四章『東京湾と夕闇の狭間で会いましょう』 その2
「殺してやる……貴様には償う間も与えない! 死ねッ!」
長距離トラックをも優に飲み込める特大の炎が沙織を包み、公園の闇を煌々と照らし貫く。
常人であれば、一瞬にして灰と化している火力。
だが、瑞樹が十年以上もの長い間、仇として狙い続けていた女は、常人という枠に到底収まりきるものではない。
沙織を包んでいる炎は衰えることなく燃え続けている。
しかし一向に内部を蝕む様子が見えない。
瑞樹は異変を感じ取る。
沙織は既に、人から姿を変えていた。
タンパク質が異常なほど硬化した長い黒髪が地面につくほど伸び、彼女の全身を隈なく覆う外殻となっていた。
瑞樹は舌打ちし、懐からナイフを抜いて接近する。
刃からはバーナーのような勢いで火が出ている。
少しでも亀裂を入れられれば――
突然、沙織を包んでいた炎が吹き飛ばされる。
髪の殻が剥がれた勢いのためである。
沙織は笑っていた。
殻であった髪は次に触手と変わり、瑞樹を捕えに伸びかかる。
予測の範疇だ。
瑞樹は曲線的な軌道の一つ一つを読んでかわす。
体勢を整えて左手で火炎を放射。
沙織は脚の筋肉を肥大化させ、垂直に跳躍し回避。
再び髪で全身を包む外殻を形成。
怒りが瑞樹の脳細胞を絶え間なく焼いていたが、思考は冷静であった。
ここで追撃しても先程同様、防がれてしまう。
最大火力でも攻撃が通らないならば、相手の防御を潜り抜けなければならない。
(結局、いつも通りの展開か!)
せっかく多嘉良に会った直後だったのに。
瑞樹は歯噛みする。
自分の弱さに腹が立つ。
皮肉な話だが、瑞樹がそう感じるほど、能力の威力は上がった。
すなわち、炎はより強く、熱く燃え盛る。
瑞樹はひとまず全身に火炎を纏い、様子を窺う。
沙織は漆黒の空高くから、既に落下を始めている。
何かを仕掛けてきそうな様子はない。
が、油断はできない。
変幻自在。神出鬼没。予測不能。
沙織を言い表す言葉である。
沙織はそのまま、地面に激突した。
鈍い音が立ち、土や草が巻き上がる。
瑞樹は咄嗟に後ろへ飛びずさった。
「正解」
瑞樹が立っていた辺りの地面を突き破って、細長い何かが芽吹いた。
沙織の五本指だった。
落下点から瑞樹がいた足下まで、地面を掘って伸び進み、地上へと方向転換させたのである。
「四年前はこの手に引っかかって、抱きしめさせてくれたのに。ちゃんと成長してるね」
伸ばした指をズルズルと縮ませながら、沙織は嬉しそうに言った。
「その手に乗るか」
瑞樹はナイフを持ったまま突進、沙織との距離を詰める。
直後、もう片手の五本指が瑞樹の退避地点から生えた。
「あれ、これも読まれてた?」
沙織は少々意外といった顔を見せる。
瑞樹は接近しながら、沙織の動向に注意を払う。
その気になれば脚でも同様の芸当ができるはずだ。
怪しげな挙動が見えれば即座に回避する。
しかし沙織は無防備だった。
伸ばした指を戻そうとしているだけで、棒立ちになっている。
恐らく何かを企んでいるのだろう。骨を変形させて体外へ出してくるかもしれないし、わざと体を切り離し、肉片を投げつけてくるかもしれない。
過去のデータを思い出しながら、瑞樹はナイフを投げつけた。
投擲用に作られていないのでくるくると回転してしまうが、代わりに火の車輪となって沙織の顔面へと飛来する。
「面白いなぁ、どうするつもりなのかなぁ」
沙織は避けようともしなかった。
左頬に柄が当たり、ジュッと音がして、白い肌の一部に赤い爛れができる。
痛みに顔を歪めるどころか、笑っていた。
唇の端を不自然なほど裂いて。
投げつけたナイフに沙織が目をやり、注意を向けていた時点で、瑞樹は次の行動に移っていた。
