第六十五話 蛇と追放者
「ふーん、案外数奇な人生を歩んでるんだね、“笹舟”ってさ。」
俺の身の上話を根掘り葉掘り聞いておいて、まるで取るに足らないと言わんばかりの態度であの『悪魔』はそう言ったのだ。
というか、俺のこと全く知らずに、ただ一目俺を見ただけであんなにズバズバと好き勝手言いやがったのか、こいつ。
「なんて言うかさ、僕は出来の悪い英雄譚の序章を聞かされた気分だね。
だって古今東西、君みたいに悲惨な出来事に巻き込まれている英雄は数知れない。
君がそこに加わるかどうかの瀬戸際ってだけで、別に取り立てて希少な話ってわけでもない。
ただ君は英雄らしく運命に翻弄されて、時勢に流されて、当り前のように結果を残したってだけだろう?
それともなに、褒めてほしいのかい? 偉いね!!」
「じゃあ、俺のしてきたことは間違いで、あんたの言うとおり無意味だって言うのかよ。」
「いやいや、僕は君にしかできないことをしたと思っているよ。
ただ、それは別の君がしなくても別の誰かがそれをしたって可能性はあるけど。世の中上手く出来ているんだ。」
「じゃあ、結局無駄なんじゃねーかよ。」
俺は俺なりにがむしゃらに生きてきた。
確かに俺のやってきたことは、もしかしたら俺以外の誰かにも出来たかもしれない。
俺より強い奴なんて、この世に幾らでも居ると思い知った。
そう言った連中が、あっさりと俺の苦悩も悲しみも軽々と踏み越えて終わらせるんだ。
「僕は君の成した事まで否定しないよ。
他の誰が同じことをしても、君のように最善の結果に至れるとは限らない。
だから言ったろ、君は君にしかできないことをしたって。
君の役目は誰かが出来たかもしれないけど、君の代わりはできないよ。君は唯一無二なんだから。」
「・・・分からないな、あんたは俺に何が言いたいんだよ。」
この『悪魔』は俺の全てを嘲笑って否定しながら、その上で俺と言う存在を肯定しているのだろうか。
少なくとも、俺を励まそうとしてそう言っているのではないのだろうが。
「分からないかなぁ、君は誰にでも出来ることではなくて、自分にしかできないことをやって見せようとか思わないのかい?」
そして何を言ってくると思えば、そんな訳の分からない話だった。
「昔ならいざ知らず、今の時代でオンリーワンのことなんてそう簡単にできやしないんだよ。
俺は、あんたの言うところの無価値な、社会の歯車で十分だ。それはそれで、無価値なりに役に立てるってもんだろ。」
「ふんふん、案外立ち直りが早いんだね。
いや、結局君は流されるだけなんだから、それは君の意志だけどそうじゃない。
君は自らの意思で大局的な決定を放棄しているんだ。」
「それが悪いことだってのか? 今時、どこを探してもそんな人間ばっかりだ。俺はその典型に過ぎないんだよ。」
「悪いとまでは言わないさ。
ただ、僕の本質からして、一般的である大多数の意見=無難に正しい、って答えに疑念を投げかけたいね。
僕はそう言う奴らが大っ嫌いでね。とにかく他人に同調して個性を消せば生きていられると思ってやがるのさ。
個人的には、許せないね。それが人間と言う生物の性質だとしても。」
「・・・・悪魔ってのは、思想家なのか?」
俺は皮肉っぽくそう言ってやった。
「誰だって自分について考えたりするだろう?
僕は思想家だなんて言えるほど、大層な考えを抱いたりしていないさ。
それに、人は人の数だけ思想が有る。思想家と言うなら、人間誰しも思想家と言えるんじゃないかな?」
「俺は思想家だったのか、初めて知った。」
なんと言うか、随分とロマンチスムの溢れる話だった。
「いや、君はどうかなぁ・・。」
が、即座に否定されてしまった。
「君は今までの人生で社会に迎合しつづけ、この魔族の領域に来て強い刺激を受けて初めてそれまでと違う自分に成れたとか思ってるでしょ?」
「・・・・・・・。」
「その顔は図星だね。君は極めて受動的だ。
思うに、自分から何かを成したい、とか思ったことは無いんじゃないかな?
そうだろう? 君の理由は、いつだって他人が関わっている。君は自己が希薄なんだよ、だから君は、人生の目標を決めた方がいい。」
「あんたは俺のカウンセラーか何かかよ。」
思わず強がってみたが、それは彼に指摘されたことだと思いだして急に気恥しくなった。
言われて見れば、確かに奴の言うとおりだった。
クラウンに協力しようとしたのも、クロムの目的に付き合わされたのも、ミネルヴァの面倒をみる羽目になったのも、エクレシアの為に魔術師として生きることを決めたのも、フウセンや魔族の連中の為に戦うのも、何一つ俺がそうしたかったからじゃないのだろうか?
