幕間 死神と弟子入り その一
主は十字架を背負って苦痛の恥辱を受けながらゴルゴダの丘まで歩いたと言う。
それは慣用句として、現代まで伝わっている。
重い苦痛と決して消えない罪を表す言葉である。
だとしたら、この場所はその言葉に相応しいところだった。
「・・・はぁ・・・はぁ・・。」
俺は今、川の中で流れに逆らって歩いている。
足を上げる度に持ち上がる水は重く、俺の体力を徐々に奪っていく。
ただそれ以上に俺に責苦を与えるのはこの環境だった。
「・・・・・・・はぁ・・・・・はぁ・・・。」
川に流れる水は赤い。血のようにではなく、血液そのものだ。
鉄の錆のような悪臭は、体力以上に俺の気力を奪う。
俺がその血の川を上っていると言う事実もだ。
だが、俺はこの川を避けて陸に上がろうとは思わない。
川幅が大きいと言う訳ではない。この血の川の幅は大人が二人両手を広げた程度に過ぎないだろう。
しかし、そこはこの血の川より早く流れているのだ。
意味が分からないだろう?
俺も分からない。
でもそうなんだ。
川の外側では、所狭しと誰かと誰かが武器を持ち、殺し合いを演じている。
彼らは無数に存在していて、まるで落ちるように川の流れに沿って後ろに流れている。
殺し会う彼らは、徐々に纏う武器や鎧などの服装が徐々に一変していき、段々と近代的になって行く。
まるで人間の戦いの歴史のように、空気まで赤いこの場所。
ここは当然、現実ではない。
されど、ここは俺の記憶にない世界。
生涯を己の力に奉げたジャンキーの世界ですらない。
ここは、もはや一つの地獄だった。
冥府の一種だとも言えた。
ここは死者の世界。
“死”と言う概念が行きつく先の場所。
時代も装備も場所も違う、殺し合いを続ける彼らの共通点はただ一つだった。
俺は見上げる。
使者たちが流れ去り、俺はこの世界の最奥に辿り着いたことを悟った。
そこは、巨大な屍の山だった。
その上の赤い空に漫然と輝く、小さく亀裂の入った満月。
それに照らされるのは、血の川の源泉たる黒い魔剣と黒い死神。
それらが、この世界の中心だった。
際限なく、深淵の如き漆黒の魔剣から血が溢れ出て、屍の山を赤く染め上げて血の川を創る。
その横に佇む死神は、どこまでも無個性だった。
時代を変え、姿を変え、立場を変え、戦場を変え、死の訪れを告げる死神に個性なんて不必要なのだ。
それはまさしく神に等しいと言う意味である。
神に顔は無く、感情も無く、声も無く、姿も無い。
全ては人に語り継がれるままとなる。
“死”と言う現象そのものとして在り、それはどこまでも純粋で無限大だ。
彼はそれに限りなく近づいている。
だから俺の眼には、その死神がぼんやりとした暗い薄靄が掛かって不確かに見えた。
これが、一つの極地。
力を求め、その最果てに辿り着いた神の領域。
魔術師たちが追い求める、『世界』の一片。
大師匠曰く、彼はそれを力の探究と言う一心だけで図らずとも会得した。
それも真理の一つの形である、と。
俺は、無言で魔剣ケラウノスを構えた。
ここに来るのは一度や二度ではない。
眠りにつく度に一度、毎夜ごとに俺はここに来ている。
そして殺される。目を覚ます。また夜に訪れる。
魔剣『キマイラヘッド』が歓喜する。
あのイカレ脳みそジャンキー野郎は死んで魔剣に魂を託してなお、あの死神と戦えることを喜んでいた。
なぜ奴が俺の夢の中に現れるようになったのかは、分からない。
まだこのことは誰にも相談してはいないが、多分このことは誰も分からないと思う。
そして、これは俺一人が解決すべき事柄だと思った。
俺が武器を取ると、死神が反応した。
ここは、死と殺戮だけが肯定された世界。
それがルール、規律、規則、掟、法則。
本当に“死神”になる権利を持った男の『世界』。
俺は今、血の川の原水がある屍の滝を登る。
奴との会話は一度として成立していない。
あいつの記憶より、より完璧な死神に近づいたあの男に意思の疎通なんて無意味なのだろう。
俺は極限まで神経を研ぎ澄ませ、迎撃の構えを見せる。
視界は邪魔だ。目を閉じる。
パシャン、と死神が血の川に降り立った音が聞こえた。
だがそれより早く、奴は俺に手刀を繰り出す。
場所は俺の死角、俺の右脇腹の真横に身を低くして俺をその手で串刺しにしようとしている。
俺は奴の腕に平行になるように右腕の肘を伸ばして、足さばきで奴に向かい合いながら腕の伸ばして手刀を捌いた。
別に高度な技術ではない。
武術さえ習っていればこの程度出来なければ話にならない。
ここで反撃に転じるのは急性だ。
奴は俺が武器を持っている方の手がある側を狙った。
当たり前だが、剣は振らなければ当たらないし威力も無い。
徒手空拳なら当然の立ち回りだろう。
問題は、奴が本当なら真横ではなく、一息で背後に回って関節を決めて俺の首をへし折るくらい可能だったことだ。
明らかに手加減されているのだ、俺は。
舐められている、と今更思う事も無い。
奴は遊んでいるのだから。俺はその遊びに付き合っているに過ぎない。
俺が弱いのは事実で、奴は武人としてだけなら歴史に名を遺したような世界屈指の相手だ。
奴はそのまま俺の腕に手を絡めると言う選択をせずに、あらかじめ空けておいたもう片方の上で手刀を作って俺の急所を狙う。
奴の行動は一定の法則が伴う。
奴は牽制を除き、必ず急所を狙う。
奴は無手でも武器を持っていると仮定している。
奴は決して俺の背後には回らない。
奴は俺が絶対に対応できない攻撃はしない。
それが奴の遊び、余裕。
ジャンキーにもして見せたように、自分が楽しめる相手になるかどうか見ているのだ。
俺は武人としてそれに向き合うのだ。
真正面から、胴体の中心部であるみぞおちを狙った手刀。
奴の姿勢から俺はそれを予測し、左腕で払いのけた。
だが即座に奴の左手の手刀が振るわれる。
フェイントだ。或いは牽制。そのタイミングでそう攻撃しても俺に致命傷は与えられない。
俺は右腕の魔剣を使ってそれを防ぐ。
