第九十五話 終幕、そして・・
石化に関する伝承において、恐らく最大規模と言えるのがギリシア神話におけるアトラスの石化だろう。
諸説あるが、天空を支える責務を負わされた巨人アトラスは、ペルセウスが刈り取ったメデューサの首を括り付けた盾を持って石化させられ、その苦痛から逃れたという。
その名残こそがアトラス山脈であり、その神話が真実なら彼は今もって天空を支えていることになる。
仮に彼がその責務を放棄した場合、どうなるのだろうか?
俺は今、身をもってそれを体験している。
まず、全身に頭上から凄まじい重さが掛かった。
まるで空気が極限まで重さを増したかのようだった。
そして、空を見ると、理解できない現象が巻き起こっていた。
それを俺の言葉から説明するのならば、空が落ちてきた。
より正確に言うのなら、大気圏が宇宙によって押し潰されているのだ。
有り体に言って、世界の終わりだった。
「まさか終末に立ち会うとは・・・。」
あまりの重さに耐えかねて片膝をつくエクレシアが、呆然と呟いた。
「何が心中するつもりは無いよ、どう見ても自爆技じゃない!!」
頭を抱えて悲鳴を上げる師匠。
それも世界全体を巻き添えにする大自爆だ。
「あはははははは!!!
この『石化呪術書』に記された最大最高の大魔術!!
見ていますかマスター!! ごめんなさい、どうしても我慢できなかったの!!!
せめて私の散り様を餞として、生涯一度きりの最高の魔術をあなたに捧げましょう。」
魔女の哄笑が響き渡る。
空が落ちてきている影響下、周囲の草木がなぎ倒され、オアシスの水面は慌しく無数の波紋が作り出されている。
あまりの異常事態に、地響きが鳴り、亀裂が走り、この世界の終わりが秒読み段階に入ったのがイヤでも分かる。
「大師匠も、何でこんな魔術を・・・。」
「こんなのどうしろって言うのよ!!」
「師匠、落ち着いてください。」
半狂乱状態の師匠の両肩を掴んで、強く言った。
「教えてください、どうすれば俺はどうすればいいんですか!!」
「どうすればいいかって・・。」
「俺の知っている師匠は、この程度の逆境で無理なんて言わない、そうでしょう!!」
恐らく、今世紀最大の大嘘だった。
師匠は典型的なインテリのくせに思考は柔軟性があるが、こういった急を要する事態に結構弱い。
追い詰められて空回りするだろうことも、フウセンの一件を思い出せば幾らでも想像できる。
だがそれでも、この場をどうにかやり過ごすには師匠の知恵がどうしても必要なのだ。
「・・・・。」
俺の真剣な訴えに、師匠は黙った。
そして、
「いい、よく聞きなさい。」
彼女に残るプライドが、彼女を彼女で居させたのだ。
「もはや理屈で語る段階は過ぎたわ。
とは言えこれは法則に干渉して引き起こした魔術じゃない、魔術師は法則を利用することしか出来ないのだから。
それは神話級の魔術であろうとも同じよ。
仮にこの魔術を防いで不完全な結果に終わろうとも、この世界はその反動で崩壊するわ。
これだけの規模で異常が起こる以上、修正は効かない。
世界を崩壊させるなんて、意外に簡単なことなのよ。」
みしみしと骨がきしむ音が聞こえる中で、師匠は冷静に言葉を紡ぐ。
「誰にとっても安全地帯はないし、何も無かったでは終わらせられない。
この状況で出来ることももっと少ないでしょう。
もし仮にこれをどうにかする方法があるとするのならば・・・。」
「するのならば・・・・?」
「―――――――――――――――。」
師匠は、実に簡単にひとつの回答を俺に示した。
そのあまりにも突飛な内容に、俺も唖然とした。
「あはははは、やってみなさいよ。
あなたが本当に英雄の素質があるのだと言うのなら、抗いなさい。
この状況を乗り越えて見せなさいよ。」
面白い余興だと言わんばかりに、エリーシュの笑い声が聞こえた。
「世界の終末を防ぐのは英雄の仕事じゃなくて救世主の仕事だろうが・・・。」
「元々これは案その三だったのだけれど、あまりにも現実味が無いから除外していたの。」
「そりゃあ、現実味は無いですけれど・・。」
「やりましょう。」
圧し掛かる気圧の重みに逆らうように立ち上がり、エクレシアが言った。
「この世の終わりが神の御意志でないのならば、抗うべきです。」
「・・・いいさ、やってみるよ。
この剣なら、それが出来るはずさ。」