俺は、その中でも何か一つでも俺がしたくてしたことなんてあったのだろうか?
・・・・俺は、愕然とした。
「違う・・・。」
だが、それは認めてはならない。
俺と言う人間の根底から、それを認めてはならないと軋みを上げながら叫んでいる。
「違う、違う。」
だって。
だってだって。
だって・・・それを認めたら、俺を認めてくれたエクレシアの想いを否定することになるから。
彼女と共に重荷を分かち合っていくという誓約が、嘘に成るから。
「ふーん、それが君の“芯”なのか。それが何かは知らないけど、きっとそれも他人に依存しているんだろうね。
ふふふふふ、何だか僕たち似ているかもね。僕も“悪魔”。人間に依存して生きている。」
「俺は鬼だ。そうなったと、思っていた。
自分の目的の為に、他人を容赦なく傷つけられる、人を辞めた鬼だと思っていた。なにせ、俺は人類失格なんだから。」
「人が人で無くなる為にはね、人であることを否定されなければならない。それも、大切な人からね。
自分から辞めた気になったってなれるものじゃない。」
その時の『悪魔』の目は、どこか慈悲深ささえ宿していたように思えた。
まるで、エクレシアのような、神に仕える者の神聖さのように。
俺ごときが、その瞳の奥を推し量ることはできやしない。
「君にも居るんだろう? 君の大切な人が。会わせてほしいな。」
いや、違った。
それは聖職者の慈愛に満ちた笑みではなかった。
あれは、新たな獲物に狙いを定めて、その味を想像して愉悦に浸っていた者の目だった!!
それは、それは、どこまでもただ純粋に邪悪で。
「案内してよ。」
奴の言葉は、俺の心に毒のように沁み渡る。
「・・・・・ああ。」
だからだろうか、奴を彼女に会わせるべきじゃないのは分かっているのに、俺は頷いてしまった。
それはどうしてだろう。
それは俺にも分からなかった。
もしかしたら、俺はこの『悪魔』に感化されたのかもしれない。
悪魔に唆されて、自ら悪の道に踏み入れてしまっているのか。
だって、仕方が無いじゃないか。
こんな『悪魔』に出会ってしまったんだから。
彼女が居なければ、自分で自分がわからなくなりそうだった。
不安で不安で仕方が無かった。
怖くて怖くて、どうしようもなかった。
やっぱり、『悪魔』の言うとおりだった。
俺は、彼女に依存していたのだ。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「あッ、メイさん、今朝はありがとうございました。」
俺は城内に入った瞬間に、自分でも血の気が無くなるのを感じた。
俺はどうにかしてあの『悪魔』にエクレシアを会わせない方法を足りない頭で考えていたが、何か一つでも思いつく前に彼女の方から声を掛けてきた。
城内の入口の横に併設されている簡素な教会。
今日は寝ていろと言っていたのに、当り前のように彼女は居た。
「先ほどから皆さんが騒がしいので、何か出来ることはないかと思って起きたのですが、結局私に出来ることは無くて・・。
・・・あれ? どうしました? 顔色悪いですよ。」
まるで当たり前のように俺の些細な変調を、エクレシアは感じ取ってくれた。
「ぁ・・。」
俺はその瞬間、罪悪感に押しつぶされそうになった。
自然と俺の眼から涙が零れ、まるで神に懺悔するかのように両膝を突いて跪いた。
「ど、どうしたんですか!?」
当然、事情の知らないエクレシアは、表情を変えて俺の肩に手を当て軽く揺すった。
彼女は俺から全く反応得られないと思ったのか、更なる言葉を掛けようとした時、気づいてしまった。
俺の背後で、くつくつと嗤っている、『悪魔』に。
「あなたは、誰ですか・・?」
分かるのだろう、彼女には。
まさしく、奴が人の皮を被った悪魔だと。
「彼に何をしたんですか!!」
エクレシアの敵意の混じった視線が、奴を射抜く。
俺は心の中で叫んでいた。
やめてくれエクレシア、そいつは悪魔なんだ。
お前は思い知ってるだろう、連中の恐ろしさを!!
