第六十三話 『黒き赤文字の悪魔』
「なるほど、お前の“思想”は理解した。」
騎士ジュリアスは手元の資料をテーブルに放りだすと、彼の前に立つ少年とも言えるほど幼さの残る従士に言った。
「ひとまず、貴様は一週間の謹慎だ。それまでに私はお前の今後について思考を割いてやろう。」
「納得がいきません、再考を願います。」
少年従士はその性格が容易に想像できる堅苦しい表情と声音で物怖じせずに自分の上司に物申した。
「聞こえなかったのか? 自分の身の振り方を考えろと私は言ったのだ。
確かの貴様は正しい。しかし危うさを伴う正しさだ。
貴様は分からないのか、主はなぜ迫害されたのか。それは俗人に恐怖を抱かせるほど正しかったからだ。
我々は神でも聖人でもないのだから、正しさを貫くだけでは回らないのだ。
我々はそうした俗人であるが故に、前例を教訓に学べと言っている。」
「ならば言わせてもらいますがマスター・ジュリアス、貴方の正しさは組織の人間としての正しさだ。
個人の限界があるのも当然ですが組織もまた然り、私は己の正義を曲げる気はありません。」
仏頂面で淡々とそう言った言葉を吐く少年に、ジュリアスは密かに溜息を吐いた。
実に生意気で、昔の自分を思い出すようだ、と。
「マスター・ジュリアス、貴方なら今の第二十八層の現状を良く理解しているはずだ。
殺しきれていない悪魔の潜伏を許し、その討伐の為に僅かな戦力も遊ばすことなどと――」
「自惚れるなよ。私は貴様を戦力として数えていると誰が言った。」
「私は自分の実力を貴方に示しました。」
「そうだな、お前は実力が同年代では突出していた。だからある程度実戦を経験しても大丈夫であると思ってしまった。
先日のイタリア事変があそこまで大事になると分かっていれば連れて行くことなどしなかった。」
ジュリアスはそこまで言って溜息を吐いた。
「その結果、先日の事件で貴様の独断専行と無様な敗北を齎したわけだ。」
「・・・・・・。」
ジュリアスは彼がギリッと歯を噛み締める音を確かに聞いた。
「アンドレイ。確かに我が騎士団は実力主義だ。
しかし、それは当然必要な物の一つに過ぎない。独力で何もかも出来ると思ったら大間違いだ。
神は我々人間をそのように創られたのだからな。」
「魔術師の名家から出奔してきた御方の言葉とは思えませんね。」
それは、彼・・騎士アンドレイの苦し紛れな精一杯の皮肉だったのだろう。
「ああ、これが私の得た真理であるからな。」
だが、彼とジュリアスでは役者が違い過ぎた。
ジュリアスはむしろ皮肉げに笑ってこう言った。
「そして悪魔の脅威を一番知っているお前が、なぜそれが分かろうとしないのか。」
「・・・失礼します。」
アンドレイは頭を下げて踵を返した。
その素っ気ない反応に、まだまだ青いな、と言った表情でジュリアスは鼻を鳴らした。
「貴様もいずれ分かるだろう。
悪魔の相手が机上の論や学力だけではどうにもならないと言うことがな。」
投げかけられたその言葉に、彼は最後まで反応しなかった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
第二十八層の悪魔大量発生事件は、悪魔召喚系の魔具の暴走と言う形で世間的には解決した。
しかし、彼はその元凶と対面している。
その“事実”に対して、彼は何度もジュリアスに抗議をした。
だが彼はそれに関して聞き入れる様子は無かった。
それについて公表しようにも情報規制がなされており、本日も直接呼出しを喰らって一週間の謹慎を貰った次第だった。
所詮従士なんて、大学生のように社会的地位は全くないも同然だからだ。
アンドレイは、それが許せなかった。
悪魔の元凶に屈し、その危険な大本を秘すなどという暴挙は、彼の正義や信仰心からしても到底許容できるものではなかった。
「そんな腰抜けなどに、私は成ってたまるか。」
だが、先日の事件で従士の身の上で命令を無視して悪魔に突貫し、無様にリネンに返り討ちに会った彼に周囲は冷たかった。
管区長室から出てくる彼を、職員たちはまたかと言った表情で見ていた。
すっかり問題児扱いであった。全くの事実だが。
彼が従士になった同世代の人間たちからは、マスター・ジュリアスから直接お呼びが掛かったエリートとして期待されていたが、蓋を開けてみれば協調性皆無の問題児であった。
騎士団の魔術は集団での運用を前提にしているから、お互いの信頼関係が重要だ。
特に集団用の強力な魔術の起点はその部隊の中で一番実力が有る者を起点にするものだから、最前線に立つ切り込み隊長は仲間の信頼を一身に受けないといけない。
