三十五章『ニルヴァーナ』 その2
ビルに突入した秋緒と剛崎を最初に出迎えたのは、カイゼル髭が特徴的な中年の男だった。
「お待ちしておりました」
「敵か!」
素早く戦闘態勢を取った二人を見て、
「戦うつもりはございません。お二方の道案内をと思い、こうして推参致しました」
カイゼル男は両手を上げ、自身の意思と目的を示した。
「あんたは?」
「中島瑞樹様、柚本知歌様のお世話をしておりました、血守会の者です」
二人の名を耳にして、秋緒の顔が険しくなる。
カイゼル男は、漏れ出る殺気を肌に感じながら、
「私などがこのようなことを申し上げる資格などありませんが……心中お察し致します。全てが終わりましたら私も投降し、然るべき罰を受けましょう。ですがせめて、中島様の下へ向かわれるまでは、矛を収めて頂けないでしょうか」
沈痛な面持ちのまま、深く頭を垂れた。
秋緒と剛崎、どちらの目にも、偽りを言っているようには映らなかった。
それだけの真摯なオーラが、カイゼル男から出ていたのである。
「血守会でのあんたの立場は分からないが、どうして今更そんな申し出を」
しかし、一応言わずにはいられない。
剛崎が代表して疑問を尋ねる。
「申し出たのは蒙昧ゆえ、遅れたのは惰弱ゆえでございます」
「もういい。行くぞ」
これ以上の問答は時間が惜しいとばかりに、秋緒が割って入った。
「かしこまりました。それではこちらへ」
カイゼル男は踵を返し、二人を導き始めた。
一見、何の変哲もないオフィスビルだが、案の定あちこちに夥しい数の罠が仕掛けられていたらしい。
カイゼル男の案内がなければ、突破に少なからず時間を取られてしまっていただろう。
特定の箇所を踏まないよう移動したり、わざと遠回りしたり、暗証番号を入力したり、面倒な手順を切歯扼腕する思いでクリアしつつ、唯一何も罠がないというエレベーターに乗り、三人は一気に屋上を目指す。
普通のエレベーターのはずなのに、上昇速度がやけに遅く感じられた。
秋緒は苛立ちを紛らわせるため、得意ではない会話を切り出す。
「瑞樹君は無事なのか?」
「生命反応はあります」
答えたのはカイゼル男ではなく、剛崎だった。
彼は今も通信機を通じて、五相から情報を得ていたのである。
「柚本知歌は?」
「……亡くなられました」
絞り出すように、カイゼル男が答えた。
秋緒の表情が曇る。
知歌と実際に過ごした時間はわずかだったが、色々な意味で終生忘れ得ぬであろうほど濃密な体験だった。
でも、不思議と、嫌いになれない娘だった。
それどころか、親近感さえ……
過日の思い出に意識が向きかけた時、エレベーターが屋上に到着したことを示すチャイムが鳴る。
扉が完全に開くよりも先に、秋緒が外へ飛び出す。
「瑞樹君ッ!」
「先輩! まだ罠があるかも……!」
「いえ、屋上には何もありません。ご安心下さい。それよりも剛崎様。下の階に血守会の主要構成員・阿元団十郎がおります。今は意識を断っておりますが、念の為、確保をお願いしてもよろしいでしょうか」
「私からも頼む。行ってくれ。ここは……」
立ち止まっていた秋緒が、背を向けたまま言う。
「了解です。皆まで言いなさんな」
剛崎は明るい声を作って応え、カイゼル男と共に再び下階へ降りていった。
彼の応答とほぼ同時に、前方に見える黒い揺らめきへと、秋緒は駆け出していた。
込み上げてくるものを必死に抑え、我が身を顧みず、髪を揺らし、走る。
見えた。
いた!