だけど、『悪魔』はにやにやと笑うだけ。
何も言わずに、ただただ嗤うだけ。
「なにが・・なにが、可笑しいんですかッ!!」
かくして、彼女は俺と全く同じように、『悪魔』の術中に嵌まってしまった。
彼女の感情を手に取るように分かる。
怖いのだ。まるで、自分の存在そのものを嘲笑われているような、そんな人の弱さを露呈させる邪悪な笑み。
こうなってしまって時点で、負けているのだ。
なぜなら、もう奴に自分が後ろめたいことがありますと、宣言してしまっているようなものなのだから。
そこに、何か確固たるものが無いのなら。
歪な心は簡単に、奴に貪られてしまう。
もうエクレシアは、奴の赤い瞳から逃げられない。
「いやぁ、見るからに立派な人だなぁと思って。」
彼女が俺を掴んでいた手が、びくりと震えた。
「君の正義は、いったいどれだけの生贄の上に成り立っているのかなぁ?」
「――ッ」
どんな時でも息を乱さないエクレシアが無意識にだろうか、短く息を呑んだ。
俺は当然、自分のことしか話していない。
俺の半生を語る上でエクレシアの存在は欠かせないが、そこはなんとかぼかして奴に話したはずだ。
俺の話術なんて高が知れているけど。
「すごいよね、僕には真似できない。
どこまで強い信念が有れば、自分の良心をねじ伏せて君のような“正義”を実行できるのだろうか。
まさしく聖人とは君のような人間を言うんだろうね。」
ふふふ、と『悪魔』は楽しそうに笑う。
「君の背負うカルマを見ればわかる。
罪にも種類や質が有るんだよ。何を行ったか、は実は重要じゃない。
法律は無知な人間が利害で勝手に罪科の裁量をするための物だ。
本当の罪は、神にしか裁けない。そうだろう?
だとしたらただの盗みでも死罪に成りうるかもしれないし、理由次第では人殺しも無罪と言う事もありうるかもしれない。
少なくとも僕は、君の行いを褒め称えよう。
故に誇れよ、そんな顔しないで、堂々と胸を張ってみせろよ。」
なにも知りもしない癖に、『悪魔』は容赦なく彼女の傷を抉る。
「や、めろ。」
俺は自然と口にしていた。
「やめろよ、あんたは何も知らないくせに。」
「ふーん。」
覇気もかけらも無い俺の制止に、『悪魔』は心底楽しそうに子供のように笑った。
まるで知恵の木の実を食べるように唆した蛇のように。
神に処された原罪を嘲笑う蛇のように。
「それが君の“芯”かい、“笹舟”。」
その時初めて、奴が俺をしっかりと見た気がした。
「そんな自覚も半端で、行動は出来るのに心は不完全な彼女が、君の“芯”なんだ。」
そしてそれは、俺に向けられた言葉ではなかった。
「君は歪だよ。まともでいようとして、壊れている。
―――まるで“ツギハギ”みたいだ。」
それが、決定的だった。
「痛い・・。」
その時、彼女が呟いた。
「痛い・・痛い痛い 痛い 痛い 痛い いたい いたいいたい いたい・・。」
ガクッとまるで糸の切れた人形のように、彼女は真っ蒼な顔で崩れ落ちた。
きっとあの時のトラウマを思い出しているのだ。
あの悪魔にさんざん抉られ、踏みにじられ、バラバラにされて出来た傷が。
俺は、彼女を自然に受け止めていた。
その瞳から、一筋の涙が流れていた。
「エク、レシア・・?」
「これは、トラウマからの拒絶反応か何か、かな?」
彼女をそうした『悪魔』はそれが何でもないかのようにエクレシアを覗きこんで小首を傾げた。
俺は、何をどうすればいいか分からなくなってしまった。
頭が真っ白になって、自分まで壊れてしまったかのような。
「何ボーっとしてるのさ、まあ、これくらいなら。」
いつの間にか『悪魔』は俺たちの近くに寄っていて、ぴんとエクレシアの額を指で弾いた。
「すぐに目を覚ますよ、最初に目を覚ました時は、君が居た方がいい。」
「あんたは、なにが・・・」
「君たちは十分堪能させてもらったよ。僕たちは君たちの苦悩が何よりの糧なのさ。
そして、それを乗り越えて輝けられる人間が大好きだ。
楽しかったよお兄ちゃん、また今度僕を楽しませてくれよ?」
そう言って、『悪魔』は踵を返して去って行った。
嵐のように現れ、嵐のように理不尽に蹂躙して、去って行った。
「・・・・・・・ぅ・・・ッ!!」
俺は、気を失っているエクレシアを抱きしめた。
今まで何度かこういう事はあったけど、俺は知らなかった。
彼女の体は本当に細く、とても頼りない体つきだった。
この脆くも儚そうな柔らかさを持つ体で、敵の前に出て自らを囮にし続けていたのだ。
たった、俺より一つだけ年上なだけの少女は、あまりにも普通な少女だった。
そんな彼女が、大勢の人間の業を背負うと言ったのだ。
たとえ俺が半分引き受けても、こんな小さな体がそんな物耐えられる筈がないだろう!!
