メランコリック・ゴースト・ガール
この回の執筆者は雪端 裄弘さんです。
いつもの部室。
俺は俺よりも優秀である朝倉と菅原よりも先に小説を書き終えたことを誇らしく思いながら、岬と流星のページを捲っていた。
なんとぼっちで。あれ、視界が霞むわ……。花粉かな? 今年は多いって言ってたしね。うん。
「本は良いね。心を潤してくれる」
とかなんとか呟きながら独り寂しさを紛らわせている。
これがまた意外と辛い。もうラプソディ呼ぼうかなとか思い始めていた。ひとりよりもふたりの方が精神的に安定する。
川見部長は先日の一件で高井良先生その他諸々と一緒に校長室だ。どうやら塗料が備品や校舎自体に染み込んでしまったようで、校長は怒り心頭とのことだった。
まぁ、川見部長のことはこの際どうでもいい。
まさかふたりとも終えていないとは思ってもみなかった。少なくとも朝倉は終えていそうだったんだが……。でもふたりでいてもやることないな。あ、議論ぐらいはできるか。
それにしても岬と流星のページが一向に減っていかない。借りてからもう何日か経っているというのに半分にも到達していない。
自分では結構呼んでいるつもりなのだけれど、活字離れし過ぎたのが痛いか。たまにゲシュタルト崩壊しかけることがある。しかし内容が少し面白いと思えるから続けられている。あのジョンが飼い主の為に身を捧げたシーンが最高だね。今のところ。ちょっとほろりときたわ。
俺がお茶を飲もうと机に置いておいたペットボトルに手を伸ばしかけた瞬間、なにやら騒がしい足音が外から聞こえてきた。小さい靴音であるからロリ体形の奴だろう。おい俺はまだ三回手を叩いていないよロリぃ委員長?
刹那、勢いよく扉が開け放たれた。
「ちょっと、どうかした――」
「――…………」
俺はこんな菅原を見たことはなかった。
見るからに普段運動していなさそうな彼女が肩を上下に震わせ、苦しそうに呼吸を繰り返し、怯えた瞳をこちらに向けている。まるでこの世のものとは思えない、『怪異』的ななにかを見てしまったかのようだ。
「ぁ……」
なにかを言いたげだが、声が声になっていない。ここまで疲弊するほど全力疾走して来たのかこの引き籠りは……!
今にも倒れそうな彼女に肩を貸して椅子に座らせる。炭酸ジュースの入った未開封のペットボトルのキャップを勢いよく捻ると、菅原へと差し出す。汗ばんだ手が俺の手からペットボトルを持っていった。
一度保健室に連れていきたい気持ちはやまやまだが、今はこれが最良だろう。
時折咳き込みながらもジュースを飲み込んだ菅原は少し元気になったようだ。
「どうした? なにがあった!?」
「ゆ……」
「ゆ?」
「ゆう……れい……」
「は? ゆうれい? 幽霊ってあれか? ゴーストか?」
問いに弱弱しいながらも確固とした頷きを返してくる。
幽霊?
菅原は幽霊を見てここまで全力疾走してきたということか。
正直言って、俺は彼女が正気なのか疑っていた。なにせ生まれてからこのかた幽霊とかそういう類の心霊系統にはあまり好かれていないようで――好かれても困るが――遭遇したことがない。だから幽霊はいないと思っているし、もしいるのなら会ってみたい。
菅原は普通棟を調査に行っていたはずだ。だからこの棟のどこかで彼女は幽霊らしきものに遭遇したのだ。
「どこでそれを見たんだ? 教えてほしい」
普段は表情を出さないクールな女の子だというのに、俺の発言には驚きを隠せないようで首を横に振った。
行くなと言っているのか。そこまで怖いだなんて、逆に興味が出てくるじゃないか。
なんとしても聞き出したいものだ。
「教えてくれ菅原! 俺にできることはないかもしれないが、これ以上被害者を出す前に手を打てるなら打ちたいんだ!」
「…………」
臭すぎただろうか。
こういうときは臭くてかっこつけた発言が功を奏することが多いのだが、わざとらしすぎただろうか。
菅原が少し瞳を閉じて考えると、口を開いた。
「一階の、今は倉庫になってる教室……」
「あそこか」
日当りの悪い隅にあるその教室は完全に孤立した教室として有名である。
何年か前は使われていたと聞くが、少子化に伴い倉庫としてしか使われていない。
確かにそんな教室だ。幽霊が出そうな雰囲気を醸し出している。
行くのは少し気が引けたが、このとき俺はもう既にスリルという麻薬にどっぷり浸かってしまっていたんだと思う。俺の意思は自然と行く方向に固まっていた。
俺は菅原を保健室へ連れて行ったあと、例の倉庫と化している教室へと向かった。
