話数100記念 「死神と月光」
世界の最果てにあると言う、“常夜の森”。
その夜空には常に満月が輝き、その下に居る“夜の眷属”たちに力を与える。
数百年前に人類に全面戦争を仕掛けたと言う“四番目”の魔王ギルフェイネスの影響も、ここまでは及ばなかったほどの隔絶した場所である。
記録されている歴史上では最も大きいその大戦の影響も、この場所には伝わっていない。
そしてその森には、最も偉大なる魔女が住むという。
その噂を求めて、一人の男がこの森に足を踏み入れた。
「は・・・は・・。」
黒衣を纏ったその黒髪の男は、引きずるようにして左手の魔剣を持っていた。
その魔剣は瘴気と言うのも生ぬるい邪気を放っており、その周囲の空間すらも歪ませるおぞましい代物であった。
その力に当てられているのか、男の顔面蒼白で死人のような有様であった。
「その剣を手にしていて正気でいられるなんて、信じられないわ。・・・並外れた意志力ね。」
森の中を進む男に、鈴の様に響く女性の声が掛けられた。
「さっきから、こそこそとこの俺を見やがっているのはてめぇか。」
男は苦痛に苛む表情を無理やり口角を釣り上げることで、笑みを浮かべた。
「そして、こいつを知っているってことは、お前が噂の“月光の魔女”で間違いないんだな?」
「ええ。」
男の問いに、彼の前に現れた女性は頷いた。
「私は十三代目ルナティア。この世で最も権威ある魔術の徒よ。」
その女性は夜空のような幻想的な法衣を纏い、腰まで伸びる月光のような美しい金髪をしていた。
そして何より特徴的なのは、三日月のような異様でありながら見惚れるほど美麗な黄金の双眸であった。
彼女こそ、この世で最も古くからその意思を残す、最古の人類にして魔術師に他ならない。
それを認めた彼は、笑みを浮かべたのだ。
「だったら話は早い、こいつを俺に使えるようにしろ。」
彼はそう言って、緩慢な動きで左手の魔剣を彼女に突きつける。
「・・・・ふ・・。」
だが魔女ルナティアは、くすくすと笑うばかりだった。
「確かに私なら、それを使用可能にすることは可能でしょう。
しかし、勿論貴方はその魔剣のことを知っていてそういっているのですか?」
「知っているさ、最強の魔剣なんだろう? なら、この俺に相応しいってもんだ。」
「はぁ・・・」
その頭の悪い回答に、彼女は悩ましげに溜息を吐いた。
「分かっているのなら、やれ。二度は言わない。」
その仕草だけで世の男たちを魅了するだろう美しさではあるが、目の前の男には毛ほども通用しなかった。
「その魔剣―――大罪剣“カオスティックセブン”は、持ち主に人類の罪科を全て背負わせる究極の魔剣。
本来なら手に触れただけで発狂死するでしょうに・・・貴方の不幸はそれに耐えてしまえた強靭な意志力にあるのでしょうね。」
「あ゛ん!?」
心底哀れな子羊を見下ろすような視線を向けるルナティアは、男の怒りの琴線に触れるモノであった。
「いいからさっさとやれよ、それとも斬り殺されたいのかッ!!」
「ふふ・・・。」
怒鳴る男に、彼女はくすくすと笑うばかり。
「とは言ったものの、貴方の自我が魔剣に支配されて、地獄の悪鬼のようになるのも時間の問題・・・。
それを貴方は分かっていて、この私の下へ訪ねて来たのでしょう?」
彼女の双眸は、まさしくこの男程度の事情など全て頭上から見下ろす月のようにお見通しだと言っていた。
「そんな危険な物を持ち出そうとする愚か者が居るとは思いませんでしたが、安心なさい。
貴方が地獄の悪鬼と化する時、この私手ずから地獄へ還して差し上げましょう。」
「聞こえてなかったのか? 俺はこの魔剣を使えるようにしろと言ってんだ。」
「私はその魔剣を人の手には余ると言っているのです。」
殺意を向ける男に対して、彼女は柔和に笑う。
だが、その下に隠しようのない嘲りがあるのは、男の被害妄想ではない。
「殺す。」
「あはッ。」
遂に男が魔剣を振るわんとした時、堪えなきれなかったのか彼女は明確な嘲笑を彼に向けた。
だがしかし、彼の刃が彼女に到達するよりも早く、周囲が月明かりすらない完全な暗闇に閉ざされた。
「これはッ!?