「ごめんよ、エクレシア・・・。」
俺は、間違っていたのかもしれない。
何がどう間違っていたのかも分からないけど、それで彼女が救われるのなら、俺はその答えを探さなければと思う。
俺はエクレシアを抱きかかえると、そのまま彼女の部屋へと向かった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
俺はどうするにもなくて、机の椅子を引っ張ってきてずっと彼女の横に座っていた。
一度二度くらい彼女を呼びにこの部屋に訪れたことはあるが、その際にはしっかりと中まで見なかったので中には居るのは新鮮だった。
と言っても、新鮮味が感じられないほど彼女の部屋は物がほとんどなく、机には魔族の言葉の教本と思わしき物が並べられていた。
質素と言えば聞こえはいいが、要は何もない部屋だったのだ。
「・・あ・・・・。」
エクレシアをベッドに横たえて、ほどなくして彼女は眼を覚ました。
「あッ、目を覚ましたか?」
問題なく起きたようで、俺はなんだかホッとした。
「・・・見ないでください。」
しかし、彼女は俺を見ると顔を反対側に反らした。
「分かってたんです、自分のことですから。
でも私は、それから意図的に目を逸らしていました。
先送りにして、見ない振りをしていたんです・・・。」
「・・・・・分かるよ、俺もこんな矮小な自分を見たくなかった。」
「私は、貴方に甘えていた。」
「俺は、貴女に依存していた。」
お互いの告白に、お互いが黙り込んだ。
「私は、最初は貴方を守り、付き従う事が使命だと思ったのです。
それが私の運命、神が私に与えたもうた試練だと。
ですが、いつの間にか私は貴方に守られていた。貴方に助けられてばかりだった。」
エクレシアはまるで懺悔でもするかのようにそう呟いた。
「そんなことはないよ。俺は最初、自分以外誰もが人間が居ないこの場所で、ずっと不安だったんだ。
俺は貴女が居なければここまで生きていられなかった。
これから先の指針も定まらず、なあなあの内に魔族の中で朽ちてたと思う。」
だからこそ、依存もしたんだ。
「俺が今ここに居るのは、貴女のお蔭なんだ。」
俺は真摯な気持ちでそう伝えた。
普段なら気恥しかったりで言えなかったかもだけれど、俺は今子供の時のように素直な気持ちに成れた。
「甘えて良いんだよエクレシア、苦しかったら苦しいって言っていいんだ。
どうして自分だけ全て痛みを飲み込むんだ? 俺だけ吐き出させておいて、自分はだんまり決め込んで我慢なんてズルイよ。
俺たちはお互いで、お互いの罪を背負おうって約束しただろ。
・・・虚偽報告なんて、契約違反だぞ・・・。」
俺はエクレシアから逃げ場を奪うように、彼女の片手を手に取った。
「あ・・・。」
俺の目論見どおり、彼女は俺の方を振り向いた。
「俺達はこの魔族の領域に居る以上、もう一心同体なんだ。
それどころか、自分たちで背負うものまで共にしちまっている。
これからはお互いに重みをシェアし合うんじゃなくて、一緒に背負っていこうよ。」
「メイさん・・・。」
その時、エクレシアの瞳が涙で潤い始めた。
「・・・エクレシア、これからは一緒に地獄に墜ちよう。」
それはまるで、愛の告白のように。
俺は彼女にそう告げた。
「・・・はい。」
そして、俺は初めてエクレシアの満面の笑みを見た。
無垢で混じりけのない、美しい笑顔だった。
綺麗だと、思った。
「あッ。」
そして俺は、初めて自覚した。
指摘されても、ずっと違うと誤魔化し続けてきた、その感情を。
自覚して、思わず俺は彼女の手を仰け反るように大げさに放してしまった。
「あ・・・。」
どこか名残惜しそうに、エクレシアは自分の手を見下ろした。
そして。
「意気地無し。」
「うッ・・」
彼女の笑顔が、さっそく曇ってしまった。
俺の胸中など、既に生死を賭してともに戦った彼女にはお見通しらしかった。
尤も、彼女も俺も自覚したのはほぼ同時みたいだったようだが。
「こういうの、言葉にしていいのかなッ」
緊張して、なんだか声が上ずってしまった気がする。
「では、こういうのはどうでしょうか。
出エジプト記第三章十二節、わたしは必ずあなたと共にいる。