が、寸前で俺の手元に手刀の軌道が変わった。
「んぐ!?」
手が破裂するような錯覚を覚えるような痛みと共に、右手の魔剣が真上に飛んだ。
そのまま左手の手刀を振り下ろす。
俺の首から袈裟懸けに引き裂かんと振るわれたそれを、右腕で咄嗟に受け止めた。
みしみし、ごきッ、と確実に右腕がへし折れた音が聞こえた。
余りの激痛か、麻痺して痛みそのものは感じなかった。
俺は焦りを感じて、距離を取るべく後ろに下がった。
その時、ふん、と奴は鼻で笑った気がした。
本当にスッと言う音だけだった。
俺は飛んでいた。
飛びながら、自分の胴体が倒れるのを見ていた。
奴はいつの間にか手にしていた大鎌を振り下ろしていた。
俺は、血の川に墜ちながら思った。
奴にようやく武器を抜かせた、と。
目の前が真っ赤に染まる。
ほぼ同時に、俺の世界は真っ暗になった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「―――あふッ!!」
俺はベッドから飛び起きるように上半身を起こした。
恐る恐る首に手をやると、よかった、繋がっていた。
あの死神は必ずと言って良いほど、俺を殺すときは首を落とす。
こうして毎夜の如く会うたびに首を落とされていても、全く慣れる事の無い。
リアルな死の予感。
本来なら衰弱死を狙う呪詛の類を疑うべきだが、全く何の影響も受けていないと大師匠のお墨付きだ。
俺は誰にも相談してはいないと言ったが、大師匠は別だ。
推測ばかりだったが、大師匠は俺の身に起きていることをしっかりと説明してきた。
やろうと思えば簡単に防げるとも言った。
だけどせっかくだから自ら打ち勝ってみろよ、と大師匠は仰った。
物事には必ず意味があって、あの死神が俺の前に現れたのは何か感じるものが有ったからに違いない、とのことだった。
大師匠は軽く仰ったが、ハッキリ言ってムリゲーだ。
今まで何度か挑んで、それが分かった。
次元が違う実力の差を感じたのだ。
あの死神は恐らく、正面から戦う限り“無敵”だ。
フウセンやドラッヘンが二人掛かりで挑んでも多分無理だと思う。
それくらいの、武の極地に居るのだ。
“力”で挑む限り、絶対に勝てない。
もはや法則じみた強さだった。これが前提。
大師匠はそれを分かっていて、打ち勝てと仰った。
しかし、俺はそれでも正面から戦うしかない。
それ以外知らないし、アイツの魂もそれを望んでいる。
アイツに魂の力を日頃から借りてもらっているのだから、それくらいの恩は返したいとは思う。
幸い、期間は無制限。
害は無いのなら存分に挑ませてもらおう。
究極の武力、その人殺しの極致に。
それから俺は奴の動きを思い出し、何度も何度もシミュレートを繰り返す。
時間はようやく日が昇り始めた頃合いだ。
クロムとの練習の時間まで、いつもの場所で体を動かしながら調整することにした。
――――――――――――――――――――――
時は数日ほど遡る。
「ハッキリ言っても、もう教えることは無いわね。」
その日、クロムは欠伸をしながら俺とフウセンにそう言った。
先日の約束通り、俺たちは城の裏庭に設置された的を弓矢で正確に射抜く訓練を彼女に受けていた。
と言っても、あれから一週間ぐらいしか経っていない。
毎朝二時間くらいの弓術の練習で、あまり日常生活に負担になるような内容ではない。
クロムは、教えるのがとても上手かった。
たったそれだけの期間で、俺たちは50m先にある的に中るようになったのだ。
まあ、教え方は普通じゃなかったが。
とても実戦や弓術の試合ではまだ使えないような代物だが、あとの技術は自分で洗練する以外無理だと言うくらいまではやり方を教わった。
いや、教わったと言うより、やらされた、に近い。
彼女は弓の扱いを、俺たちの体で実演したのだ。
俺も良くやっている修練方法で、本当によくやり方が理解できる。
言葉にしにくい感覚的な技術も、分からないところはそうやって教えられた。
普通は変な癖が付きやすいから最終手段だ、とエクレシアは言っていたのだが、クロムの奴にそんな粗さがあるわけも無く。
たった一週間で卒業を言い渡されたわけだ。
「え、まだ教わることあるんと違うの?」
フウセンはそう言って弓を下して彼女に向き直った。
俺もクロムを見つめて無言でその真意を問うた。
「本当なら百発百中になるくらいしごいてやろうと思ってたんだけれど・・・」
しかしクロムは気だるげにガリガリと髪の毛を掻いた。
「別に弟子でもなんでもないあんたたちにそこまでする義理は無いわよね。
だからといって手を抜いてたわけじゃないけれど。」
ぶっちゃけ、面倒くさい、と言う訳だろう。
実際最低限の事は教わったのだし、これ以上どうこう言うのもなんだか無礼な気がした。
「じゃあウチのデータ採取とかもう打ち切りでええん?」
「うぐ・・。」
フウセンの何気ない一言は、クロムにかなりのダメージを与えた。
彼女の脳内で損得がぐるぐると目まぐるしく回っているのが手に取るように分かる気がした。
「・・・でも、本当にあとは個人の技量だから、私が口を出す領分じゃないのよ。」
クロムの奴の性格はともかく、技術に関してはとても真摯だ。
前にこいつの工兵の訓練を受けた魔族もそう言っていたし、多分彼女の言ってることは本当なのだろう。
傍から見れば、困っているのはクロムのように見えた。
そこは弓の扱いを教えてやったのだから、これからもデータに貢献しろ、ぐらい師匠面して言うと思ったのだが。
お互い対等な立場で言っているのだから、飽くまでも彼女のスタンスはギブ&テイク、等価交換なのだろう。
差し出す物が無ければ、何も受け取れないのだ。
「あのな、前々から言い出そうと思ってたねんけれど。」
ふと、フウセンが真剣な表情になったのを、俺は横目で見ていた。
「ウチは元々十六歳になったら誰かに弟子入りしようと思ってたんや。
ロイド君・・・元同僚やけれど、そいつが独学でやるのは絶対やめた方がええって言ってたんよ。」
