第三十一話 悪行の果て
「なんや、あれは。ゴジラの親戚かなんかか?」
その本性を現したファニーを遠目から見ていたフウセンがボケっと呟いた。
「おいおい、古代竜とか反則にもほどがあるだろ・・・・。」
対してロイドは開いた口がふさがらないという様子だった。
「とんでもない大玉が出てきましたね・・・。」
「っち、くそ。ああいう化け物は専門の武器を持ってこないと傷一つ付けられないぞ。」
竜殺しの魔剣とか現存してねーだろ、と忌々しげにロイドはぼやく。
「なんや、ロイド君。己が伝説作る気にはならへんのか?」
「お前、伝説に語られる勇者英雄英傑がどうしてそう語られるのか分かって言ってるのか?」
「知らへんのかいな、いまああいう化け物を狩るゲームがウチの国じゃ流行ってんねん。
バッサリ殺って剥ぎ取ればええやん、きっとうはうはやで。」
「話に成らん。」
邪な笑みを浮かべるフウセンをそう斬って捨て、ロイドは溜息を吐いた。
「まあ、こっから先は俺らの領分を越えてるな。
フウリン、騎士の連中はどうだ? 連中、あの化け物の近くに居ただろ?」
「はい。どうやら向こうのミスで黒幕を逃がしたみたいですね。」
「なにやってんだよ。使えねぇ連中だな。」
偵察をしていたフウリンの報告を聞いて、ロイドは更に溜息を重ねた。
「せっかく花を持たせてあげるつもりだったのにね♪」
「そりゃあ、実質連中に喧嘩売られた訳だからな。メンツぐらい保たせてやろうと思って親切心だした結果がこれだよ。
この有り様じゃ、言い訳が出来んほど完敗しているだろうな。」
そう言ったロイドの言葉と裏腹に、随分と楽しそうに表情だった。
黒魔術師の彼は天敵がボロ負けしたのが可笑しくて仕方が無いらしい。
教会の面子の為に余計な手出しをしないように提案したのは彼だが、実際としては連中に目を付けられるのをロイドが嫌がっていたのは明白だった。
「やはり、助けに行くべきでしょうか?」
教会の魔術の対象にされるかもしれないと彼の提案に賛成したフウリンは、後ろめたさからそう言った。
「連中に恩を売るってのは、ありかもしれねぇな。」
「言うても、ロイド君が出来ることあらへんやん。」
「うぐ。」
フウセンの鋭いツッコミは、ロイドの心をかなり深く抉った。
「それでは?」
フウリンは彼女が余計な事を更に言う前に、この中で一番経験豊富なロイドに意見を求める。
「とりあえず、邪魔な悪魔を掃討するのが先だな。
騎士団の連中をいったん退かせ、ちゃんと機能するように立て直させる。そうすりゃ、あの化け物相手でも多少は相手に成っても持つだろうさ。」
「ちょい待ちぃ、それまであのゴジラもどきは放置かいな?」
「しゃあねぇだろ。むしろこの状況であの場に居る半分が生きてりゃ奇跡だろ。」
「はぁ?」
ロイドのそんな皮肉るような言葉は、何やらフウセンの癪に障ったようだ。
「そりゃあ、あらへんやろ。
ロイド君は何もできへんから押し付けてるだけやんか。アホらし。」
「舐めんなよ小娘、てめぇみたいに正面からやり合うだけが戦いじゃねぇのさ。」
「ですが、足止めが必要なのは確かです。
彼らが幾ら優秀でも立て直すまでには幾ばくか時間が必要です。」
確かに、とロイドはフウリンの言葉に頷いた。
「それはサイネリアにやらせりゃ良いだろ、とりあえず決定打を受けないように纏わり付くようにして時間を稼げば何とかなるはずだ。」
「待ちな、それウチがやる。」
「なに?」
「聞こえへんかったのか、ウチがやる言ゆてんのや。」
「それは止めとけ、お前はああいう化け物と相性が悪い。」
「やる、言うてんのや。って言うか、なんでロイド君が指図すんねん。」
「フウセンッ!!」
流石にその言葉は看過できなかったのか、フウリンが声を挙げた。
「いや、いい。このガキに身の程を弁えさせてやりゃぁいい。
てめぇには悪魔の方をやってもらいたかったが、そいつはサイネリアに変更だ。
おい、サイネリア、お前はそれでいいか?」
「悪魔たちに愛と正義の鉄槌をかますのねッ☆」
「ああ・・・うん、好きにしてくれ。」
ぶんぶん、とデフォルメされた星のロッドを振り回しているサイネリアに、ロイドは何だかどうでもよくなってきた。
「俺はここからサイネリアをバックアップする。
フウリンは向こうとここを繋げて、退路を作ってやれ。空間が繋がったら、作戦開始だ。」
「はい。・・・そうだ、繋げたら周囲の仲間に声を掛けて見ますね。」
「名案だ。旦那辺りが来てくれれば最高だ。」
「探してみます。」
「よし、やるぞ。」
「それ、私も手伝おうかしらぁ?」
その声に、ロイドだけでなく他の三人もびくりと震えた。
「じぇ、ジェリーの姐御じゃないですか・・・。」
ロイドが振り返ると、何も無い場所が揺らめいて触手に包まれていた黒髪の女が現れた。
「ねえフウセンちゃん、お姉さんとねちょねちょと良い事しなーい?」