詠唱無しで魔術だとッ!?」
男は驚愕した。
この時代、魔術が一般的に認知し始めた時代だ。
詠唱を省けるほどの実力者など、片手ほども居ない時代である。
ましてやここまでの大魔術を無詠唱で行使できるのは、彼女の他にあるまい。
後に『黒の君』と呼ばれるウェルベルハルクも、今はまだこの時代で一般的な魔術師の域を出なかった。
彼が閉じ込められたのは、完全な暗闇ではなかった。
周囲に無数の光源が存在し、それは夜空に輝く星々と同じものだと彼は気づいた。
「愚かな男・・・その欲を、天の川で流しなさい。」
ルナティアの声が、この空間に響いた。
その直後、この宇宙にも似た空間の果てから、見上げる程度では聞かない巨大な、そう巨大な小惑星群が無数に飛来してきたのである。
「このッ」
男は、必死に抗った。
「馬鹿な男・・・。」
その結果、男は彼女の前にひれ伏した。
無数の小惑星群に叩きつけられ、彼の黒衣はぼろ雑巾のような有様である。
だが、その瞳に殺意と闘志は消えない。
まるで手負いの獣のように、虎視眈々と彼は隙を窺っている。
「哀れな男・・・見逃してあげるから、短い余生を大事に過ごすことね。」
あのこの世の人類すべての呪詛とも言える魔剣に手を触れた彼が、長生きできるわけがない。
彼女はそう確信していたし、事実でもあった。
「殺す、殺す、殺す・・。いつか絶対、お前を殺す。」
男はそう呪詛を口から垂れ流し、這うように去っていく。
彼は引き際まで見誤るほど、愚かではなかった。
彼女は森の奥深くに帰ると、自分の支配する魔族たちに命令を下した。
その内容は、彼の監視である。
あんな危険な魔剣を、彼が倒れたところで放置するわけには行かないからだ。
元あった場所に封印し直さなければ、とルナティアは面倒臭そうな溜息を吐いたのだ。
だが、当たり前のことだがこの時、彼女はあの男を舐めていたのである。
我欲の強い愚かな男、その程度しか考えていなかったのである。
サイズと呼ばれる、生きながら死神と称されるような、人殺しの天才を。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「―――――闇に還れ、死神ッ!!」
案の定、彼は魔剣の呪詛に囚われた。
魔剣の力で暴走した彼は、皮肉にも聖剣を手にした戦友にして宿敵。
そして彼の唯一の理解者にして友とも言える人物の手によって、倒された。
「哀れで、馬鹿で、愚かな男・・・。」
彼の魂は当然のように“虚無の闇”へと送られた。
死神には、当然の末路である。
そして彼女もそこへやってきた。
別に彼女は彼に興味が有ったから、こんな所まで来たわけではない。
一緒に送られた魔剣の回収にやってきたのだ。
どれだけ危険な魔剣でも、アレは一つの受け皿だ。
世界の一部足りうるものである以上、流出はこの世のバランスを崩しかねない。
と言うわけで、彼女は魔剣を回収にしにきたのである。
虚無と言う巨大な場所に、あらゆるモノはそこに存在しえない。
無の中に存在していると言う矛盾を孕むと言う以上、そこに存在する魂は膨大な時間を掛けて消滅してしまう。
発狂するほどの苦痛の果てに。
それは肉体のある彼女とて例外ではない。
しかし、彼女は平気そうに“無”の中を闊歩していた。
そして彼の魂と魔剣を見つけ出し、手に取った。
全人類の狂気の受け皿とも言える魔剣を手にしても、狂気の象徴を司る彼女を狂い殺すに足りえない。
そこで、彼女は気づいた。
彼の魂は死んでいなかったのである。
あの魔剣の狂気に侵されてなお、この圧倒的な“無”の中に有りながら、自我を残していたのだ。
呆れるほどの、自意識である。
面白い、とルナティアは唇までも三日月の様に吊り上げた。
「まだ現世に未練があるのでしょう?
私が貴方を助けてあげる。嬉しいでしょう?」
ルナは我が子のようにその魂を撫でた。
感覚器官を持たない魂は何も答えない。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「・・ん・・・? ああ・・・?」
「あら、お目覚めかしら?」
二人は“常夜の森”の、最もよく満月が見える丘へ居た。
「俺は・・・たしか、ファスネルに・・・。」
「あらあら・・・本当にあの魔剣に意識を取り込まれていながら、自我があったなんて信じられないわ。」
地獄の底から帰還したこの男に、ルナティアは心底信じられないと言ったように首を振った。
「なんで、俺はここにいる・・?」
「私が助けてあげたのよ? わざわざ地獄の底まで言って、ね。」
「ちッ、余計な事しやがって・・・。」
わざとらしく恩着せがましく言うルナティアに、彼は吐き捨てるようにそう応じた。
「あら、あの野郎ぶち殺してやる、くらいは言いそうなのに。」
それなりに長い時間彼を監視していたルナティアは、何だか意外そうに彼に言った。
この自尊心と殺意の塊みたいな男が、敗北を認めることなんて有り得ないと思ったのだ。
「あいつに殺されるのなら、俺は納得できるさ。」
魔獣のような本性を持った男なのに、そう言う所はとことん潔かった。
そして彼が、納得して自分の死を受け入れられた最初で最後の出来事でもあった。
「礼は言わないぞ。」
「え、なんで?」
おもむろに立ち上がってさあ立ち去るぞ、みたいな調子の彼に、ルナはにやにや笑いながら小首を傾げた。
「その必要はないわ。だって今の状況を聞けば、貴方はきっとそんな気を起こさないだろうから。」
「なに?」
「貴方、今、私の下僕。」
わざわざ一言ずつ区切って、ルナティアは彼を指さしてそう言った。
「はぁ!? ふざけんなよクソアマぁ!! ぶっ殺すぞ!!」
「なら試してみればいいじゃない。」
