蚊・カレー・彼・彼女 (僕は一八歳)
そうですね。
今日は部活が昼までだったから、おそらく午後一時くらいだろう。初夏の通学路は晴れあがっているのにムシムシする。汗がやばい、早く家に帰って麦茶の一杯でも飲みたい。もう出始めた蚊が耳の周りでブンブンとうるさい。
「チクショー、消えろ。蚊!」
まるで駄々をこねるみたいに両腕を振り回して呟く。出歩く人もそんなに多くない。僕と蚊しか世界にいないみたいだ。ええい、また蚊だ。
「おかえり。」
挨拶をしたのが隣のおばあさんだと気づいて驚き、あわててこんにちは、と言う。ただいま、じゃない。僕はおばあさんの家には帰らない。 「ようやく家だな。」
おばあさんの家とは隣だけあってすごく近いけど、僕が帰るのはやっぱり僕の家だ。うちの家はアパートだ。古いしボロい。でも二階建て。当然僕だけの家じゃない。他の人も多数住んでいる。
「こんにちは。」
その隣人に今度は僕からあいさつした。返事はない。二十代頃の男。印象に残りづらい顔。上下黒めの服。何をして働いているのかわからない。当然、話したこともない。だからあいさつが帰ってこないのも日常茶飯事だったが、今日みたいな蒸し暑い日にはさすがにいらいらさせられる。文句の一つでもいってやろうか、あいさつは万国共通のマナーだぞ…
振り向くともう男はいなかった。おばあさんはいた。歩くの遅いな。蚊は相変わらず僕の頭のまわりをブンブンと飛びまわり、
「うるせえ!」
おばあさんが驚いた。
家に入り、早速麦茶でのどを潤した。一息つくと、机の上にメモがある。
「大ちゃんへ 親せきの人の葬儀に行ってきます。急なことだったので、大ちゃんは連れて行けません。ごめんね。今日中には帰ってこれないかも。冷蔵庫には、カレーをいっぱい作って冷やしてあるので、それを食べてね。ごはんは自分で炊いてね。何か食べたかったら冷蔵庫の中にいろいろあるから、どうにかしてね。大ちゃんは料理が上手だから、できるよね?じゃあ、行ってきまーす。父・母」
大ちゃんって呼ぶな。僕はもう一八歳だ。もうちょっとで立派な大人だ。だが僕の両親にとっては、いつまでたっても僕は「大介」じゃなくて「大ちゃん」なんだということだろう。それが家族か。とりあえず、僕がカレーが好きっていうのは家族くらいしか知らない。そこはありがたく思う。
「やっぱカレーはうめえな~」
家に一人だからいろいろと解放感がある。窓を開け放して、制服脱ぎっぱなしで今、僕はシャツとトランクスだけだ。ワイドショーはのんきに遊園地のロケなど伝えていた。あのウォータースライダーはさすがにまだ冷たいだろ。そんな中、スプーンの上のカレーはなによりもホットだ。きつめのスパイスがまた僕に汗をかかせる。やっぱりカレーは辛いな。息も荒くなる。するとそれを嗅ぎつけて蚊がやってくるのだ。僕は、カレーを味わいながら蚊がこの世に存在する理由を考えるのに忙しい。カレーを食べるか、それとも蚊を食い殺してやるか。
そんなことを考えていると、隣からドアの開く音が聞こえた。あの不詳の男だ。土日でもだいたいずっと家にいるみたいだ。ホント怪しいなあいつ。僕は、年上でも怪しい男に敬意は払わない。それに家族の間でも、あの男はとんと評判が悪いのだ。とばっちりだろうけど。
「…ですよー、でそいつがー、」
壁を隔てて若い女の声。脳裏は一瞬で疑問符の海になった。まさかカノジョ?ありえねえ、あんな男が?嘘だろ、だって不詳だしだらしなさそうだし、そもそも友達すらいるのかよ、と少し失礼な考えが浮かんだ。でも特に興味もないし、不詳の男は不詳のままでいい。日常に少しくらいミステリーがあってもいい。たとえば隣のあいつのカノジョとか。特に変わりなくカレーを食べ進めるが、心なしかもったりとしてスプーンにからむ。これは厄介だ、心して目の前のカレーにかからねば。
「…ぅあっ!」
一気にカレーの味がわからなくなる。なんで?隣からの声が艶めかしくなった。スプーンを置いて立ち上がる。水を飲み干した。のどはそんなに渇いていないが、今は水よりコップがほしい。不詳の部屋に面している壁にコップを当てた。まるで心臓の音が聞こえるみたいだ。静まり返ったガラスのコップの底面に耳を当ててみると、冷たい。
「やぁッ…そこは、だめェ…」
さっきより声に混じる吐息が増している。息が荒くなっている。初夏の薄暗い部屋で汗やその他のものが床に飛び散ってできたシミさえ見えそうだ。くっそ、頭が混乱する。これはあれだろうか?不詳の男とその何らかの関係にある女性がお楽しみになっているのだろうか?プレジャーしているのだろうか?情熱の契りを交わしているのだろうか?気持ちいいのだろうか?