今はまだ彼が騎士になっていないが、ジュリアスが彼を騎士として叙してもうちの隊には寄越すなと内々に言われているほどだ。
そして、今の誰が彼に背中を預けたいと思うだろうか。
アンドレイ自身名誉など求めていなかったが、この騎士団では個人の能力より集団での総合力の方がずっと大切なのだ。
彼はそれが分かっていなかった。
まだ若く伸び代があり、従士を養成する神学校で優秀な成績を出して、挫折を経験することなく信仰心と正義感だけで成長してきた彼には・・・。
・・・彼には、この世はあまりにも醜すぎた。
「室長、例の資料の追加を頼む。」
「ふん、またあんたか。あんたも熱心だよな。」
アンドレイは管区長室から直行で資料編纂室にやってくると、中年の職員にそう言った。
「俺はこれから休憩するから、さっさと済ませるんだな。」
室長はそれだけ言って、アンドレイに言われたものを取り出すと資料編纂室から出て行った。
本来、アンドレイの身分では資料の観覧は許されていない。
しかしここの室長の厚意で、彼はアンドレイに日々仲間たちが集めてくる情報を纏めて保管し、その一部を内密に見せているのだ。
なぜ彼がアンドレイにそこまでするかと言うと。
「無茶だけはするなよ、俺の息子は自分と悪魔の実力をはき違えて死んだんだからな。」
彼に資料を提供するたびに言う決まり文句と共に、室長は廊下を曲がって見えなくなった。
アンドレイが求めた資料は、先日の事件から現在までの悪魔の討伐状況だ。
どうやらそこそこ発見できており、被害は最小限に収まっているらしい。
報告に依れば、現在まで1236匹の下級悪魔を討伐されたとある。
事件が終息してから潜伏していて討伐した悪魔は17匹。
聖堂騎士団の秘奥儀である『聖戦』の強みは、味方全体が強力な“聖絶”の魔術が扱えるようになり、悪魔の軍勢だろうと薙ぎ払えることにある。
だがあれは『カーディナル』が教皇から許可を受けないと使えないような強力無比だが使い勝手が悪いことにある。
そう何度も使用できないし、敵の場所も分からなければ意味が無い。
それに、まだどれだけの悪魔が潜伏しているかも分かっていない。
頭のいい悪魔は無暗に潜伏などせずリスクとリターンを天秤にかけ、“交渉”と言う形で対話を求めてきていたりもする。
そう、罪も無い人民に取り憑いて。
悪魔との交渉と対話はエクソシズムの基本だが、アンドレイはそれすら不快だった。
悪魔との交渉の余地などあり得るはずも無く、屈するように相手の要求に呑むなどと言語道断だ。到底許されることではない。
悪魔相手に弱みを見せるなど、彼には想像しただけで寒気がするようなことだった。
直接的な実害は、悪魔に操られた人間が分かりやすく悲劇を生み出すために連続殺人が起こっていることだろう。
そうして生じた負の感情を喰らい、力を蓄えるために。
地上では素人の殺人鬼が十人殺せば社会問題だが、この業界ではいつの間にか街で人間が百人消えていたなんてことは往々にしてあるのだ。
まるで霧のように、闇に呑まれるように、この世界に潜む悪意は罪も無き人々を飲み込むのだ。
奴らは悪魔だけでなく、邪悪な邪教徒や狂った異教徒であったりもする。
事件の発生地域を確認すると、アンドレイは資料編纂室を後にした。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
深夜。アンドレイは連続殺人が起こっていると言う住宅区域を見回っていた。
教えを受けて従事しているマスター・ジュリアスから謹慎を言い渡されているとはいえ、流石に彼も監視を付けるような真似はしなかったようだった。
誰もが彼を生まれる時代を間違えたほどの騎士と称えるが、唯一身内に甘いと言う欠点があるとアンドレイは思っている。
第二十八層の夜はとても静かで、電灯の発達していない一昔前を呼び起こさせる。
ここに住んでいる人々は敬虔な信者たちばかりで、地上の先進国の都市のような不夜城の如く朝まで灯りが点いているなんてところは無い。
一度、第二十層の魔術師街に赴いたときはその雑多な様子に鳥肌が立った。
潔癖症とまでは言わないが、アンドレイは昔からそう言うのが苦手だった。
人ごみの中に居れば酔って気分が悪くなり、魔術で無理やり体調を整えるくらいには。
だからだろうか、群れるのは昔から苦手だった。どたばたとした集団行動は肌には合わなかった。
アンドレイは当ても無く、見当たりで歩き回る。
魔術で探す必要はない。向こうから勝手にやってくるだろうから。
すると、その時だった。
「貴様ッ、止まれ!!」
背後から彼を呼び止める声が鳴り響いた。
「我々は聖堂騎士団第二隊所属の第五小隊の第三分隊である!! そしてここは重点警戒区域だッ!!
