第二十四話 英雄の素質
「本当はこんなことを言うのは気が引けますが、メイさん。
彼に決して気を許してはいけませんよ。」
苦渋に満ちた表情で、エクレシアがそう語ったのを俺は鮮明に覚えている。
その彼というのは、もちろんながらクラウンの奴のことである。
彼女の属する教会では、蛇は悪魔の象徴である。
それに翼が付いているドラゴンは即ち、堕天使という意味が加わり、悪魔そのものになる。
そしてその化身たるドレイクに命を助けられたエクレシアの心中察するものがある。
多少の例外はあれど、ドラゴンは圧倒的に人類の描く物語や英雄譚では悪役敵役やられ役である。
クラウンの奴もそれに違わない嫌な奴である。
人間にとっての悪とは、こういう奴なのだとも思う。
だが、ひねくれた現代人はこう夢想したりしないだろうか?
たとえば地上にでっかいドラゴンが現れたとしよう。
現代の兵器をふんだんに使えば、まあ、たぶん何とか倒せるだろう。
怪獣映画だと怪獣は基本的に現代兵器に耐性を持っていて、日本では当然のように自衛隊が返り討ちに遭うのがもはや“お約束”ですらある。
たとえば中世を舞台とした物語で、ドラゴンが現れたとしよう。
奴には鉄で出来た剣も矢も効かない。これは不味いとは思うだろうが、まあ一国レベルで一致団結して軍隊やら何やらで対処すれば何とかなるかもしれない。
常識に凝り固まった人間は、そう思うだろう。
しかし、残念無念。連中は、さっき言った“お約束”を踏襲し、物量では絶対に勝てないような絶妙かつ絶対的な化け物なのだ。
まあ、勝てないだろう、とは思っていたが、ここまで圧倒的だと笑えてくる。
これがその一部始終である。
「―――ッ」
不意打ち気味に放たれた爆炎が巨大な刃のようになって襲い掛かってきたのを、俺はとっさに魔剣を振り払って迎撃した。
魔力による活性化に慣れた俺の体は、即座に人間の生理的限界の領域にまで達する。
つまり、俺の体は魔力を通すだけで限界まで鍛え上げられたスポーツマンのような身体能力を獲得するまでに至ったのである。
これもエクレシアとの日々の訓練の賜物である。
しかし、身体能力が地で違う魔族とは、これでやっと対等かそれ以下だ。
何せ連中にとって、その状態が基本であり、さらに魔力によって上乗せできる。
それに、魔族の中には魔力の運用を前提とした進化を遂げているものもいる。
ドラゴンなんてその最もたる例だろう。想定される空想上のドラゴンは己の翼でその体を浮かすことは出来ないのだから。
そういう意味では、地上にいる人間は魔力を使うことを忘れ、それに関して退化していると言っても良い。
俺の用に短期間の訓練で適応できるのは、稀であるらしい。
そういう才能があるからだと言う。
たとえ人間が退化しようが、魔力はそれを補って退化の過程を無視する。
そうして魔力に馴染んだ俺の肉体は、たった一瞬でただのガキから極限の身体能力を得た人間へと変貌させる。
これはただ単に俺がそういう魔術に適正があっただけで、魔術師の誰もがそんな超人的な能力を獲得するわけではないようだ。
強靭な肉体を得たり出来るのはギリシア系の魔術の傾向らしい。
本格的になれば、これの上に更なる身体能力強化系の魔術を付与するらしい。
一応一通り使えそうな魔術はピックアップしてもらったが、地力がなっていないのに上位の魔術を使わせられるか、という話でエクレシアはこれ以上の強化魔術の使用を禁止されている。
当たり前である。強化された自分の身体能力に自分がついていけなくなるなんて、馬鹿らしいと俺も納得して鍛錬にいそしんでいる。
さて、余談はここまでだ。
その爆炎の凶刃は質量で叩ききるというより、熱量をぶつけるという感じの一撃だった。
当然、迎撃した俺の魔剣の刃を素通りして俺の体に真っ赤な火炎が叩きつけられた。
俺は咄嗟に簡易障壁で身を守った。
簡易障壁と言っても、柔道で言う受身のようなものだ。致命傷を避けるために緊急避難用に一瞬で張れる極薄の全身を覆う球状のバリアである。
エクレシアの教会での通称は、“首の皮一枚”。
主な用途は相手の刃を逸らすためであり、強度はガラスの灰皿とかの適当な鈍器であっさり破れる程だ。
しかしながら、有ると無いとではまったく生存率が違うらしい。