独学で魔術を覚えるのは、魔導書でもなければまず無理だ。
仮にそう言った幸運に恵まれつつも、今度は魔術師としての技量の鍛え方が分からないと言った状況に陥る。
まあ、少し前の俺が良い例だ。
千日の観学より一日の学匠、ということわざもある。
とにかく魔術を独学で、それも一から学ぼうとすると、それこそスタートラインがずっと他の魔術師より遠くなる。
誰だって、真理への道は近い方が良いと言う訳だ。
「・・・・・やめて、それ以上口にしないで、何が言いたいのか分かったけど、私は嫌よ。」
頭のいいクロムが、俺にも察することが出来たことを思いつかない筈が無い。
彼女に掌を突き出して、クロムは首を振ってそう言ったのだ。
「なんでや、ウチはあんさん以上の魔術師を知らん。」
「私は自分の魔術を貴女に分けるつもりはないって事よ。」
クロムはきっぱりとそう言いきった。
弟子にすると言うのはそういう事だからだ。
今まで俺はエクレシアやサイリス、クロムやクラウン、ラミアの婆さまと色々な魔術師に出会ってきた。
しかし、その中の誰一人として、ちゃんとした魔術の術式や原理を俺に教えた者はいなかった。
会って間もない頃に一度エクレシアに聞いたことがあるが、曖昧に濁された。
魔術の研究やその成果は、その人間の半生そのものなのだ。
簡単に教えるようなら、そいつは魔術師じゃない。
「それに、私の弟子になるってことは、大師匠の弟子の弟子の弟子になるってことなのよ?
あの大師匠や師匠の身内になるってことなの。あの人たちに無茶ぶりされても文句は言えなくなるし、何かやらかしたら直接粛清を受けるかもしれないの。」
「ハン、むしろ拍が付くやないか。」
「信じられない・・・。今言ったことは私にも当てはまるのよ?
今から私が貴女の魂分離実験を行うわー、なんて気まぐれで言っても、拒否させないしそう言う契約を入門時にさせるわ。」
クロムの言葉は、多分マジだった。
こいつは研究のためなら何でもするし、実際何でもしてきたんだろう。
魔術師に現代の倫理や常識なんて語っても無意味なのだと、エクレシアは言っていた。
そんなものは彼らにとって、個人的傾向に過ぎないのだ。
「あんさんがそんなことをさせる魔術師なら、それはウチの眼が曇ってただけや。」
「・・・・・・。」
クロムは押し黙った。
何だか最近のフウセンは、あの『悪魔』に出会ってからなんだか少し変わった気がした。
「今は大分形骸化しているみたいだけれど、貴女は私を殺せる?
同じボトルに入ったワイン、私と貴女はそれを取り合う仲になるのよ。そして間違いなく、私は貴女に負けるでしょうけれど。」
それは、俺が初めてクラウンに会った時に聞いた話にも関係する。
火を何もないところから出す“神秘”を持つ者が居て、人々がそれを畏れる。
それが二人に成れば、その畏れは分散する。
魔術の効力を裏付けるのはその畏れであり、神秘性なのだ。
その絶対量の分散は、なんにしても魔術師は避けなければいけないことなのだ。
火を起こす術が拡散し、現代でライターやマッチの火を畏怖する者はいない。
だから魔術師はこの世の歴史の裏側に隠れて、姿を隠匿して生きている、らしい。
「師匠がどうして、無能呼ばわりされるか知っている?
大師匠を倒せていないからよ。そうして自身の存在が神秘性の分散を許している。
それを言っている大半の魔術師は、神秘性の薄まった脆弱な魔術しか扱えない哀れな連中ばかりだけれど。
私はそれを許さないわよ。私の弟子は、私に恥じない存在でなければならないもの。」
「じゃあ、それはあんさんもそうなんやないの?」
「私はまだ師匠たちの領域には達していないもの。
それに少なくとも私は、師匠があの大師匠に劣っているとは思えないもの。」
「そうなのか? あの人すごく大師匠にビビってたけれど。」
俺は思わず口を挟んでしまった。
師弟関係を結ぶかどうかは俺が口を出す話じゃないし、黙っていたのだが。
「『盟主』が無能だって評判は知っとったけど、流石にウチらの前でそないなこと言う輩はおらんかったな。
まあ、実際、『盟主』の魔術を見たことはウチらでも全く無かったから、そう言われてもしゃあないかも。
なんちゅうか、直接会えば分かるんやけれど、『盟主』からは覇気とかカリスマとか、才覚みたいなもんが一切感じられへんのよ。」
すると、意外にもフウセンがそう答えた。
元直属の“処刑人”だけあって、その言葉には信憑性は高いのだろう。
「師匠は大師匠に委縮し過ぎなのよ。まあ、威厳を感じられないのは同意だけど。
私が弟子入りした当時からああだったわ。見ていてアホらしいくらいにね。」
そうは言うが、その理由は分かる、とクロムは言いたげな表情だった。
「それにあの大師匠の唯一正式な弟子なのよ、遊び半分な訳が無いじゃない。
師匠は偉大な魔術師よ。その証拠に師匠は“創世魔術”を行使できる。その技量は神の領域にまで踏み入れているのよ。」
彼女にしては珍しいべた褒めに、俺は少し驚いた。
「びっくりした、あんたが他人をほめることがあるんだな。」
「師を尊敬できない弟子に、魔術を学ぶ資格は無いと最近悟ったのよ。」
妙に気障ったらしく格好つけてクロムはそう言った。
最近分かるようになったが、こいつは性に合わない事を言う時はこんな風におどけるのだ。
指摘しても詰まらないなので黙ってるが。
「んん? “創世魔術”ってどっかで聞いたことが・・・。」
「あれだろ、魔術を究めると使えるようになるっていう神に匹敵する秘術だとか。」
俺には縁が無いだろうから、誰かが前に言ってたのを話半分で覚えていた。
「貴方には体験したから分かるでしょうけど、あの悪魔の“象徴顕現”みたいなものよ。原理は同じだし。
一つの体系の魔術を究めて、その現象を司ると言えるほどになると、自らが一つの法則としてこの世に具現化できるようになるの。
それが“創世魔術”。まさしく自分の『世界』を創造する魔術なの。
