朝霧ノ姫
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朝霧の姫
江戸時代中期、越前の城下町にお市という娘がいた。 歳の頃は十四、痩せた体軀に、黒髪を無造作に結っていた。街外れの小さな村の出であるが、家は貧しく、口減らしにと街の宿屋に住み込みで働く身であった。仕事は早朝から深夜まで及ぶ。師走の凍てつく水に、洗い物をする手はひび割れ、血が滲むことも珍しくなかった。
さて、その日もお市が忙しなく給仕をしていると、夕刻を過ぎて、若者が宿を求めてやってきた。名は伊蔵。行商人で、工芸品などを街から街へと売り歩いているという。早速、部屋へと案内した。伊蔵は、その精悍な顔とは裏腹に口振りは柔らかかった。お市がお茶を入れに部屋に行った時には、遠く離れた京の都や江戸での話、山賊に襲われそうになった話なども聞かせてくれた。越前の城下町しか知らないお市にとっては、そのどれもが新鮮だった。次の朝、旅立つ間際、伊蔵は世話になったと言い、置き土産をお市に手渡した。それは、飴色に光る備前産の鼈甲櫛であった。伊蔵は笠を被ると、また寄ると言い残して宿に背を向けた。
その日以来、お市はその櫛で髪を梳くようになった。早朝、朝霧の中、宿を抜けだし、笹川の川面に我が身を写す。飴色の櫛で髪を梳くと、黒髪は美しく艶を帯びるようになり、日々の辛い労働にも堪えられる気がした。夜更け床に入る前には、 櫛を一頻り眺めてから、戸棚の奥にそっと閉まった。
伊蔵がまた姿を表したのは、翌年の秋も深まった頃である。顔は一層逞しくなり、大人の風貌を備えていた。伊蔵は様々な土産話しを聞かせる。お市は夢中になって耳を傾けた。次の朝、宿を出る時分、伊蔵はまた土産物を差出した。漆塗りの小さな化粧箱である。伊蔵は身支度を整えると、また寄ると言い残して去っていった。
その日以来、お市は早朝の笹川の川辺りで、腰を屈めて化粧を施すようになった。唇に一線、口紅を挿すと、澄んだ川面に紅色が浮かぶ。川のせせらぎに耳をすませているだけで、日々の寂しさも乗り越えられる気がした。
さて、冬が去り、梅の咲く季節になる頃、街には俄に噂が立ち始めた。朝霧の刻、笹川の畔に、それは美しい天女が現れるというのである。何時しか人々はその天女を朝霧ノ姫と呼ぶようになった。噂は、波紋が環を広げるように、次第に街中へと広まっていった。
朝霧の姫は街の関心事となった。そして、街の有力者が幾人もその姫を妻に娶ろうと躍起になった。
やがて夏を過ぎ、風が涼むようになった日暮れ、戸を叩く音にお市は席を立った。上がり框を急々と降り、扉を開ける。と、お市は息を飲んだ。またもや伊蔵が現れたのである。さっそく部屋へと招き入れた。しかし、その日の伊蔵はいつもと違っていた。お茶を差し出すお市の手を取ると、婚姻の申し入れをしたのである。あまりに突然のことに、お市は言葉を失った。茶の湯気がくゆりながら天井へ昇っていく。静寂が二人を包んでいた。やがて蠟燭の灯りが燃え尽きるかという頃、お市は、膝の上で握っていた手をふっと緩めた。そして俯いたまま、こくりと頷いた。
次の朝、宿を出る間際、伊蔵はお市に風呂敷を手渡した。仕事を終えたらすぐ迎えに来る、そう言い残して 宿を出て行った。部屋まで戻り、風呂敷を紐解いた瞬間、お市は眼を見開いた。眩いばかりの白無垢と、その上には金色のカンザシが輝いていたのである。
数日後の日暮れ、店の扉が鳴った。お市は早足に向かい、引き戸を開ける。その手が細かく震えた。屈強な男達が入り口を塞いでいたのである。そなたが、朝霧ノ姫とやらか。旦那さまがそなたをお妃にと申されておる。光栄な話であろう。そなたの父には話をしてある故、今すぐの屋敷へ来るように。言うが早いか、男達は宿の主人に荷物を纏めさせ、お市を駕籠に押し込んだ。
屋敷に着き、長い廊下を通される。大広間では、若旦那がお市を待ち構えていた。顔は膨よかで 浅黒く、右目の上には刀傷がある。若旦那は、お市の顔を見るなり眼を細め、満足そうに微笑んだ。さあ、朝霧ノ姫とやら、準備ができ次第婚姻の儀を執り行う故、今夜は奥の間で休むように。そう言って脇息に肘をついた。 お市は動転していた。奥の間の隅で縮こまる。己の不運に、風呂敷を抱えたまま、只々、眼を腫らして咽び泣く他なかった。
丑の刻になり、降り始めた雨は勢いを増した。雨音が辺りを覆うようになった頃、障子に黒い人影が動いた。そして、その戸が音もなくゆっくりと開く。お市は思わず手で口を覆った。紛れも無く、伊蔵である。雨に濡れそぼり、顎から滴が滴り落ちている。その瞳がこちらを真っ直ぐに射抜く。伊蔵は、無言のまま、目配せをした。お市は瞬きもせず、伊蔵を見つめたまま、ゆっくりと頷く。そして風呂敷を胸に抱くと、伊蔵について大雨の闇へと飛び出した。
庭を横切り、使用人用の小さな出入口を潜り出る。屋敷の前の道を一目散に走り、唐桑桶屋の門を過ぎる。道角で後ろを振り返ると、屋敷の灯りが煌々と灯った。正面の門から黒い人影が飛び出してくるのが見えた。
土砂降りの雨に道は泥濘み、お市は何度も足を取られた。その度、伊蔵はお市を抱き起こし、手を引いてまた走りだす。しかし、近づく黒影の集団は次第に大きくなる。終に、見つけたぞ、叫ぶ声が背後に響いた。
橋の袂で、伊蔵は立ち止まった。そして、悟ったかのようにお市に振り返った。一瞬、血走った眼でお市を見つめ、行け、一言そう叫んだ。言うが速いか、伊蔵は腰から刀を抜き、鞘を川に投げ捨てた。鳴り始めた雷鳴に刃を振り翳すと、黒影に敢然と突っ込んでいく。
怒号が辺りに響く。黒影が一人、二人と倒れていく。稲妻が、血に染まる地面を照らした。 と、その瞬間、血飛沫をあげる伊蔵の影が雷光に仰け反った。影は地面へと崩折れていく。雷鳴がお市の叫声を 掻き消した。追っ手は此方へと向かってくる。お市は咄嗟に濡風呂敷を紐解き、カンザシを掴んだ。白無垢を胸に抱いて、欄干に脚を掛ける。伊蔵の名を天に叫ぶと、次の瞬間、お市はカンザシを胸に突き刺し、欄干から飛んだ。白無垢が宙に舞い、稲妻に光りはためく。雷鳴が辺りを劈いた。それも束の間、お市は飛沫をあげて川に落ちると、水嵩の増した濁流に飲まれて、消えた。
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