俺は己の半身ともいえる魔剣の刀身を見下ろした。
『いいか、よく聞くのだ。
どのような世界であろうとも、崩壊に対する抵抗力を持っているものだ。
お前はそれを味方とするのだ。そうすれば、容易く対抗することが出来るだろう。』
魔剣『リゾーマタ』に眠るエルフの英雄が語りかけてくる。
『世界の全てを感じ取るのだ。
人はこの世の異物ではない。この世に息づく全てのものは、その世界の一部である。
ならば、その全てが己の味方となるだろう。それこそが精霊魔術の基礎であり、究極の奥義である。』
「わかった。」
『私のやったようにやるが良い。』
俺は頭上に向けて己が魔剣を掲げた。
同時に“精霊の眼”で、全てを知覚する。
そうして呼びかけた。
「万物を構成する根源たる四大元素よ。 俺に従え!!」
俺が何かするわけではない。
俺が訴え、俺が乞う。
そうするだけで、俺の意志に同調する精霊たちは集ってくる。
大分して、それは四種類。
四つの元素。
四つのエレメント。
その時代、その時々によってさまざまな呼ばれ方をした、根源的な四つを基盤とした概念を持つ精霊が、俺の周囲に集まってくる。
その時々に語られる説が正しいかどうかではない。
存在するかどうかなのだ。
存在するのならば、彼らは力を貸してくれる。
『この世で最も苛烈な力の使い方を教えよう。
お互いに相克し、相反する力を共鳴させぶつけ合い、それを更にぶつけ合うのだ。』
それは俺を二度見ている。
一度目はブラッティキャリバーの一人が使い、二度目はエルフの彼が使ったアレだ。
回転する四方の力を相克、反発させる。
二の二乗と二の二乗を作り、四の四乗とする。
理屈ではない。
全ては頭の中で完成している!!
次の瞬間には、凄まじいエネルギーの波動に押し潰されそうになる。
四種四方の精霊の力が強力な反発によって円環を作り上げている。
あまりにも強大。
あまりにも膨大。
単なる乗算では説明できない力が、俺の手にする魔剣を中心として巻き起こる。
それは巨大な台風を極小の規模にまで収束させたかのような、秩序から最も離れた場所にある力だ。
「無理だ、こんなの、制御できない!!」
俺が行っているのは、今にも破裂しそうな風船を押さえつけて割れないように押し留めようとする行為に近い。
つまり、どうあっても抑えられないということだ。
これは自然界の力ではない。
ありえざる反発を招き、あってはならない力を生み出しているのだから。
「まったく、なっていないわね。」
莫大な力に慄く俺の手に、重ねる手があった。
「師匠!!」
「精霊魔術は門外漢だけど、これと同じ理論の魔術を制御する術式を応用してみるわ。」
そして師匠はすぐさま足元と四方に制御用の魔方陣を展開した。
「わざと効率を抑えた四属性の魔力でも核爆発並みのエネルギーを得られるけれど、より根源的な精霊のエネルギーでそれを行う・・・。覚悟は出来ているみたいね。」
「はいッ」
「よく言ったわ。それでこそ私の弟子よ!!」
こんな時でも、師匠は未知の現象に心躍っているようだった。
師匠の展開した術式のお陰で、無秩序に膨れ上がっていた力に流れが生まれた。
しかしそれは、爆発が激流に変わっただけの話だった。
ある程度方向性が出来たことで、確かに難易度は下がったかもしれない。
しかしそれは爆発を押し留めるか、激流に立ち向かうかの違いである。
「力を力で支配しようなどと考えるな。」
魔剣“キマイラヘッド”を通し、ジャンキーの声が聞こえてきた。
「この世にはあらゆる力があふれている。
しかし、それらに違いなど無い。故に本質的に相克し合う者同士でも、優劣は存在しないのだ。
そして神仙への理は魔術の究極へと似ている。
姿形が違えども、お前とお前が押さえ込もうとしている力に違いは無いのだ。
ならば、精霊を知ったお前にはこれ以上語るべくもあるまい?」
「ありがとう、戦友よ。」
操る必要など、無かったのだ。
この力は世界の一部、その一部たる俺が、抑え込む必要など無かったのだ。
それを自覚し、俺は魔剣に集った力を解放した。
「これはッ!?」
師匠の驚愕の声が聞こえた。
俺は力の制御を手放したというのに、力の奔流は暴走することなく、一条の光となって落ちてくる空へと向かって彼方へと伸びる。
「全てのエネルギーが彼と同調している・・!!