ナイフの効果や行方などどうでもいい。
ナイフは囮。
本命は――
「!?」
沙織が空けた地面の穴から流し込んだ炎だ。
ナイフが地面に落ちると同時に、沙織の足元から炎の蕾が現れた。
沙織が認識するよりも早く開花し、花弁を広げて下半身を包み込んだ。
沙織は顔を硬直させ、突然焼かれ始めた下部を凝視している。
どんな生物とて、無防備状態で焼かれれば、隙が生じる。
ダメージの程度は不明だったが、致命傷にはなっていないようだ。
それでも構わない。
本命が行かないならば大穴だ。
瑞樹は即興作戦の、最後の追い込みにかかっていた。
腰から引き抜いていた二本目のナイフを、沙織の胸の間に突き立てにかかる。
とにかく刺さればいい。そうすれば、後は炎を流し込み、体内から焼き尽くすことができる。
彼ができうる限りの最速の突きは、沙織の服の繊維を、皮膚を破り、肉の中へめり込んでいく。
憎き仇、人間離れした化物とはいえ、他人を直接刺すのは初めてだった。
精神的な抵抗感はない。
感触も別に気持ち悪くない。
思っていたよりも柔らかく感じた。
果物を刺した方がよほど固い。
様々な感想が浮かぶ中、瑞樹は炎を流し込もうとした。
が、そこまでだった。
「バ、バカな……」
瑞樹は驚愕の表情を浮かべる。
炎が、出ない。
それどころか、沙織の下半身を焼いていた炎も、急速に勢いが衰えていた。
どうなっている。
何故炎が消えていく。
それに何故、目の前が暗くなっていく。
体が重くなっていく。動かない。
「惜しかったねー。あと少しだったのに」
沙織の声が上から降りかかってくる。
それをきっかけに、いつの間にか背中に鈍い痛みが貼り付いていることに気付く。
「私もね、こっそりペットを仕込んでたの。気付かなかったでしょ?」
意識を失う直前、瑞樹が見たのは、爪が剥がれてなくなっていた左手薬指だった。
「瑞樹くん、人を刺したんだって?」
「……ああ、刺したよ」
「どんな感じだった? 固かった? 柔らかかった?」
「柔らかかったよ」
「じゃあ、わたしのお肉も柔らかいのかな? 確かめてくれる?」
「無理だよ。だって君は、僕の彼女じゃないか」
「だからだよ。愛してるから刺してほしいの。刺したあと、お肉を焼いて食べてほしいな」
「嫌だよ。僕は肉が食べられないんだ」
「分かってる。私のせいで、食べられなくなったんだよね」
「……ああそうだ、お前のせいで、僕は肉を受け付けなくなったんだ」
「きっと、それは錯覚だよ。食べられないって思い込んでるだけだよ」
「そんな訳あるか」
「ううん、勝手に限界を決めているだけだと思う。だから、私を殺すこともできない」
私を殺すこともできない。
殺せない。
いいや、殺せる。
殺してやる。
殺意は暗闇を切り裂いて、黒い空と水面、何十何百もの人工的な光点を映し出した。
続いて、固く冷たいコンクリートと、温かく柔らかいものにもたれている感触を知覚する。
風は潮の香りを含んでいて、吹き付けるたび、誰かの黒い髪が瑞樹の頬をくすぐる。
ほっそりとした両腕が、背中から生えているように前に伸び、手が鳩尾の辺りで交差している。
「目が覚めた?」
囁くような透明な声が、至近距離で瑞樹の鼓膜を揺らす。
瑞樹の全身を巡る血液が逆流した。
やっと状況を理解する。
意識を失ってから今に至るまで、沙織に背中から抱かれていたのである。
「――ッ! 貴様ッ!」
瞬間的に込み上げた嫌悪感が炎を生み出し、瑞樹の体を覆う。
「起きたばかりなのに元気だね」
のんびりと沙織が言う。
焼かれることをものともせず、そのままの体勢で瑞樹を強く抱きしめた。