敵意が無いのなら両手を上げて指を広げ、膝を付いて近づくまで息を止めろ。さもなければ斬り捨てられると覚悟せよ!!」
「ちッ。」
どうやら、この辺りを警備している部隊に出くわしたようだった。
気配が全くつかめなかったことから、どうやら少なくとも自分より格上の手練ればかりのようだった。
まあ、悪魔に遭遇する危険性があるのだから、連中に対抗できなければ意味が無いので実力者の配置はある意味当然のことだが。
仕方なくアンドレイは言われたようにした。
指示が妙に細かかったのは、不意打ちを警戒してだ。
連続殺人の容疑者は悪魔に魅入られた人間が相手なのだから、魔法陣を書かれないように指を広げさせ、魔力の循環を阻害させるために息を止めさせる。
特に呼吸は重要で、無呼吸の状態で魔力を万全に運用するのは難しい。
彼らからすれば当然の指示だ。
警戒をしたまま警備の騎士たちはアンドレイを取り囲む。
態度や口調から相当にピリピリしている様子だった。
当然だろう、いつ悪魔が現れるか分からないと言う状況がもう一週間以上続いているのだから。
騎士たちの数は七名だ。
聖堂騎士団では一小隊二十人編成なので、彼らはその分隊なのだろう。
「《マタイ四章一節から四節―――」
「《『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』》」
だが、アンドレイは彼らが魔術を行使するに先んじてそう言った。
有名な「荒野の誘惑」と言う聖書のエピソードから引用された魔術の一つだ。
騎士団でも数少ない高精度の探査魔術だ。対人用の為か射程は短いと言う欠点はあるが。
受け答えだけなら有名で誰でも知っていることだが、今のはただの言葉だけでなく、騎士団の仲間内にしか分からない文言の術式が含まれている。
「分隊長、彼は白です。」
騎士の一人がリーダーの騎士に向けてそう言った。
分隊長も厳かに頷いた。アンドレイは今自らの正気の証明と神への信仰心を示したのだ。
「貴様、従士か? このような時間にいったい何をしている。
いや、まず誰に侍従しているか言え。」
「・・・・マスター・ジュリアスです。」
「なにッ!?」
ジュリアスの名を聞いて、分隊長は面を喰らったようだ。
「分隊長、もしかしたらこいつ、管区長も手を焼いているって言うあの・・・。」
「ああ、聞いたことがある。」
ジュリアスは規律に厳しいと有名である。
そんな彼の従士がこんな夜中を出歩いていると言えば、思い当たる輩は一人しかいないという事なのだろう。
アンドレイは仏頂面で、厄介な物を拾ったと言う表情の騎士たちの視線を浴びていた。
「まさか反骨して一人で悪魔退治か? やめておけ、連中の強さは下級悪魔でも一個小隊でギリギリだ。
先日の一件で、お前もそれを味わったはずだろう?」
「だからと言って、目の前に居る悪魔を易々と見過ごすなんて私にはできません。
倒せなくとも、それで襲われるはずだった誰かを救えるのなら幸いでしょう。」
アンドレイの返答に、分隊長はやれやれと首を振った。
「凄いな、私も長年地上での悪魔討伐に携わっているが、その無私の精神はとても俺には真似できないよ。
人民への無償の盾となるには、私は年を取り過ぎてしまった。
君の若さからくる無謀と、若いからこその正義感は私には眩しい限りだ。
だが、それで君が犠牲なっていいと言う事にはならないんだよ。
部下たちを付けるから、今日は大人しく帰れ。今日運よく何事も起こらなければ、このことは我々の中で黙っていよう。」
中年と言うには老いが目立つ分隊長は枯れたような声で、しかし真摯にアンドレイを諌めるようにそう言ったのだ。
悪魔との戦いは、それほどまでに心をすり減らすのだろう。