自らの使命の重さに不安を抱いたモーゼに、神の言ったとされています。」
「神様とはいえ、他人の言葉なのは・・・。」
そこは何か気の利いた言葉を言うべきなのだが、この大馬鹿は緊張の余りに混乱して、とにかく何か言おうと時間を稼ごうとしていたのだ。
「じゃあ、これならばどうでしょう。
―――好きです。メイさん。地獄の果てまで、共に在りましょう。」
そう言って、エクレシアは上半身を起して俺の両手を掴んだ。
「・・あ・・・あ・・あ・・・。」
俺は、彼女の告白に口をぱくぱくとさせることしかできなかった。
それは俺が言うべき言葉だとか、急にそんなことを言われて混乱してただとか、とにかく俺の頭はぐしゃぐしゃだった。
だからだろうか、俺は頭より体で行動していた。
「きゃッ・・。」
俺はただ、彼女の華奢な体を抱き寄せた。
強く、抱き締めた。
俺の全身全霊をもって、彼女に俺の想いをぶつけた。
彼女の温かい温もりが、香りが、柔らかさが、俺の思い出にしかない母親を呼び起こして、何だか涙があふれた。
「・・・・・・・・・。」
エクレシアは、無言で優しく笑いながら、俺の背を、頭を、聖母のように撫で始めた。
「大丈夫ですよ、そんなに強く力を込めなくても、私は貴方から離れたりはしませんから。」
「うん・・・。」
俺は彼女の肩に顔を埋めて、何度も何度も頷いた。
とてもゆっくり、されど途轍もなく早く、時間が流れる。
俺がこれまで、そしてこれからも訪れるとさえ思っていなかった暖かい時間だ。
それから俺達は気が済むまでずっと抱きしめ合っていた。
いつまでも、こんな時間が続くと良いと願いながら。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「私は、もしかしたら使命に酔っていたのでしょうか。」
ふと、彼女はそんなことを漏らした。
俺たちはお互いベッドに座って、ぴったりと肩をくっつけて座りながら話をしている。
彼女と体が触れたところが暖かくて、何だかむず痒い。
「そんなことはないと思うよ。」
彼女の言葉を俺は否定した。
実際、彼女はよくやったと思う。
エクレシアが魔族の為を思って行ったことは、決して間違いじゃない。
魔族の皆の為に必死に彼らの言葉を理解しようと努力し、彼らを人と区別することなく手を差し伸べ、そして彼らの為に戦った。
たとえその形が歪で、歪んでいてもそうして救われた者が居るのは事実だ。
それだけは、どんな相手だろうと否定させはしない。
俺は拙いながらも一生懸命その旨を彼女に伝えた。
「・・ありがとう。」
エクレシアは微笑んで、俺の頬に軽くキスをした。
俺はそんな彼女の一挙一動に気恥しくなって、身が縮こまった。
顔が赤くなって、体温が上がった気がした。
「私は、怖かったんです。皆の期待を私が裏切るのを。」
「・・・・・。」
「我らの『カーディナル』は、私に今回の全権を預けるとまで言いました。
だから、焦っていたんです。布教は一日で成る物ではないのだと、分かっていたはずなのに。
チャンスだと思ったんです。私は第五層の人たちを出しにして、彼らを助けることで信仰を得ようとしていました。
上司に・・マスター・ジュリアスに私が主のように奇跡を起こしたと見せかけ人心を集めてはいない、と誓って言ったのに。
それでは、力で求心力を集める魔王と違いないと言うのに。
神の教えではなく、神の力でその御名を広めようとしたのです。」
だからあの会議の時、あれほど焦っていたのだろう。
「私は、気づかされました。私は、間違っていたのです。」
「あのさ、上手く言えないんだけど・・・。
多分、エクレシアの言う事は間違いないのかもしれない。
確かに自分の使命の重さから、間違った方向に行きかけてたのかもしれない。
だけどさ、それを行おうとしたのはただ単純にみんなを助けたかったからだろう?
だったらそれは、ちゃんとしたやり方でやり直せば、まだ大丈夫だと思うんだ。」
もしかしたら、それはただの綺麗ごとなのかもしれない。
その筋からすれば、鼻で笑われるような、夢想のような考えなのかもしれない。
だけど、その夢想の世界がこの世にあると知っている。
だったら、それは追い求める価値はあるんじゃないんだろうか?