「じゃウチは忙しいんで。ほなさいならッ!!」
フウセンはビューンと足元に跡を残して跳んでいった。
「もう、フウセンちゃんのいけず。」
「お、お久しぶりです、ジェリーさん。」
そう言ったフウリンの表情は真っ青だった。
イモムシの姿をした悪魔を操る彼でこれなのだから、彼女に対して何かしらのトラウマが有るようだった。
「おい、サイネリア。お前も姐御に挨拶しないか。」
「あ、そっちは別に良いわよ、あたしの守備範囲カワイイ十九歳以下の処女だけだから。」
「そうっすか・・・・。」
ロイドが言おうものならぶん殴られるだろう台詞だが、サイネリアはロイドの後ろに隠れて無言を貫いている。彼の方が背は低いのでシュールな光景だった。
彼らにとって、ジェリーは所謂部活の恐い先輩みたいなものだ。
逆らったら焼きを入れられるのである。
彼女の触手は見た目に反してアホみたいな運動性を誇っており、サイネリアみたいに高速の打撃戦を得意としている上に、精神破壊させる魔術のエキスパートなのである。
やろうと思えば“魔導師”だろうと狩れる、性格も能力もイカレてる魔術師なのだ。
「っていうか、姐御。あっち見てたんなら、なんで何もしなかったんすか?」
「んんぅ~? ああ、あれね。なんか気が合いそうだったからぶっ殺すのは惜しいと言うかなんというか。『盟主』から待ったが来たと言うか何というか、暇なのよねぇ。」
「は? 『盟主』から・・・?」
ロイドはジェリーが誰にも組めないほど我が(その上誰と組む必要も無いほど)強いから、よく直接『盟主』と交感して命令を受けているのは知っている。
「私があれの相手をするとなると、呼びだしちゃいけない物まで呼んじゃうからね。きゃはははははははははははははは!!!!」
「で、ですよねー。」
『盟主』が止めなかったら邪神の眷属と古代竜の地上を揺るがす戦いが繰り広げらる所だったようだ。
ロイドはこの時ばかりは本気で『盟主』に感謝した。
「だから待機命令受けて暇なのー、仕方ないから、歌を歌いまーす。」
「精神ショックは勘弁して下さい。」
「大丈夫大丈夫、普通の歌よ~。」
けらけらと笑う狂人の気まぐれが自分に向かないように何とか己の処世術で対処しながら、ロイドはフウリンにさっさとやる事やれと視線で訴えた。
「息子よ、なぜ顔を隠すのだ。お父さん、お父さん、聞こえないの、魔王が居るよ。王冠と被って尻尾が垂れた、恐ろしい魔王が居るよ。落ち着きなさい、あれは風に揺れる木の葉と夜霧の影だよ。」
するとジェリーは一人二役で高音と低音を使い分けて何かを歌うように演じ始めた。
アカペラでの歌のセンスは壊滅的だが、逆にそれが狂気を醸し出していた。
「ゲーテの、魔王ですか・・・。」
空間に大きな虫食い穴を作り上げたフウリンが呟いた。
こんな状況で歌う曲でなかった。
そんな内心を知っている訳ではないだろうが、彼女はそれだけしか歌いも演じもしなかった。
『可愛い坊や、ボクの所においで。ボクと一緒に遊ぼうよ、楽しいよ。楽しいよ。
岸には綺麗なお花が咲いて、ボクの母は黄金の衣装をいっぱい持っているから、ボクが君に上げるように言ってあげよう!!』
「え?」
フウリンが振り向くと、ジェリーは全身を触手で包んで空気に溶け込むように消えて行った。
飽きたのか、それとも帰ったのか。狂気に満ちた彼女の意思を汲み取れる人間は居ない。
「サイネリア、お前も早く行けよ。」
「・・・・うん。」
サイネリアはジェリーの所為で大分意気消沈したらしく、いつものキャラ作りも無くとぼとぼと虫食い穴の中に歩いて行った。
「ロイドさん、今何か聞こえませんでしたか?」
「は? 何言ってんだお前。」
「いえ、この場に居ない誰かの声が聞こえたような気が・・・。」
「お前、あの姐御でもいくらなんでもただの歌だぜ。それで頭がおかしくなったなんて言うんじゃねぇだろうな。流石に姐御に失礼だぜ。」
「いいえ、そうではなく・・・。」
そこまで言って、フウリンは言うのを止めた。
彼の心臓が、悪魔が、異様なまでに脈動し訴えてきたのだ。
これまでに無いほどの力を貸そう、とそう言っている。
「この身に眠る大いなる悪魔よ、そこまで言うならその力を示して見せろ!!」
力が、溢れだす。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
『ぎゃはははははははははははははは!!!!!』
足元にいる雑多な人間などまるで関係ないように、巨体をのけぞらしてファニーは哂う。
それは対峙する者の勇気を抉り、恐怖と絶望を与える死の宣告に他ならない。
『お前ら、ホントバカだよなぁ。
てめーらも魔術師なら、喧嘩は勝てる相手に売るこった。バカはこの世界じゃ生き残れない、力が無いものは生き残れない、ただ喰われ、嗤われ、散るだけだ。』
邪竜が一歩踏み出す。
それだけで大地は揺れ、人は剣を持っては向かうことすら許さない。