言葉にするのは簡単だけれど、それは選ばれた一握りの天才にのみ許される境地よ。無才がここに至れることは決して有り得ない。」
そしてクロムが補足するようにそう俺たちに言った。
「私もなんとなく、その感覚は掴めているのよ。
ただ切っ掛けが足りないと言うか、喉から出かかっていると言うか・・。」
何だか変な手の動きをしながらクロムはそう続けた。
まあ、こいつの才能自慢はいつもの事だ。
「そんなすごい魔術が使えるのに、『盟主』は無能なのか?」
「まあ、実際この『本部』の運営は御世辞にも上手とは言えないけれど。
そこまで極めてしまえば、もう神秘性の拡散やら論じるのは無意味な段階だと思うのだけれどね。
うちの大師匠の系譜は不思議と専門分野がそれぞれ被っていないから、ある意味では師を下して神秘性を守るなんて必要性は無いのかもね。」
確か、大師匠は黒魔術全般、その弟子の『盟主』は知らないが、その弟子のクロムのオリジナルは錬金術、その妹弟子である“処刑人”筆頭が弓系の魔術だったっけ。
本当に見事に専門が被ってない。
「じゃあ、あんさんが『盟主』に挑む必要はないんじゃ・・・。」
「え、なんで?」
フウセンの言葉に、クロムは不思議そうに首を傾げた。
「私は師匠の弟子で、師匠の弟子が私なのよ?」
「・・・あの、何言っとるのか分からんやけれど。」
「分からないの?」
俺はその時、なぜか背筋に寒気を覚えた。
本能が、恐怖を訴えたのだ。
「師匠の素晴らしい魔術は、弟子である私が引き継ぐ資格と権利があるの。ええ、殺して奪い取ってでもね。
師匠がいつまで経っても“創世魔術”を発展させ、神の領域に自らを昇格しないと言うのならば、それは怠慢じゃない?
停滞した師の魔術を引き継ぐことはとても大事なことだもの。」
クロムは満面の笑顔で言った。
欲しいから、奪うのだと。
それは当然の権利だと。
俺は反射的に目を逸らした。フウセンが唾を呑む音が聞こえた。
大師匠が魔術師の不気味さそのものなら、クロムは魔術師の恐ろしさそのものだった。
俺だってその生き方を選んだ同じ穴のムジナだというのに、ここまで自分の在り方に疑問を抱かずに邁進できる彼女が怖かったのだ。
彼女は以前、言っていた。
自分の頭の中の知識は自分自身より大事で、それは自分の命に代えても次の世代に引き継がないとダメなのだと。
完璧な魔術師の思想だと、エクレシアも顔を顰めていた。
そう、彼女は完璧なまでに魔術師なのだ。
「フウセン、貴女も私に師事して錬金術を学びたいと言ったのなら、いずれ分かるようになるわ。
叡智を求める探究心と言うのわね、底無しの泥沼のようなものなのよ。
欲すれば際限なく、求めれば求めるほど深みに嵌るの。それが徐々に満たされていく充足感は性的快感に勝るとも劣らないもの。」
「いや、多分それはあんただけや。」
「それはお前だけだろ。」
恍惚の表情で語るクロムに、俺とフウセンは同時にそう言っていた。
「まあ、ウチは錬金術とか頭痛くなりそうな学問はええよ。あんさんと取り合いはしたくないし。」
「あらそう、まあここまで言って引かないのなら、それなりに覚悟はあるんでしょうね。」
そこでふと、クロムはとても邪悪な笑みを浮かべた。
十中八九、碌なことではないはずだ。
「良いわ、弟子にしてあげる。実はオリジナルの私もそろそろ身持ちを固めるにしても相手が居ないから、弟子を取るかを考えていたところだし。
貴女ほど才覚なら、教え甲斐があって申し分ないんじゃないのかしら?」
「ほんまかッ!!」
「ええ、今すぐ全“私”会議を行って承認させるわ。
師匠がうるさいかもしれないけれど、まあ万が一の場合は私が師匠に仇なすの初めてじゃないのだし構わないか。」
そう言ってクロムは不気味なほど清々しい笑顔でフウセンに頷いてみせた。
そのまま俯くと、黙り込んでしまった。
「おい、絶対何か企んでるぞ。今月の給料掛けても良い。」
「師匠になる人の企ての一つや二つに乗らんで、何が魔術師や。
陰謀、謀略、どんとこいや。ウチは元“処刑人”なんよ。」
「・・・・そこまで言うなら止めないけどさ・・。」
まあ、そんなのは今更か。こいつが危ないやつだっていうのは初めて会った時から知ってるし。
「決まったわ。」
そして、本当にすぐにクロムは顔を上げて答えを出した。
「賛成819票、反対52票、無効票29。
よって、フウセンの弟子入りを可決します。」
どうやら全“私”会議とやらは、投票まで行ったらしい。
若干、違和感を感じたが、クロムはそう言った。
「ほんまか!! じゃあ、これから師匠と呼ばせてもらうわ、クロムさん。」
「ああ、今の私は個体名クロムじゃないわ。オリジナルよ。」
彼女はそう言って、胸のプレートを首から取り外した。
それを付けていないのは唯一、“彼女”らのオリジナルだけらしい。
だから今の彼女は、オリジナルなのだろう。
「数日振りね、まさか貴女から弟子入り希望なんて。貴女、見る目はあるわね。」
ふふふん、とどこか上機嫌でクロム・・・メリスは笑った。
俺の感じた違和感の正体はそれだったのかもしれない。
「私が最初に貴女に命じるのは、大師匠にこのことを報告する事よ。
そちらがダメならこちらの伝手でコンタクトは取るけど、その場合はまた“私”に言ってくれればいいわ。
とにかく、大師匠の認可さえ受ければ、師匠は何が有ろうとも逆らえない。そう、たとえ私が魔王を弟子にしようともね。
もし、大師匠がダメだと言うのならばこの話は無かったことになるけれど、その時は対外的な名分変えるだけだわ。」
どうやら、メリスとしてはフウセンの度胸を気に入ったらしかった。
彼女のどこか値踏みするような視線には、多分に優越感と誇らしさが混じっているように見えた。
「あのー、メリス・・さん?」
「なにかしら?」
クロムより若干偉そうな態度のメリスに、俺は意を決して声を掛けた。
「あのですね、フウセンのついでで良いですから、俺に魔術の使い方を教えてくれないか、と。」
「・・・・どういうことかしら?
