第七話 『マスターロード』
エクレシアが最低限の荷物を持って大聖堂のある第二十八層から降りて向かったのは、第十層である。
魔族の言う“箱庭の園”で人間が住んでいるのは第十五層までだ。
そこから先は分類上魔族ながら人間と中立的な存在である“亜人”が緩衝材のように住んでおり、第十層からは本格的に魔族が跋扈している。
第十層から第五層までは下級魔族が多く住んでおり、それより下層は上級魔族が住む魔の領域である。
人間が普通に行けるのは、第十一層まで。
それ以降は公的な庇護がなければ、人間なんて歩けないような魔物魔獣魔族の三重の地獄である。
魔族の領地を歩くことを人間が許されるには、魔族代表の許可が必要だ。
ちなみに、そんな許可が下りた試しなんて当然無い。人間と魔族、争っていないだけの冷戦状態。
テーブルの水面下では激しい蹴りあい押し合いが続いている。
千年の雌伏から勢力を拡大に転じたい魔族に、それを何とか押し留めている人類の構図である。
だが、お互いに戦って戦力を削りたくない。だから争っていないだけなのだ。
そしてお互いに付け入る隙を見せないこう着状態が続いている。
階層昇降用の魔方陣がある施設自体は警備があっても、それでどこに行くかまでは問われない。
第二十八層からそのまま第十一層まで直行し、そこに住む亜人の商人にお金を渡してエクレシアは荷物にまぎれて魔の第十層に足を踏み入れた。
その時の亜人の商人の表情は驚愕を通り越して係わり合いになりたくないといった様子だったのをエクレシアは覚えている。
だが、金払いの良かった(教会の払いである)からか、彼女の押しが強かったからか、最終的には了承させた。
あとは彼女の持ち前の度胸と信仰心にて最高クラスの魔術師でも近づこうなんて考えない第一層の宮殿に向かったのである。
そこで正式に代表交渉役に布教の許可を貰おうとしたのである。律儀な女である。
これが人間の魔術師の常識なら、相手の領地に入ったのならそこの領主に挨拶に行くのは礼儀だが、彼女は本気でそれが通用すると思っていたのである。
ここの“代表”も魔導師の一人であり、自分の首領と同じ枠組みに納まっているのだからそれも無理からぬことであるが。
「“代表”に会わせて下さい。」
「帰れ。」
しかし、中庭と表エントランスは観光地として開放されている魔王不在の宮殿と言えども、受付をしていたラミアの女性はそんなエクレシアを笑顔で門前払いしたのだ。既に門の内側ではあるが。
「どうしても用事があるのです。」
「アポがなければお会いさせることはできません。どうせ“代表”は暇しているでしょうが、規則ですからダメなのです。」
「そこを何とか、大事なことなのです。」
「ダメなものはダメなのです。」
「・・・・実はここにとびきりの・・」
「賄賂もダメです。」
仕方ない、最終手段とばかりにエクレシアが覚悟を決めた時。
「どうかしましたか? 何か問題でも?」
「ああ、秘書官。ちょっと困ったお客様が・・・」
受付の反応から後ろに振り返ったエクレシアは、ギョッとした。
ねじれた角を持つ黒山羊の顔をした魔族だったのだ。
「あ、ああああ、悪魔!?」
「人の顔を見ていきなり悪魔とは失礼な。いえ、確かに悪魔属ですがね。」
妙にインテリ風なその黒山羊の魔族は溜息を吐きながら掛けている黒メガネの位置を直した。
「その程度の精神感応で誤魔化せるとお思いですか?」
「!?」
その言葉にエクレシアは距離を取って腰の剣に手を掛けた。
今まで彼女がこんな魔族の巣窟どころか本拠地のど真ん中に居て平気だったのは、そういう偽装の魔術を使っていたからなのだ。
昔から人の心を動かしてきた教会は、その神聖な魔術の裏に対集団用の催眠や心理を利用する魔術が多々あるのだ。それは最早、黒魔術呼ばれても仕方が無いくらいに。
しかしこの魔族はそれをあっさりと見破った。只者ではない。