『リネンは空前絶後の召喚魔術の使い手だ。
それこそ、世界樹の種まで遡らなければ、アレに匹敵する召喚士は居ないだろう。
あいつを殺すなんて、てめーら凡人には到底無理なんだよ。』
だが、と人外の顔つきであるにも拘らず、竜頭の表情は分かりやすく変わった。
嫌悪の表情だった。
『アレは俺の女だ。指一本でも触れたら俺が殺す。
そう、てめーらはただ蹂躙されていればよかったのさ。てめーらは部屋の片隅でぶるぶる神様に祈って経でも何でも唱えてりゃ良かったのさ。それが人間ってもんだろ?』
無造作に、長大な尻尾が彼の背後を薙ぎ払う。
木の葉のように家屋や木々が宙に舞い、放射状に空き地が出来てしまった。
「言わせておけば。」
その中で、一人かの邪竜に立ち向かおう人間がいた。
マスター・ジュリアスだった。
「マスターッ!!」
「マスター・ジュリアス!!」
彼は背後から彼の指示を仰ぐ部下たちの声を受け、静かにこう言った。
「退却だ。お前たちは気絶した仲間を可能な限り連れて撤退し、後続と合流しろ。この場はこの私が喰いとめる。」
「ですがッ!?」
「いいから退け、貴様らの死に場所はここではない。
もっと神の為にその身をすり減らし、血を流し、敵を斬り捨ててから死ね。
いいか、こんな所で死ぬことは許さん。そんな物は原罪に等しい冒涜と知れ。」
それ以上何も返ってはこなかった。
ジュリアスの背後で、ただ鎧が打ち鳴らす音が聞こえるばかりだった。
『愚かしい人間よ、俺様を前にしてなぜ他人を庇う。
幾重の魔術で心を鎧おうとも、人である限りお前の恐怖は隠しきれない。幾千の戦いを重ねているからこそ、圧倒的な力の差を前にお前の絶望は隠しきれない。
これからこの俺様が、お前たちを皆殺しにするというのに、何故に他者に気を配る余裕がある。何故に戦おうとする。愛を誓った者が居るのか? それとも浅ましき名誉の為か?
我が力と暴虐を前にして、そんな物は無に等しい。いったい、何のために俺様が吹けば吹き飛ぶようなちっぽけな勇気を振るう?』
巨大な古代竜は、まるで劇場の役者のような口調でそんなことを言った。
その巨体の十分の一にも満たないジュリアスは答えた。
「貴様には分かるまい。人であることを止め、人の心を捨てた貴様には分かるまい。
問われて答える理由などありはしない。いちいち理由など求めて生きていられるほど人間は賢くは無い。私が貴様に刃を向ける理由など、それ以上の意味など無い。」
『なるほど、なるほどな。
認めよう、貴様はこの俺様の鱗に刃を突き立てるにふさわしい英雄だ。
存分に殺し合おう。お前は俺様を否定しろ、俺様は俺様自身を肯定する。
お前は神話の一ページに、俺様に向かって行って死んでいった凡庸な幾多の戦士の一人と記されるか、俺様を殺した英雄豪傑として名を刻むか、決めようではないか。』
「そんなことに興味は無い。私が貴様を殺すか、神が私を見捨てるか。その二択だ。」
『気に入った、気に入ったよお前!! だから、死ね。』
巨体からすれば小枝のように細い邪竜の右腕が振り下ろされる。
しかし体重の乗った腕の先の手には鎌のような鋭い爪が生え揃っている。
ごぎん、ともはや金属音に聞こえない音が、その一撃を受け止めたジュリアスの剣から鳴り響いた。
ミスリル銀製の魔性を退ける聖なる加護を受けた剣が、そのたった一撃でひしゃげてしまった。
それどころか、あまりにも重いその一撃は、ジュリアスを膝まで地面にめり込ませる。
『いくら貴様が英傑だろうと、お前の剣は主と違ったようだな。』
「たかが一本、剣をへし折ったくらいで良い気になるな。」
彼の腰には、まだ抜いていない剣が一本残っていた。
『お前のその減らず口がどこまで続くか、俺様はとても楽しみだよ。』
直後、巨体に見合わぬ目にも止らぬ両腕の連撃が次々と繰り出される。
地面に直撃すれば火薬が爆発しているようにしか聞こえない邪竜の一撃が、矢継ぎ早にジュリアスを挽き肉にせんと襲いかかる。
比較にならないが、彼の巨体は常にマウントポジションを維持しているのも同然なのだ。
「獣が、図体ばかりデカイだけかッ!!」
しかしジュリアスはその一撃一撃を巧みに紙一重で避け続けている。
手にしている剣でその暴虐を受け流しているのだ。
ひしゃげた剣でしかないそれが、魔獣を操る鞭のようにすら見える。
余波だけでも人体はぐちゃぐちゃになりそうなものの、ジュリアスはダメージを最小に抑えている。
これが直撃だったのならば話は違う。
ドラゴンの持つ“竜”の概念は、神の奇跡に匹敵する最上位クラスの概念だ。
たとえ何重もの魔術防護で固めていても、薄紙同然に押しつぶされてしまう。
だが、ジュリアスが受けているのは余波でしかない。
「遊びが過ぎたな。」
幾ら早くても、単調すぎる連打はジュリアスにとって力任せの獣に過ぎなかった。