アンドレイもそれは経験していた。
あの恐るべき悪魔の統率者であった魔術師は、肉体よりずっとアンドレイの心を抉ってきたのだから。
「・・・・分かりました・・。」
アンドレイは頷くしかなかった。
反骨心が芽生えているジュリアスならともかく、この場で先人の忠告を無下にすることはできなかった。
アンドレイとて年上を敬う気持ちだって存在する。
そうでなければ神学校でエリートを飾るなんて出来るはずも無かった。
だが、しかし。
「心遣いは感謝します。ですが、私は霊媒体質です。
・・・何も起きない、と言うのは難しいかと。」
アンドレイの言葉に、騎士の面々の表情が強張った。
霊媒体質。
霊的存在を潜在的に引き寄せてしまう才能の持ち主だ。
またそう言った存在との親和性が高く、霊媒体質の持ち主に連中が取り憑くと、加速度的に力を増してしまうと言う性質がある。
逆に霊的存在の一切を受け付けず遮断してしまう体質などもあるが、それは霊媒体質により稀な存在だ。
最近ではその両方の性質を持った人間が現れたとかと、霊媒体質専門のセミナーで聞いたことがある。
ジュリアスがアンドレイに厳しく当たっていたのは、これが理由でもあった。
彼が無茶をすれば、彼だけでなく周囲にも最悪の結果を及ぼしかねない。
本来なら監視を付けて然るべきだが、ジュリアスの身内への甘さが仇になった。
いや、今回はアンドレイがジュリアスの信頼を裏切ったと言うべきだろう。
「馬鹿者がッ!!」
当然の如く、分隊長は声を荒げてアンドレイを叱責した。
そのような人間が出歩く危険性は、悪魔討伐の専門家である彼らにとって火薬庫の中で呑気に花火でもするような愚挙にも等しいのだから。
更に続くと思われた叱責は、しかし続けられることは無かった。
「ッ、分隊長!?」
「これはッ!!」
その瞬間、この場の空気が変わったのだ。
「スィーマーバンダか!?」
即座に騎士の誰かがこの場に掛かった魔術を見破った。
スィーマーバンダ、所謂サンスクリッド語での“結界”の事を意味する。
しかし結界とは本来仏教用語で、分かりやすいからと言ってそれを使うのは業腹だ。
だから言いづらくても、自分たちで使っても、結界の事をスィーマーバンダと言う。
騎士団にはそんな妙なプライドがあるのだった。
「悪魔かッ!?」
「悪魔はスィーマーバンダなぞ使わない!!」
アンドレイの困惑に、既に彼を中心に防御陣形を組んでいる騎士がそう言った。
結界は現在では一定範囲の空間を変質させる領域を形成するみたいな認識だが、正しくは聖なる領域と俗世を分けておくための物だ。
悪魔の性質からして相容れない。或いは特殊な上級悪魔なら可能かもしれないが、そんなのが出て来た時点で戦うのは諦めるしかない。
「いやむしろ・・・これは・・」
「うちの魔術だッ!!」
そう、それは騎士団が使う結界魔術そのものだった。
「うるううぅらああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!」
そして、そんな叫び声と共に闇の中から躍り出てきたのは一人の男だった。
「前衛、前へ!! 抜かるな!!」
ほぼ同時に分隊長の号令が轟き、大盾を携えた騎士二名が前に出てそれを構えた。
突如現れた男の攻撃は、その二枚の防御の前に弾かれた。
「なッ、まさか!?」
そうしてようやく、アンドレイは襲ってきた男を確認できた。
その男は、騎士だった。
聖堂騎士団所属を示す鎧を纏っていたのだ。
アンドレイほどではないが若く、まだまだ二十代前半に思えた。
顔立ちは良いが、酷くやつれており、目は充血しきって、地の底から響き渡るような唸り声で叫んでいた。
「うるあああぁぁ!!!」
