序章『復讐を課そう』
復讐心を抱いて産まれてくる人間など、この世には存在しない。
何かに復讐したいという感情や対象は、後天的に与えられるものだからだ。
中島瑞樹も例に漏れず、後天的に復讐心を植え付けられた一人である。
九歳の時、家族を殺されたことがきっかけで、犯人に激しい復讐心を抱くようになった。
家族の惨殺と怒りが即座に直結した訳ではない。ごく普通の少年として育ってきた九歳の少年の精神力は、そこまで強靭にはできていなかった。
最初は非現実的な光景を認識することから始まった。
事件当時、瑞樹は自宅二階にある自分の部屋で机に向かっていた。学校の宿題を終わらせるためである。
瑞樹は成績優秀な部類に入る児童であり、この日の宿題も何ら難しく感じるところはなく、すらすらと問題を解いていく。
さほどの時間もかからずに全ての計算問題を解き終え、プリントとノート、教科書を鞄にしまうと、瑞樹は椅子から立ち上がった。
机上の脇に置いた四角い電子時計に目をやる。
午後六時四十五分。そろそろ夕食ができあがり、母親が自分を呼びに来るはずである。
今日は父親も既に帰ってきているので、家族揃っての食事だ。
おまけにおかずは好物の、母親の手作りハンバーグ。瑞樹のテンションは自ずと高まっていく。
何か手伝えることはないかと思い、瑞樹は母親に呼ばれるよりも早く部屋を出た。
階段を降り、廊下を左に曲がろうとしたところで、瑞樹は立ち止まる。
おかしい、と思った。
廊下の向こうにはリビングと、隣接しているキッチンがある。灯りはついており、柔らかい光が廊下へ漏れているのが見える。
いつもと変わらない、見慣れた廊下だったが、やけに静かだった。家族の話し声も、料理の音も聞こえない。
そして、音がない代わりに、妙な臭いが奥から漂ってきていた。
今まで嗅いだことのないような臭いだったが、体が受け付けない類のものであるのはすぐ分かった。
瑞樹の全身に緊張が走る。心臓の鼓動がピッチを早め、体中から冷たい汗が滲み出てくる。
(まさか、変異生物が家に……)
嫌な想像が浮かぶが、瑞樹は即座に打ち消す。
家にはきちんと変異生物除けの結界が張ってあるし、父さんもいる。
父さんは有名な民間防衛会社の社長を務めていて、変異生物だけではなく、時には犯罪者をも相手にしてきた人だ。もし、万が一、侵入者が現れたとしても、ちゃんと撃退してくれているはず。
瑞樹は自分自身に言い聞かせるよう、両手に握り拳を作り、何度も強く頷いて、震える足を叱咤して恐る恐る前へ進めていく。
この家に生まれてから今日に至るまで、何百往復もしてきた短い廊下が、この時は未知の獣道のように感じられた。
一歩一歩が重い。まぎれもなく恐怖のせいだ。
それを自覚しながらも、瑞樹は足を止めなかった。
『強くありなさい』
父からよく聞かされた言葉が原動力となっていた。
そのシンプルな一言の意味するところは、状況によって異なっていた。
ある時は、いじめられている妹を守るため。
ある時は、男として生まれた性を強調するため。
ある時は、父親と同じ道を進むため。
そして今この時は――自分の弱さに負けないため。
最後の数歩は叩き付けるような足音を鳴らして、瑞樹はリビングへと辿り着いた。
見慣れた安らぎの場所には、あるはずのないものが広がっていた。
膨大な量の、やけに鮮やかな色をしたミートソースが、リビングからキッチンへ盛大にぶちまけられている。
モスグリーンのソファも、ダークブラウンのテーブルも、ベージュのラグマットも、テレビも、壁も、観葉植物も、キッチンテーブルもカウンターも、シンクの辺りも、冷蔵庫も、何もかもがぐちゃぐちゃに汚されていた。
むせ返るほどの異様な生臭さと相まって、瑞樹の思考能力は一瞬にして混乱をきたしてしまった。
(ああ、昨日お母さんが掃除したばかりなのに。こんなに汚したらお母さんが悲しんでしまう。そもそも今日はハンバーグじゃなかったっけ。どうしてミートソースが? あれ、お母さんは? お父さんは? 愛美は? あとなんでミートソースからミートソースじゃない臭いが――)
そこまでだった。
言葉ではなく、もんじゃ焼きにも似た流動体が口から吐き出される。
中身を出し切っても胃が暴れる感覚は中々収まらず、瑞樹は苦悶する。
そこに、少女の声が降りかかった。
「大丈夫?」
瑞樹は体を硬直させた。
何故、家の中なのに、知らない声が聞こえてくるのだろう。
それでも、恐る恐る、涙と鼻水と胃液に濡れた顔を上げ、声のした方へ目を向けた。
キッチン横、冷蔵庫のそばに立っていたのは、少女だった。
歳は瑞樹よりも四、五歳ほど上だろうか。
長い黒髪と色白の肌のコントラストが印象的で、部屋を覆う赤色とも映えて見える。