ひしゃげた剣を延ばされたファニーの腕の関節に向けて、投擲した。
『なにッ!?』
腕の内側の鱗の柔らかい部分を狙われ、剣が関節に突き刺さりファニーの腕は曲がらなくなってしまったのだ。
ファニーにとって小枝に等しくても、人間にとっては大人が両手を広げた長さより太い彼の腕を、あろうことかジュリアスは駆け昇って、疾風のように走る。
ジュリアスは腰だめの姿勢で居合抜きでもするかのように鞘に手を当て、腰に帯びている剣の柄を握っている。
ファニーが空いている片手でジュリアスを振り払おうとするが、空振りに終わった。
そして、ジュリアスがファニーの顔に肉薄して剣を抜いた。
次の瞬間、純白の光が、その刀身から発したのだ。
その強烈な閃光は、一瞬だけとは言え夜ならば周囲の闇を振り払うほどの光だった。
『・・・・そんなナマクラで、俺様の鱗を一枚でも削ぎ落せると思ったのか?』
そして、光が消え失せると、光る剣の刃をファニーの首筋に突き立てているジュリアスの姿が有った。
「これでもクラウソラスのレプリカなのだがな・・・・。」
ファニーの鱗に瑕どころか、ジュリアスの手にする光剣の切っ先が逆に欠けていた。
剣の格が、ファニーの有する“竜”の概念の格に負けた結果だった。
『俺様を殺したいのなら、俺様の肉を引き裂いた魔剣を持ってくることだな。
切れ味の問題じゃない。俺様の物語にふさわしい剣でしか、もはや傷付けられることは許さん。』
そんな骨董品が現存しているのならな、と邪竜は嘲笑する。
『つーか、いつまでも乗ってんじゃねーよ。』
その直後、ジュリアスは空中に放り出された。
ファニーの巨体が、そのまま後ろに存在していた。
それは紛れも無く瞬間移動だった。
そこからの、テイルスイング。
鞭のように撓る大質量の尻尾が空中に居るジュリアスを捉えたのだ。
バシン、とハエや蚊でも叩き落とすように、ジュリアスは付近の家屋の中に消え失せた。
『直撃は、避けたか? じゃぁまだまだ元気だよなぁ。
しかし、てめーらのしぶとさはいつの時代も変わらねぇよなぁ。
顔も見たこともねぇ自分らの神様の為に働けるなんざ、仕事熱心なこったなぁ。』
ぎゃははははははははははは、と邪竜が嗤う。
「早くこちらへ!!」
彼の足元では、ジュリアスが時間を稼いでいる間に既に騎士たちは半数以上が撤退をしていた。
それもこれも、フウリンが数か所の虫食い穴を作成して退路を作り上げたからだ。
『おい。』
巨大な古代竜の明確な殺意が、ただ一点に注がれた。
「え・・?」
それは血まみれのクロムに肩を貸し、アビゲイルの呪詛を解呪し終えた所だったエクレシアだった。
『お前、リネンがまた会うかもしれないって言ってたな。
あいつは少し間抜けと言うか、ぬるくてな。そうやって見逃してやった相手に足元掬われたことがもう何度もあったんだよなぁ。
あいつの第六感は凄くてな、お前が敵として再び出会うと言うならば、そうなんだろう。
もしかしたら、お前はリネンを殺せるかも知れない。運命がお前を選ぶかもしれない。』
ずしん、ずしん、とファニーは言いながら彼女のとの距離を段々と詰めて行く。
その圧倒的な歩幅は、緩慢な動作であるがすぐに敵の前に辿り着いた。
『リネンはその運命とやらに何度も苦渋を舐めさせられ、仕舞には殺された。
そりゃあ、天に向かって唾吐いてんだ。俺様も神様って連中がどれだけくそったれな連中かよーく知っている。
この世は天秤で釣り合うようになってるんだよ。
強大な力は、それと必ず釣り合う、対抗できる勢力や敵が必ず出現させる。
因果応報って奴だ。あの『黒の君』は最強の盾と矛の法則と言っているそうだが。
だから俺みたいな強大な存在が暴れ続ければ、必ず俺を殺せるだけの力を持った奴が俺を殺しに来る。魔王が猛威を振るえば英雄が必ず殺しに来る。くだらない、お膳立てを作ってな。
だからリネンの最後は悲惨だった。次の最後も恐らく悲惨なものだろう。』
何を言っているのか、エクレシアには半分も理解できなかった。
だが、高層ビルディング並みの身長を持つ邪竜が、自分なりの理屈と理由で自分を殺そうとしているのだと、思った。
邪竜が右足で彼女の真上の光を遮る。
いったい何万トンあるのか分からない体重で、踏みつぶす気なのだ。
『故に、俺がその芽を摘み取ろう。それがお前の死ぬ理由だ。
なんで死ぬのか分からないままは寂しいからな、もし生き残れたら、肝に銘じろ。もしもう一度、リネンに相対し、刃を向けることになったら己の神を恨むと良い。
神代から続く黄金の呪いが、お前に必ずや永遠の苦しみを与えるだろう、と。』
ずしん、と地響きと共に邪竜は足を地面に落した。
手応えは、無かった。
『くくくくく、ぎゃははははははははははははははははは!!!!』
邪竜は可笑しそうに、腹を押さえて地面を何度も何度も叩いた。
『神よ、次はいったいどんな陳腐なシナリオで俺たちを殺すつもりだ!?