剛崎の言った通り、まだ無事なようだ。
不思議なことに、まだ身体までは焼けていない。その点にだけは安堵する。
しかし、これは……
自己嫌悪、悔恨、無力感、失敗、無価値、自責――
炎が生み出す熱の中に、激しい感情が入り混じっているのが肌へ伝わってくる。
ただ、暴走と呼ぶには、あまりに静かな炎だった。
かつてのように嵐となって広範囲に吹き荒れるでもなく、今は瑞樹を養分として樹木のように高くそびえ、揺蕩っているだけだ。
否定という概念しかない闇の中で蹲る彼の姿は、世界の全てに怯えている赤ん坊のようであった。
「帰ろう」
それが、秋緒の第一声だった。
しかし、反応はない。
秋緒は優しく微笑み、柔らかな声色で、もう一度繰り返す。
「一緒に帰ろう」
「…………いやだ」
久しぶりに聴く瑞樹の声は、消え入りそうに儚く、弱々しかった。
「どうして?」
「独りでいたいから…………僕のそばにいる人は、みんな……死んでしまうから」
瑞樹は顔を上げず、途切れ途切れに言葉を発していく。
「そんなことはない」
断言しつつ、秋緒は瑞樹の近くにある白いシーツへ目をやった。
哀しいくらいに、黒い炎と鮮やかなコントラストを演出している。
恐らくあの下には……
シーツをめくって確認すると、果たして予想通りの人物がいた。
惨いことを。顔に悲しみの色を滲ませ、シーツを元に戻す。
ただ、瑞樹がやっていないことは確定的になった。
彼女の姿を見るに、炎が原因とは思えない。
それに意図は不明だが、シーツの脇に獣の胴体のような、毛に覆われた肉塊が転がっており、手口に共通項が見られる。
犯人はこれをやった人物と同一だろう。
そもそも、シーツが全く炎の影響を受けていない。
定めたものだけを燃やす。こんな所まで、あの人とそっくりだ。
秋緒は不意に襲ってきた、どうしようもない切なさと共に、思い出さずにはいられなくなる。
「瑞樹君……」
幻影は振り払ったものの、自然と声が震えてしまっていた。
「もう心配することはないんだ。血守会も、奥平久志も既に倒れた。キミは、一番大切な人を、青野さんを守り抜いたんだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。私が今まで一度でも、キミに嘘をついたことがあるか? さあ、顔だけでも見せてくれないか」
長い沈黙が流れる。
秋緒は両膝をつき、辛抱強く待ち続けた。
少なくともこうしている間は、瑞樹が身を焦がす心配はないため、焦ることはない。
「…………せん、せい」
精神がほとんど麻痺してしまったにも関わらず、瑞樹が反応したのは、長い時間をかけて積み重ねた信頼関係の賜物だった。
やがて、瑞樹は、叱られることに怯える子どものようにこわごわと顔を上げた。
火傷は見られなかったが、涙も枯れるほどにひどく憔悴が進んでいた。
秋緒は顔がくしゃくしゃに歪みそうになるのを堪え、無理矢理に笑顔を作ってみせる。
「お帰り。こうして顔を合わせるのも、随分と久しぶりに感じるな」
「先生……」
「食事は取れていたか? 寝床は快適だったか? やはり住み慣れた我が家が一番ではないか?」
瑞樹を包む漆黒が、一際濃くなった。
「僕は、知歌を、死なせてしまいました。僕の力が、足りなかったばかりに」
「違う。キミの責任ではない。全ての元凶は奥平達だ」
「ですが」
「これ以上自分を責めなくていいんだ。むしろ責を負うべきは私の方だ。あの時完全に血守会を滅ぼせていれば……何より、キミがずっと苦しんでいたというのに、救い出してやれなかった。柚本さんのことも……許してくれ」
語りかけている内に、段々と秋緒の方にも、胸に不甲斐なさが込み上げてきた。
「キミを責める者は誰もいないし、責めさせもしない。今度こそ私が絶対に守り抜く。信じて欲しい」
「……僕は、死神なんですよ?」
「そんなことはない! キミは青野さんを護った! 結界を破壊しなかった! 私と一緒に多くの人の為に戦って安全を護った! 横浜で幼い兄妹を護った! 八柱霊園で妹の魂を救った! ……そして、何よりキミは、私を救ってくれた! 戦う機械だった私に、命を与えてくれたんだ! だから…………死神だなんて……言わないでくれ」
これ以上は駄目だった。
秋緒の細い目から、大粒の涙が零れ落ちる。
手の甲に落ちた先から、滴がすぐに蒸発していく。
「……でも、知歌は」
「彼女の魂は、救われている」
秋緒は、傍のシーツを少しだけめくる。
そこにあったのは、知歌の安らかな顔だった。
汗や涙で落ちかけた濃いメイクの下に覗く、愛嬌のあるやや幼げな素顔は、あらゆる苦痛や煩悩から解き放たれたかのよう――そう言っても過言ではなかった。
「何があったか聞いていない以上、今の私にはまだ分からない。だが、この顔を見れば、彼女が救われたことだけは分かる」
「あ、あああ……!」
慟哭。
砂漠のように乾いていた瑞樹に、再び涙が戻った。
秋緒が、それと知歌が、彼に救いという名の潤いの水を与えたのだ。
質量差でいえばまるで不釣り合いであったが、そのわずかな水分は、黒い炎を消し去るのに多大なる効果を発揮した。