「およしなさい。争いなど無意味です。この場は引きなさい、余計な詮索もしません。すぐに引き返すのならば、黙っていましょう。」
暴力的で野蛮なイメージしかなかったエクレシアは、その知的な魔族の対応に一瞬逡巡した。
「悪魔の言葉を信じるとでも?」
「ではどこに疑う要素があるのか言ってみなさい。私があなたの正体を叫べばよろしいか? 帰りなさい。ここは人間の居るべきところではない。」
エクレシアには、それはとても真摯な言葉に感じられた。
己の使命を全うする者にのみが出来る、純粋な瞳であった。
「・・・・・信じましょう。」
だから、エクレシアは服の下にある胸元の十字架のペンダントを握り締めて頷いた。
そして、そのまま何も言わずに踵を返して彼女は宮殿から歩き去った。
後ろから襲われるとか、罠だとか、そんなことはこれっぽっちも考えなかった。彼女が己の信仰心に従って信じたのだから、疑う余地などなかった。
教会には嘘を見抜く(と信じられている)魔術も伝わっているが、協会の歴史から当然血塗られている魔術であるそれを使う気にもなれなかった。
結局、行き場を失ったエクレシアが第二層に流れ着くまで、何事も無かったかのように魔王不在の宮殿は観光客で賑わっていた。
・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・
「これからどうしましょう・・・・・」
とりあえず、近場の宿を借りてエクレシアは一息ついた。
そうは言っても、やることは一つである。
エクレシアは道中の本屋で購入した参考書をテーブルの上に置いた。
どっさりと辞書並みに厚いそれは軽く五冊はあった。
「まずは古代竜族語から・・・。」
彼女が開いたのは、『馬鹿な人間にも分かる古き竜の言葉』というタイトルの参考書である。
タイトルからして魔族向けの代物だった。
彼女は無心になってじっくり時間を掛けてそれを読み進める。
アルファベットに当てはめても発音できない言葉の数々を、何とか真似てみるが、お隣さんから苦情が来てしまったので止めた。
魔族の使っている文字は共通なので一度覚えてしまったので苦労は無いが、人間が覚えきるには魔族の言語はかなり多かった。
布教の第一歩はまず現地にて言葉と習慣を覚えることである。
そこは共通認識の魔術を使えば万事解決なのだが、彼女達はそんな不遜なことはしない。
聖書にはバベルという高すぎる塔を作り神に戒められた話が語られている。万能の言葉など彼女にとって不徳なのである。
だから真面目に一つ一つの言語を覚えようと頑張っているのである。涙ぐましい努力であるが。
しかもこれは騎士団全体の方針のため、彼女が勝手に破るわけには行かない。
「あぅー・・・・」
母国語と英語とフランス語と出張したときに現地で覚えた片言の日本語だけでも心が折れかけたエクレシアは、勿論二冊目の参考書を開いたところで力尽きていた。
「まだ、まだです。まあ諦めるような時間じゃありません。
これは主の試練なのです。主は人の乗り越えられない試練は与えないのです!!」
そうやって自分に喝を入れて再度奮起したエクレシアは取り憑かれたように参考書を読みふけるのであった。
マスター・ジュリアスが苦行だと言った理由も痛感しているエクレシアであった。
言語の壁の次は、文化の壁である。
魔族全般は魔王を崇拝している。
独自に神を崇めている種族も居るが、大抵はその魔王の存在がネックなのだ。
人間を創造したのが神ならば、魔族を創造したのは彼らの崇拝する魔王の初代であると伝えられている。
初代魔王が何らかの理由で退陣し、それから五百年周期で新たな魔王が誕生し、討伐され、復活し、隠れ、誕生を繰り返したと異世界での歴史書には書かれている。
その異世界が滅び、魔族諸とも人類がこの世界に逃げ伸びて以来約千年。新たなる魔王は誕生することなく沈黙を守ったままである。