騎士の男は右手に長剣、左手に歪な短剣を手に、両の凶器を振り回す。
「中衛、今だ、振り下ろせ!!」
分隊長の号令と共に自身も中衛の騎士二名と共に、前衛の防御の合間を縫ってハルバートを振り下ろす。
しかし、熟練の騎士たちの攻防を、襲い掛かってきた男は獣のように動いて躱す。
だが、
「なぜだ。」
アンドレイは困惑していた。
あの獣のように機敏に振る舞う男から、少しも邪気が感じ取れない。
幾ら騎士団は感知が苦手と言えども、これだけ近くで見逃すほど愚かではない。
だから必然的に、原因は目についた。
「あの短剣、・・・魔剣か!!」
一目で曰く付きだと分かる異様な雰囲気を発するその短剣は、濃い紫色の燃える鳥が羽ばたく姿を短剣全体で象っていた。
そもそも、堅実さを是とする騎士団の戦い方に、長剣と短剣の二刀流という戦い方は有り得ないのだ。
戦いはさして劇的で感動的なシーンがあるわけでもなく、前衛中衛の攻防が二度三度続いた後、後衛の放った雷撃や光波動魔術が炸裂し、騎士団の安定した戦術の強さを証明した形になった。
一対一ならかなりの苦戦を強いられる獣のような身体能力だったが、七対一では成す術も無いだろう。
三十秒にも満たない戦闘の末に、分隊の騎士たちは敵勢力の無力化に成功した。
「ぐ・・が・・・・」
しかし、騎士の男は雷撃を受けて全身を打ち据えられても、まだ意識があるようだった。
傍から見て死ぬような威力ではなかったが、この状態で気を失っていないのは頑丈さが取り得の騎士団でなければなかなかできないだろう。
「・・・ろ・・して・・。」
「なに?」
分隊長は彼の両手から落ちた武器を蹴り飛ばすと、倒れた男の言葉に眉を顰めた。
「つみ、ぶか・・き、・・・わた、しを・・・はやく、ころ・・して、くれ・・・。」
それは懇願だった。
掠れた声から絞り出すように、自身の絶望を口から垂れ流した。
「あんた、やはり悪魔に・・・。」
「――――あーあ、酷いことするなぁ、汚れちゃったじゃないか。」
分隊長が何かを悟った時、右の方から声が聞こえた。
予想以上に幼い声だった。
だが、その声の通り思いのほか小柄な黒い影は、男の持っていた短剣を拾い上げていた。
それはその短剣を袖でごしごしと土などの汚れを拭っている。
「誰だ、貴様は・・・!!」
最初に声が出たのは、アンドレイだった。
彼には一目で分かった、あの黒い影は悪魔だと。
そして、この若い騎士の男を絶望のどん底に突き落とした張本人であると。
それを、騎士の面々は理解し、殺気立って臨戦態勢に映っていた。
「待て、お前たち。焦るな。」
そんな中で、分隊長は冷静だった。
先日大量に召喚された、デーモン種とは違う、別種の悪魔だ。
それがのこのこと目の前に現れたのだから、ここで安易に斬りかかっては相手の思うつぼである。
それにここに居る人数だけで悪魔の相手は流石に役不足だ。
万が一、強い個体であれば、人間が何十集まろうと成す術も無くなってしまう。
ここは慎重な対応が求められた。
「ん? やあ、騎士団諸君。お勤め御苦労さま。
僕は戦う気もないし、誰かを害するつもりも無いからもう帰っていいと思うよ。」
そこでその悪魔は初めて騎士たちに気付いたと言うような態度で、こちらに向いた。
今までフードの付いた黒いローブを纏っていて顔は見えなかったが、正面から見ればまだあどけない、少年の姿だった。
客観的に見れば悪魔的な要素は何一つ見当たらない。
あの黒衣もたまたまこの辺りに来ていた黒魔術師と考えれば不自然ではない。
だが、ここに居る誰もが悟っていた。
―――――奴は、恐るべき『悪魔』だと。
人外を証明する赤い瞳がそれを物語っていた。
「ん? あれ、もしかして悪魔に会うのは初めて? もっと禍々しいのを想像してた?