「出来るんでしょうか、私に・・。」
「出来るよ、俺も手伝うからさ。」
俺たちは無意識のうちに触れ合っていた手を握り合っていた。
「少しずつ始めよう、まだまだ始まったばかりなんだから。」
「はい。」
堅く固く、俺たちは手を繋ぐ。
願わくば、俺たちの絆までしっかりと固く結ばれますように。
神さま、お願いいたします。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「はははは、それにしてもやっぱり君ら出来てたんだねぇ。」
けらけらとクラウンは俺と共に廊下を歩きながら大笑いしていた。
あれから、お互いに緊張し出してそわそわしていると、クラウンが俺を探してエクレシアの部屋にやってきたのだ。
そのあと俺たちを交互に見ると、意味深に笑われてそろそろ謁見の時間が始まるから来いと言われたのだ。
そのあと、クラウンに連れられ二人になったらこの笑いようである。
「子供を作るのは構わないけど、これからの戦いに支障が出ないようにしなよ。」
「失礼だな、俺達は健全な関係をだな・・・。」
「なんで子供を作るのが健全な付き合いじゃないんだよ。」
「・・・・・ああ、そうだな・・。」
そう言えば、俺たちと魔族の価値観はまるで違うのを忘れていたのだ。
「まあ、君も奥手だよね。もうとっくに出来てると思ってたのに、ようやく番いになったんだから。」
「別に俺たち結婚したわけじゃ・・・。」
「ん? ああ、“夜の眷族”はともかく、“獣の眷族”たる僕らはその“付き合う”って過程が無いんだよ。
好きあったら、それが群れなり夫婦なり、もう次の段階は相手に子供を産ませるのさ。」
「な、なるほどな・・・。」
俺ももうこの魔族の領域に居て久しいが、それは知らなかった。
「ここらへんは移民ばかりで種族は沢山いるけど、殆どが“獣の眷族”だし、も事実上番いになったって認識に成るんじゃないの?」
「それはなんて言うかな・・・勘弁してほしいな。」
皆にからかわれるのは、流石に照れくさすぎる。
「それより、最近はあんまり地上の話とかできないな。
俺は無理やり話題を変えることにした。
「それどころじゃないからね。まあ、それはそれで楽しいから良いけれど。」
クラウンは特に気にした風も無くそう答えた。
最近は忘れられがちだが、俺がクラウンの奴隷にされたのも、地上の知識を求められたからかだ。
時折、俺はそれをクラウンに語っていたのだが、最近はその時間もない。
「それ以前に、もう君は僕の奴隷じゃないんだから。その義務はないと思うんだけれど。」
「いや、確かにそれはそうなんだが、それは違うだろう、クラウン。」
俺は彼の言葉に首を振った。
「俺は確かにそう言う理由で奴隷になったが、あんたはそれ以上の便宜を俺に図ってくれたろ?
俺はそれにとても感謝してるし、恩も感じている。
それに・・・俺達は友達だろ? 友人同士が一緒に自分たちの文化を語り合うのは当たり前のことだろ?」
「・・・・・・・。」
クラウンは俺の言葉に、まじまじと俺の顔を見つめた。
「なんだよ、お前に見つめられてもうれしかねぇぞ。」
「いや、僕は友達と言うのが結局のところよく分からなくてね。
ふーん、なるほど。そういうものなのか。」
クラウンはしきりに納得したように頷いた。
「それは、語り合いたいと思ったら進んでそうするものなのかい?」
「ああ、その為に時間を作ったり、お互いの予定に合わせて調節したり、お互いがお互いを考えて支え合うのが友情って奴だって聞いたことがある。」
「ふーん、まあ、人間は弱いからね。」
そんな風に、クラウンは納得したようだった。
そして、彼は歩きだした。俺もそれに追従する。
「僕の住んでいた集落はね、とても個人主義だったね。」
すると、突然クラウンがそんなことを言い出した。
俺が彼について自分から言い出したのは初めてだ。
それはもしかしなくても、彼が俺を友人だと認めてくれたからなのだろう。
「自身の強さが絶対的なものだと教わった。
他者を従える強大な力こそが、偉大なる魔王様への忠誠に繋がるって。うちの親父はいつもそう言っていた。」
「・・『マスターロード』がか?」
「僕の親父の親父・・・爺さまは語り部で、本物の魔王が実在していた時代に生きていた。
そう、僕ら魔族がこんな狭い箱庭に押し込まれる前の時代にだ。
今はもう亡くなっているけど、親父は爺さんの話が大好きだったらしい。