恐ろしい!! 私では決して至れぬ、精霊魔術の秘奥を垣間見たのね!!」
無尽蔵に膨れ上がる破滅的なエネルギーを前にしても師匠は身じろぎもせずに喜んでいる。
「エクレシア、俺に勇気を分けてくれ。」
後はこれを振り下ろすだけだ。
だが、前代未聞の所業を前にして、俺は恐れは無かったがどこか怯えていたのかもしれない。
「ええ。」
彼女が俺が魔剣を持つ手に自らの手を重ねた。
そうしてようやく、俺も踏ん切りがついた。
覚悟は決まった。
俺は魔剣に集った力の全てを解放した。
魔剣から伸びる光の柱が過ぎ去る先から空間に亀裂が走り、そこから崩落が始まった。
崩落は蜘蛛の巣のように瞬く間に周囲に広がり、空を覆った。
全てが、ぐちゃぐちゃに崩壊する。
この世界を構成する理が乱れ、機能しなくなる。
今までさまざまな法則によって保たれていたものがそうでなくなる。
“意味”が崩壊した。
それは連鎖的に物質的な概念の壊滅を意味し、物と言う物が価値を失った。
空間を仕切る枠組みも役割を失い、全ては無へと帰して行く。
終末とはこのことだった。
師匠が俺に言った三つ目の案。
それは、半端に暴れるのではなく、世界そのものの崩壊を狙うものだった。
出来る出来ないかで言えば出来るが、現実味が無い上にリスクが高すぎる。
こんな状況に陥らなければ、決して取らないだろう選択だ。
師匠は言った、どうせ世界が崩壊するのなら、自分たちに都合がいいように破壊するしかないと。
あのまま自分たちにまで巻き添えになる崩壊よりも、爆破解体のようにある程度計算して安全に世界を終わらせたほうが言いという事だ。
だから俺は世界の枠組みを壊したのだ。
四大元素の精霊の力によって、万物の構成要素を致命的にまで破壊したのだ。
それにより、比較的緩やかに世界は破滅する。
「今ですッ、逃げますよ!!」
世界の終わりを見ていた俺たちの足元に、魔方陣が現われてリネンの声と共に俺たちはその中へと沈んでいった。
「今なら空間の亀裂から世界の外側へと逃げられます、そうなれば後はどうにでもなる!!」
魔方陣の先には、虚無が広がっていた。
世界の終わりの先に無があるのなら、それは始まりと同じ虚無だった。
そこまで行けば、何者にも阻害されること無く別空間に渡れるのだろう。
最後に、俺はエリーシュを探した。
彼女は、この終わる世界から脱出せんとする俺たちに興味ないのか、ただ意味を成さなくなった空を見上げていた。
そして俺たちは世界の外側へと転送された。
外側からは、世界が小さくなっていくのが手に取るように分かった。
まるでブラックホールで圧縮されるかのように小さく、小さくなって行き。
――――あっけなく、消滅した。
それを見届けたからなのか、リネンが魔方陣を展開した。
その先にあるのは、世界樹だった!!