確か貴方には魔導書もあるし、戦い方を教わっているパートナーも居るそうじゃない。」
「俺が教えてほしいのは、実戦での魔術を使った本格的な戦い方です。
それにはどうしても、俺とエクレシアでは違いが大きすぎる。」
「そうね、確かに防護力特化の聖堂騎士と、身体能力を生かして攻めるギリシア系の魔剣士では方向性が全く違うわ。
貴方のパートナーは身の守り方や最低限の戦い方は教えられるけれど、どうしても魔術を効果的に攻めに使うのは不得手でしょうね。」
役割分担が出来ていてピッタリなんだけれど、とメリスは苦笑した。
そう、俺には俺とエクレシアに無い物が必要だった。
あの死神に対抗するにも、俺がもっと高みに行くにも、今まで通りの戦い方ではダメなのだ。
エクレシアでもなく、ジャンキーのでもなく、俺自身に最適な戦いが。
「貴方との戦闘記録は全部把握しているわ。とても興味深い資料になったわ。
私および“私”全体から見て、貴方を鍛えるのは個人的興味を含めてやぶさかではないわ。
フウセンにもその訓練は必要だし、お互いに刺激を与える意味でも貴方の存在は有用だと思うわ。
だけど、一つだけ言っておきたいことがあるわね。」
「・・なんですか・・・?」
「そう言う大事なことを、パートナーに相談せずに自分で決めるんじゃないわよ。」
何を言われるかと身構えたが、ぐぅの音も出なかった。
確かに今後の戦術に関わることだし、エクレシアに相談の一つでもするべきだった。
今俺は自分の問題に直面していて、それが疎かだった。
俺は恥じ入るように顔を伏せた。
「分かっているのならいいわ、ああ、あと私は剣士じゃないから貴方に合わせて教えるつもりはないから。
だから鍛錬の過程で幾つか魔術を伝授することになると思うから、貴方も私を師と呼びなさい。」
「わかりました・・。」
流石にそこまでは望んでは無かったが、彼女は一度教えるとなると妥協するつもりはないのだろう。
それはさっき弓術の卒業を言い渡された時にわかってたことじゃないか。
「二人とも、これからは大師匠の系譜に連なる者として覚悟するように。
その重みは嫌でも理解せざるを得ない時がくるでしょうから、私はとくには言わないけれど。」
最も偉大な魔術師の系譜、その重みが意味するところは、まだ俺には分からない。
だが彼女の表情からなんとなく察することが出来た。
最も深淵に近い血で通わない魔術師の系譜、何千年と続く歴史の体現者となるのだ。
きっと、それにふさわしいパフォーマンスを必要とされるのだろう。
「さあ、そろそろ行きなさい。もう師匠に話が行くはずよ。手を打たれる前に行きなさい。」
俺たちは頷くと、大師匠の下へ急いだ。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「ま、いいんじゃない別に?」
そして大師匠の返答は、こんなあっさりとしたものだった。
今は倉庫代わりに使われているラミアの婆さまのテントに安置されている魔具を通して、俺たちは大師匠に報告をしていた。
「まあ正直なところを言うと、気に食わないの一言だけれど。」
そう言って、大師匠は俺たちを指さす。
「魔族の首魁候補に。」
フウセンに。
「その魔族と仲良くしたいとかほざく大馬鹿野郎。」
俺に。
「状況が今みたいなものじゃなかったら、すぐにでも八つ裂きにしてるよ。」
まるで家に沸いた虫の処遇を決めるように、大師匠は笑みを浮かべながら言った。
「では、なおのことわかりません。
すごい才能を持つフウセンはともかく、なんで俺まで・・・。」
確かに俺は大師匠の叡智を魔導書から受け継いではいるが、彼が目を引くほどの才能が俺にあるとは思えなかった。
メリスの気まぐれに等しい一言で、大師匠の系譜に名を連ねるなんてとてもじゃないが、恐れ多い。
「いや別に僕は誰がどんな弟子を取ろうが、それに口出しするつもりはないんだよ。
それは弟子たちの自由だもん。当然、その責任も彼女らにある。
僕から言えることは、せいぜい僕の顔に泥を塗らないように頑張れってとこかな。
あと僕の手を煩わせるなってとこかな。粛清は基本身内が直接行うから。」
大師匠たちが直接殺しにくるなんて、想像しただけで身震いがした。
「でも最大の要因は、あれだね。リュミスが困るからかな。」
「えッ」
「え・・・。」
「えっ、て言われてもね。あいつも生身で長く生きている、何て言うかな、生きてる実感がよく分からなくなるんだよね。
だから僕が定期的に刺激を与えてあげているのさ。僕って優しいねぇ。」
大師匠は可笑しそうに笑って言った。
控えめに言って、鬼畜だった。
「この状況も十番目の時に比べれば何でもないに等しいし。
さて、これであのバカ弟子がどう動くかなぁ。最近のあいつの行動パターンは疑わしきは滅す、ばかりだからさ。
だからこう手が出せない状況で、どうアクションを起こすか・・・面白いでしょ?」
いや、面白いでしょ、と言われてもどう返せばいいか分からない。
大師匠はくっくっく、と不気味な笑みを深めた。
「それにしても君たちは本当に愚かと言うか、何と言うか。
被虐趣味でもあるのかな。わざわざ進んで僕の玩具になりにきたんだから。
僕が図らずとも、君らは僕の意思に振り回されることになるだろう。
言っておくけど僕の知識の恩恵の対価は、人間としての尊厳だから君はもう支払っているとも言える。」
大師匠は俺を見ながら言った。
確かに俺は、大師匠の魔具と魔導書で人生を狂わされ、魔族の領域で人として色々な物を失い、得てきた。
「君の場合は、もう“人間”として失うものは無いか。」
「ッ・・・。」
フウセンは唇を真横にきつく結んだ。