拍子抜けさせて悪いけど、僕は恐怖が“主食”じゃないんだ。僕は上品だからね。」
おどけたような口調に、にじみ出る悪意が口元に浮かび上がっていた。
「ふざけるなッ、我々の仲間に何をしたッ!!」
騎士の誰かが激怒して、そう怒鳴った。
「なにって、・・・何も?
強いて言うなら人助けかな。僕はそこの彼に協力してあげたんだよ。
妹さんが下等な悪魔に取り憑かれてね、哀れにも教会の連中に口外するなと脅され、成す術も無く途方に暮れていた彼を助けてあげようと、僕が手を差し伸べて上げたのさ。
まあ、そこは自分の信仰心が高いなら神様が救ってくださるだろうって言ってやったんだけどさ。そこは主を試してはならない、って返してくれたら笑えたのにね。
教会がダメなら悪魔の手を借りるなんて、それはそれで笑っちゃうけど。」
「今すぐ、彼の魂を解放しろ。」
「え?」
分隊長の要求に、悪魔は目を瞬かせた。
「ああ、ああ~・・。僕は別に魂を奪う契約だとか、そう言うのは一切してないよ。
言ったじゃないか。人助けだって。僕は彼を地獄の淵から掬う手段を提示しただけに過ぎない。
ほら、見てよこの素晴らしい僕のコレクションをさッ!!」
そして少年の悪魔は宝物を自慢する子供のように大事そうに持っていた短剣を突き出した。
「“これを使って百人殺せば、そうすれば軽い“奇跡”くらいは起こせる。”
下等な悪魔ぐらい後遺症なしで退けられるし、死者の蘇生ぐらいは可能だろうね。
ただ百人分の命や魔力が必要なんじゃなくて、百人分殺したって“事実”が重要なんだよね。
だから彼に懇切丁寧に僕のコレクションを自慢して、どうしても貸してほしいと言うのなら貸してやることにした。
つまり、彼は自分の意思で苦しむ内容を選んだのさ。
下等な悪魔に自分の妹を苦しめられる地獄から、自ら罪悪を被り自身のエゴの為に他者を害すると言う地獄にね。
まあ、根本的な解決になっちゃいないんだけれどさ!!」
聞いてもいない事をべらべらと可笑しそうに笑いながら、悪魔は言った。
「ねぇ、僕は何か悪いことしたかな?」
「知らなかったのか、クソ外道。貴様らの存在自体が害悪だ。」
アンドレイは腰から剣を抜いてそう言った。
「ひゅー♪ 言ってくれるねぇ。
まあ、僕は彼からそれなりに糧を得られたから、そろそろ引き際かなと思ってね。
わざわざこうして前に出てきたのは、こうやってちまちまと力を蓄えるのに飽きて、遊び場を変えるつもりだから、引っ越し前の挨拶みたいなものかな?」
「では虚無の彼方へと消え失せろ、悪魔ぁ!!」
アンドレイが悪魔に向かって足を踏み出した。
「馬鹿ッ、迂闊に動くな!!」
分隊長が叫んだが、遅かった。
「僕って無益な殺生とか嫌いなんだけど。ほら、僕って平和主義者だから。あんまり強くないし。
それにまだ約束が残っているんだ。
――――だからオリビア、こいつら片付けといて。」
その直後。
漆黒の風が、迂闊に踏み込んできたアンドレイを吹き飛ばした。
「なにッ―――」
「《―――『解呪』の概念を想定》。」
ほぼ一瞬だった。
その場に物を言える人間は誰ひとりとして居なくなった。
「殺すなよ。」
悪魔の一言で、今にもマウントポジションでナイフを振り上げて騎士たちにトドメを刺そうとしていた黒衣の女がピタリと止まった。
「殺したら、こうして姿を現した意味ないじゃん。」
「我が主がそう言うのならば。」
フードの中から緋色の髪が除く女が、悪魔の言葉に頷いた。
「あ、く・・ま・・・、やく・・そ・・」
「ふんふふんふふーん、まあ、ノルマは達成したね。約束通り、これを使って君の妹は助けてあげよう。」
悪魔は若い騎士の下に歩み寄り、紫の燃える鳥の短剣とは違うもう一本の短剣を取り出した。
最初の短剣とは対照的に、神聖さすら感じられる純白の短剣だった。
「なぁに、この魔剣を使えば低俗な悪魔くらい祓えるよ。
なにせ、“こっちは一人の犠牲で百人くらいは災厄から救える”正真正銘“奇跡”の力を持つSSランクの魔剣だ
・・・だから君は安心して地獄に堕ちると良いよ。」
そして悪魔は、その純白の魔剣を彼に振り下ろした。
「あ、ぐ!!