自分で爺さんから聞いた話をまとめた本を出したくらいだ。だから親父は憧れているんだと思う。
―――魔王が全魔族を統べて、僕らが有るべき本来の姿で居られる世界を。」
それは、魔族が魔王の下で人間と心おきなく戦う事なのだろうか。
それが、それだけが魔族の存在意義だと、言わんばかりに。
「それは少なくとも、魔族にとっては正義だ。
圧倒的に正しい。でも僕はそれが正しいと思えなくて、その想いを継ぐべき族長に成れと言われた時、僕は拒絶した。」
クラウンは、本当に変わり者なのだろう。
本能に刻まれた機能を、自ら否定しているのだから。
魔王の時代の到来。
イギリスでは、今でもいつか復活すると言うアーサー王の帰還を本気で信じている人たちがいるらしい。
その人たちは、魔王を待ち望む魔族のように、アーサー王という素晴らしい時代の王の統治を望んでいるのだろうか。
だが少なくとも、一つだけ言えることが有る。
楽園へ傷を癒しに行ったというアーサー王の帰還は、もう二度と有り得ないのだ。
妖精たちの住むと言う理想郷、そこで暮らす者は二度と現世には戻れない。
日本にも似たような話はある。
黄泉戸喫。
死者の国の食べ物を食べたら、二度とそこから帰ることができないと言う、有名なイザナミとイザナギの神話がある。
だからミネルヴァは帰って来れた。
向こうで水の一滴、食べ物の一口も口にしなかったのだから。
今は関係の無い話だが。
「俺は、クラウンが正しいと思う。
あんた達は、“地球人”だ。魔王の呪縛に囚われた“魔族”なんかじゃない。
実感はないかもしれない。だけれど、それを叫ぶことは出来る筈だ。
だって、クラウン、あんた達はこの地球で生まれたんだ。ここは魔王が誕生し、その権勢を誇れる世界じゃない。
魔族はもう、自由なんだよ。だから胸を張って主張できるはずだ。―――自分達は“地球人”だと。」
「・・・“地球人”・・僕らが?」
クラウンはその言葉に、息を呑んだ気がした。
「しかし、それは許されるのか? 君達人間は、それを許せるのか?」
「俺の国じゃ、勝手に入ってきた他所の国の人間が俺の国で子供を作れば、その子は俺の国の人間に成るんだ。
まあそれなら、異世界の異種族でも大して変わらないだろ。
かなりの暴論で、問題になっていることだけれど、それを逆手に取れば主張できると思う。」
「本当にいいのかい? 僕らはあの広大な海の下に生まれた存在だと、言っていいのかい?」
俺は当たり前のことを言ったつもりなのに、クラウンは酷く感銘を受けた様子で、何度も何度も良いのかと聞いてくる。
魔族と人間の差なんて、魂と言う水を入れるコップの材質の違いくらい程度の瑣末なことなんだと思う。
魔術師が重要視するのは魂で、それが俺達人間と変わらないと言うのなら、それを忌避する理由なんてない筈だ。
それなら、クロム達が証明したことは、偉大なことだったんだと思う。
それでも、世界はさまざまな差別で満ち溢れている。
人間は肌の色の違いや言葉の違いで優劣を決め、一方を見下す。
少なくとも言葉の違いは神さまが分けたものである筈なのに。
魔族の見た目が駄目だと言う人もいるだろう、言葉が人間とは根本から違うと言う人もいるだろう。
そこは、これからの立ち回り次第になるのだと思う。
「当たり前だろ、俺達は仲間で、俺とお前は友達だろ。」
思えば、俺は今までそんなことを言い合える人間と出会ったことはあっただろうか。
人間の友人関係なんて、大抵はただの一時的な利害関係で、中学生の頃に友人に成ったって、高校では疎遠になったなんてよく聞く話だ。
そこから本当に信頼しあえる友人関係に発展することなんて、殆どない。
仮初と欺瞞の狭間で、人間は生きている。
俺は、俺を助けてくれた彼らに何か出来ることはないのだろうか。
そんなことを考えていると。
「ふん、久しぶりに顔を見てみれば、見そこなったぞ“―――”よ。」
ふと、俺の共通認識の魔術で理解できない単語の混じった言葉が聞こえた。
「お前は、“―――”じゃないか!!」
目の前に現れた者を認めて、クラウンは驚いたようにそう言った。
廊下の向こうから現れたのは、フリューゲンと一人のドレイクだった。
ただ、そのドレイクは己の竜頭を覆い隠すような鉄仮面を被っていたのだ。
どうやらクラウンとの既知の間柄のようで、お互いのことを知っているようだった。
「誇り高いドレイク一族の貴様が、あろうことか人間如きを友と呼ばせているだと?