「なんだ、よくよく考えれば君らこそ、我が偉大なる魔術の始祖に連なる系譜に相応しいのかもしれないね。
我が魔術の神髄は人から外れる事にある。君らはもう十分、自分を切り捨てているみたいだからね。
・・・だからこそ、人として何を残すか良く決めておくといいさ。」
俺は大師匠の言葉に素直に一礼した。
嫌味ったらしい言い方だが、こちらに気を使って助言をしてくれているのだから。
「存分に励めよ、そしてこの世界の理の大いなる礎になるんだ。」
その言葉に、俺とフウセンは一礼して、もう話は終わったと思い踵を返した。
結局、俺もフウセンも委縮して殆ど何も話せなかった。
俺は時々相談に来るので、いつもならもう少し気軽に話しかけられるのだが、今日は気軽な世間話とは訳が違った。
メリスへの弟子入り、大師匠の身内になるという事だ。
それがどういうことだか、意味するところを想像するだけでも気が重い。
「ああ、君はもう少し話すことがあるから待って。」
ふとその時、俺だけ大師匠に呼び止められた。
俺はフウセンにアイコンタクトして先に行くことを促すと、大師匠の方に再び向き直った。
「どうだい、あのクソ野郎の遊び相手の方は。」
「遊び相手と言うのは、いささか過激な相手ですね・・・。」
俺は歪な苦笑いを浮かべるしかなかった。
話の内容は勿論、あの夢に現れる死神の事だ。
何となくあれを理解できるのは大師匠だけだと思ったから、以前に一度相談したことが有ったのだ。
その時は自分に何が起こっているのか、具体的な回答は保留だったのだが。
「そりゃあ、あいつは強いからね。
強さだけなら僕らが当時組んでたパーティ全員合わせてギリギリ辛勝できるってぐらい、あいつの強さは突出していた。」
「魔王を倒したメンバーで、ですよね?」
「まあ、あいつ自身強い敵を求めて僕らが戦ってる最中に魔王に挑むような気狂いだからね。」
「・・・理解できません。」
俺は何が有ろうとも好き好んで全ての断片を集めた完全な状態のフウセンに挑むことなんてありえないだろうから。
「それくらい、あいつは殺人・・いや戦闘中毒なのさ。
あいつはね、人殺しの天才なんだ。恐ろしいことに、戦いながら成長できるなんてことが出来るふざけた奴なんだよ。
奴は生まれながらの戦闘者で、どうしようもない殺人鬼だが、殺人と言う行為自体には意味を求めていない。
誰からも見下されるのが嫌だと言う理由で、ただ何者にも負けない力を求めつづけ、祖国に逆らい、禁忌にも手を染めた。」
「そんな理由で?」
「本当にそんな理由なんだよ。
奴には殺し合いしかないから、それ以外を偽る理由なんてないんだ。」
まるで悪魔のように、有り方が極端に純粋なのだろう。
「そしてその想いは、真理にまで至った。」
「・・・“創世魔術”。」
「そう、奴は魔術ではなく、力の探究のみで一つの『世界』を自身の内側に作ることを可能にしてしまった。
武力の極地だ。もう誰もあいつには力で勝てないまでに至ったのさ。
僕が万全の状態で挑んでも、僕は奴に勝てる気がしないだろうね。」
俺は大師匠の言葉にずっと溜まっていた唾を呑んだ。
「大師匠にも、勝てないのですか?」
「ああ、勝てないね。だけど、倒すことはできたみたいだ。
先日僕の本体が連中と出くわしたみたいでね、殺しても転生するし、再起不能にまでおいこんでやったよ。」
それは言葉遊びに近い内容だった。
だけどその微妙なニュアンスが、魔術の世界では重要なのだろう。
物事にはさまざまな側面がある。押して無敵なら引いてみろ、ということなのかもしれない。
「いったいどうやって・・・。」
「呼んだのさ。例外的に奴に勝てる・・・ただ一人、奴の宿敵だった僕の親友をね。
まあ、とにかく、それで転生する死神と言う現象はそれで終止符を打ったのさ。」
「では、もう終わった死神がどうして俺の前に・・?」
「君の前に現れているのはその残留思念みたいなものなのかもね。
なにせ、武力だけで神域に踏み込もうとしていた奴だ。本体と分離して一人歩きぐらいしていてもおかしくはない。」
「俺からしたら訳が分からない状況なんですが・・・。」
少なくとも俺の常識に、死んだ人間の精神が分離するなんて聞いたことも無い。
「誰かに害を与えるほど力があるわけでもなく、直接君に災厄として降りかかっている訳でもない。
多分、奴の分離した精神は、感応する魂の持つ主に意識を投影しているのだろうね。
亡霊が自分の無念を誰かに伝えようとしているのと同じかな。まあ、奴が何を伝えたいかなんて、言うまでも無いよね?」
「戦闘狂にも程がある・・・。」
「残念ながら、あいつは際限ない戦闘狂なんだよ。」
俺は頭が痛くなった。
滅ぼされてなお、戦い足りないと言うのだろうか。
人生を何度も繰り返してなお、まだ殺し足りないと言うのだろうか。
まったく、理解できない。
「探せば分かるだろうけど、恐らく君以外にも感応する人間に同じようなことが起こってるだろうね。
これは所謂、一定の条件下に起こる現象だから、結界とかで簡単に予防できるだろうね。」
「ああ、幅が広い分だけ、影響力が少ないんですか?」
「勘が良いね、その通りだよ。」
でなければそれだけの強さを持つ死神が、俺を殺せない筈が無い。
「でも気を付けた方が良い。
君から聞いたところ、奴は更なる死を経験したことにより、より完璧な“死神”に近しくなっている。
だからこそ、こんな現象が起こるんだ。分かるかい?」
「いままでより、“神”に近づいているという事ですね?」
「そうさ。現象とは、法則の事だからね。
とは言え、“月光”も居ないみたいだし、高が知れているか。後は・・・あの魔剣さえ使われなければ大丈夫か。」
