三十六章『私の弟子になりなさい』 その2
そして、瑞樹君が九歳の時。
私達の人生を大きく変えてしまったあの事件が起こってしまった。
今更詮無いことだが、もっと早く家に着いていれば、という後悔が今も止まない。
その日も私は仕事だった。
朝から駆除に取りかかって昼間に完了、夕方にはクライアントへの報告を終え、撤収準備も済ませて帰路につきかけていた時、携帯電話が振動し始めた。
ディスプレイに表示されていた、中島瑞樹という名を思わず凝視してしまう。
この時点で全てを察知していた訳ではないが、何か特別な事情があるだろうことはすぐに理解した。
万が一の時を考慮し、兄妹の携帯電話には私の連絡先を登録しておいてもらっている。
普段、兄妹が直接私に電話をかけてくることはない。
つまり……
「どうした、何かあったのか? ……瑞樹君? 私の声が聞こえているか? 瑞樹君!」
いくら話しかけてみても、向こうからの反応はなく、沈黙だけが流れる。
「すぐ行く。待っててくれ」
これ以上言葉を継ぎ足すのは意味がないと即座に判断し、私は車を飛ばした。
この時ほど、嫌な予感が外れて欲しいと思ったことはない
幸運にも、この日の現場は中島家からほど近い距離だったため、すぐに到着することができた。
「こ、これは……!」
家を間違えたのだと、現実逃避をしそうになる。
こんなことが、あっていいはずがない。
私だけでなく、中島一家のたくさんの思い出が詰まった、これから先も増えていくはずの家が。
赤く燃え盛る炎に包まれていた。
非日常に身を置いてばかりの人生を送ってきたことが幸いし、素早く状況に適応することができた。
状況把握に努める。
周囲に人だかりはできていたが、消防車はまだ到着していなかった。
全焼するまで幾許かの猶予は残っているようだが、火勢が激しい。
恐らく瑞樹君はあの中に……
待っている時間も、逃避している暇さえない。
即断即決。私は刀だけを持ち、包囲の輪を割って中島家へと飛び込んだ。
何度も出入りしたドアを斬り倒し、侵入。
掃除の行き届いた廊下が、見慣れた家具が焼けているのが目に飛び込む。
清新で落ち着く香りが、煙と焦げ臭さに蹂躙されている。
全てが私の胸を痛ませた。
だが感覚の方は自動的かつ瞬時に厳戒態勢へ突入しており、人間の気配を探っていた。
リビングの方に、一つ。
検索結果を吟味するよりも早く、私は突入していた。
「瑞樹君……!」
リビングに広がっていたのは、酸鼻を極めた光景。
血と肉と骨と炎。
熱と異臭。
そんな、現世とは思えない地獄の中でただ一人、瑞樹君だけが呆けていた。
力なく垂れ下がった右手には、携帯電話が握られている。
口周りが汚れているが、外傷はないようだ。
それに不思議と、火傷を負っている様子が見られない。
何故、この家で、こんなことが起こっている。
夫妻共に、火に関するEFは保有していない。
私の知る限り、兄妹はまだEFを発現させていないはずだ。
いや、そんなことを詮索している暇はない。
「瑞樹君、私だ。分かるか?」
軽く揺すってみるが、反応はない。
焦点の定まらぬ目で、どこでもない虚空を眺めているだけだった。
安心した。下手に暴れられるよりはいい。
即座に気絶させるのが最善策なのは分かっていたが、この子に手を上げるなどできなかった。
周囲を見渡してみる。
リビングの出入口にはもう火の手が回りかけていたが、幸い、もう一つの退路はまだ残されていた。
彼の体を抱え、窓を開けてテラスへ出る。
「一体、何がどうなっているんだ……」
ようやく消防車が到着したらしい。
けたたましいサイレンの音を聞きながら、私の脳は最大稼働でこの惨劇の原因を考え始めていた。
事の最中、私が比較的落ち着いていられたのは、瑞樹君を助けることで手一杯だったからに過ぎない。
事件のことを推しはかる余裕もなく、激しい喪失感と悲しみは津波のように後からやってきて、全てを掻き回しながら心を破壊した。
リビングにあった、あの"残骸"は……
恥ずかしいことこの上ない話だが、葬儀の場では完全に理性を失ってしまっていた。
鬼頭さんが引っ掴んででも止めてくれなかったならば、醜態を晒すといったレベルでは済まなかっただろう。
仲間の死には慣れているはずなのに、どうしても耐えられなかった。
思い入れの強さというものは、人を狂わせてしまうものらしい。
自分には無縁と思っていたのだが。
それにしても、赤の他人である私が、あんな真似をしてしまうとは。瑞樹君に申し訳ない。
一番辛かったのは、血縁者であるあの子なのに。
三つの空の棺の前で涙も流さず、身動きも取らずにぽつりと座っているあの子の姿を見て、参列者からこんな声がちらほらと上がっていたのを覚えている。
「健気よねぇ……泣きたいだろうに、必死に堪えていて」
