紅茶を噛む男
カチャ……
ソーサーに紅茶のカップを置き、エプロンで口を拭う。
くちゃくちゃ……
サービスに出された紅茶を口で咀嚼しながら、ラッセルは店内を見回した。
黒いオークを使ったこげ茶色の壁に、透明なガラスを透き通る光が美しい。
金の燭台に立つロウソクの淡い光は、ここが夢の中であるように感じさせる。
ガラスの向こうには灰色のビル街と、その隙間を入り組む高速道路が見えるが、その喧騒は個々までは届かない。
まるで現代生活から隔絶されたような店内の様子に、ラッセルは非常に満足した。
「……いい店だな」
「ありがとうございます」
ぽつりと零した一言に思わぬ返事。
「君は?」
「店主のパシー=パルヴァティと申します。パシーと呼んでください」
白い清潔なコック服に身を包んだ青年は、そう少し不気味な微笑みを浮かべた。
目を軽く見開いて驚きながら、紅茶を一口。
くちゃくちゃ……
「ご注文は決まりましたか?」
「ふむ……」
ラッセルはアゴをかく。
「……決めがたいな。悪いがパシー、君のおススメを頂きたい」
「ええ、わかりました。少し、お待ちくださいね」
パシーは軽く頭を下げ、店の奥に消えた。
ラッセルはまだ残りある紅茶を傾けながら、久々に落ち着いた時間を堪能する。
くちゃくちゃ……
どうやらこの店には、ラッセルの他にも客はいるようだった。
ラッセルから3つほど離れたテーブルに、女が腰掛けている。
色の濃い金髪をくくった、意志の強そうな女だ。
女は黙々と料理を口に運び、静かに拳を握り締めて味わっているようである。
「お待たせいたしました」
「おお……」
オークのテーブルにすらりと滑り込んだ皿には、美しい料理が盛り込まれていた。
瑞々しい貝には脂が浮かび、それを緑のバジルが彩る。
「美しい……それにこの輝きはなんだ……!」
殻ごと焼かれた貝、その殻は美しい虹色に輝いていた。
「表面に浮かぶ真珠の如き光沢! まるで芸術品のようだ!」
一皿に完成された、憂愁の美。
「それを、私自身が壊せねばならんとは……ぁ! パシー。貴様、なかなかに意地が悪い!」
「お褒め頂きありがとうございます」
生唾を飲み、銀のナイフとフォークを手に取る。
宝石を扱うように貝の身を切り出し、そっと口に運んだ。
「ッッッ!!!?」
「どうでしょうか?」
パシーの問いに答える余裕はなかった。
「なんだ……この味は……!」
噛み締めるほどに貝はうまみを弾き、アゴは興奮に震える。
「美しい。決して最高級というわけではないのに、これは貝のもつ可能性を最高に引き出している……!」
ラッセルの脳裏には海の姿が浮かんでいた。
白い海底の砂に潜む貝が、生き生きと躍動しているのが見える。
「この貝の一生が……! 産まれ、砂の中に生き、そして狩られ、この店でパシーに調理され命を終えるそのときがァ……っ!!」
興奮のあまり幾重も噛み砕かれ、弾力を失っていく貝は、まるでその生気を失いつつあるかのようで、とても残酷であった。
「だからだろうかっ。こんなに美味いのに、美しいのにっ……! 哀しみがっ、この身を貫いてくる……ッ!」
身を抱えるようにうずくまりそう洩らす。
ラッセルは大人げもなく涙を流していた。
今までなにも考えず咀嚼し、飲み込んできた数々の料理にも、いま感じているような一生があったことを考えると、涙が止まらなかった。
「くそッ! あのパシー、なんというヤツだ……!」
吐いたのは罵倒だったが、その意味は本当の意味での称賛であった。
店内は静かなもので、唯一響くものはラッセルの魂の言葉のみ。
「ああ、涙が止まらないじゃないかぁ……!」
残りの貝を頬張る。
一度目は感動に震えていたが、二度目はまた別のものがあった。
「ッ……! ここまで来ると、賞賛の言葉も陳腐だっ!」
涙がこぼれぬよう、天を仰ぐ。
「私は、私は……! これを表す言葉が見つからない……! これでは、まるで、まるでぇ……!」
心から迸る情感にラッセルは歯を食い縛り、
「この店がダメなようじゃないかァァァァァァッッッ!!!」
「うっっっるせぇぇぇぇぇぇェェェッッッ!!!!!!」
ラッセルの叫びを両断する怒声。
静寂の空間を引き裂いて飛来するフォークがラッセルの山高帽を貫く。
ラッセルの脳みそが衝撃に揺さぶられ、
「ぐは……ぁっ……!」
そのまま椅子を道ずれに、店内に臥した。
「……ふんっ!」
女が鼻を鳴らし、再び料理に面と向かう。
パシーも不気味な微笑を張り付けて、再び皿洗いを再開する。
斯くして、店内の平穏は守られたのである。
お読みいただき、ありがとうございました。