彼女は腕を組んでにやにやと笑いながら余裕綽々の態度で彼を見据えた。
「このッ、死ねッ!!」
彼は即座に黒衣の中に仕込んであった短剣で、彼女に斬りかかった。
が、寸前で彼は急に増大した重力の前にひれ伏した。
勿論それだけでなく、必要以上な加重に彼の体はミシミシと悲鳴を上げる。
「んな!? んがあああぁぁぁ!!!!」
「ね? 私に逆らうとそうなるわけよ。」
ウインクまで決めてルナティアは彼にその現実を伝えた。
「この、殺す、・・・殺してやる、覚えておけ、俺は殺す、殺すぞ・・・絶対に殺してやる。」
「そうやって反発する姿を無理やり屈服させると言うのは、とても楽しいと思わない?」
ルナティアは、ひれ伏す男の後頭部に足を落した。
「く、~~~~~ッ!!!」
草地に頭を踏みつけられ、顔を押し付けられると言う辱め(しかも女相手に)は、彼の人生で最大限の屈辱であった。
彼の中の最大の動力源である怒りが、まるで核燃料の爆発の如く湧き上がっていた。
「勿論無理やりこうしたわけだから、特典だってあるのよ。」
彼女はそう言って彼の頭から足を離すと、あの忌まわしき呪詛の魔剣を取り出した。
「これを貴方に貸し与えましょう。
当然、私の力でこれを使えるようにもしてあげるわ。」
「・・・・本当か?」
ゆっくりと顔を上げて、男は問うた。
「ええ、本当よ。」
「分かった。お前に従う。」
当然ながら、この時彼が素直に従ったのは、魔剣を手にしたら即座に彼女を斬り捨てる為である。
尤も、そんな彼の浅はかな考えが彼女に伝わらなかったわけがないのだが。
「じゃあ、ちょっと痛いけど、我慢してね。」
そう言って、くすくすと笑うルナティアはおもむろに彼の頭に手を突っ込んだ。
「あッ、がッ、――――(文字では表現できない悲鳴)――――!!!!」
その不意打ち的な出来事に、彼は一瞬理解できなかったが、すぐに訪れたこの世のモノとは思えない激痛に獣のような悲鳴を上げた。
死に物狂いで手足を動かし抵抗するも、彼女の腕はビクともしない。
「そう言えば貴方、サイズっていうのね。偽名だそうだけど、そもそも本名が無いらしいわね。」
なんて雑談を挟みながら、ルナは冒涜的で非人間的な処置を彼に試み続ける。
「本当は痛みを切り離すんだけど、魔剣の呪詛で意識を保てる貴方には不要よね?
出産の痛みを十倍にしたぐらいの痛みだけれど、私はそんなことで殺すような不手際はしないし、狂わせるほど優しくも無いわ。」
なんてことを一方的に話しながら、その処置は丸一日以上も続いた。
「はい、終わったわ。」
「・・・ぁ・・・・が・・。」
「うーん、久しぶりだから疲れたわ。」
ルナティアは自分で肩揉みをする。びくびくと痙攣して地面に転がるサイズの姿など、眼中に入っていないようだ。
「・・・こ、・・・ろす、・・・こ・・」
そんな状態でも、サイズはぎょろぎょろと眼球を動かして、恨み募る相手を探す。
どれほどの執念があればそこまでできるのだろうか。
それを見たルナティアは、心底愉快そうに笑い声を上げるのだった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「なぁ、この俺を従わせて何になるんだ?
まさか男手が足りないなんて言わないよな?」
それから何日か経った時、サイズは彼女に問うた。
この森に済む羽目になった彼は、しかし何もすることが無かったのである。
この戦うために生まれてきたような男に、それは苦痛であった。
もう既にこの辺に済む武闘派の魔族にはあらかた喧嘩を売り、そしてぼこぼこにしてしまい、誰も近づかなくなった始末である。
「別に、特に意味は無いわよ?」
「はあ!?」
「強いて言うのなら、この辺りに魔族が済むと言う理由で周辺の国家の人間が時々討伐隊を派遣してくるわ。
その撃退をしてくれればいいわ。」
「なんでお前、魔族の味方なんてしてんだよ。」
「あはは、違うわ。私は魔族の味方なんてしていないわ。」
まあ来なさい、と言ってルナティアは歩き出す。
サイズはそれに付いていくと、やがて森の奥の満月が最も近い丘へやってきた。
その更に奥へ進むと、ソレは有った。
「こ、これは・・・!!」
サイズは驚いて、ソレを凝視した。
ソレを一言で例えるのなら、胎児である。
二メートルほどの地面から浮いて漆黒の球体に包まれたソレは、禍々しく黒く染められた人間にも見える。
だが、それを人と言える者は居ないだろう。
「なんなんだ、これは・・・」
「“魔王の卵”、と言うべきかしら?」
「魔王の・・卵だって?」
「ここは、新たに魔王が誕生する祭壇なのよ。
ここで魔王は解き放たれ、世界のどこかで成長し、人類の脅威となるのよ。」
ルナティアは唖然とするサイズにそう語った。
“魔王”が人類の脅威となるか、はたまた“無害”となるかは彼女にすら分かっていない事であった。
なにせ、“四番目”に続く“五番目”は世に姿を現さずに早くも隠遁し、目の前にあるのが“六番目”であると言う事実でさえ誰も知らないのだ。
「私の血族は元々、これを監視する役目を負う、月の巫女なのよ。
“魔王”を抑止する為に魔術の研究を、延いては“魔王”そのものへの研究をしているの。
彼らを殺すのに最も効率的な方法は、産まれた直後から覚醒までに、その息の根を止めること。
その為に私は魔王を超越するほどの力を得て、そしてその果てにある真理を会得する為にこうしてこの森に住んでいるの。」
尤も、それを一度として実現できたことは無いのだけれど、と彼女は笑う。
「つまり、俺のご主人様は人類を守る使徒様ってわけか。」
「その為に魔術の研究を許すほど、教会の懐は大きくないのだけれどね。」