今は創造主の後継者が不在という絶好の機会なのである。更には魔王に対する不信感も各地で募ってきていると言う。
魔族が乱れる。
主の言葉の理由は恐らくそこにあるとエクレシアは考える。
それで現政権を打ち倒す勢力でも現れたりしたら、魔族は暴走し多くの犠牲者を出して双方に大きな打撃を与えることだろう。
それだけは許されない。
「私の使命は、一刻も早く魔族に神の教えを説き、争いを事前に収めること。主はその為に私をこの地に遣えたのです。」
己の大儀を確認し、早くも折れかけた二度目の心を再び奮起を促す。
「信じるものに不可能は無い、と主は仰られた。今の私に、不可能はぁぁぁぁないいいいぃぃ!!!」
「だからうるせぇっつってるんだろうが!!!」
そしてすぐに隣から怒鳴り声が聞こえる。
言葉は分からないが怒っていると言うことだけは分かるエクレシアであった。
・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・
エクレシアはそのまま数日間滞在し、何とかある程度の知識を詰め込んで知恵熱にうなされること一日、だいぶ体調が良くなり起き上がると外がいつもより騒がしいことに彼女は気づいた。
今日で別の階層に行こうと考えていた彼女は持ち物を纏めて、チェックアウトをしに部屋を出た。
『何かありましたか?』
エクレシアはそう竜の言葉で書かれたメモを持って、この宿の女将を務めるリザードマンを掴まえて問うた。
「ああ、今日は人間を仕入れる日でね、それで賑わっているのさ。」
すると、言葉を発していないのに伝わったのである。
最初は不審そうにしていた女将もここ数日でそれにも慣れたのか、すぐに答えてくれた。
古代竜族語はリザードマンやドレイクなどの爬虫類系の魔族に広く用いられている言語である。エクレシアに発音は出来ないため特殊な伝達方法になってしまっているが、伝わっているので問題は無い。
念話を代表するテレパシーな会話手段はオーケーなのだが、それだ言語の壁に引っかかるのでこんな風に四苦八苦会話している。
「人間を・・・仕入れる?」
エクレシアは続けて『どういうことですか?』と竜の言語でメモを書き、それを魔術で伝えると、知らないのかい、と女将は不思議そうな顔をした。
「そろそろ搬入される時間だねぇ。
今日はここひと月の人間狩りの成果がある日だよ。“代表”の人間狩り部隊が奴隷商に卸されて連れて来られるのさ。ほら、窓に見えるだろう。」
言われて、エクレシアは窓を見た。
そこには、手枷を嵌められ、足枷は一本の長い鎖で身動きが取れないように大勢がムカデのように連なって歩かされている人間の行列が見えた。
皆がみすぼらしい服装で、顔やむき出しの手足には暴行の痕さえ見える。
そして、その表情は絶望の二文字が浮かんでいた。
考えるより先に体が動いていた、という言葉の意味をこの時にエクレシアは初めて知った。
過程は覚えていないが、剣を抜いたところからまるで記憶に無い。
気がつけば、鎖や手枷を全て断ち切り、奴隷を守っていた魔族の兵士を薙ぎ倒していたのだ。
一応これから教えを広めようとする相手である、手加減は出来ていたのか、致命傷を与える一撃は無かったと思う。
そして、冷静になった時には四面楚歌。
振るえ、脅える百人近い人間を背に、彼女は一人魔族の間に立っていた。
魔族もまだ混乱しているのだろう、理論上じゃなくても百人を一人で防衛するのは不可能であり、獅子奮迅の奮闘を見せたエクレシアに立ち向かうのを躊躇っている。
と言うより、ここに居るのは殆どが非戦闘員ばかりであったのが幸いだった。
兵隊が騒ぎを聞きつけてきたらここは地獄絵図になるだろう。
それまで、彼女は時間稼ぎに魔術の術式を構築し、奴隷となった人たちを守るために結界を張った。
そして、大声で張り上げて言った。
「この様な心も体も切り売りするようなことがあってはならない!!