きれいな人だと思った。
きれいだからこそ、余計に不気味に思えた。
風邪を引いた時よりも更に強い悪寒が瑞樹の体を頭から足先へと走る。
「こんばんは、中島瑞樹君」
少女は柔らかな微笑みを浮かべ、もう一度瑞樹に声をかけた。
混濁したものを一切感じさせない、透明な声。
それが瑞樹にはかえって、この上なく不吉な音として聞こえた。
ほんの一瞬、逃げ出してしまいたいという考えが瑞樹の頭をよぎる。
『強くある』という誓いも、家族のことも忘失するほど強烈な欲求だったが、その更に上から被さる恐怖によって完全に呪縛されていた瑞樹は、震えたまま少女を見つめていることしかできなかった。
何でもいいから、声を出したかった。
だが、舌がもつれ、上下の歯がガチガチと当たって鳴るだけで、一音たりとも言葉を紡げない。
「おなか、空いてるよね。ちょっと待っててね、もうすぐ用意ができるから」
少女が口にした言葉は、母親が言うべき台詞を模倣しているかのようだった。
その言葉をスイッチとして、視覚と嗅覚にばかり集中していた瑞樹の感覚に、聴覚も加えられていく。
ジュー、ジューと、何かの焼ける音がフェードインしてきた。油を引いたフライパンの上で肉を焼いている音だとすぐ分かった。
「もう少しでできるからね。瑞樹君の好きなハンバーグ。そこで待ってて」
そう言いながら、少女はフライパンの前へと行き、料理を再開し始めた。
とはいえ今のコンロは食材や調理法を指定入力すれば、コンロ自体に内蔵されたコンピュータが火加減などを自動調節して、適切な焼き加減を制御して完成させてくれる。
母親は「手料理の甲斐がなくなっちゃう」なんて愚痴をこぼしながらも、ちゃっかりと利用していたことを、瑞樹は覚えていた。
しばしの間、少女は独り言をぶつぶつ言いながら悪戦苦闘していた。
瑞樹の体は動かないままだった。
そういう力を使われているのではないかと考えたが、確かめる術がない。
思考の方は、ほんのわずかずつではあるが、復旧しつつあった。
とは言っても浮かんでくるのは、恐怖と、この先待っているであろう絶望的な未来ばかりだった。
何故目の前の少女はハンバーグを作って、自分に食べさせようとしているのか。
自分も――最終的にはこの部屋の汚れの一部に、なってしまうのだろうか。
分からない。怖い。
「これからのことは、食べながら話そうか」
瑞樹の頭の中を覗いたかのように、少女が話しかけてきた。
これからのこととは、一体何なのだろうか。分からない。
だが望ましいとは言えない展開であろうことはうっすらと感じ取っていた。
甲高い電子音が鳴る。コンロが自動調理を終えたことを知らせる音だ。
少女はフライパンの中身を皿の上に盛り付け、瑞樹の方を振り返った。
「できたよ。今持っていくね」
少女は右手で皿を持ち、瑞樹の方へ近付いてきた。
足下のぬかるみに怯んで立ち止まってくれればという、ありもしない期待を瑞樹は抱いたが、やや粘っこい水音を踏んで鳴らしても、ほっそりとした足が止まることはなかった。
それどころか、わざと音を立てて歩いているのではないかと思うほど、リビングへやけにはっきり響く。
この時瑞樹は初めて、少女がエプロンを身に着けていたことに気付いた。
母親がよく着けていた、真っ白だったエプロンを、白を基調とした服の上に着ている。
しかしエプロンはあちこちが血で汚れ、ボロボロに裂け、ただの布切れとなってしまっていた。
「付け合わせはないけど、一応塩コショウは振っておいたから。生の方しか味見してないけど……きっと大丈夫だよね、うん」
少し申し訳なさそうに笑った少女の唇は、真っ赤だった。
口紅やケチャップによるものではないことは、幼い瑞樹にもすぐに分かった。
続いて瑞樹の視線が、皿の上に注がれ、釘付けになる。
真っ白な皿の上に乗っている肉の塊は、色も形も、全くハンバーグの体をなしていなかった。
まるで挽肉ではないものを強引に挽肉にし、そもそも血抜きすら行われていないものを混ぜてこね回し焼いた、ただの――
そこまで理解した時、瑞樹は再び、胃袋ごと飛び出すような勢いで嘔吐した。
一回目とは比較にならない、内容物が鼻や目からも出てきそうなほどの苦痛だった。
「え、ちょっと瑞樹君、大丈夫?」
えずきが一向に治まらずに蹲る瑞樹の前に、少女がしゃがみこんだ。
背中に、優しくさすられる感触が伝わる。
瑞樹が顔を上げるまで、それは続けられた。
「……な……なんで……」
何に対してそう問いかけたのか。瑞樹自身にも分からない。
言葉がただ勝手に、嗚咽混じりに口をついたのである。
「大丈夫、怖くないよ」
それでも、少女には何らかの意図として通じたらしい。皿を床に置いて、赤子をあやすような声色で、瑞樹の縮こまった体を包み込むように抱きしめた。