徐々に萎み、色素も薄まっていく。
「キミは彼女さえ救ってみせたんだ。死神などと、誰が言うものか」
「本当、ですか?」
「キミは、救世主だ」
炎が、消失した。
直後、ふっと瑞樹の全身から力が抜ける。
秋緒は素早く抱き留めた。
確かな体温、重み、鼓動と共に、微かな呼吸音が耳元で繰り返し聞こえてくる。
「良かった……良かった……」
強く、瑞樹を抱きしめる。
誰かに見られていたとしても構わない。
やっと血守会の魔の手から取り戻すことができた。
涙や喜びが次から次に湧いてきて止まらないのだ。
「少し重くなったか? いや、元が痩せ気味だったから、別に構わないのだが……」
自然と、いつもは重たくなりがちな口も軽くなる。
「そうだ、聞いてくれ。先日、青野さんと話をしたんだ。これまでの非礼をちゃんと謝ったんだぞ。どうだ、立派だろう」
眠っている瑞樹からの反応はないが、構わずに話しかけ続ける。
どのみち、彼が目を覚まして落ち着いたら、もう一度言うつもりだったので別にいいと思っていた。
「だから、これからは彼女をどんどん家に呼ぶといい。三人で食事をしたり、沢山話をしよう。……幸せになるんだ。そのための障害は、私が全て取り除いてみせる」
死者数:四,九二五、負傷者数:一〇,二八七、行方不明:五六。
後に世界史上最悪のテロ事件と呼ばれる、第二次山手線結界襲撃テロ事件は、十月一日午後四時二分をもって一旦の終息を見た。
だが、記録に残らない部分でも傷付き、倒れた人間も確実に存在していることを忘れてはならない。
そして、別の世界でも――
「……火が、消えた」
円城寺沙織は、突然の世界の変貌に、流石に戸惑いを隠し切れなかった。
無理からぬ話である。
何をやっても、何度呼びかけても変わらなかった、全てを覆い尽くしていた黒色の灼熱地獄が、再び元の白みがかった淡い空間、穏やかな静寂へと戻ったのだから。
理由はすぐに理解できた。
瑞樹君の先生さんが"外"から呼びかけた結果だ。
沙織は嫉妬心を微塵も抱くことなく、純粋に黒い炎の消失を喜び、秋緒に深く感謝した。
ただ一つ、瑞樹の姿までもがこの空間からいなくなってしまったことは残念だったが。
「瑞樹君が助かって良かった……それにしてもお父さんったら、どうしてこんな酷いことするかな。一歩間違ってたら、瑞樹君が死んじゃってたじゃない」
「呼んだかね、我が娘よ」
背後からの声に、沙織は心臓を口から吐き出しそうなほど驚いた。
彼女の実父が音もなく、突として現れたのだ。
「お父さん!?」
「おお、愛しの我が娘よ! 久しいな! しばらく見ぬ内に美しく成長したものだ! 父は嬉しいぞ!」
白いスーツの男は、気が触れたような笑みをいっぱいに浮かべ、甲高い声色でまくし立てる。
沙織は驚きこそしたが、別段懐かしさを感じたりはしなかった。
「血守会首魁・衆寺壊円、未だ魂は滅びず!」
「やめてよお父さん。本名は円城寺吉喜でしょ?」
「それを言うな我が娘よ」
円城寺吉喜は、表情を変えないまま指摘した。
「そんなことはどうでもいいの。お父さん、どうして私の大好きな瑞樹君をあんなに追い詰めたの!?」
「おお、怒るな娘よ、許しておくれ。決して彼個人に恨みはないのだが、我らが魂の慰みのため、どうしても必要だったのだ」
大仰な身振りで弁解するが、沙織にとっては実に下らないことにしか聞こえない。
「かねてより同志・奥平に助力を乞い続けていたが、彼はもはや使い物にならなくなってしまった。真に痛恨の極みである……しかし!」
「まだ瑞樹君を苦しめるつもり? いくらお父さんでも、私、許さないよ」
眉根を寄せ、珍しく怒りを露わにした沙織を見て、円城寺吉喜は千切れんばかりに首を左右へ振った。
「いや、もう中島瑞樹君はいい! 私は考え直した、やはり復讐すべきは瀬戸秋緒! 彼女を苦しませ、死を与えてこそ、我らが無念は晴れるというもの!」
「キリがないじゃない。それで先生さんを殺したら、今度はトライ・イージェスの他の社員を殺す、なんて言い出すんでしょう? 意味ないよ」
「いいや意味も意義もある! あらゆる強い想いのために血を流すことこそ、ヒトの最も尊い行為! 中でも復讐という念はとても美しい……愛するもののために憎しみを燃やす! 相反する思いが混ざり合う! これはもう、一つの宇宙だ! 私も個としてのみではなく、散っていった同志たちのため、復讐の炎を再び熱く燃え上がらせようではないか!」
「……こんなお父さんのために、敵討ちなんかするんじゃなかったな」
沙織はつくづく呆れ、ぽつりと呟いた。
円城寺吉喜の方はというと、もはや娘の存在など目に入らないといった風に、
「クククク……まだまだ終わらせんよ! 幽世にて研鑽を続け掘り出した我が情動力、その最奥に眠っていた一度きりの秘術、とくと見るがいい……!」
真剣に狂っていた。
「こ、これは……どうなってるんだ!」
阿元団十郎を確保し、再びビルの屋上へ戻った剛崎とカイゼル男が目にしたものは、意識を失い床に伏す瑞樹の姿だけだった。
傍にいるはずの、瀬戸秋緒の姿は、どこにも見えなかった。