俺様は知っているぞ、お前たちが慈愛の笑みの裏側で嘲笑っていることを!!
俺様は知っているぞ!! 救いなどチラつかせ、何食わぬ顔で気に入らぬ輩を破滅へ追いやっていることを!! ぎゃははははははははははは!!!!!
お前たちの手口など、全てお見通しだ。しかしどうにも出来ない。そういう風になっている。全く、生きるってのはホント下らなく、楽しいことだよなぁ!?』
邪竜が咆哮する。
まるで、破壊することで自らの存在を訴えるように。
「なに訳のわからんこと言うてるんや。」
『あーん?』
「結局、己らが暴れる理由を正当化しただけとちゃうんか?
どんだけ大仰に言うても、所詮は自業自得やんけ。カッコ付けんのも大概にしぃや。いまどきそんな厨二くさった台詞なんざ流行らんのや。」
“処刑人”フウセンが、空から邪竜の前に降り立ち、魔剣の切っ先を向ける。
『ぎゃはははははははは!! まさしくその通りだよな!!! 笑えるぜ!!!
そうとも!! 俺たちは、暴れる理由が欲しいのさ。何でも良いからこの内の衝動を吐きだせる、理由が必要なんだよ!!
細けぇことなんざ、どうでもいい。死ね、壊れろ、喰われろ!!!』
「おう、シンプルでええんや。ウチが殺す。おのれは死ね。それが全てや!!」
瑠璃色の魔剣が、淡く輝く。
それが彼女の闘志を現していた。
『教えてくれよ、その魔剣がこの俺様の心臓に刃を突き立てるに相応しいか。
お前がこの時代のシグルズなのか、俺様に教えてくれよおぉぉッ!!!』
邪竜の口から、鉄をも溶かす灼熱の炎が吹き荒れた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「空間、転移・・・?」
エクレシアは自分に起こったことを再確認していた。
空間転移。
高度な空間把握能力と認識力が無ければ使用できない、空間系魔術の奥義だ。
知名度は高く原理が公開されているのもあるが、瞬間移動の秘術は未だ人類科学で実現できない秘儀である故に神秘性を保っている。
とは言え、移動距離は術者に依存する為、隣同士の部屋から地球の裏側までと結構ピンキリである。
「空間転移の儀式を瞬間的に発動させる、転移呪符よ。
最大移動距離は五キロ、四人分使ってここまで逃げて来たわ。」
周囲には、退却を行っていた騎士たちが忙しなく動き回っている。
負傷者の救護や仲間との連絡、悪魔から虫食い穴の防衛、仲間の誘導と、現状の人数では対応しきれていない様子だった。
「四人分?」
重症で傷口を抑えて地面に横たわっているクロムは、顎をしゃくって示した。
そこには呪詛が解けてなお未だピクリとも動かないアビゲイルの他に、ジュリアスが光る剣を杖に立ち上がろうとしていた。
すぐに彼の存在に気付いた騎士たち駆けよるが、ジュリアスは仕事に戻る様に一喝した。
「ドラゴンの一撃喰らって生きてるなんて、人間じゃないわね。」
「お腹に穴が空いて生きている貴女が言いますか・・・。」
「残念ながら、魔力で延命してるだけ。血が流れ過ぎてる。そう長くは無いわね。」
トリアージじゃ黒色ね、とクロムはどこか達観したように呟いた。
「そんな・・・。」
「貴女は下の階層に行くことだけを考えなさい。
どうせ私にとって死なんて一時的なものでしかないもの。」
「で、ですが、死に近づくことには違いません。
貴女は分かっているはずです、死に近すぎると、人はいずれ人間としての感覚を失っていってしまうことを。今の貴女は、死の向こう側に一歩足を踏み入れている。
・・・・今、司祭の資格を持っている人を連れてきます。」
「貴女は真面目ね。でも良いの。私の魂は、所詮“私”に帰るだけ。
人のことを心配する暇が有るなら、自分のやる事をやりなさい。」
「・・・・・・。」
エクレシアは、クロムに何も言えなかった。
「これ、あげる。私が生きた証。」
クロムはぶちりと服の中から小さなプレートの鎖を引き千切って、地面に置いた。
「これ、は・・・ッ」
そこに書いてある文字を見て、エクレシアは絶句した。