私は彼らの解放を求めるッ!! この様な横暴、神が赦すとお思いか!!」
伝わっているかどうかが問題ではない。
聞かれなければ、誰とも通じない。
耳を貸す者が居なければ、どんな崇高な教えも馬の耳に念仏なのだ。
教会は相手を振り向かせるために、時に暴力を手段として選んできた。愚かなことである。神の言葉一つで戦争にすらなったことすらもある。
「(ならば、これは私の聖戦である。)」
かつて聖人と呼ばれた数々の聖職者の多くはその行いを理解されず、心無い者たちに処刑されてきた。
そこには様々な奇跡が逸話として残っているが、それはこの際関係ない。
「(私は、誰にも理解されずとも戦おう。我が行いは必ず主に届くのだから。)」
結界が展開される。
様子を窺うだけだった魔族に明らかに躊躇いの様子が見て取れた。
私は両手を躊躇い無く広げて、魔族との間に立ちはだかる。
「さあ、ここは聖域。この両手より先は、神のおわす領域である。
神の怒りに触れることを恐れぬ者よ、我こそはと踏み込むが良い。主に代わって人類に仇なす悪を成敗しよう。」
エクレシアはそう適当に口上を述べて、周囲の状況を確認する。
結界の効果はちゃんと出ているようだ。
集団心理を利用した結界だ。
誰も自分の行いは正しいと思っている。
本来は一定範囲に近づくことに良心の呵責を訴えるような者を置き、集団の悪から身を守るための魔術である。
そして、場の空気が伝染し、誰もが手を出せない神聖な空間を形成・・・するように見せる魔術である。
その心の隙間を突いた魔術で、追い詰めているつもりが逆に自分たちの良心を人質にされていると言う割と卑怯な代物である。
この瞬間、大勢の魔族はたった一人の小娘に手玉に取られていたのだ。
だが、それだけでは事態は解決しない。
時間を稼いでさっさと逃げる為の魔術なのだから。
「(だけど、流石にこの人数を救うには、それこそ主の奇跡でも起きない限り不可能・・・・私はどうすれば・・)」
神の奇跡を扱い、異教徒と戦ってきた彼女だから分かるのだ。
祈るだけでは主は助けてくれないのだと。
しかし、残念ながらにらみ合いが続くだけである。
こう着状態が続き、はったりもそろそろ限界に来そうになったその時である。
ばさばさ、と巨大な鳥が羽ばたくような音が聞こえた。
「あ、あー。これで言葉は通じるか、人間?」
見上げれば、青い鱗のワイバーンに、人型の怪物が乗っていた。
それが、私の目の前に降り立つ。
「ご機嫌麗しゅう、お嬢さん。
私はドレイク族の族長を勤め、魔族の代表交渉役を担う者だ。
――――――皆は私を『マスターロード』と呼ぶ。」
それは、奇しくも最初に面会を求めようとした人物だった。
「あらゆる種の頂点と嘯きますか。・・・・そうやってあなたは、自分以外の全てを見下すのですか?」
強い風が吹く。
いっそこのまま、預言者エリヤのように竜巻で連れ去ってほしいとすら思う状況である。
「事実だよ。お嬢さん。
それより、私に名乗らせておいて自分は他人の批判かな?」
「・・・・・・」
「いや、いいさ別に。どうせ本名が聞けるとは思っていないからな。
お前、教会の人間だろう? 洗礼名のところだけでも良いから言ってみろ。」
「失礼、『マスターロード』。私の名はエクレシア。
出来れば公式の場で御顔を拝謁したかったです。」
流石は政治的な意味を含めても人間を押しのけて“魔導師”の位に居る魔族である。隠し事は出来ないか、とエクレシアは悟った。
「畏まるなよ。少しも敬っていないのは分かっているんだ。