貴様も追放されてから、随分と墜ちたものだなぁ!!」
そしてその鉄仮面のドレイクは憎々しげに俺を指差し、クラウンにそう怒鳴り散らした。
「・・・英雄殿、なんであんたがこいつと一緒に居るんだよ?」
彼で話しにならないと、どういう因果か彼を連れていたリンドレイクのフリューゲンにクラウンは問うた。
「ちょっとした縁であるよ。
彼が学徒であった時、航空技能の教官と生徒と言う間柄だった仲でな。
仲間内で色々あったようでな、修行の旅に出て私を頼ってきたので、今私が面倒を見ていたのだ。」
「ふーん、なるほど。」
フリューゲンは若干言い淀んでいたのは、彼の言う“色々”とやらをちゃんと知っているからなのだろう。
事情も理解せずに、リンドレイクが長年争っていた相手であるドレイクの面倒を見たりはしないだろうから。
「なにが随分と墜ちたものだなぁ、だ。自分の方がずっと面目が潰れてるじゃないか。」
「・・・どういうことなんだ?」
俺は彼らの話の内容が理解できなかったので、思いきって聞いてみた。
「僕らドレイク族は絶対数が少ないから、追放なんて滅多に起こらない。
だけど例外なく、人間に負けておいておめおめと逃げ帰った間抜けみたいなのは村から追い出される。」
ぎち、とそのクラウンの言葉に向こうの鉄仮面のドレイクが歯を噛みしめる音がこちらまで聞こえた。
それくらい、彼らにとって人間に敗北すると言うのは屈辱的なことなのだろう。
『ってことは、こいつって弱いのか?』
『いや、それは無い筈だけれど・・こいつの実力は僕がよく知っているし。』
念話で尋ねて見ても、クラウンの返答はそんなものだった。
魔族の種族は、人間のような個性が出にくい代わりに、一定以上の強さを保証するような意味合いを持っている。
勿論、俺もそこまで劇的な弱さを想像していたわけじゃない。
『ただ、ブライドは人一倍というか、戦いになったら率いてた部下に殆ど丸投げして油断していたらやられた、って感じだと思う。』
『あぁ~・・。』
何だかとても納得できた。
「俺も好きで逃げ帰って来たわけではない!!」
俺達が念話をしているうちに、ドレイクはそう声を荒げてそう言った。
「族長に言い渡された極秘の任務故に内容は言えぬが、俺は直接戦って負けたわけではない。
後方で支援している混戦を抜けての対竜魔術による不意打ちを受けて、やむを得ずなのだ!!!」
その言葉に、俺やクラウンだけでなく、フリューゲンまで溜息を吐いた。
バリッバリに戦って普通に負けてんじゃん!!
「何その見苦しい言い訳・・・それで親父が許すと思ってるの?」
「最初から俺一人で戦っていれば、人間の六匹程度は確実に勝てていた!!」
しかも自分の失敗を部下のせいにしているし。
「勝負の趨勢は時の運とはいえ、対竜魔術を扱える魔術師に出会ったぐらいで容易く負けるようではな。
私が根性から鍛え直してやろうと言うわけだ。」
と、フリューゲンが苦笑しながらそう言った。
まあ、対竜魔術なんてものがあって、それがドレイクに通用するなら条件は対等になったようなものだろう。
負けたことの言い訳にはならないはずだ。
「で、どうしてそんなものを付けてるの?」
「・・・悔しいが、人間に負けたのは事実だ。
そんな自分の顔を晒すような真似は出来ない。そして自身を鍛え直すため、教官殿の下で修行の最中なのだ。」
それでそんなに尊大な態度なんだから恐れ入る。
そんな相手にも尊敬されるフリューゲンがすごいのだろうけど。
「彼奴は私の部下として此度の作戦に同行させるつもりだ。
後でそちらの陛下にもその旨を伝えておくことするとして、・・・そうそう、忘れていた。
お前、ここでは我々の言葉が通じない者も多い。共通の名を決めておくと言い。」
「はッ、教官殿。」
フリューゲンの言葉にドレイクは素直に頷いた。
「じゃあ、そんな鉄仮面しているんだから、アイアンヘッドでいいんじゃないの?
何より分かりやすいし、それなら陛下達の覚えも良いだろうからね。」
「ふん、なるほど。ではそう名乗るとしよう。」
鉄仮面のドレイク―――アイアンヘッドは特に感慨も無く頷いた。
「それにしても、今現れている魔王はリンドレイクに人間・・・これはいったどんな因果なのだろうか・・・。」
最後に彼は独り言のようにそう呟いていた。
そして、フリューゲンとアイアンヘッドは俺達の横を通り過ぎて行った。
「そういや、エクレシアが言っていたんだが、場内が騒がしかったって何が有ったんだ?」
「ん? ああ、聞いていなかったのかい?」
クラウンは妙な真面目な表情になってこういった。
「魔族の“賢者”殿たるダークエルフ。
―――“砂漠の魔女”が謁見を求めてきたんだよ。」
それは、俺の口の中が砂漠のようにカラカラになるにたる内容だった。
皆さんお久しぶりです。
まあ、お久しぶりといってもこのくらいなら時々更新開けますけど、この二週間はそれまでと全く違ったので。詳しくは活動報告に。
簡単に言うと、全くネットのない環境にいたのです。
その時に書いたもう一話のストックがあるので明日の夜の十二時に更新を予定します。
それでは、また明日!!!