違う。
あれは泣くのを必死に堪えていたのではない。
心の傷を傷と、まだ完全に認識しきれていないのだ。
そして――
果たして良かったのかどうかは分からないが、私は早期に気付いてしまった。
あの子が犯人に対して、激しい復讐心を抱いていることを。
葬儀の時点で既に、その意志は固まり始めていたように思える。
虚ろな体の内側で、憎悪の炎が少しずつ勢いを増し始めたのを感じた。
一般的な価値観で考えるならば、すぐにでも止めるべきだったのだろう。
復讐をしても家族は返ってこない。
復讐など家族は望んでいない。
事件のことなど忘れ、前向きに、幸福に生きることが一番だと。
そんな気休めをしれっと吐けるのならば、世話はない。
赤の他人ながら、彼らの団欒に加えてもらった私にも、気持ちは分かる。
大切な人を理不尽に、無残にも失ってしまった苦しさと憎しみは、そう簡単に捨て去れるものではない。
私とてそうだ。
かつて、いや今も想っている人と、その妻と娘の命を無残にも奪った存在。
誰よりも早く犯人を見つけ、この手で八つ裂きにしてやろうと考えていた。
私はまだしも、あの子が犯人と疑われたら断固戦うつもりでいたが、その説は早々に消えた。
警察お抱えの人間による催眠にも近い効力のEFが、最低限ではあるものの、事の成り行きを本人から暴き出してくれた。
最低限というのは、別に仮借があったからではなく、精神的なダメージが大きすぎて、"ノイズ"が激しかったためらしい。
調査結果によると、確かに"出火原因"はあの子だった。
だが、EFの発現経緯を考慮すれば、幾ら斟酌しても足りないくらいである。
言葉にすることさえ躊躇われるような、あまりに鬼畜な所業を、あの子は受けたのだ。
瑞樹君だけを殺さなかったこと、何故彼にあのような真似をしたのかなど、不可解な点は幾つかあったが、私にはある意味どうでもいいことだった。
相手が裏社会の人間だろうと化物だろうと少女だろうと関係ない。
その辺りの調査は、警察などが勝手にやっていればいい。
しかし、私も独自に犯人を捜索してみたものの、どうしても有力な手がかりを掴むことはできなかった。
何故か、痕跡に照合する人物が存在しないのだ。
また、社長と元社員が惨殺されたということで、トライ・イージェス内では多少の混乱が起こったらしいが、鬼頭さんや剛崎君らが上手くまとめ上げたことで、早期に終息させられたと聞いた。
事件後の瑞樹君だが、すぐに精神医療施設へと連れて行くことになった。
肉体に問題はなかったが、精神の方のダメージが深刻だったためだ。
施設内の人間に、仕事を通じての知人がいたので、様々な便宜を図ってもらえたのはありがたい。
その恩恵の一つが、フランク=多嘉良という、高名なカウンセラーに診てもらえることになった点だ。
実際効果はあったようで、瑞樹君は驚くべきスピードで自己を取り戻し、かなり早期に日常生活を送れるまでになった。
時折胡散臭い雰囲気を覗かせることはあるものの、多嘉良氏には深く感謝している。
ただし、肉類が食べられなくなったという点まではどうにもならなかったが……
氏曰く、あとは本人次第らしいが、私から強要することはとてもできなかった。
しかし、彼が精神医療を受け始めた時点で、自分の中にとある欲が湧き出ていた。
この子を引き取り、護りたいという想いが。
他の誰でもない、私が護りたかったのだ。
さもしいかもしれない。身勝手かもしれない。傲慢かもしれない。
だが、本能から溢れる狂おしいほどの衝動は、どうしても抑え切れなかったのだ。
確かに雄二さんの面影を見ていたことは否定しないが、届かなかった想いを再度あの子にぶつけて解消しよう、などとは微塵も考えていなかった。
そんなことをするくらいならば、速やかな死を選ぶ。
瑞樹君には父方母方のいずれにも近い親戚がいなかった。
変異生物の大量発生によって家族を失ってしまったと聞いたことがある。
強力な結界が張られている都市部ではまずないことだが、過疎地などではしばしばこのような悲劇が起こるのが現状だ。
そのような境遇が、夫妻がこの仕事に就いたきっかけであり、また惹かれ合う一因でもあったようだ。
似た者同士は引き寄せ合う、という言葉を地で行く関係だった。
ともあれ、そのような事情があったため、あのままでは治療を終えた後、施設へ入れられる可能性があった。
もっとも、そうすることがあの子にとって最大の幸福となり得るならば、それでも構わなかった。
最終的にはあの子の意思を尊重してあげたかったからだ。
「……ぼく、秋緒さんと、いっしょにいたいです」
だからこそ、今後の身の振り方をそれとなく尋ねてみた時、直接この言葉を聞いた瞬間に、私は泣いてしまった。
初めて名前を呼んでもらった時の比ではない。