あの女・・・『カーディナル』のように開き直ってくれたほうが嬉しいね。まあ、あの女はすこし慎みを覚えたほうが良いと思うがね。まるで男を立てると言うことを知らないようだ。交渉の席では何度も煮え湯を飲まされている。だからこの場はすこし意趣返ししてやるから覚悟しろ。」
仰々しい肩書きを持っている割にフランクで子供っぽい言い方であった。
「・・・・・・・」
「ああ、このことは当然『カーディナル』に講義させてもらうが、問題になどしないから安心するといい。
悔恨など引きずるものではないしな。我々魔族としても、魔王陛下が不在の今、人類とことを構える理由なんて全く無いのだよ。この場で起きた問題はこの場で全て終わらせる。それで良いな?」
まるでマニュアルでもあるような対応である。
ええ、とエクレシアは頷いた。
頷くだけでも慎重にならなければならない。
相手は悪魔さえ跪かせるドレイクの長だ。
いったい裏でどんな悪魔的な呪いや契約の準備を進めているとも限らない。
エクレシアがそんなことを考えていると、周りの魔族から一斉にブーイングが飛んだ。
傍から見れば今の対応は『マスターロード』が下手に出たように見えるのかもしれないとエクレシアは思った。魔族の連中はそれが気に入らないようである。
そんな中でも『マスターロード』はさすが為政者をしているだけあって、涼しい顔をしている。
「ははは、――――――黙れ下種ども。」
『マスターロード』は涼しい顔のまま、適当に腕を振るった。
それだけまるで巨人になぎ倒されたかのように無数の魔族が宙に舞った。
一瞬で場に静寂が戻った。
「私からすればお前らも、人間も同じなのだよ。下等生物の分際で私に意見するな。私のやり方に文句があるならば掛かって来い。」
当然、魔族最強の男に逆らう者など居なかった。
「暴力による抑圧で、貴方は本当に支配したつもりで居る・・・寂しい人ですね、貴方は。」
「私は人間とは違うのだよ。寂しいとかで柔な感情で精神が揺らいだりはしないのだ。そもそも私は現状にとても満足している。」
どこまでが本気か分からない笑みを浮かべ、『マスターロード』はそう言った。
「偉大なる竜の化身、『マスターロード』。
貴方に誇りがあるのなら、今すぐにこの者たちを開放しなさい。」
「開放しても良いが、その言い方だとその後のことがまったく考えられていないなぁ。私が開放したとしてすぐに捕まえるとは思わないのかね?」
彼は馬鹿にしたように笑った。
「彼らを人間の住む土地へ解放なさい。」
「い、や、だ、ね。」
今度はニヤニヤとした笑みを浮かべ、『マスターロード』はまるでソファーにでも座るように虚空に腰掛けながら言った。
「お前、私がどんな役割を持っているのか分かっているのか?
交渉役だよ、交渉役。譲歩や約束を取り付けるにはそれなりの対価が要るのさ。等価交換はこの世の原則だろう?」
「何の罪もない民草を刈り取ることがこの世の原則と仰るのですか?」
「ほう? 本当に何の罪も無い、と?」
「当然でしょう、そうですよね。」
エクレシアが頷いて、同意を求めるように背後の人々を向いた。
しかし、誰一人彼女と目を合わせようとする人間は居なかった。
「え・・・・どうして・・?」
「ところでお前、どうやってここまでやってきた?
この私の許可も無く、どうやってここまで進入してきたと訊いている。」
「・・・・・・まさか。」
エクレシア自身、決して褒められた方法でここまで来たのは承知だが、仕方が無いと割り切っているし、相手もそれは承知だろう。
なぜ、そんな暗黙のうちに終わった話を蒸し返すのか、答えは簡単である。
「そう、そいつらは殆どが魔術師だ。
まさか労働力にするために農民でも浚って来ると思ったか?