そこまで言って、うん、と大師匠は深く頷いた。
「君があいつを本気にさせられるわけないもんね。」
大師匠はあからさまに馬鹿にした視線を送ってきたが、事実なので何も言い返せない。
「ああ、そうだ。身内になった祝いに僕から餞別をあげよう。
あっちの方は・・・この間術式をあげたからいいよね。」
ふと、大師匠は気まぐれを起こしたのか、ポイッと俺の方に何かを投げてきた。
「これは・・・・たんす?」
師匠が投げて寄越したのは、20センチくらいの細長い棒状の和箪笥だった。
形としてはテレビのリモコンが一番近いか。十個ある引き出しがそれぞれボタンになっている。
「見た目はね。僕は“タクティカルバトルドレッサー”と名付けた。
長いから略して“ドレッサー”で良いか。試しに一番上の引き出しのボタンを押してみなよ。」
「は、はい。」
俺は言われるがままに、一番上の引き出し型のボタンを押した。
「うぇッ!?」
すると一瞬で、俺の着ている服が煌びやかな純白のドレスになった。
「来ている物を入れ替える魔具さ。もう一度同じボタンを押せば元に戻るよ。」
「はい・・。」
俺を見て笑っている大師匠の言う通り、もう一度押したら着ていた服に戻った。
「それさえあれば、一瞬で私服から完全武装が可能だよ。
全部で十種類まで登録可能で、この中に入っている間はどんな感知にも引っかからない。」
「これはどちらかと言うと、俺よりエクレシア向きの魔具じゃないですか。
と言うか、絶対作ったら邪魔になったから俺に押し付けようって魂胆じゃないですか?」
最近知ったのだが、師匠は余計な物を自分の部屋に置かないタイプの人だ。
そのくせ、この人の得意分野は魔具の作成。
では、魔具を作ったらどうするか?
下界に放り捨てるのだと言う。
当人は本当にそれを必要としている相応しい持ち主が使うべきだとか言っているが、要は興味が沸いたけど作ったら飽きた、という事なのだ。
そう言う代物が地上には千以上転がっている、とはそれの回収封印を仕事にしていたエクレシアの弁だ。
中には世界のパワーバランスを引っ繰り返せるものもあるらしく、それを聞いたときはどうかしているとさえ思った。
「はははは、何を言っているのかな。
ともかく、これはいつも付けているリミッターとか全部オミットしているから、誰でもその機能を使えるのよ。別に危険な物じゃないし。」
「実は付ける前に飽きたとかそういうのじゃないんですか?」
「あ、どうしよう、気が変わって君をぶちのめしたくなってきた。」
「失礼しましたー!!」
どうやら完全に藪蛇だったらしい。
俺は逃げるように踵を返した。
「君は面白いからね、あとで魔導書を見ると良い。今の君に役に立つだろうからね。」
俺の背中に、大師匠のそんな言葉が被せられた。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「正気ですか、メイさん!?」
会ってそうそう、エクレシアの第一声はそれだった。
メリスの報告しに戻ると、先に戻っていたフウセンのほかにエクレシアまで居たのだ。
きっとメリス辺りが呼んだに違いない。いつもなら彼女は教会に居る頃だから。
「いや、何も言わずに決めたことは悪いと思ってるよ。」
「それもありますけれど、貴方は『黒の君』のネームバリューを知らな過ぎる!!
彼の名で受けられる恩恵と、被る損害は決してイコールではありません!!」
エクレシアはすごい剣幕で捲し立てたが、それだけ彼女は俺を心配してくれているのだろう。
俺はとにかく、彼女に事情を懇切丁寧に打ち明けると、何とか不承不承ながら理解を得られた。
・・・きっと納得を得るには多大な時間が必要だろう。
「その様子だと、貴方も了承は得られたようね。」
「ついでにお土産まで貰ったよ。」
一瞬迷ったが、俺が使いこなせるわけも無いのでメリスに魔具“ドレッサー”を預けることにした。
「ふーん、なるほど、・・・これはまたとんでもないマジックアイテムね。」
メリス・・いやもう師匠と呼ぼう。
師匠が掌に展開した魔法陣の上に“ドレッサー”を置いて、何度か自分で試しながらそう呟いた。
「サイネリアちゃんが聞いたら絶対欲しがりそうなモンやなぁ・・。」
と、フウセンが呟いた。
「ただ一瞬で着替えるだけの魔具じゃないんですか?」
「衣装の質量に関する制限が無いとしても?」
「え? どういうことです?」
意味が分からなかったので問い返したら、師匠はふんと鼻で笑った。
「私が作ったパワードアーマーどころか、“衣装”だと言い張れば要塞だろうと城砦だろうが収納できるのよ。」
「何そのチート。」
「まあ、衣服と見做されるには色々と条件があるみたいだけれど、これをクリアするのは余裕よ。」
そんなどや顔を披露する師匠に近づいて俺は言った。
「ちょいちょい師匠。」
「なによ。」
「それはダメでしょう。」
「なんでよ。」
「それはほら、あれですよ。ドラえもんの道具は使い方次第で世界征服とか余裕じゃないですか、しかしだからと言ってそれを想像するのは野暮じゃないすか。
これも一緒ですよ、裏ワザを使って本来の目的以外に使うのは、ちょっと・・。」
「それもそうね、確かにそれは無粋ね。道義に反するわ。」
果たしてこの人の道義とはなんなのか小一時間は問い詰めたい。
いや魔術師的には有りなのかもしれないが、俺は大師匠に何を言われるか分からないからやめた方が良いと思ったのだ。
なんであの人はあんな代物をぽろっと渡せるのだろうか。
どうせ悪用しても高が知れていると、思っているのだろうか。