少女の体は温かかく、柔らかかった。普通の人間と何ら変わったところはない。
それなのに寒さも、怖さも、一向に収まらない。
振りほどきたいのに、まだ体が動かない。
あれほど普段から強くあろうとしていたのに、いざ本当の恐怖に直面すればこんなものなのか。
瑞樹は段々と自分の弱さが腹立たしいとすら感じてきたが、現在心を占めている恐怖と比較すればまだ大海の一滴のようなものだった。
「本当に大丈夫だよ、瑞樹君を殺したりはしないから」
繊細なガラス細工に触れるかのような強さで瑞樹を抱いたまま、少女は言った。
瑞樹の震えが一瞬止まった。
その後、のろのろと顔だけが上がり、少女と目が合う。
瑞樹は、わずかに笑っていた。
安堵してしまったのだ。
『自分だけは殺されずに済む』ということに。
客観的に見れば何の保証もない口約束に過ぎないのだが、幼い瑞樹にとってはその言葉が、突然突き落とされた地獄の淵にあって、上から垂らされた一本の蜘蛛の糸に等しかった。
そのような感情が、作り笑いという行為となって現れたのである。
少女は透き通るような瞳で瑞樹を見つめ返し、柔らかく微笑みかける。
「やっと笑ってくれたね。嬉しい? ねえ、嬉しい?」
「……うん、うれ……しい」
数年ぶりに声を出したかのように、瑞樹の声は弱々しくかすれていた。
「そう」
少女は大きな目を細め、瑞樹から体を離した。
「でも、嬉しいだけじゃダメだよ」
少女の手が、床に置かれた皿に伸びる。
そして、瑞樹の眼前へと差し出された。
不出来なハンバーグを至近距離で見たことで、瑞樹の作り笑いが凍り付いた。
目を閉じることも、息を止めることもできない。
避けるよりも早く、激しいというのも憚られるほど目と鼻が刺激され、既に空になっている胃を三度逆流させた。
今度は少女が背中をさすったり、抱きしめたりすることはなかった。
代わりにすくい上げるように、瑞樹の顎へ左手の指をかけて持ち上げた。
白く細い指先を胃液が伝って濡れるが、気にした様子はない。
「はい、お口を開けて」
少女の声色や表情、顎に添えられている手に、有無を言わさぬ迫力や強制力があったわけではない。
むしろ母が子に食べさせるような慈しみが込められていた。
「あーん」
禍々しいほど真っ赤な唇が上下に広がる。
瑞樹はその奥にあるピンク色の洞窟に、全身が吸い込まれる錯覚を覚えた。
いや、むしろ本当にそうなった方がまだ良かったのかもしれない。
「はい、あーんして」
走って飛び出したい。
現実逃避したい。
いっそのこと狂ってしまいたい。
忘れてしまいたい。
様々な願望が駆け巡るが、瑞樹の本能はそれらのいずれでもなく、恐怖に基づいた現状維持を選んだ。
口元をきつく閉じ、震えるほどの微細さで首を横に動かし続け、拒絶の意を示すだけであった。
「……そう、私の言うこと、聞けないんだ。食べてくれないんだ」
少女は目を閉じ、瑞樹の顎にかけていた手をゆっくりと下ろす。
瑞樹は体をビクっとさせた。
怒らせてしまったのだろうか。
怒らせたら、何をされるのだろうか。
無理矢理ハンバーグを口に押し込まれるのだろうか。
いいや、もしかして、殺され――
最悪の結末を明確に想像したことがきっかけで、瑞樹の全身から力が抜けた。
口元と下半身の二か所から同時に液体が流れ出ていく。
「それでいいの。偉いね、瑞樹君」
呆けたようにぽかんと開いた瑞樹の口元の方だけを見て、少女は微笑んだ。
目の前にいるのは何なんだろう。
人間?
ヒトの形をした怪物?
どちらにせよ、夢ならさめてほしい。瑞樹はきつく目をつぶった。
そこで一旦、瑞樹の記憶は途切れていた。
突きつけられたハンバーグの次に繋がる記憶は、ひどく断片的なものだった。
自分だけしかいないリビング。
燃える家具。
家族。
暖色の視界。
抱えられて助け出される。
時系列は曖昧だったが、目を閉じれば今でも克明にそれぞれのワンシーンを思い出せる。
映像だけではなく、音声として残っている記憶もあった。
「私のこと、憎いでしょう? 殺したいでしょう? 家族のかたきを討ちたいでしょう?」
「凄い……こんな激しい力、はじめて見たかも! さすがだよ瑞樹君!」
「その力で、私をもっと憎んで。私を殺して」
「ああ……幸せ」
「これからは毎年一回、瑞樹君に会いに行くからね。地球のどこに行っても必ず会えるから心配しないで。私と瑞樹君、二人きりのデートだよ」
「私は絶対に瑞樹君を殺さないけど、瑞樹君は私を本気で殺しに来てね。何年かかっても構わないよ。復讐される日を、私はずっと待ってるから」
最後の一言は、ことさら強く、瑞樹の潜在意識に刻み込まれていた。
「愛してるよ、瑞樹君」