保健室とは真逆の方向にあり、そこへは一本の通路で繋がっているから誰でも簡単に訪れることができるけれど、その怪しい雰囲気により誰も近づこうとはしない。
肌寒い通路を歩いていく。外からはグラウンドを疾走する体育会系や、自主練に励む吹奏楽部の喧噪が聞こえてくる。心もとない今では外から聞こえてくる喧噪が唯一の心の支えになりつつあった。
一歩、また一歩と進んでいくうちに、段々と寒気がしてくる。悪寒がする。
関わらない方が良いモノと関わってしまうのではないか、と今更ながらに疑惑の教室へ行くことを後悔した。
だがここで逃げては男が廃る。つまらない意地に任せて俺は進んでいく。
「……マジかー……!」
とうとう扉の目の前まで来てしまった。
今から帰るっていうのはダメだろうか。帰りたい。てか軽く泣きそうなんだけど。
嘆息混じりに取手に手を掛けようとすると気が付いた。古びた南京錠ががっちりと扉を封じていたのだ。
内心、本気でラッキーと思った。菅原には悪いが、ここは帰らせてもらおう。
でも鍵がしっかり掛かっているのか疑わしく思えて、引きかけた手をまた前進させる。取手を握って横に引くと、
――ぱきん。
「げ」
泣きたいくらいに気持ちの良い音を鳴らして粉々に散っていった南京錠を見て、俺は立ち尽くした。
神様は本当になんで恐怖なんて感情を人間に備え付けたのかなー……あ、でもそれだと繁栄しないか。恐怖して競争して築き上げられたのが現在だ。今更文句は言えん。
あ、開いたってことはあれか?俺に入れって言ってんのか。
「しょうがないかー!」
覚悟を決める。
もし変なモノを見てしまったとしても見なかったことにすれば良いではないか。そのまま忘却の海へまっしぐらすればいいだけのことじゃないか。
「ええい、ままよ!」
と、唱えて思いっきりの勢いで扉を開いた。
瞬間、吹いたのは生温い風。まるでそれは意志を持つかのように俺を舐め回す。
完全に関わってはいけないものに関わってしまっている。さっさとこの場から逃げ出したいのはやまやまだが、この際菅原が見た幽霊とやらをこの目にしたい。
俺は教室へと足を踏み入れた。
意外と教室の中は綺麗になっている。
レールが壊れ、カーテンが窓辺に落っこちているため日が差し込み明るい。
見渡してみると、ここは倉庫として使われている教室というより、いつかの日に時間が止まってしまった風景を見ているようだ。
椅子が机の上に上げられ、水が干からびた水槽の中には小魚の骨があり、黒板にはチョークで楽しげな絵が描かれている。まるで廃校となった学校の一部分を見ている気分だ。とても現在盛んに活動している学校の一部分とは思えない。
そもそもどうしてここはこんな風になっているのだろうか。
扉に掛けられていたボロボロの南京錠は、まるでこの教室の時間を止め、畏怖するなにかを封印しているようであった。
俺は教室の中心に立ちながら、喉に引っかかる良く分からない感情に囚われていた。
突如、隅に置かれてひん曲がっていて錆び付いた掃除ロッカーが爆音とともに開け放たれた。
「――!?」
慌ててそちらに目を向けるが、中から箒が数本出てしまっている掃除ロッカーがあるだけで、人の気配がするわけではない。
これが例の幽霊の仕業、なのかな?
上手い具合にダジャレになっているなぁ、なんてぼやきながら、俺は鼓動のバクバクといった音を聞いていた。
俺は必死に気丈な態度をとる。
すると今度はそんな俺を嘲笑うように背中に黒板消しが飛んでくる。見事に俺の背中はチョークの粉まみれになってしまった。
どうなっているのかさっぱりだ。俺は俺の冷静さに驚いていた。川見部長の狂気的研究に巻き込まれたおかげで、否、巻き込んでくれた所為でだ。
ふいにシャツの裾がくいくいっと軽く引っ張られた。
とうとうお出ましか、と思いながら視線をやると、小学生くらいの幼女がこちらを上目遣いで見詰めていた。淡い青色の浴衣を着ているが、生憎と季節外れだ。夏はまだ遠い。
菅原は意外と本物に弱いのかもしれないな。
俺が反応したことに極めて冷たい声音で幼女は言う。
「ねぇ、わたしに、気付いて……?」
そう悲しそうに言ってくるので、
「悪い、ごめんな」
「――え?」
「ん?」
予想打にしていなかった展開に不思議そうに声を上げる幼女は、目を丸くしながら俺の顔を見詰めている。なんだ、そんなに俺はイケメンか?そう思われると苦しゅうないぞよ。
「え、えっと……その……わたし、千鶴さん……。いま、あなたの隣にいるの……」
なんだなんだ。今度はメリーさんのパクリか?