あからさまに皮肉るサイズに、ルナティアはくすくすと笑う。
「もうすぐ、新たな“魔王”が出現するわ。
だって時期が迫っているもの。少なくても年内には、それはこの世を騒がせるでしょう。」
「それを退治するのが、俺の仕事ってわけか。」
「あの魔剣なら、きっと完全な魔王にも有効打を与えられるわ。
今ならどれだけ戦力が有っても足りないってことよ。」
「なるほどな。」
得心がいったと頷くサイズ。
そして次第に、彼の唇が吊り上る。
「魔王・・・そうか、魔王か。
世界に戦乱を齎せるほどの奴を相手にできると言うのなら、今の立場もまあ悪くは無いか。
良いだろう、魔王をぶっ倒すまでは、犬猫の扱いでも我慢してやる。」
「呆れた・・・魔王の力は絶大よ。矮小な人間など、塵芥に見えるほどにね。
それをぶっ倒すなんて、皮算用もいいところだわ。」
「ぶっ殺すさ、その次はお前なんだからな。」
サイズは真顔でそう言った。
そう、真面目に、真剣に、当たり前のように、それがこの世の常識だとでも言うように。
「・・・・呆れた・・。」
この男は、あそこまで徹底的に叩きのめされても、反骨の意思を屈さないというらしい。
見上げた精神力だ。彼女は危うく感心してしまう所だった。
「せっかく地獄から蘇ったんだ、黄泉路への同伴者は多い方が良い。」
そしてサイズは凶暴に笑うのである。
まさしくそれだけが、彼の存在意義とでも言うように。
「私も一緒に来てほしいなんて、寂しがり屋なのね。」
「ああ、特にお前は特別だ。嫌だと言っても無理やり連れてってやるさ。何せ俺は、死神だからな。」
くつくつと、サイズは笑う。
月明かりを受けて暗闇に佇む彼は、まさしくそう称するに相応しい禍々しさが有った。
――――――――――――――――――――――――――
あれから半年以上が経過した。
「今日もここに来ているのね。」
ルナティアは最も月が近い丘へ来ていた。
そこには、満月に向けて一心不乱に魔剣を振るうサイズがいた。
「最近は大人しいわね、流石に魔王以上に強い相手はいないもの。」
「何寝ぼけた事言ってんだ、次はお前だ。覚悟しておけよ。」
そう言いながらも、サイズの剣筋に乱れは無い。
新たに誕生した“魔王”しかし、それを討伐しに行った二人が遭遇したのは、それに便乗した“四番目”である魔王ギルフェイネスの復活である。
今や最も人類との戦いに長けた魔王との戦いは、人類二度目の総力戦の果てに終息した。
その陰には幾人もの英雄たちの活躍が有り、サイズも最終決戦で魔王ギルフェイネスと対峙したのである。
彼の暴走を止めた、戦友とその仲間たちと共に。
かくして、一つの英雄譚は終わり、伝説が残ったのである。
その折だか最中だか、ルナティアは彼に言ったのである。
自分の力の根源は月であるから、月を破壊出来たら貴方は解放されるかもね、と。
で、その結果がこれである。
「馬鹿だ馬鹿だとは思ったけれど、あんな話を真に受けるなんて、頭悪いんじゃないの?」
「おい、それは俺にチェスで一度でも勝ってから言いやがれよ。」
サイズは別に士官としての教育や戦術などに関する知識があるわけでもないのに、やたらとチェスなどの勝負ごとに滅法強いのである。
魔王の復活に合わせて近隣の国家の討伐隊がこの森の魔族を討伐に来たところ、サイズは彼女の配下である魔族を率いて軽々と連中を撃退した。
自分が一番敵を倒し、味方に殆ど損害を出さずに快勝したのである。
こう見えて、意外なことに指揮官としての才能まで持ち合わせているようである。
頭の出来に関しては、高度な属性魔術(この時代は属性魔術が一般的に普及していた)を理解して戦闘に転用し、難易度の高い転移魔術まで習得できるほどである。
この男、最終的に誰かを殺すと言う結果に至るのなら、どのようなプロセスだろうと踏破できる才能を持っているのであった。
「いや、貴方は知らないのでしょうけれど。」
ルナティアは語った。
何でも、この星には大気圏と言うものを覆うように分厚い魔力の層で覆われており、そこを通り抜けるのは非常に困難であると言うのだ。
その魔力の層は、非常に空気抵抗が強く、弾力まであって魔術で飛んで進もうとしても押し返されるほどである。
この星はそれによって宇宙からの隕石なのから守られているのだが、逆に内側から外へ出ることが非常に難しくしているのである。
「私はそれを通り抜ける術を知っているけれど、勿論教える気は無いわよ?」
「・・・・別に必要ねーよ。」
サイズはそう言ったが、それがルナには半ば強がりであることがすぐに分かった。
「一応聞いておくけど、いったいどうやって月まで行くつもりなの?」
「ふん・・・まあいい、教えてやろう。」
と、サイズはその辺に落ちている木の枝で、地面にこの星と月と思われる球体を描いた。
残念ながら彼に絵心は無いようであった。
「まず、この星からジャンプして、宇宙とやらに出る。」
「ッ・・・ふんふん、それで。」
ルナティアは大真面目に語るサイズの計画に思わず噴出しそうになったが、うんうんと涙目ながらに相槌を打つ。
彼は宇宙に空気が無いとか強烈な太陽光線とかその他諸々に関して全く考慮していないようだ。
「そんで、転移魔術を使って月の近くまで移動する。」
「で、でも・・今の転移魔術じゃ、多分最大まで距離を伸ばしてもここぐらいまでしか行けないと思うわ。」
宇宙空間での転移はサイズの空間認識能力にもよるが、限界がある。
どんなに頑張っても星と月までの航路の三分の一が精々である。
「・・・・じゃあ、ここまでジャンプする。」
サイズは少し考えて、木の枝で月までの距離の三分の一ぐらいまでの位置を示した。
「あーーーっははッ!! あはは、ははははっはっはははは!!!