「まあ、地獄に行けたらの話だけれど。」
純白の短剣が若い騎士の血で染まる。
その刀身が淡く光ると、彼の存在が解けるかのように薄くなり、まるで魔剣にそのすべてを食い尽くされたかのように、彼は消えうせた。
そして悪魔はそれを掲げると、空に向かって一条の光が解き放たれて、見えなくなった。
「さて、と。用事は済んだし帰ろうか。」
「ま・・・かはッ・・・て・・」
「んぅ~?」
悪魔が振り返ると、アンドレイが腹部を抑えて懸命に立ち上がろうとしている姿が見えた。
「ああ、防護魔術ぶち破る前に倒したから、気絶は免れたのね。
悪いね、こいつチート級の反則だから。僕が相手をしてあげられなくて。」
全くそのつもりが欠片も窺えない笑みを浮かべた表情で、悪魔はアンドレイを見下ろした。
「殺す、必ず、殺す・・・貴様、殺す・・。」
「うはははははは。一目で分かるよ。君は復讐者の眼だ。
親かな、兄弟かな、それとも恋人? 誰を殺されたんだい、悪魔に。」
悪魔はむしろそんな彼を慈しむように笑いかけると、アンドレイの顎を思いっきり蹴り上げた。
「あがッ!!」
「良かったね、その憎悪は僕の糧になる。その怒りは僕の力になる。
今日出会った君の“敵”は、君の空虚な心を満たすだけの存在になるだろう。決して拍子抜けなんてことにはならないよ、絶対。
だから安心して僕を憎め、もっともっと悪魔を恨めよ。
どんなに醜かろうと、純化した感情は美しい。・・・もしかしたら、“デーモンスレイヤー”を得られるかもしれない。」
脳を揺さぶられて意識が朦朧とするアンドレイに、悪魔は耳元で囁く。
「僕に名乗る名前は無いけれど、覚えておくといいよ。
僕を皆は『黒き赤文字の悪魔』と呼ぶ。或いは『プロナウンサーデーモン』とも。
神に誓えよ、この絶対悪たる誓約の『悪魔』に。必ず僕を殺してやる、と。」
そうして、アンドレイは意識を失った。
最後に見えたのは、『悪魔』の顔と、黒いフードの内側に赤く刺繍された三つ文字だけだった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
あれから一週間経った。
「まったく、貴様は面倒事しか起こさないのか。」
今度はきっちり監視付きで謹慎を申し付けられたアンドレイは、管区長室でマスター・ジュリアスの嫌味を言われていた。
「貴様は左遷だ。私にも手に負えん。
暫定的に騎士位に昇格だ。だから極東の支部に行ってもらう。担当は中国、韓国、日本だ。」
「了解しました。悪魔や邪教徒を殺せるならどこでも同じですから。」
「ふん、東欧や中東の最前線ならともかく、まああの辺りでは水面下の駆け引きばかりで、直接的な行動はめったに起こらないが、いい経験にはなるだろう。」
ジュリアスはそう言って、薄く笑った。
向こうがいったいどういうところなのか知っているからか、これから待ち受けるだろうアンドレイの試練を思い浮かべたのだろう。
「ところで、マスター・ジュリアス。先日の悪魔についてですが・・。」
「ああ、あれは口外禁止な。アレは口に出して広げてはいけないタイプの悪魔だ。
お前と一緒に対応した小隊の分隊も面々もそれを徹底させている。
忘れろ、とまでは言わない。だが無暗に言いふらしていいものではない。分かったな?」
「・・・・・・はい。」
ジュリアスの言葉は納得のできない物だったが、アンドレイは頷くしかなかった。
自分でもそれが最善だと、分かってしまっているからだ。
「あと、お前たちが言っていた騎士の妹が下級悪魔に取り憑かれていたと言う話だが、確認に行かせたところ全くそのような兆候は見えなかったそうだ。」
「・・・・そうですか。」
「しかし、当人には悪魔に取り憑かれていたと言う自覚はあったらしい。何とも不気味な話だ。」
「・・・・。」
それは、あの『悪魔』が約束とやらを守ったのだろう。