教会の人間であるお前にビジネスの話は釈迦に説法だが、物には付加価値ってものある。何の技能の無い人間を連れてきてもつまらないからな。
―――――そう、こいつらはな、全て魔族の領域侵犯を犯した人間なのさ。」
がらがら、とエクレシアは足元を崩されたような気分だった。
「お互いの領域に侵入した場合の取り決めは『盟主』となされている。
曰く、お互いがお互いの領域に入った者は好きにして良い。これは両者の間で決まった正当な権利なのだよ。
ところで、お前はこれが何に見える?」
いきなり脈略もなく話題を変えて、『マスターロード』は己の立派な角を指差した。
「つの・・・です。」
「違う、魔術の材料だよ。では、これは何に見える?」
『マスターロード』は己のサファイアのような美しい鱗を一枚剥がして、エクレシアに突きつけた。
「うろこ、です・・・。」
「違う、魔術の材料だ。では、ここにある我が心臓、お前には何に見える?」
「・・・・・魔術の、触媒・・・」
「そうだよッ!!」
いきなり怒鳴り声を挙げた『マスターロード』に、エクレシアは体が竦んだ。
「お互い様なんだよ、人間の小娘。
我らは人間を狩り、お前達は我々の一部が欲しい。
そもそも、『盟主』がこの“箱庭の園”に我らを強制的に集めたのも、使用できる魔術が失われないようにするためだ。失われていく一方の魔術の相伝と相続、そして保存を目的とした組織の本部がここにある。全て、お前ら人間の都合なんだよ。
ありがた迷惑とはこのことだ、我らは魔王陛下の眠る異世界の土地で朽ちるならそれでも構わなかったと言うのに。元々四代目魔王陛下の眠る場所だったこの“箱庭の園”を占拠したお前たちは、陛下の遺産を奪い取った厚顔無恥な墓荒らしにも等しい。
その挙句、勝手に我々を下層部に押し込んで、その上、魔術の触媒となる材料を得たいだと?
はははは、親の顔を見てみたいとはこの事をいうのなら、私はお前達を創造した神の顔を見てみたいな。さぞ、立派な顔をしているんだろうよ。」
『マスターロード』の言葉の端々から、溢れんばかりの憎しみ滲み出ていた。
「お前達、そこにいる人間は全てこの私が買った。
そしてお前達にそのままそっくりくれてやろう。
―――――お前達の好きなように嬲り、辱め、犯し、痛めつけ、殺せ。」
その直後、今まで黙って聞いていた魔族たちが一斉に歓喜の声を挙げた。
「貴方は・・・・ッ!!!」
「小娘、私に意見するならせめて神域の境地に辿り着いてから言うのだな。
まぁ、最も、この場から生きて帰れたらの話になるが。」
「貴方は、人に理解がある魔族だと聞き及んでいました、なのに、なのに!!」
「お前の耳は節穴か?