この幼女は千鶴というのか。最近な名前ではないな。なんとなく昭和の感じがする。でも見た目は今時の可愛い子といった感じで、テレビに出ても障りないと思う。
「ああ居るな」
「どうして……?」
「なにが?」
あまりに冷静に返し過ぎたせいか、千鶴は自分の足を指差して首をこてっと傾げる。
彼女の指を辿っていくと、炎天下の陽炎のようにゆらゆらと揺らめく下半身。
要するに彼女は自分は人ならざる者であると言いたいようだ。
「わたし、幽霊なんだよ?」
「みたいだね」
「えっ――それだけ?他には、ない、の?」
「ん〜、初めて出逢えて感動とか?」
「…………」
遂には黙り込んでしまった。
けっして自身を幽霊と言う彼女の言う事を信じていないというわけではない。現に彼女の足は透けてゆらゆらと揺らめいている。これを信じるなというのがおかしい。
おかしいというのならば、俺もそうだ。先日の狂気的研究に付き合わされたおかげか、急な展開にもある程度ついていけるようになっている。いやはや、人間の適応能力は凄まじい。
千鶴は胸のところをぎゅっと軽く握り締めた。気恥ずかしさや不安感に表情が曇るのがわかった。
彼女は思いつめた様子で懇願した。
「あの、助けてくれませんか……?」
「君を、ってこと?悪いけど俺、霊媒師でもなんでもないから成仏は――」
あらぬ方向へと進んでいく俺に千鶴は待ったをかける。
「ち、違います!あの……わたし、ではなくて……わたしは、もう既に救われている身ですから、違う、子を……」
千鶴は少し泣きながらそう俺に頼んできた。
女の子を泣かしてはいけないとよく聞く、仕方ない。本来ならこんな役は俺がするわけではないのだろうけれど、妥協しよう。
「まずは話を聞こう。全部それからだ」
俺がそう言うと、机の上に乗っている椅子を下ろせば良いものを、千鶴はあたふたと座布団を二枚持ってきた。対座できるように少し離れて二枚置く。教室で座布団なのかよ、とツッコむところだったが、千鶴はさも当たり前のようにすっと腰を下ろしたので俺も腰を下ろした。
「まずは自己紹介でもするか」
「は、はいっ」
「俺は藍住良太だ。見ての通り普通の高校生だ」
「わ、わたしは、花頼千鶴です……見ての通り、幽霊ですっ!」
そう言って正座の脚を崩すとゆらゆらと揺らめく足を見せてくる。幽霊の証拠は足しかないのか。
早速本題へと移ろう。
「それで、千鶴が助けて欲しいって人は誰なの?」
「え、えっと、妹、です。妹の、千絵里です」
「妹?」
「はい、妹です」
「一個訊いてもいい?」
「な、なんでしょうか……?」
「誠に訊きづらいことなんだけどさ、君が死んだのって何年前のこと?」
「えっと……」
千鶴は指を折っては伸ばし折っては伸ばしを繰り返す。俺は少し不安になった。もしかしてもう彼女の妹はこの世にいない可能性が危惧されたからだ。
「だいたい、十年前ですね」
「最高だね」
十年前なら希望しかないと言っても過言ではない。不慮の事が起きていなければ、生きている。
「千絵里はもうすぐ、確実に死んでしまいます」
「どうしてそうわかるんだ?」
「わかりません。でも、感覚というか、予兆というか、予知というか、幽霊の勘と言い表しましょうか」
「ふーん、でもそういう風なの、聞いたことあるかな。死者が夢とかになってなんか言って帰っていくみたいな」
「ありますよね、そんな小話」
「それすればいいんじゃないか?」
「え?」
はてなと首をこてっと傾げる。
「千鶴もその千絵里さんの夢に出ればいいんじゃないか?」
我ながら名案だと思ったのだが、言ってからそれができれば俺なんかに頼ってこないよなと気が付いた。
案の定、千鶴は俯きながらやや低いトーンで否定する。
「無理なんです。わたしは、幽霊であると同時に、地縛霊なので……この場から離れることはできないのです」
地縛霊……その名の通り、その地に縛り付けられた霊。
地縛霊である千鶴はこの場から離れることができないが故に、千絵里のもとへと行くことができないということか。