聡明な彼女は、それが何を意味するのか理解してしまった。
そして、そのおぞましさに吐き気すら込み上げて来た。
「あな、たは・・・死を何だと思っているのですかッ!!」
「ただの現象よ。貴方達にとっては神の下へ召されるだけかもしれないけれど、地上の人間は未だにそれを定義することすらできていない。“死”なんてね、曖昧な概念なのよ。
だからこそ、誤魔化せることができる。騙す事が出来る。
―――――だからこそ、無限の命すらも、作り出す事が出来る。」
クロムは、この上なく邪悪な笑みを湛えた。
「私は、ここにいる私の他に何百人と存在している。
その全てが同一であるがゆえに、私は一個人にして軍隊アリの如き軍団なの。
私一個体の死なんて、全体からみれば髪の毛が一本抜けたくらいの意味合いしかないの。」
「そんな馬鹿な、人間の魂は一つだけです。
そんなにたくさんの貴女が存在するなら、無数の貴女が同じ魔術を扱えるはずが無い。」
それを可能にするにはそれこそ賢者の石でも無ければ、不可能な所業だった。
「人間の魂なんて希薄なものを認識できる人間がどれだけいると思っているの。
人に魂が宿るのも、物に魂が宿るのも同じ。同一と定義した全てのモノに同じ魂が偏在しているにすぎない。そこに矛盾は存在しない。
故に私はからっぽ。人から物に変わった瞬間、仮初めの魂は霧散する。
その内新しい体が作られて、その中に心をインプットされる。オリジナルの私と同一と定義される、そしてそこに魂が生じる。
だから、私は無限に存在する。死なんて無意味。
オリジナルは自分の死を、別の個体に押し付けることすらできる。私はただの身代わり人形、分担作業の一工程を担っているにすぎないの。」
「そんな人生、貴女は許容できるのですか?」
「私の頭には反逆防止用のチップが埋め込まれてるわ。
専用の周波数の電波で脳内に信号が発せられ、アポトーシスが誘発されて、全身の細胞が死滅するの。だから死ねと言われた私にこれ以上生きる意味は無い。」
「・・・・・・・・・・・・」
エクレシアの心に満ちていたのは、言いようのない怒りだった。
「貴女は、愚かですよ。」
「無知を許容出来ない時点で、私は愚かよ。
私は自分が誰かに劣るのが許せないの。」
「もう、いいです。」
それ以上、エクレシアは彼女のやり方につべこべ言うのを止めることにした。
お互いに分かりあうつもりも無く、やり方を変えるつもりもない。
その果てにある物を、エクレシアは知っている。だからこれ以上は無意味だった。
「最後に教えてください。彼女は、何者ですか。
彼女は貴女を親友だと言っていました。」
エクレシアは、それだけは聞かなければならなかった。
「・・・シークレットセブンって、知ってる?」
「いえ、知りません。」
クロムの口にした単語は、エクレシアの知識には無い言葉だった。
「約千年前、異世界から魔術師たちがこの世界にやってきたのは知っているな?」
すると、エクレシアの背後からジュリアスが答えた。
「え、ええ・・・。」
「魔術師たちの住んでいた世界が終焉に差し掛かる、更に五百年も年月は遡る。
その世界の我々と同系統の教会が長年に渡り発布しつづけていた制度だ。」
「流石マスタークラスの魔術師は知っているわよね。」
「私は大図書館の観覧を許されている、他世界とは言え同じ信仰を礎とする教会の歴史に興味を持たぬ道理はないからな。」
憮然とした表情で、ジュリアスは言った。
恐らく彼女が気に入らないのだろう。
「一言で言えば、賞金首みたいなものよ。
当時の教会の連中が、凶悪な犯罪者に頭を悩ませていたの。
そこで取り分け強力な実態の掴めない凶悪な事件の七つ選んで、その首謀者に莫大な懸賞金を掛けて生死問わず捕まえさせようとしたわけ。
勿論教会側に懸賞金なんて払うつもりもない。何せ実体が無いんだから、証明の使用が無い。それがいつしか形骸化し、凶悪な犯罪者を七人選別するだけになってしまった。