苦しい・・・死ぬ、死ぬ、死んじゃう・・・アハハハハハ・・・・」
その瞬間、笑いを堪えきれなくなったルナティアがお腹を抱えて大笑いし始めた。
もう一生分くらい笑っていそうである。
「で、で、で、残りの三分の一はどうするの?」
「・・・魔剣を質量操作で伸ばして、叩き斬る。」
「あッははははははははははははは!!!!」
ルナティアはもう、可笑しさのあまりに地面を転がりまわっている。
「いひひ、ひ・・・わ、笑い死にさせる作戦なんて、考えたわね・・・。」
「俺は極めて大真面目なんだが・・・。」
「や、やめてッ、私死んじゃうから!!」
「・・・・・。」
サイズは何も言わなかったが、怒り心頭に発しているのは言うまでもなかった。
「ちょっと出かけてくる。」
「あはは、あは、が、がんばって、あははは・・・。」
この時、すっかり彼女は忘れていたのである。
この男は、やると言ったらやるのである。
それこそ、彼女を殺すと言う結果の為になら、彼の言うような無茶苦茶なプロセスさえも踏みにじって。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
時間はひと月ほど飛ぶ。
場所は大陸を跨いだ帝国の首都。
この城砦都市周辺は魔王ギルフェイネスとの総力戦の場になったところである。
あれからそれなりに時間も経ち、それなりに復興も進んできている。
その復興進む帝都の王城の片隅にある小さな円錐の屋根とドアを備え付けるだけの高さを持った円柱状の建物が有った。
その扉を開ければ地下深くへと続いており、今や英雄とまで呼ばれる魔術師の工房へと繋がっている。
「うーん、ようやく予定していた機材も揃い始めたよ。
ったく、復興とか色々あるとはいえ、この僕の奉公に対する報酬を後回しにするなんて、まったく陛下には呆れるよ。」
なんて嫌味なことを言いつつ、届けられた機材に不備が無いか検分するのは後の『黒の君』ことウェルベルハルク・フォーバードその人である。
天才的な才覚を発揮してはいるが、この時期はそこまで他の魔術師との相違点は無い。
「とりあえず、これから予定している実験の計画を修正するか。
まったく、やりたいことは尽きないって言うのに・・・。」
「おい、ウェルベルハルク・・・。」
「ッ!?」
ぶつぶつ独り言を言う中、彼はいきなり声を掛けられて振り返った。
そこには、薄暗いその部屋に溶け込むような黒髪黒衣の男が立っていた。
「誰かと思えば、君かよ。」
「お前にちょっと用事が有ってきた。」
「はあぁ!? 幾らあの時共闘したからって、僕ら仲良子よしじゃないのは今更言うまでもないよねぇ?
僕らは一体何回刃を交えたかわからないんだから。」
「そのことは一旦水に流そうぜ、我らが陛下も俺に恩赦を下さったくらい懐が大きいんだからな。」
「あれはギルフェイネスと戦いに貢献したから特例に決まってるじゃないか。
非常に納得できないけど、人類を救った英雄の一人に後ろ暗いところなんて有ったら困るんだろうね。」
ウェルベルハルクは心底嫌そうな表情でサイズを邪険に扱う。
当然そうされるだけの理由が彼にはあるのだが、サイズはどこ吹く風である。
「とは言え、君に出すお茶なんて無いよ。
ファスネルなら一等地の方に居るから、あいつに用があるのならそっちに……」
「今日はお前に用があるんだ。」
サイズは彼の肩をがっしりと掴んで、引き寄せる。
「な、なんだよ・・・。」
「断ったら、バラバラにする。英雄の死、明日は国葬になるな。」
「まず要件から言えよ、そのまず暴力に訴えるところなんとかしろよ。」
「それもそうだ。実はお前に聞きたいことがあるんだ。」
こっそり魔力を右手に集中させているウェルベルハルクの手を掴みながら、サイズは言う。
「空の上にある魔力の層を突破する方法を教えろ。」
「はッ!?」
それがあまりにも突拍子のない事柄で、流石の彼も目を瞬かせた。
「・・・・なに君、宇宙にでも行く気?」
「ちょっと月まで旅行する予定だ。」
「頭の中に蛆でも湧いた・・?