どういう原理か、肉体が損傷したそばから再生し、ダメージにならない。
先程投げられた、ナイフによって頬にできていた火傷も、既に跡形もなく消えていた。
「は、離せ! 離せ、化物ッ!」
瑞樹は手足をばたつかせ、束縛から逃れようともがくが、びくともしない。
やがて肉の焼ける不愉快な臭いの方に耐えられなくなり、能力による抵抗を諦めた。
荒い呼吸で肩を上下させ、手負いの獣のような目で沙織の手の辺りを睨んでいる。
左手薬指の爪も再生していた。
「可愛い寝顔もいいけど、やっぱり今みたいな顔が一番素敵。食べちゃいたい……耳だけでも……ううん、ダメダメ、そんなことをしたら……」
独り言をブツブツと呟く沙織。
瑞樹の脳裏におぞましい想像が浮かぶ。
意識を失っていた間、何か変なことをされなかっただろうか。
途端に背筋が寒くなる。
「大丈夫、眠ってる間、何もしてないから」
瑞樹の考えを見透かしたように、沙織は笑って言った。
「そんなことをしたら、瑞樹君の彼女が悲しんじゃうものね」
「き、貴様、もし彼女に――」
「心配しなくても、もう誰も瑞樹君の周りの人を殺したりしないよ。もっとも、私のことを憎んでくれなくなったら分からないけど」
瑞樹は目の奥が熱くなるのを感じる。
視界が歪む。
舌がマグマになって、唇から漏れそうだ。
名前だけではなく、栞の存在すら、この女の口から出されることが、この上なく不愉快だった。
右手で腰を探るがナイフはなく、先程抜いてしまったことを思い出して更に不快が募る。
「それにね、私が一番求めてるのは、瑞樹君の体や心じゃなくて、魂なの。何年か前にも話したよね、覚えてるかな? 私は、瑞樹君の魂と繋がりたい。触れ合いたい。それだけでいいの。だから瑞樹君があの子と付き合ってても構わないし、体や心もあげていいかなって」
「な……何を!」
訳の分からないことを。
瑞樹はそう言おうとしたが、感情と思考の混迷のあまり呂律が回らず、言語の体をなさなかった。
それでも沙織には通じていたようで、
「ちょっと難しかったかな。うん、でもいいか」
一人納得したように、微笑んで頷いた。
「……さて、名残惜しいけど、そろそろお邪魔虫がやってくる頃だし、今回のデートはここまでにしましょう。瑞樹君も、私が関係ない人を殺すところなんか見たくないでしょ?」
その言葉の意味するところは充分理解できたので、瑞樹は、沙織が抱くのをやめて立ち上がる様を妨害したり、攻撃することはできなかった。
「ナイフはここから少し左に二本とも置いておいたから、あとで回収しておいてね」
沙織の指差した方を見ると、数メートル先のコンクリートの上に、小さな黒っぽい物体があるのが見えた。
「あと背中の傷だけど、後遺症は残らないから安心して。私の爪から産んだ、安眠効果抜群の"薄紅貝"。今度機会があったら、ゆっくり紹介してあげるね」
一際強い海風が吹き、沙織の髪をかき乱した。
「ま、待て――」
「求めてくれるのは嬉しいけど、いったんさよならだよ。また会おうね、瑞樹君。愛美ちゃんにもよろしくね」
沙織は手を振った後、コンクリートを蹴って飛んだ。
方向は内ではなく外。
高い放物線を描き、何十メートルもの先の、黒く濁って波立つ東京湾へあっという間に吸い込まれて消えた。
瑞樹はしばし呆然と眺めていたが、その後一向に浮かび上がる気配はない。
逃げられてしまった。
いいようにあしらわれ、あまつさえ意識を奪われ、体を預けてしまうという失態まで重ねて。
屈辱という言葉では足りない。
背中の痛みが既になくなっていたことも拍車をかける。
惨めだった。
圧倒的な無力感が瑞樹に重くのしかかって、しばらくの間その場を一歩も動けなかった。