言わば、人間のクズ代表七人よ。中には魔剣“ソウルイーター”の所有者も居たわ。」
「あの、悪名高き原初の魔剣ですか・・・。」
エクレシアもその恐るべき魔剣の力は聞いたことが有る。
その恐るべき魔剣の力はもはやお伽噺の、核兵器が玩具になるレベルであるらしい。
近年、その魔剣が新たな所有者を選んで次元の彼方から出現したとして大騒ぎになったのを覚えている。
「選別された凶悪な犯罪者は名前で呼ばれることは無く、その所業から通称で呼ばれたわ。そのセンスはちょっと壊滅的で笑えるレベルよ。
百万人斬り殺したらしい魔剣“ソウルイーター”の所有者は通称“キラーブレイド”。閃光と共に幾多の教会の軍勢を薙ぎ払ったと言う剣士には“黒き流星”などなど。
そして、彼女はこう呼ばれた、“マスター・デビルサモナー”と。」
安直でしょう、とクロムは笑う。
「だけど、誰も彼女の所業を笑える者は居なかった。
その才能は『盟主』にも買われて、勧誘を受けた程よ。その時に『最高位』の称号を貰ったらしいわ。陳腐な通称はここから来てたりもするわ。
でも彼女は一人で悪魔を率いて教会に喧嘩を売り続けた。
そんな彼女だけど、一人意気投合した魔術師が居た。彼女は“ブラックトリガー”と呼ばれた、当時“魔術同盟”だったここを反逆罪で追放されたそれはもう凶悪な魔術師でした。
手を組んだ二人は、もはや例外を除いて敵無しで、それはもう痛快な日々だったわ。
残念ながら、“ブラックトリガー”の方は後で『盟主』の粛清を受けてしまったけれど。」
「千五百年も前の人間が・・・どうして・・・。」
そのエクレシアの呟きは、当然あのリネンに対するものだけではなかった。
「粛清を受けたはずの“ブラックトリガー”はその知識を失うには惜しいと、実は第二十九層の氷の牢獄の中に閉じ込められて氷漬けになっていたのです。
そして彼女は、千五百年もの時を経て、世界を超えて、『盟主』によって助力を乞われたのです。彼女は快諾しました。
なぜ『盟主』は彼女を蘇らせたかと言うと、刻々と変化する地上での人間や情勢の変動に対して、その魔術師は適応し、特に有効な魔術や技術を無数に持っていたからです。
彼女は戦艦を鉄くずにした戦闘機のように、空母を玩具箱にした核兵器のように、核兵器を産業廃棄物にするほどの力を持っているのです。」
「なぜ『盟主』はそのように・・?」
「さぁ、地上の侵略でも企ててるんじゃないの?」
そのくだらない冗談は、彼女にに回答する気が無いからだろう。
「そして彼女は思い付いたのです。かつて意気投合し共に猛威を揮った恐るべき召喚士を現世に呼び戻せないか、と。
悪魔を自在に操れるその召喚士は、悪魔から自在に知識を引き出し、魔術を執り行わせられる恐るべき物です。
彼女はその力を借りようと、体を用意し、“虚無の闇”より転生も出来ずにいた召喚士の魂を呼び寄せたのです。
恐るべきは、彼女との交感状態だけで現世との繋がりを得た召喚士は自身の霊体を逆召喚して、見事現世に生還を果たしたのです。」
「・・・・・・常識はずれにも程があるだろうに・・。」
もはや天才と言う言葉すら霞むほどの才能に、ジュリアスも信じられない様子だった。
それは事実上の死者の蘇生、現代において魔術の最終目的の一つだ。
「彼女の名前はリネン・サンセット。
そして盟友である“ブラックトリガー”ことメリス・フォン・エルリーバを失った彼女は、ある暴挙に出て『黒の君』により粛清を受けたと本人から聞いたわ。」
「暴挙・・・?」
嫌な予感がひしひしと、伝わってくる。
それでもエクレシアは問わずには居られなかった。
「魔王の召喚。」
魔術師の、タブー中のタブー。
魔王、即ちそれに関わる全てのことである。
「え、ちょっと待って下さい、たしかエルリーバって、かつて魔王を討伐した英雄の・・・」
「そう、そうなのよ。話が早くて助かるわ。
魔王を討伐した英雄の子孫が、あろうことか叡智を求めるあまりに、ある都市に封印されていると言う魔王の血を奪いに、リネンと共に襲撃を掛けてしまったの!!