人生史上最大の幸福だったと断言できる。
あの時よりも大きくなった、でもまだ小さな体を抱きしめつつ、私は心の底から決心した。
自分の全てを賭して、この子を護っていこう。
誰にも傷付けさせなどしない。
その後も、意外と円滑に事は進行した。
かねてより中島家とは親しくさせてもらったこと、既にトライ・イージェスからは離れていること、適切な精神医療を受けさせてやれたことなど、理由は幾つか考えられる。
何より、最も大きかったのは、鬼頭さんが各方面に掛け合い、手を回してくれたことだろう。
私がそのことを知ったのは、少し経ってからだった。
自分のような人間が子どもを引き取る訳にはいかない、その代わりだと前置きし、
「あいつの息子を、これ以上不幸にはさせたくないからな。俺なりにやれることをやっただけだ」
と、言っていた。
あの人らしい気のかけ方だと思った。
瑞樹君との同居が始まるにあたり、改めて認識させられることがあった。
嬉しさなど容易く地中深くに沈むほどの重圧。
そうだ。この時から私は背負うことになったのだ。かけがえのない一つの大きな生命を。
分かっている。
既に百や二百ではとても足りないほど自問を繰り返してきた命題だ。
内から問いがやってくるその度、私はこう言い返す。
「覚悟はできている」
同居前、墓前であの人達へ誓った言葉に、一切の偽りはない。
「見守っていて欲しいとは言いません。私があの子を護り育てることを、どうか許して下さい。代わりに私の全てを、惜しみなくあの子に捧げます」
一応、剛崎君や鬼頭さん達も出来るだけ顔を出したりと、協力はしてくれるらしいが、仕事はしばらく休業しよう。
学校の勉強も教えられる。
友達作りは上手いからそんなに心配はいらないだろうが、遊び相手にもなってあげよう。
スポーツやゲーム類は苦手、というかほとんどやったことがないが。
とにかく、少しでも長く、あの子と一緒に過ごしてあげたかった。
蓄えは充分にあるから問題はない。
しっかりと、あの子が立ち上がれるようになるまで、私が寄り添っていよう。
実際に同居が始まってから、生活面で苦労させられることはなかった。
以前からの付き合いで分かっていたことだが、彼は極めて手のかからない子どもだったのだ。
むしろ遠慮しすぎないよう、私の方から言ったほどである。
自分に構わず仕事を再開して欲しい、とまで言われたが、流石にすぐは聞き入れられなかった。
それでも前倒しで仕事は再開したが。
その代わり、瑞樹君のためにしてあげられること、喜ぶことが一つあった。
「良ければ、私が戦い方を教えよう」
悲願に手を貸すことだ。
彼の復讐心が日に日に増して強くなっていたことも、部屋の中に武器を秘蔵していたことにも気付いていた。
これまでは敢えて見ないふりをしてきたが、そろそろ限界だと感じていた。
このままでは遠からず独りで復讐に向かってしまうだろうし、下手をしたら力を暴走させてしまう可能性もある。
ならば今の内から体術の手ほどきや、自分で力をコントロールできる術を教えておいた方が安全だと考えたのだ。
瑞樹君は、喜んだ。どんな贈り物を受け取った時よりも。
それが私には少し悲しかった。
ただ同時に、隠していた復讐心を打ち明けてもくれて、その点は嬉しかった。
彼が言うには、犯人は決して自分を殺さないし、体に重傷を負わせるつもりも、もう精神を壊す真似をするつもりもないらしい。
信憑性に疑問が残ったが、とりあえず信じてみることにした。
嫌われるのが怖くて仕方なかった以上、その時は信じるしかなかったのだ。
そして、ようやく私達は関係を本格的に決定付けることになる。
「これからキミは、私の弟子になるんだ」
「弟子?」
「一応、知識や技能を伝授する間柄になる訳だからな。ああ、だからといって、別にこれまでと関係が変わったりはしないから、安心しなさい」
決して居丈高に振る舞いたかった訳ではない。
いい機会と思い、単に私の中で一線を引いておきたかっただけに過ぎない。
ましてや、母と呼ばせる訳にはいかなかった。
この子にとっての母親は、中島加奈恵ただ一人なのだから。
胎も痛めていない、乳も与えていない自分がそう呼ばれるなど、おこがましいことこの上ない。
だが、この子が望む全てを、私は惜しみなく与えよう。
例えどんなものであろうとだ。
彼の願いが叶うならば、彼から嫌われなければ、それでいい。
歪でみっともないが、それが私にできる、最大の恩返しでもある。
「分かりました、師匠」
「師匠というのは少々堅苦しすぎるな……剛崎君にも何か言われそうだ」
「それなら、先生っていうのはどうですか?」
「先生か……それならいいかもしれんな」
第二希望としては妥当だと思った。
「……それでは瑞樹君、改めて」
「はい、先生」
「私の弟子になりなさい」