てか、むしろあの“月光”こそが宇宙の専門じゃないか。宇宙に行きたいならなんで彼女に聞かないんだよ。」
「うるさい、いいから答えろよ!!」
「わかった、わかったよ!!」
ギリギリと肩を掴む手に力を込めるサイズに、彼は大声でそう返した。
ちょっと待ってて、と言って彼は奥の部屋へ行き、一冊の古びた本を取り出して開いた。
「正直、今の僕にはとてもその方法は考え付かない。
あれはかなり厚い魔力の層だからだ、魔術で防壁を張って突破するにもその魔力の層は何キロもあるんだ。途中で力尽きるのがオチだね。
かといって、力づくで破るなんてこともできない。アレはこの星を守る障壁でもあるんだから。
同時に空気の循環や環境に与える影響も大きく……」
「いいから結論を言えよ。」
「・・・何百年に一度くらいだけれど、空気と同程度にその魔力の層が薄まる時期があるんだ。
それが丁度十年後の夏ぐらいかな。それを逃したら、二度と機会は訪れないだろうね。」
「つまり、その時期なら宇宙へ飛び越えられるってことだな?」
「正直おススメできないけれどね。
宇宙はこの星とは全く環境が違うっていうし、魔術が正常に発動するかどうかも・・・って。」
サイズは結局彼の話を最後まで聞かずに、闇に溶けるように消えて行った。
「ふん、あんな人間のクズ・・・宇宙の藻屑になればいいのさ。」
ウェルベルハルクはそんな憎まれ口を叩き終えると、再び機材の検分を始めた。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「今戻ったぜ。」
半年かけて、サイズは“常夜の森”へと帰ってきた。
「・・・・・。」
そして彼の抱えている大量の本やら何やらを見て、ルナティアは呆れた。
彼は本気で月へ行こうとしているようである。
その為に世界各地から資料を集めてきたのだろう。
もう自分とどっちが魔術師か分からないくらいである。
それからこの森に帰ってきたサイズは、日課であった素振りを毎日し始めた。
毎日朝から夕方まで飽きずに、空に浮かぶ満月が親の仇だと言わんばかりにきっちりと。
そしてそれを遠巻きに眺めるのがルナティアの日課になっていた。
「・・・ねぇ、どうして貴方はそんなに強さにこだわるの?」
ある時、彼女はサイズに問うてみた。
「お前、ジジイには会っただろ?」
「・・・ああ、貴方の養父だっていう男よね。」
サイズの養父と言う人物は、彼女も興味が引かれて魔王ギルフェイネスが進撃を開始した時に帝都で顔を合わせたことが有る。
容姿の美しさを数値化できるのなら余裕でカンストしているだろうルナティアを見ても、眉ひとつ動かさず自分に関心を持たなかったのを覚えている。
話し掛けて会話していても、本当に自分と会話しているのかよく分からなかった覚えがある。
「ガキの頃、俺とファスネルはあいつに剣を教わった。
ある時気づいたんだ、あいつは俺たちに剣術を教えながらも、全く俺たちを見ていなかったんだ。」
「・・・・・・へぇ。」
「あいつは俺を見ながら、どことも知れない遠くをな・・・俺と試合する時も、陛下に陳情する時もだ。
俺の全力は、ジジイがよそ見に手加減を加えてまで通用しないんだって、気づいたのさ。
その得体の知れなさに、初めて俺は恐怖って奴を抱いたよ。」
「・・・・・。」
「俺はそれが納得できなかった。
この俺が歯牙にも掛けられず、その価値も無いと思われているのが。
俺は強くなりたかった。戦いの場を求めて祖国まで敵に回したが、それでもあいつは俺に関心を露ほども払わなかった。
悔しかったさ。あれでも一応育ての親だ。
愛情なんざ欲しくも期待もしていなかったが、それでも俺には・・・。」
そこまで言って、サイズは口を閉じた。
それから、黙って黙々と素振りを続ける。
「・・・貴方にも情が有ったのね。意外だわ。」
「結局、ジジイの求めてたのは世界最高の剣士だった。
流石にあの太刀筋を真似できる気はしないが、俺は俺なりに最強を目指すさ。」
「ぼろ負けだったもんね・・・。あの女剣士に。」
まさに世界最高の剣士というのも頷ける流麗な剣捌きだったのを、ルナティアは覚えている。
そんな彼女に挑んであっさり返り討ちにされ、彼女にぞっこんな彼の養父に思いっきり蹴られてた時は、流石に不憫に思ったものだが。
「お前だって敵わないだろう?