確かに私には人間の友人がいる。尊敬すらしているほどの人間だ。
だが、そいつは私が同格と認めた唯一の存在だからだ。他とは違うのだ。」
「私が、私が犠牲なりますから、どうか彼らだけでも・・・。」
「聞けない相談だよ。その代わり、約束通りこの場で起きたことは全て解決したことにしてやる。お前の仲間には迷惑にはならんだろう。」
「私の、私の仲間は、そんなことを望んでいない!!!」
「――――――もういい、お前黙れよ。」
もう飽きたと言わんばかりの『マスターロード』の態度だと言うのに、エクレシアは恐怖で凍り付いた。
まるで、竜の舌で舐められたように全身に悪寒が走り、汗が全身から際限なく流れ出す、種の根源に刻まれた恐怖。
今まで信じ習ってきた神の言葉も、この絶対的な化け物を前にしたらまるで落としてしまったかのように浮かび上がらない。
ただ、ぱくぱくと、口が開閉するだけだった。
そして、魔族の歓喜が収まり、あとは『マスターロード』の許しを待つだけとなった。
静寂に、ようやくエクレシアに声が戻った。
「あなたは・・・・」
「んん?」
「キリストは刑死の際に、己を嘲笑った全ての人間を許そうと祈りました。
曰く、彼らは自分が何をしているのか知らないだけなのだと。
だけど、貴方は理解しているのでしょう? これからどれだけ残酷なことをしようとしているのか!?」
エクレシアは両目に涙を溜めてそう訴えた。
まるでこの状況でまだ希望が残っていると信じようとしているかのように。
「・・・・お前、本当に分かっていないな。
初代魔王陛下の名はこの世界では表現することが出来なかった、だから最も近しい存在である聖書の悪魔が当てはめられた。
シャイターン、そしてサタンとな。我々ドレイクの崇拝する竜神もこの世界に来た際に、聖書の赤い竜にすり替えられた。それもどちらも同一存在として見られているから都合が良かったのだろう。
これは『教化』という魔術の手法だ。己の崇拝する神を最も近しい形として認識しやすくする為の、な。
お前達もドルイドの崇拝している神を自分達と同じだと言わせただろう? そう珍しいことではない。
つまり、我々は先天的にサタニストなのだよ。
お前のような聖職者の言葉を受け入れる余地なんて、初めから無いのさ。」
絶望を突きつけるように、『マスターロード』はそう告げる。
「(・・・・そういうことだったのですね、マスター・ジュリアス。)」
どうして厳格で知られる彼がそこまで同情的だったのか、エクレシアは始めて理解した。
困難だとか、そういう問題ではない。
魔王不在だからどうにかなるとか、それ以前の話なのだ。
根本的に不可能なのだ。彼らに神の言葉を伝えるのは。
彼らを受け入れると言うことは、己の教義を否定するのと同義だからだ。
魔術師は、己を否定することは出来ない。
それは彼女も、彼女が居た騎士団も同じである。
――――――つまり、彼女は、嵌められたのだ、仲間に。
「跪きなさい、あなた方の罪は、私が背負います。」
その時初めて、エクレシアは殉教者の気持ちになれた。
だから彼女は振り返り、恐怖に震える人間たちにそう告げた。
その時の光景は、まさしく聖人を前にして信仰心が芽生えた聖書の中のような光景だったと、目の前で見ていた『マスターロード』は後に『カーディナル』に語った。
彼女の表情を見た人間が、次々と跪いて両手を組んだのである。
そして、エクレシアは剣を抜いた。
「まさか・・・・おい、お前達、殺れ!!」
彼女が何をするか察した『マスターロード』は、今か今かと待ち構えていた魔族にゴーサインを出した。
大挙して魔族の軍勢が人間に殺到する。
「―――術式『聖ヒルデガルドの幻視空間』を発動。」
エクレシアは、剣を振り上げ、目の前に居る人間たちに振り下ろした。
その一撃は無慈悲なまでに命を刈り取る。
彼女の扱える中で最も強力な魔術は、百人以上の人間を一撃で絶命させた。その現象を説明するには明らかに時間が短すぎた。
苦痛もなく、恐怖もなく、彼らは本当に一瞬で絶命し、燃え尽きた。
まさしく天使のように、エクレシアはその虐殺を行った。
魔族たちには、百人以上の人間が、まるで奇跡、いや神罰のように消失したように見えただろう。
「神よ、あとは全て貴方に委ねます。」