基本的な動きをエクレシアから学んだ後、俺はこの魔術を条件反射で出せるように、彼女に“刷り込み”をされた。
そして、それを自分でも違和感を覚えないようになるまで繰り返し練習させられた。
・・・・・・・スパルタだった。
だが、それが功を奏した。
簡易障壁は一瞬で燃え尽きたが、その一瞬で俺は爆炎の効果範囲から飛び退ることが出来た。
まさに首の皮一枚である。
そして、目の前のバーチャルで出来た草原が爆炎の刃で真っ黒に焼け焦げている。
これが質量で叩き切る攻撃だったら、たぶん即死だっただろう。
火に対する魔術は基本中の基本らしいし、くるとわかっているなら俺もちゃんと対応できる。
だが不意打ちだ。
魔術師として素人の俺がそこまで対応できるはずもない。
「思想なき力ほど、意味の無いものは無いと思わないかい?」
クラウンが五指を広げた右手を大きく振りかぶって振り下ろした。
その鉤爪のように鋭い彼の爪から五条の真空の刃が繰り出された。
それが放射状に伸びて、散弾のように広がる。
この近距離で回避は困難で、俺は『アキレスの盾』を展開して凌いだ。
その強力な一撃は、地面をめくり上げるほどである。
「くそッ」
魔剣を持ち直して、雷撃を放ちながら突進を試みる。
「君には、何かを成そうという志が足りない。」
バシシシィィ、と迸る雷撃はクラウンには届かず、彼の身を守る球状の力に沿って逸れただけだった。
「僕は別に君に何かを期待しているわけじゃないんだよ。
たださ、僕と君には主人と奴隷って関係があるわけなのを最近忘れてるよね?」
クラウンは余裕綽々の抑揚のある口調でそう言った。
接近しようとする俺には地面から無数の鋭利な棘が飛び出して思うように進めない。
「君の力は、当然ながら僕のものなわけさ。だから別に君に思想信条その他諸々が無くたって構わない。なにせ、僕の力だからね。
だけどそれは、具合が悪い。なぜなら、君には僕の為に強くなってもらわないと困るからだ。分かるよね?」
「知るかッ!!」
「知るか、じゃないんだよ。」
がつん、と何の予備動作の無く真横から衝撃を受けた。
「(えッ。)」
何をされたのかわからず、ボールのように俺は地面を跳ね飛ばされた。
「その為の向上心が君には足らない。死ぬ物狂いで戦おうって気概が無い。
君はまだ心のどこかでぬるま湯に甘んじている気でいる。僕と君は主人と奴隷。
別に僕は君を保護しているわけじゃないんだよ、使えなかったら、いらないんだよ。」
思いっきり、蹴り飛ばされた。
放物線を描きながら俺は地面に叩きつけられた。
痛い。
すごく痛い。
死ぬほど痛いし、骨が何本も折れているだろう。普通に重症だ。
たとえ人間がどれほど限界まで丈夫になろうとも、トラックなどに衝突したら無事ではいられない。
そういう類の一撃だった。
ましてや、今回は簡易障壁すら張る暇すらなかった。
「強くなることに、理由は要らない。
それがオスであるなら強くなることは当然のことだ。そこに疑問を持つ余地は無い。
だったら素直に、僕のために、生きるために、強くなればいい。ひたすらにね。」
クラウンが、俺に声を投げかけてくる。
「僕には僕の理想や野望があってね。こんな辺境でくすぶるつもりは無いんだよ。
僕は、外に行ってみたいんだ。だけど僕ら魔族が外部に行くことがどれほど難しいかわかるよね。ほら立ち上がれよ、僕のために立ち上がれって言ってるんだよ。ん? ご主人様の言うことが聞けないのかい?」
理不尽な言葉が聞こえる。
「(おい、魔導書。)」
―――『肯定』 本書は完璧です。術式『ファーストエイド』にて各破損部位を接合、修復します。しかし、あくまで応急処置であるので、無理は出来ません。
頭の中からその知識を引っ張り出すと、一時的に肉体を修繕する治癒魔術らしい。
しかし、これは自然回復までの時間を魔力で代用して無視した結果であり、補填された細胞が現実に定着にまで数日の時間が必要あるらしい。
簡単に言えば、傷ついたと言う現実を魔力で誤魔化し、傷を無かったことにするのだ。
当然、これは後から本格的な治癒魔術を受けることを前提にしている。
誤魔化しによる一時しのぎにしか過ぎないのだ。