三十万人は居ただろう都市は火の海にして、見事封印されていた魔王の血を奪うことに成功したわ。
でもそれの研究をする前に粛清を受けて、彼女は氷の牢獄に封印されたけど、リネンは盟友の意思を汲んで、魔王の魂を現世に蘇らせてしまったの。」
「・・・・・・」
それはもう罪深いと言う言葉すら、安っぽく聞こえる悪行だった。
エクレシアはもう何かのお伽噺を聞いている気分にすらなってきた。
「だけど、『黒の君』はそれを許さなかった。
と言っても、彼は魔王を撃退しただけらしいのよ。
彼女はその後にいつも通り教会勢力を襲いに行って、その先で死亡した。どう死んだかまでは教えてくれなかったけれどね。」
だいたい想像つくけどね、とけらけら笑いながらクロムはそう言った。
「貴女は、後悔していないのですか?」
「悪いと思ってやる犯罪なんて無いのよ。仮に思っていても、必ず心のどこかで自分を正当化しているものよ。」
「・・・・悔しいですが、至言ですね。」
「それに言ったのは貴女じゃない、正と死を超えた人間を裁く法は無いって。
私は二重存在どころじゃないわよ。無限の命を持っているの。裁きたければ裁けば良いわ、リネンの二の舞になるだけだけれど。」
「その裁可はもはや神に委ねるしかあるまい。
あの女についても、人で裁けぬなら神の裁きを待つのみ。これ以上の論は必要ない。」
無駄な論争に成る前に、聞きたいことは聞き終えたジュリアスがそう締めくくった。
「お前はお前の成す事を成せ。」
「はい。」
エクレシアは、部下たち指示を出すべく歩いていくジュリアスに礼を捧げた。
「あ、そう言えば・・・。」
ふとエクレシアは思い出した事が有った。
リネンは言っていた。
目的は既に達成した、と。
彼女の経歴からすれば、襲撃そのものであってもおかしくは無い。
だが、それでは彼女の言動が一致しないことに、彼女は気付いてしまった。
「・・・彼女、リネン・サンセットの目的は、何なんですか?」
「何って、何が?」
「とぼけないでください、なぜ彼女は我々を襲撃したのですか?」
「ふふふふ。」
一体何を聞いていたのか、と言わんばかりのクロムの表情に、しかしエクレシアは惑わされるつもりはなかった。
「答えてください。」
「あなた、本当に何を聞いていたの。
彼女に悪魔の召喚に特化した魔術師なのよ。
だったらすることは一つだけに決まってるじゃない。」
言われてみれば当然のことに、エクレシアは嫌な予感を感じて生唾を飲み込んだ。
だけど、それは聞かなければならない。
それが己の使命だと言い聞かせて。
「リネンの目的はね、当時教会勢力から追い回され続けてなお五百年もの間存在し続けて来た、伝説の『悪魔』の召喚よ。」
そして、彼女の口からそれが語られた。
「・・・・五百年。」
悪魔にとっては瞬きに等しい時間だろうが、それが自身の住む魔界とは違う世界であるならば、意味合いがまるで違う。
「まさかその、伝説の悪魔を使役しようと・・・。」
「あはははははは、無理無理無理。
あの『悪魔』が、誰かに使役されるなんてありえない。
事実リネンはあいつに何度も煮え湯を飲まされたか・・・。それにリネンを殺したのはきっとあいつかその従僕に違いないわ。蛇蝎の如く嫌っていとしてもおかしくもない。」
彼女の口ぶりからして、クロムもその悪魔のことをよく知っている様子だった。
笑いながら血を吐いている彼女を見てしまっているので、エクレシアにそれを尋ねることは出来なかったが。
「では、どうして・・・・。」
「それ以上は契約があるとかで教えてはくれなかったわ。でも想像はつく。」
ごぼごぼと溢れ出てくる血が邪魔して聞き取りづらいがそれでも、クロムは話すのを止めなかった。
「これを持って行きなさい。転移呪符よ。
使い方は場所を指定し、魔力を込めるだけ。ここからなら昇降魔法陣までなら十分に届く。
これ、使い勝手良かったら貴女の騎士団で購入してみてね。一枚約五千ドルだけど。」
「・・・・五キロの瞬間移動で、ちょっとした航空費の十倍近いですね。」
エクレシアには眩暈のしそうな金額である。
十枚あるだけで、下で必死に奴隷生活している某主人公が借金を返せてしまうくらい高額だ。
「それだけ魔術は効率悪いってことよ。これでも大量生産でコストダウンしてるのよ。
これが普及すれば、本当の意味で移動の時間を金で買える時代に成るってことよ。」
「・・・・・・。」
うぬぼれでもなく彼女は本当に地上を変えてしまえるだけの力を持っているのだろうことを、本当の意味で知ったような気がしたエクレシアだった。
「覚えておきなさい。・・・これが、私の、“私”達のやり方。」
クロムは血まみれの服のポケットの中から、拳銃を取り出した。
震える手で、彼女はそれをこめかみに当てた。
エクレシアが止める間も無かった。
「私は自身の死を持って完成する。私は、モノじゃない。」
彼女は言う。私は人間である、と。
一発の銃声が、騎士たちが打ち鳴らす鎧の喧噪の中に消えた。
なぜ今までずっと魔族に関係の無い話が続いていたかというと、リネンという存在の布石を完全なものとする為です。
魔王の誕生が不可能であると『プロメテウス』が断じられたこの世界でのイレギュラーが必要だったわけです。
メリスの通称は“ブラックトリガー”。
つまり、黒い引き金です。事件などを後ろから糸を引く人物を黒幕って言いますよね。
事件の引き金を引く黒幕。だからメリスは“ブラックトリガー”なのです。
ちなみに、クロムが名乗った偽名。
アイマ・イミーマインですが、ばらすとアイ、マイ、ミー、マイン、英語の人称代名詞になります。
私は、私の、私を、私のものを・・・“私”がいっぱい、つまり自らが多数の同一人物のうちの一人、ということを示していたのです。