あの実力で魔術を無効化するマジックアイテムとか反則だ。」
「流石に私も彼女に挑む気は無いわね。
サイズがあそこまで行くのに、どれまで掛かるか分からないわよ? あれは本当に才能だもの。」
「それでもいつかはあの領域に至りたいもんだ。」
あんなにぼこぼこにされたのに、サイズは全く諦める気はないようだ。
このサイズがあんなにボロボロになるまで完敗したのに、彼はその敗北を納得しているようだった。
これほど珍しいことは無い。
それほどまでに隔絶した次元の強さだった。神域まで跨いだ卓越した剣技だった。
それこそ、一人の男を虜にして離さないのも頷けるほどである。
彼女ほどの剣士は、空前絶後であるに違いない。
彼女が参戦していれば、魔王ギルフェイネスとの戦いはずっと楽なものになっていただろうが・・・その辺りはサイズの身内の不始末なので、各人の名誉の為に言葉を濁しておく。
「(サイズも身重の女性に負けたなんて、蒸し返されたくないだろうしね。)」
と、ルナティアは生暖かい目線を彼に向けて何度も頷いた。
「貴方のこと聞いたわけだし、私も自分のこと話しましょうか?」
「あ? 興味ねぇ。」
が、サイズはバッサリとそう言った。
何から話そうか考えていたルナティアは半眼になって彼を睨んだ。
「お前は俺に斬られた時、どんな悲鳴を挙げるか考えておけ。辞世の句なんて言う暇は無いかんな。」
「辞世の句って、東方のブシドーじゃないんだから・・・。」
ルナティアはもう何だか疲れたように溜息を吐いた。
「私はもう帰るわ。」
「・・・・・。」
無視だった。彼女は彼の頭上に隕石を呼び寄せると、彼の悲鳴を背に受けて彼女は帰って行った。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
あれから十年経った。
サイズは飽きずにあれから毎日、満月に向かって魔剣を振り続けている。
愚かしさもここまでくれば愚直である。
それを毎日横から見ていたルナティアも、もうそれが当たり前のような日常になっていた。
「本当に行く気なの?」
彼女は問う。
今日がサイズの計画の実行予定日なのである。
今日は良く星が見える。満天の星空だ。
魔力の層が空気と同じレベルまで薄まっているからだ。
「俺が今更取り消すなんて、有り得ないことは分かっているだろう?」
十年経ってもこの男は全く落ち着く様子を見せず、魔獣のような本性をギラギラと滾らせている。
「俺はお前から受けた屈辱を、一日でも忘れた日は無い。
俺は言ったはずだ、覚えておけ、と。俺は覚えていたぞッ!!」
人の怒りは時間と共に薄まるはずなのに、彼はまるであの日と変わらぬ形相である。
それがどこか、ルナティアには心地よかった。
これほどまでの激情を、こんなにも長く向けられ続けていたのは初めてのことだった。
「次の魔王の誕生は、数百年後・・・。」
「・・・・・。」
「それまで私は、転生を続けなければならない。
それが初代ルナティアから続く、私の血族の役目だから。
それが当たり前で、疑問に思ったことは無かった。
でも、それまでこの暗い森の中で過ごすことになるわ。これまでと同じように。
飽きたと言うにはあまりにも無責任で、疲れたと言うにはあまりにも無意味よね。」
「何が言いたいんだ?」
「貴方が私を殺してくれるのなら、それから解放されても良いのかもしれないわね。
月の光は私に力を与えてくれるけれど、同時に私を縛る契約だもの。」
どこか儚さを漂わせるルナティアは、まさしく月の精霊と思われても仕方がないだろう。
だが、そう言う彼女の言葉とは裏腹に、そこに期待は少しも含まれていなかった。
当然ながら、彼女はサイズが成功するなんて露ほども思っていないのだ。
そんな独白にも似た言葉を言うのは、これから彼が死にに行くのも同じだからである。
「勘違いすんなよ・・・。」
しかし、サイズの刃の様に冷酷な視線と態度は、最初に二人が出会った時と全く同じであった。
なにが有ろうとも、彼は少しもぶれない。
「俺はお前にあの日の屈辱の仕返しをする為にあそこへ行くんだ。
それで俺たちはようやく同じ土俵に立てる。・・・精々抵抗してくれないと、詰まらないんだよ。」
まるでそうすることでしか、生きることが出来ないとでも言うように。
「そう・・・・・じゃあ、さようなら。
でも、貴方ならやるかもしれないと、私は心のどこかで思っているのかしら。」
そんなはずないのに、とルナティアは目を伏せる。
彼女がそうしている間にも、サイズは着々と準備を終えた。
丘には巨大な魔法陣が描かれている。
それは大規模な跳躍術式であり、同時に空気抵抗の摩擦から宇宙の様々な環境から彼を守る多重障壁を展開する代物である。
この辺りの地脈まで操作してこの場に力場を集中させ、第二段階の連続空間転移術式をサポートさせる。
流石に一度の転移で月までの距離を詰めることを諦めたサイズは、こうなったら転移魔術を何度も使用して宇宙空間を突き進む予定である。
そうして月の目の前まで行き、月を質量操作して巨大化させた魔剣で叩き斬るという計画である。
荒唐無稽で呆れるような計画だが、ここまで準備すれば成功まで極小の可能性は出てくる。
ちなみに帰りのことは全く考えていない。
行きが出来たのなら帰りも出来るだろう程度にしか、彼は思っていないのである。
まさに、死にに行く計画だ。
「いざ行かん、邪魔立てするなら那由多までも引き裂こう。」
サイズは魔剣を月に向けて抜き去り、鞘を捨てた。
直後、跳躍魔法陣が発動する。
爆発的な衝撃を伴い、彼は上空へ解き放たれた。
サイズは一直線で満月へ突き進む。速度にしてマッハ1に達する。
多重障壁が軋みを上げ、凄まじい振動を伴いながら、使用した大量の魔力残滓を撒き散らして。
彼は十分以上かけて大気圏突破し、星を覆う魔力の層を突破した。
これにより計画は第2段階へ進む。
彼は適当な宇宙空間に漂う岩などに指標を付けて、転移魔術を発動させる。
予定する転移魔術の回数は、100度を超える。
彼は連続の空間転移による酔いと吐き気に耐えつつ、満月までの距離を押し進む。
頭の中が潰れてしまいそうな感覚を伴いながら、彼は月がどんどんと近づいていくのを感じて笑った。
しかし・・・。
「くそッ、予定していたより詰められなかったか・・・。」
転移魔術の魔法陣が、予定より早く瓦解してしまったのである。
彼が確認する術は無いが、月面間近まで接する予定だったのに、全体の三分の二程度までしか進めなかったのである。
「・・・まあいい。」
しかし、その程度の“誤差”など、サイズは気にしなかった。
距離が足りないのなら、こちらの手を伸ばせばいいのである。
サイズは彼を守る多重障壁の維持を切って、その分を渾身の一撃に掛けることにした。
「ッ、ぁッ―――!!」
気圧や強烈な太陽光線、紫外線までをも生身の宇宙空間に身を置く彼を蝕む。
そう長くは持たない。
だから、彼はその一撃に魂を込めた。
「この俺を真上から見下ろすなんざ、生意気なんだよッ!!」
真空状態でなくても彼の叫びが月にまで届くはずもないのに、彼は絶叫しながら魔剣を薙いだ。
質量を操ることで、擬似的な物質の巨大化を図る。
振り下ろされ、加速ながら刀身が伸びる。
そして、――――――月を、断つ!!