―――『確認』 本書は魔族に対抗するべく存在します。我がマスターが魔族に敗北するようならば、我が存在意義が揺らぎます。
「(分かってるさ・・・。)」
俺に力を貸してくれるこの魔導書は、戦えないのなら見限るとまで言ったこともある。
クラウンは言った、強くなることに理由は要らないと。
だが、俺にはある。
あいつと違って、俺は強くならなければ魔物の餌になるだけなのだ。
俺は、強くならなければならない。生きるために、死にたくないから。
そうじゃなきゃ、エクレシアの提案を蹴って魔族の領域に残った自分が嘘になる。
それを否定してしまったら、俺は俺が分からなくなる。
それが、俺の根幹。魔術師としての、アイデンティティー。
「分かっているさ・・・。」
俺が今いるのは、生存競争が普通に行われている世界だ。
日本ならどんなに獣が出たとしても、熊がせいぜいである。
しかし、ここは見上げるほどの巨大な怪物も、獰猛な魔物も日常的に存在する。
一寸先は闇、生きているのが当たり前ではない場所なのだ。
「わかってんだよ、そんなことッ!!!」
まるで、頭から這い出るような感覚が溢れ出す。
無数の蛆虫が肌の下を這いずり回るように、全身にルーン文字が行き渡って行く。
北欧を代表する魔術体系のひとつであるルーン魔術による刻印だ。
いまどきの魔術師は複数の体系の魔術を組み合わせたりするのは普通らしい。
その汎用性からルーン魔術はさまざまな形で派生しているという。
俺は、魔剣を杖にして立ち上がる。
俺ではない誰かの経験が頭から体全体に染み渡り、自然に利き手でないはずの左手に魔剣の柄を持ち替え、右手を添える。
この瞬間、一月前にはまともに刃物を持ったことも無い俺が、達人へと変貌する。
以前この状態でコボルトと戦ったら、まともに動くことすら出来なかったが、今では前提が違う。
魔力による強化に慣れた肉体は、人間の限界を超えることすらも許容する。
「面白い。じゃあ、僕もちょっと本気出そうかな。」
クラウンが指を鳴らした。
彼の足元に俺には理解不能な紋様の魔方陣が浮かび上がる。
「本当ならば、人間如きに使うには惜しいけれど、これは強者なりの礼儀だと思ってくれればいい。見るがいい。我が一族の秘術をね。」
魔方陣の魔力が紫電となって弾ける。
その直後、クラウンの全身の筋肉が、膨れ上がった。
「!?」
正直、ギョッとした。
青白かったあいつの肉体が、膨れると同時に真っ赤に染まる。
それは細長い風船を膨らますような膨張ではなく、生物として機能の拡張とでも言うべき、進化だった。
そして、滅多に見ることが無かった退化して小型化したクラウンの背の蝙蝠のような翼が、巨大化し、大きく広がった。
その姿はまさしく、竜人。
元の肉体より1.2倍ほどに膨れ上がった肉体は、まるで本来の姿を取り戻したとでもいうような姿だった。
今なら分かる。なぜ、あの魔導書に、遭遇したらすぐに逃げろと記されていたのか。
いや、分かっていた気がしていたのだ。
魔族最強の一角である、ドレイクという種族の恐ろしさを。
「――――――Guruaaaaaaaaaaa!!!!!」
衝撃波すら伴うような咆哮が、俺の全身に叩きつけられる。
たったそれだけで、俺の心はぽっきりと折れた。
竜種の咆哮は、それだけで敵対するものの勇気や戦意と言ったもの挫く。
弾道ミサイルでも持ってこない限り、強大な竜族を前にして中世レベルの軍隊や村民がどんなに結託し、どんなに優秀な人間に率いられていようとも、勝ち目など皆無なのだ。
彼らにとって、勇気や愛と言ったものは嘲笑の対象なのだ。
それを語る人間どもは、千や万単位でその威の前にひれ伏すのだから。
ありとあらゆる生物のヒエラルキーで、最強。
それが、竜種、竜族。ドラゴンと呼ばれる最“悪”の化け物なのだ。
がくん、と立ち上がったはずの俺の膝から力が抜けて、ぺたんと崩れ落ちた。
強く握っていたはずの魔剣の柄も、弛緩してしまって動かない。
心が、震えない。
その代わりに、全身が本能にてがくがくと震えている。
どんなに立派な主義主張をならべたところで、正義や善を語ったところで、この絶対的な暴力の前にそんなものは無力だ。
「君ガ、僕ニ服従スル 理由ハ、別ニ命を 助ケテヤッタカラジャナイ。