千鶴は続ける。
「それもわたしは特殊な例で、人柱として命を捧げ、それ以来、座敷童子として生きています」
「ちょっと待て、人柱って言ったよな?」
「はい、言いました、けど、どうかしましたか?」
俺の脳裏を横切ったある仮説は、きっとこの話の根本を追ってしまうかもしれない。
もし仮に、彼女の時間が止まってしまっているとしたら。彼女の言う『十年前』が、俺達生きている身からだったら十年よりもずっと前の事象だとしたら。
十年前にこの地域で人柱という神への捧げが行われたなんて聞いたことない。完全に千鶴と俺の生きている時間が違う。
「なぁ千鶴は、いつ生まれだ?」
「昭和五年の三月九日ですが、それがなにか?」
俺は心底自分自身が呪わしくなった。
俺には彼女の願いを聞き入れてやることはできない。
半世紀以上前の少女の死を、守ってやることはできない。
まだ生きているのなら、ネットの特定厨なんかを使ってどうにかできたかもしれないが、時代を超えるなんて神の如き一手は不可能。
俺にできることなんて、真実を語ることしかできない。
「なぁ千鶴」
「どうかしましたか?」
「これは単なる俺の憶測に過ぎない。だから信憑性はかなり、ない。それでも聞いてくれるか?」
「…………はい」
俺は彼女に、俺の考えていたことすべてを話した。終始千鶴は静かに頷きながら聞いていたが、瞳は潤んでいて今にも泣き崩れてしまいそうだった。
彼女は古来の風習によって自由と時間を縛り付けられる寸前に察した、妹の死の予感を伝えられぬまま、現在に至るのだ。
きっとこの教室は俺が知っているこの学校の前の学校の教室なのではないか。千鶴が寂しくないように、思い出に浸れるように、この教室に封じ込めて、それでいて座敷童子としての力を発揮させられるようにしている。
いつの時代にも、大人のエゴは消えないということだ。
「藍住さん……」
千鶴が俺を見詰める。儚く笑っている。頬に涙がつーっと線を引いた。彼女はとても強く見えた。全てを受け入れる覚悟を持って、まるで千を旅する鶴のように、強く。
きっと彼女は俺よりも強い。
「今日は、本当に、ありがとうございました……!」
震えた声で礼を言われる。頭を深く下げられ、俺はどうしていいのか分からなくなる。
「頭を――」
「頭を上げてくれ」、そう言おうとして気が付いた。
……グスッ、ァゥ……
小さな嗚咽に気が付いた。千鶴は頭を上げることを望んではいない。このまま俺に立ち去ってもらいたいぐらいに思っているはずだ。
だから俺は、その場を静かに後にした。
◇◆◇◆
ラプソディは先に帰ってしまっいるので、ひとりぼっちの帰路につく。
校門をくぐろうとしたとき、身に覚えのある強さでシャツの裾が掴まれた。
見ると千鶴が目を腫らしてこちらを見詰めている。表情は、あまり芳しくない。
「泣いてる女の子を置いていくなんて、藍住さんはひどいです」
ぐすりと鼻を鳴らすと、千鶴は少しだけ笑ってくれる。
「悪い、なんて言えばわかんなかったんだ」
「言えないなら何もしないんですか?」
「そうだな、そうなるね」
「ひどいです……」
「何も返せない。ごもっともだよ」
「本当です、幽霊にしたら取り憑かれちゃいます」
「したんだけどな」
「それもそうですね」
と賛同すると千鶴は笑顔になる。胸を押さえて静かにお淑やかに笑う。さすがは昭和。作法の教育が徹底的だ。
「そういえば、おまえってあの教室から出られたんだな」
「そうですよ。でも、前は扉の前までだったんですけど、どこかの誰かさんが鍵を壊してくれたおかげでもう自由です。自由と言ってもこの学校からは出られないみたいですけど……」
「飽くまでも人柱は変わらないんだな」
「はい。あと座敷童子も、です」
「うむ」
俺が頷くのを見て、千鶴も真似して頷いて見せる。一瞬だけ千鶴が優子と重なった。それくらい妹みたいだった。
「また会って、くれますか?」
不安気に上目遣いで訊いてくる千鶴にドキッとする。
答えは決まっていた。
「もちろん」