「とりあえず、これからは貴方達を私が師として直接指導することにするわ。」
「クロムじゃないんですか?」
「格好と対面の問題よ。弟子の指導をしているとなれば、誰も私をサボってるなんて言わないわ。」
「は?」
「ごほん。とにかく、そういう訳だから・・・・。」
師匠はそう言うと、足元に置いてあった数冊の分厚いハードカバーの本を持ち上げ、フウセンに押し付けた。
「これは何なん?」
「上から、私がまとめた属性魔術の理論書、八属性の術式と特性ついての解説、実践に使える術式の一覧等々。
これを三日で頭に叩き込んできなさい。」
「ええと、師匠・・・ウチの持つ断片は『叡智』やなくて『才能』なんやけれど。」
確か、魔王の記憶力は『叡智』が受け持っている場所だ。
幾ら才能があるとはいえ、三日でフウセンがあの量を覚えるのは難しそうだ。
「ええ、だから体で覚えればいいじゃない。
私は知っているのよ。貴女の空き時間の多さ。あとこれくらい貴女の肉体の強靭さをもってすれば、余裕よ。」
「三日、寝ずでやれ言うんか!?」
「私の計算では可能だと出たわ。出来なければ、更に追加するからそのつもりで。」
彼女の悲鳴じみた声を聞いても、師匠は眉ひとつ動かさなかった。
フウセンは御世辞にも勉強が得意ではない、とフウリンから聞いたことがある。
俺は内心で彼女に手を合わせた。
「貴方はこれね。私が汎用性の高い便利な属性魔術をまとめておいたわ。
これを三日で全部モノにしてきなさい。」
「うぇッ!?」
そして師匠が俺に突きつけたのは、バインダーに収められたルーズリーフの束だった。
フウセンに比べればマシだが、これはこれでキツイ内容だった。
「あの、こういう事言うのは何ですが、こんなに簡単に魔術を伝授してもらって良いんですか?」
「え? ああ、これは良いのよ。
今あなた達に渡したのは、最下級の雑魚魔術師どもが扱うような神秘性の欠片も無い“属性魔術”の術式だから構わないのよ。
その所為で最上級魔術でもなければ、魔族には有効打にならないくらいのしょぼい魔術体系よ。
とは言え、外部ではなく自分たちに働きかけるような補助系の魔術は使いやすい優秀な物が揃っているから、使いこなせれば便利なのよ。
弱点は術式が普及しているからディスペルに弱いけど、他者の干渉は難しいから考えなくていいわ。」
だからさっさと覚えてこい、師匠は笑って再度バインダーを突き付けた。
「・・・・・・・。」
「それで、貴女の訓練は彼女の協力を得る事にするわ。」
顔をひきつらせている俺に、師匠はエクレシアを指さした。
「え? エクレシアも協力してくれるのか?」
「貴方達がそれを頭に叩き込んだら、私が最初に二人に教えるのは対魔術師戦闘のやり方よ。
彼女はその専門家みたいなものだし、彼女に貴方の事を話したら“善意”で協力してくれたわ。」
嘘吐け、俺とエクレシアの関係を知ってるから利用しただけだろ。
と、俺が睨んで訴えても、師匠は嫌な笑みを浮かべたままだった。
とは言え、それは是非とも教わりたかったことだ。
なぜかは知らないが、俺は何かと人間の魔術師と戦うことが多いみたいだから。
「あの、流石に三日は無茶なのでは・・?
普通一つの術式に掛ける時間はひと月単位、難易度が高ければ年単位の筈ですが・・」
流石にエクレシアも無理だと思ったのだろうか、師匠に苦言を呈そうとしたのだろう。
「別に出来なくても良いのよ。でも私はそれくらいで出来たもの。
貴方達もできるわよね、だって大師匠の系譜に連なる者なんですから。
私が師匠に言われたことは、期限付きだろうと難題だろうと、全て完璧にこなしてきたわ。そのついでに妹弟子の課題も手伝ってやったくらいよ。
ほら、早くページを開いて文字食らいつきなさい。人生五十年、時間は有効活用しないとだめよ。」
「俺たちの頭のデキを師匠と一緒にするなよ!!」
ダヴィンチやアインシュタイン並みに頭のメリスと、魔王候補のフウセンはともかく凡人の俺にそんなの無理だ。
と言うか、師匠アンタ絶対五十年で終わる気ないだろ。
あんたみたいな強大な魔術師がそれくらいでくたばるなんてあり得るか。
「私はがんばれと言ってるんじゃないの、脳髄に刻み込んででもやれって言ったのよ。」
師匠は笑いながら言ったが、目は笑ってなかった。
本気で彼女はこれくらいできて当然だと思っているのか。
「なんという無茶ぶり・・一代で一つの魔術体系を究めさせる気ですか・・。」
「こんなの序の口よ。私は熟達しろとは言っていない、覚えるだけなら簡単よ。
と言う訳で方法は問わないから、期限は守りなさいよ。」
エクレシアの言葉も意に介さず、メリスはそう言ってプレートの鎖を首に巻いた。
「あらら、だいぶ無茶言われたみたいね。」
雰囲気が師匠からクロムに戻った。
彼女はもうクロムだった。
「とにかくどうにかせなあかんな・・・。」
フウセンが力無く一番上のハードカバーの表紙をめくって、静かに閉じた。
「ふ、ふうりーん!!!」
そしてすぐ涙目になって彼女は城内に駆けて行った。
「・・・・・・・。」
俺はバインダーの厚さを確認するように見下ろしてから、助けを求めるように二人に目を向けた。
「じ、時間が空いたときなら協力しましょう。」
「私は嫌よ、正解を教えるなんてつまらないもの。」
エクレシアとクロムの反応は正反対だった。
「くそう・・・早まったか。」
「だからそう言ったではないですか。」
エクレシアの言葉が、惨めな俺の両肩に圧し掛かった気がした。
最近は就活で忙しく、時間が取れません。
モチベーションが高くないせいもあり、更新頻度はあまり高くありませんが、時間を取って何とかしてみます。
それでは、また。