君ガ、僕ノチカラニ、屈服シテイルカラダトイウコトヲ、 忘レテハイケナイ。」
がらがらで途切れ途切れの聞き取り辛い言葉で、クラウンだったモノは言った。
爬虫類の鳴き声を無理やり言葉にしたらこんな風になるのだろうか。
息をするたびに、高温で目の前が蜃気楼のように歪む。
「僕ラハ、生レタトキカラ全テニオイテ、君ラ、ニンゲンヨリ 優レテイル。
知能、チカラ、精神。偉大ナル魔王陛下ハ、我々ヲ ソノヨウニ御作リニナッタ。
ダカラネ、僕ガ ソモソモ、キミニ負ケル要素ナンテ、皆無ナンダヨ。」
支配欲、征服欲、それらが満たされて大いに満足しているだろうクラウンが、にやにやと笑いながらこちらに余裕たっぷりと近づきながらそう言った。
『だけれど。』
しかしその時、俺たちをモニタリングしているだろうクロムがこんな呟きをもらした。
『それでも、どんなに巨体を誇る化け物が相手だろうと、絶望的な力の差があろうとも、それでも立ち向かって戦うことが出来る人間を、私たちは“英雄”と呼ぶのよ。』
なぜ、クロムがクラウンにこの場を譲ったのか、俺は理解した。
「貴方には英雄の資質がある、のかもしれません。」
いつか、いつだか、エクレシアが言った言葉だ。
残念ながら、そんなものは俺には無かった。
現に、今俺は無力な村人のように、目の前の圧倒的な恐怖に慄いている。
『哀れな村人は、生け贄を要求する悪い竜に平伏し、ただその矛先が自分に向かぬことをただただ、祈るだけでした。』
俺の心など筒抜けなクロムには、おどけたようにそう語った。
それが、普通の結末だ。
都合よく、聖ゲオルギウスのような英雄が通りかかったりしないのだ。
そう簡単にいけるなら、ドラゴンスレイヤーの称号は至上の名誉になったりしない。
「君ハ、目ノ前デ一人一人、娘ガ食ワレテイクサマヲ、指ヲ咥エテ、見テイルノガ、オ似合イダヨ。」
低く引き伸ばしたようながらがら声は、ただでさえ嘲りに込められている悪意が何倍にもなって聞こえる。
竜種が悪そのもの、悪魔の化身と言われたって仕方が無いような気がした。
クラウンは、ただ一息。
軽く深呼吸するように息を吸って、軽く息を吐いた。
ただ、それは普通の息ではなく、真っ赤な灼熱の火炎であった。
どう少なく見積もっても火炎放射器並みの火力のあるそれは、人間一人を軽く火達磨にするなんて容易いものだろう。
だが、俺は火達磨にはならなかった。
「オヤァ?」
ごろん、と真横に転がって俺が炎を避けたからである。
もう一息、灼熱の炎が吹きかけられる。
しかし、俺はやっぱりごろん、と転がって炎を避けた。
「ギャハハハハハハ、オモシロイヨ、ギャハハハハ!!!」
獲物の鼠をいたぶる猫のように、クラウンは下品に笑った。
嗜虐心の塊みたいなこいつにとって、それは至極の遊びなのだろう。
「ウットオシイ!!」
だが、地面ごと抉るようにクラウンは蹴りを放った。
土と一緒に、俺が空中に舞い上がる。
「飽キタ。」
それは、今まで聴いたこと無いほど乾いたクラウンの声だった。
鉄すら引き裂けそうな鋭利な鉤爪を、振り上げる。
「うああああああああああああぁぁっあぁぁっぁぁ!!!」
全身に力が入らない。恐怖に体が屈服している。
だが、本能は動いた。
魔剣を持った手が動いた。
窮鼠猫を噛むとか言うやつだった。
「バカガ。」
だが、本物の実力者にはそんなものは通用しない。
空気が爆発したみたいに炸裂し、俺は何度目かわからない地面へのダイブをやらされた。
たとえ猫を鼠が噛み付こうが、何倍もの体格を誇る猫を倒せるはずも無い。
どちらかと言えば、いたちの最後っ屁だっただろうか。
「ま・・どうしょ・・」
―――『肯定』 はい、本書は完璧です。術者のメンタル状態が如何なる物だろうと、マスターが望むなら強制的に戦わせることは可能です。
頼む、とだけ思った。
―――『肯定』 受理しました。術式、『哀れな栄華』を発動、発言まで三秒前。
そこで、魔導書は一言だけ、マスター、と俺を呼んだ。
―――『苦言』 それだから、あなたは私の道具でしかないのですよ。
いやに、人間味のあふれる口調だった。
俺が何かを思うより先に、俺の意識が完全にブラックアウトした。