そして、血すら付かなかった聖なる剣を抱いて、大粒の涙を流しながら魔族の軍勢に押しつぶされるのを待った。
だが、彼女の信じる神はそれ赦さなかった。
「もーらい、っと。」
いつの間にかクラウンが、『マスターロード』の乗っていたワイバーンに騎乗し、エクレシアを掻っ攫っていったのである。
「オヤジー!! そこに居る人間“全員”を買って僕らにくれたんだよね!! じゃあこの人間は僕が貰うよ!!!」
「おまえ、ばかじゃねーのー!!」
ちなみに、翼竜の背にしがみ付いている人間も一人居た。
ほんの一瞬の出来事に、さしも『マスターロード』も反応する頃にはワイバーンは城壁の近くまで小さくなっていた。
しかし、すぐにワイバーンだけ帰ってくる。
そして、
「あの、どら息子・・・勝手に人の蔵書を持ち出しておいて、どこに行ってやがった!!!」
呆気に取られていた『マスターロード』の怒声が響いた。
「一族を追放したのは貴方ではないですか、『マスターロード』。」
「馬鹿かお前は、息子の行方を心配しない親がどこにいる!!」
いつの間にか背後に控えていた黒山羊の秘書官に彼は怒鳴りつける。
「今日は帰りましょう。そろそろ仕事が舞い込む時間です。十分楽しんだのでしょう? 聖堂騎士団にも講義をしなければなりませんし。」
「あ、ああ・・・・全く、あの飄々さは誰に似たのか・・・。」
頭を痛そうにして抱える『マスターロード』に、秘書官も肩を竦めるしかできなかった。
・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・・・
「あっははははははは、最高のショーだったねぇ、次はいつやるのかな?」
「そんなこと平気で言えるお前の神経を疑うよ。」
俺は今日も振り回されてばかりだった。
でもまあ、ワイバーンに乗れるって言う貴重な体験が出来たからよしとしよう。いやぁ、やっぱり翼竜は良いよな。男心をくすぐると言うか。
ギィンギの奴はさっさと仕事を終えるからあの後すぐに帰り道である。
なんと言うとんぼ返りなのだろうか。
宿も取ったのだから、てっきり一泊はするのかと思ったが、俺の都合なんてお構い無しのようだ。まあ、俺に都合なんて疲れたから休みたいだけなんだけれど。
「いやぁ、サイリスの奴の頼みごとなんて嫌だったけど、たまには良いこともあるもんだねぇ。面白いおもちゃも手に入ったし。
ああ、勿論それは君の番いにしても良いよ。雄だけってのもあれだったから、丁度良かったよ。あははははは。」
「あっちの方のドレイクはまともそうだったのに、何でこいつはこうなのかね。」
本当にこいつは変人なんだろう。
こいつからはドレイクの凄さが全く感じられない。
「つーか、こいつ邪魔なんだけど。」
現在ギィンギが操る荷馬車の八割が荷物で埋まっている。
で、もう一割がクラウンの奴が掻っ攫ってきた女。
残り一割の後部に俺とクラウンの奴が詰めて座っている。
彼女は気を失っており、仕方なく寝せているから場所を食っている。
「いいじゃないか。君も好きにしていいんだよ?」
「冗談じゃない。お前あれを見たろ、一瞬で百人以上消えたんだぜ?」
「ああ、まるで天使だね。」
「あれのどこが天使だよ・・・。」
「君が思っている天使とは現実は違うってことさ。」
どうでもいい話である。
「ん・・・ん・・・んぅ?」
すると、その時、彼女に意識が戻ってきたのか、目を瞬かせている。
「おや、お目覚めだよ。」
「お、おい・・・暴れたら、お前が何とかしろよ。」
「大丈夫さ、今の彼女は多分君より役に立たないから。」
「はぁ? どういうことだよ。」
クラウンに真意を尋ねようとしようと思ったら、ふと、彼女がぱっちりとこちらを見つめてきているのが分かった。
「な、なんだよ・・・寝ぼけてるのか・・って」
そう言ったら、彼女がずいっと近づいてきて、両手を俺の頬を掴んだ。
「この顔・・・この声・・・、覚えています、覚えていますよ。」
ぶるぶる、とその手は震えて、下に落ちた。
「おぉ、神よ・・・これも、試練だと仰るのですか・・?」
そして、再び力尽きたように彼女は気を失った。
「なんだよ、いったい・・・・。」
困惑する俺を、クラウンはただ楽しそうに眺めているだけだった。