかねませんよ。瀬戸さんは、瑞樹さんが幸せになることだけを望んでいらっしゃると思います」
瑞樹は迷いなく、こう返答した。
「でしょうね。でも、僕なりにやれることはやっておきたいんです。……それに、今の僕は充分幸せですから。全てを失った訳ではありませんし、家族もずっと心の中に息づいていますので」
ああ、こんな人だから、私は――
五相は声を詰まらせ、何も言えなくなったものの、その先を言語化することは、心の中でさえも決してしなかった。
瑞樹は金だけではなく、秋緒と共に過ごした家も、車と共に手放すことを決めてしまった。
彼女と十年以上の時を過ごした思い出深い場所から離れることに、何の感慨も湧かない訳ではない。
逆に、思い出がありすぎたから手放したのである。
大学卒業後に就職し、生活基盤が安定してから同居することを栞と約束し、今は埼玉県川口市南部にある、家賃の安いアパートへ引っ越すことを決めた。
川口市を選んだのは、栞の家に近いためだ。
瀬戸クリーンアップについては完全に廃業することを決めた。
瑞樹一人では事業を続けるのが難しいというのが最大の理由である。
自分の不手際で、尊敬する人の会社に泥を塗るような真似はしたくなかったのだ。
そして、秋緒との最後の約束を果たすため。
瑞樹は、トライ・イージェス社員にして、彼女と同じく創立メンバーの一人である鬼頭高正と共に、山梨県河口湖を訪れていた。
本来は一人で行くつもりだったが、鬼頭も強引に同行を申し出た。
『私の骨は中島瑞樹の手によって山か海に、可能ならば山梨県河口湖へ撒かれることを所望する』
という遺言状の文面に対して、
「お前一人で、とは書かれていない。俺が同行しても何の問題もないだろう」
というのが鬼頭の主張であった。
一理ある、ましてや彼には大恩がある以上、瑞樹に反論できる術はなかった。
それに、河口湖は結界もなく、安全とは言えない場所だ。護衛も兼ねているのだろうと推察する。
湖から少し離れた所で停車し、二人は外に出る。
瑞樹の手には籐編みのバスケットが提げられており、腰には刀の鞘を差していた。
「剛崎さんも来たがってたでしょうね」
「ああ。だが奴は仕事だ。身勝手は許されん」
鬼頭は無表情で返す。
もっとも彼も半日休というスケジュールを利用している身で、これが終わって東京へ戻ったら、すぐ自分の案件にかからなければならない身である。
まだ秋の真ん中頃だというのに、山間部、朝という時間帯なこともあり、外は肌寒かった。
風も強く、しきりに吹き付けてきて体温を奪っていく。
「行きましょう」
瑞樹は身を竦め、上着の前を閉めてから、湖に向かって歩き始めた。
湖周辺に人気は全くなく、放置されるがままに荒れ果てた建物がそこかしこにあるだけだ。
荒涼とした場所だと、周辺の景色を見て瑞樹は思った。
湖一帯の雰囲気自体がひどく野生じみて殺伐としているし、あちらこちらに、生存競争に敗れた末路と思わしき獣の骨が散見される。
同時に、秋緒がこのような場所を選んだのも、ある意味"らしい"と思う。
彼女と河口湖に何らかの縁があるのか、特に聞いた記憶がないし、今となってはもう分からないが。
瑞樹は湖のほとりにまで近付いたところで、バスケットの蓋を外す。
カーネーションの花びらが赤と白の二色、籠の中で咲き乱れている。
遺骨がないため、その分通常よりも多く詰め込んでいた。
一気に込み上げてくる多数の思い出と感情を、瑞樹は一言に集約して呟く。
「先生……」
感謝と償いを込めて、生涯そう呼び続けてもいいでしょうか。
僕に力をくれて、戦い方を教えてくれて、ありがとうございます。
そして、僕は正直、後悔しています。
あの時の言いつけを無視して、一度だけでも母と呼ぶべきだったのではなかったのかと。
でも、僕は、いつも思っていましたよ。あなたのことを――