実に不快な話だった。
悪魔に取り憑かれるなどと、日々信仰心を磨いていれば起こり得ないことだ。
だからアンドレイは、その騎士と妹に同情はしなかった。
「移動は来週だ。それまでみっちりしごいてやろう。覚悟しておけよ。」
ジュリアスはそれだけを言うと、下がれと言った。
「失礼しました。」
アンドレイはただ頭を下げて、管区長室を後にする。
彼が退室した後、ジュリアスは手元の資料に目を落とした。
第二十九層の大図書館に自身が直接赴いて、探して見つけた資料だった。
そこには、『黒き赤文字の悪魔』について記されていた。
曰く、地上で五百年もの間人々を混乱と邪悪に陥れ続けた伝説の悪魔だと。
曰く、聖地を滅ぼし、二度と人の住めぬ不毛の大地としたと。
曰く、人間から悪魔へと変じた存在だと。
「人が、悪魔に成り得るのか。それとも・・・。」
ジュリアスは窓の外に目を向けた。
そこから見下ろせるのは、悪魔の襲撃にも負けずに復興の始めた人間たちと、人口の偽物の青空が広がっていた。
・・・・その中に本当に悪魔ではない人間が、居るのだろうか?
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「ねえオリビア、聞いたかい?
魔族の領域・・・ここからずっと下の方なんだけどさ、なんと人間が魔王に就任したらしいよ。さっき陛下が教えてくれたんだ。」
「そうですか。」
『悪魔』は街の雑踏の中で傍らを歩く従者に楽しそうに語っては、相槌を求めていた。
「これは何としても挨拶に行かなければならないよね。
自分を人間だと思っていた魔王は居たらしいけど、本当に人間が魔王になった例なんて居ないからね。
これは面白い、絶対に面白い。いったいどんな御方なんだろうね。
一体どんな歪みを抱えているんだろう。それを否定するのが僕は今から楽しみで楽しみでならないよ。」
「はぁ、そうですか。」
「そりゃあそうさ、忘れているだろうけど、僕の本質は『否定』だからね。
虚飾の仮面を引き剥がして嘲笑い、張りぼての虚勢を張り倒して辱める。
そうして生じた感情が、たまらなく美味なのさ。」
「根っからのサドですね。」
「おいおい、君は悪魔に悪者っていうのかい? これが僕と言う存在なんだからどうしようもないんだよ。アハハハハハ!!」
『悪魔』は笑う。子供のように、可笑しく、楽しそうに。
「そう言えばこの間の騎士団のアレ、あんまり効果なかったね。
もっともっと僕の事を知らしめてもらわないと、“僕が僕たる所以の切り札”が貧弱すぎて笑えてくるんだけど。」
「それは由々しきことですね。」
「そうとも。でも楽しさ優先だ。地上で世界征服の計画進行も大事だけど、それはじっくり何十年もかけて下地を作って行けばいい。
なあに、僕らには時間が無限にある。六十億も無駄に下品に増え続けた人類が、多少ふるいに掛けられてからで丁度いい。
僕は上品だから、有象無象は食事に入らないのさ。」
「そうですね。」
「あは、楽しみだなぁ、どんな人だろう、人間の魔王。
人間の『悪魔』である僕と、どっちが人間らしいのかな。」
そうして、二人は雑踏の中に消えた。
・・・・・この中に、人間でない悪魔はいったいどれだけいるのだろうか?
―――インフォメーション
活動報告で告知した情報である、人物紹介に属性の追加。詳しくは最初の方に記載。
人物・ウェルベルハルクを追加。
ピブリオマニアの情報を更新。
新規追加情報、人物・ファニーの追加。
カテゴリーに悪魔を追加。
人物・アルルーナを追加。
人物・プロナウンサーデーモンを追加。
以上。
※皆さん久しぶりです。色々忙しくて、更新が遅れました。
これからも今月はいろいろありまして、詳しくは活動報告を参照ください。
今回は少し見ずらいかもしれませんが、演出上ご勘弁ください。それでは、また。