「せっ…セックスだ。これ…」
思わず言葉が漏れた。こんなことが?実際にあるって?意味がわからない。心臓が早鐘を打つ。身体がどんどん熱くなる。息も荒い。
(もしかして僕興奮している?)
そうだ。僕には経験はないけど、それがとてもアダルティなものだと感覚でわかる。ものすごいものなんじゃないだろうか。幼いころはこの世に存在しないかのように遠ざけられていた世界。大きくなるにつれて、友達の顔つきが変わっていき、そのしぐさ、笑い方、ため息ににじみ出るなんとなく湿り気を帯びた世界。それはなんだ。放課後の教室だ。それはなんだ。少しの間の雨宿りだ。それはなんだ。体育祭のハイタッチだ。わずかに浮かぶあの世界だ。そんなことが今、隣の不詳で展開されているとしたら、それはすごく蒸し暑い、んじゃないだろうか。こうしている間にも、声達はどんどんうねりを増して、僕も興奮を抑えきれない。気づかないうちに前屈みになっていた。そうでもしないとパッションがあふれてつらい。見える、見える、あの不詳の男が乙女を蹂躙する様が。朝露の草花たちに這い回る熊蜂が。震える吐息で愛をささやく様が。布団なのだろうか、ベッドなのだろうかというどうでもいいことも気になって瞬き一つできない。脈がはっきりと捉えられる。散らかった心はある意味どこまでも静かに一つのイメージを描いていた。蒸し暑い初夏だった。
非日常の破局はあっけなく訪れた。艶声は確かに聞こえてくるのだが、時折それにタイミングをずらして低い吐息のようなものが聞こえる。違和感が僕の耳を張り詰めさせた。人間の耳の優れているところは、立体的に音を捉えられるということだ。湿った声、乾いた吐息、それぞれの発せられた方向は異なるように聞こえる。すると脳は先ほどまでと比べて嫌になるほど冷静に、一つの像を結んだ。
テレビから流れる声とその前に座る男の吐き出す息。答えはこれだ。思わずコップを取り落とす。喉のところがなんだかけいれんしているみたいだ。
「ヒィ…ヒヒヒィ…ヒッ…」
もう耐えきれない。顔がコメディらしく歪む。これはいうまでもなく笑いだった。まさかまさか、あの艶事、情熱の発露は一人遊びであったと。そしてそれを行うは不詳の男なりと。あらゆる事象が掛けがねのように繋がって脳の笑いをつかさどる部分をガンガン揺さぶる。ああ、なんだ。緊張はゴム紐のようにパチンと消えた。今わかる、わかる、隣の男がよくわかる。それ、僕もよくやる。わかる。わかる。一人は寂しいよな!アハハ、所詮男はオトコノコだったのさ。こいつは傑作だよ。僕は文字通り腹を抱えて畳の上でよじくれていた。どうかこの笑い声を隣の男まで届けてほしい。君と僕は仲間だと。生き物の楔でつながれた同族だと。とめどない笑いの渦が、僕と不詳の男の心の垣根を取っ払っていった…
ひとしきり笑って、なんだか寂しくなり、コップを拾い上げると、カレーを途中のままにしていたことを思い出した。食卓へ駆け戻ると、さっきのあの蚊がカレーに絡め取られて死んでいて、それをまわりのカレーごとよけた。僕は結局蚊を食べず、代わりにカレーを食べた。
そうでした。