「えッ・・・」
その日、夜空を見上げた人々は、一様に目を剥いたと言う。
「うそ・・・あれって・・。」
「月に、皹が・・・。」
月の右斜めの隅辺りに、よく目を凝らさなければ見えないような線が刻み込まれていたのだ。
何かの凶兆だと騒ぐ者もいたが、その真実を知る者は当事者たちだけであった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「本当に、馬鹿な男・・・。」
無限に広がると言う宇宙の中で、ルナティアは彼を見つけた。
彼は死んでいた。
当たり前である。死因は、魔力の大量消費による枯渇死。それに加え魔術の限界行使、肉体の極限まで酷使した反動もあるのだろう。
そこまでやって、あれだけ計画を練って準備をして、その結果は月面の端を少し削っただけである。
月は、単純な天体ではない。
太陽と同じく神聖視され、永遠に辿り着けない浄土の一つである。
神の条件とは、絶対的であることである。
女神に処女性が重要視されるのと同じように、決して触れられず、不可侵であることはとても大事なことなのだ。
そしてそれが、覆された。
月の神聖は穢され、堕された。
絶対である月との契約は、これにより破棄される。
ルナティアは急速に自分の力が衰えていくのを感じながらも、彼の下へと辿り着いた。
―――――彼は、勝ち誇ったような表情で絶命していた。
「ッあ・・・うそ、私・・・泣いているの?」
ルナティアは信じられなかった。
とっくに自分の心は枯れたと思っていたのに。
彼女は、泣いていたのだ。
「ねぇサイズ、私はまだ生きているわよ。
私を殺すんでしょう? 私と戦うんでしょう? 生殺しなんて嫌よ。ほら、目を覚まして。」
彼女はもう、彼が死んでいるということを分かっていながらも、彼の亡骸を何度も揺すった。
そうすれば彼は何事も無かったかのように起き上がって、嫌味の一つぐらいでも言いそうだったから。
本当は、本当に信じられなかったのは、サイズが月を引き裂くより、彼がこんなにあっけなく死んでしまうことだった。
彼女はどこか信じていたのだ。
あれほどの意志力を持つ彼が、もしかしたら“奇跡”を起こすのだと。
そして“奇跡”は正しく起こった。
その偉業と引き換えに、彼は息を引き取ったのである。
「ねぇサイズ、本末転倒じゃない。
貴方滑稽よ、自由に成る為に、死んじゃうなんて。」
彼女は彼を抱きしめた。
最早、彼女に地上へ帰るだけの力は無い。
ルナティアは、このまま永遠に二人で宇宙を漂うのも良いような気がした。
彼女は考える。
最後の彼の一撃は、果たして月へ届いたのか?
宇宙は観測する者によってその距離を変える。
彼の意思が、月までの距離を縮めたのかもしれない。
「ねえサイズ、あまりにも報われなさ過ぎるから、私があなたの願いを叶えてあげる」
彼女は彼の耳元で囁くように言う。
彼の渇望を、私が満たしてあげよう、と。
「私があなたを最強にしてあげる。
私があなたを不死身にしてあげる。
私があなたを無敵にしてあげる。
私があなたに究極の力をあげる。
私があなたに私の全てをあげる。
――――契約は今、この身全てを捧げて」
彼女は彼の亡骸に接吻する。
それが契約。二人の魂を縛る契約。
そしてルナティアは自身が使用する、転生魔術の術式を起動させた。
「さあ・・・・サイズ、今そっちに行くわ」
主を失い、今から蘇えりを待つ魔剣を私は手に取り、
――――思いっきり胸に突き立てた。
こうして果てなき輪廻が形作られた。
いつ終わるとも分からない、死と戦いに満ちた穢れた命の円環が。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
今回は投稿数がちょうど100ということで、二人の馴れ初めについて書いてみました。
実はかつて二人の馴れ初めに関して別の場所で投稿していたのですが、大幅にリメイクした形になります。
以前はルナティアの心情を中心に書いたのですが、今度は第三者視点です。
内容も結構違うので、シリーズ通して二人を知っている方は楽しめたと思います。
それでは、また次回。次は本編を進めますよ。