空間が向こう側へと繋がった瞬間、俺たちは何か強烈な引力のようなものに吸い寄せられ、元の世界へと放り出された。
「ぎゃ!!」
「いたッ!!」
「わあ!?」
「あッ!!」
俺、エクレシア、師匠、リネンの順番に草葉の上に落下した。
そして空間をつなげていた魔方陣が閉じようとした時、パッと何かが寸前でこちら側へ飛び込んできた。
それは奴の魔道書と、『大地の宝玉』だった。
俺は三人分の重みで呻きながら、その二つの存在を確認した。
幾ら女性ばかりとは言え、三人もまとめて圧し掛かられては重くないなどとは言えない。
「それはッ」
エクレシアや師匠たちも俺たちの目の前に転がり込んできた二つを認識した。
その直後だった。
ひょい、とそれらを拾い上げる人影があったのは。
「やぁ、ご無沙汰だね。いや、それほどでもないかな?」
少年のような体躯にフードを深く被った黒衣のに、人外の紅い瞳。
見間違えようも無い。あの魔女の主たる『悪魔』だった。
奴の姿を確認した俺たちの反応は素早かった。
まるで示し合わせたかのように一斉に飛び上がって臨戦態勢を取ったのだ。
「どうしたのさ、そんなに殺気立っちゃって。
僕は別に戦いに来たわけじゃないのに。」
「お前の部下をけしかけておいてどういう言い草だ!!」
そのとぼけた様な物言いに、俺は思わず怒鳴ってしまった。
「僕がエリーシュに命じたのは君たちの軍勢を足止めしろと言うだけで、君たち個人への挑戦はあくまで彼女の独断だ。」
「部下の暴走だから自分は関係ないって言いたいわけ?
上司は部下の責任を取るためにいるのよ。」
師匠も相当に腸が煮えくり返っているのだろう、あれほどクロムたちが会いたがっていなかったのにそんな憎悪の混じった言葉を吐いた。
「まさか本気で責任の所在を求めているわけじゃないよね?
そもそも人類は責任という言葉を理解していないじゃないか。
それに彼女も自らの行いにより身の破滅を招いた。
つまり、大事なのはそれが結果だということさ。」
「自分の部下が倒されたというのに顔色ひとつ変えないのですね。」
「僕は危ないから止めろと忠告をしたさ。
それに彼女は僕に忠誠は誓ってくれていたけれど、その自由まで縛ってはいない。
僕は各々の欲望を否定しないのさ。」
その返答に、エクレシアの表情はより険しくなった。
「つまり、黙認したのですね?
このような一刻も争う一大事だというのに。」
「イエスかノーで言うのならばイエスだけれど、だとすれば僕はどうすればいいのかな?
かわいい手駒を結果的に倒した君たちに、その落とし前を取ってもらえばいいのかな?
今は君たちの言うところの一大事なんだろう?」
それは、消耗した俺たちに連戦をチラつかせる理不尽で明確な脅しであった。
そして問題なのは、その脅しが師匠とリネンに抜群に効いたということだ。
臨戦態勢だった二人が明らかに及び腰になっている。
「あはは、そんなに怯えないでよ。
そんなつもりは初めから無いって言ってるじゃないか。」
まるで無邪気な子供のように笑いながら、明らかな嘲弄が含まれる笑い声だった。
「師匠達がびびってるから舐められてるじゃないですか。」
「あなたにはこいつと戦うことがどれだけ最悪なことか分からないからそんなことが言えるのよ。」
俺が揶揄するように言うと、師匠の眼にいつもの覇気や自信は無く、恨めしそうに俺を睨み返すだけだった。
「え、師匠ってまさか君、そいつの弟子になったの!?」
そして『悪魔』は驚いたように声を上げた後、肩を震わせて笑い始めた。
「なるほど、なるほどねぇ!!
いやぁ面白い、君は儚く沈む笹舟に過ぎないと思ったけれど、周囲はそれすらも許さないってことか。」
くつくつ、と笑いながら奴は無遠慮に俺たちの間合いに踏み込んできた。
まるでミネルヴァのように無造作で無警戒でありながら、反応できなかった。
「どうやら、僕と君は長い付き合いになりそうだね。」
ぽん、と肩に手を置かれただけなのに、俺は全身を冷たい手で鷲掴みされたようなゾッとする感覚に陥った。
「それはどうかな?
今すぐこいつでお前を切り裂いても良いんだぜ?」
自分でも分かるほど強がりだった。
なぜか俺は、どうしても我が半身とも言えるこの魔剣で、この『悪魔』を斬れる気がしなかったのだ。
さっきまではあれほどの高揚感と全能感が俺を支配していたのに、今はそれが全く無い。
「最高の切れ味を誇る名剣は、最高の敵を斬らなければならない。
そして至高の名剣は持ち主を選び、斬る敵すらも選ぶようだ。
君自身、それをよく理解しているはずだと思うけれど?」
俺の考えを見透かすように、『悪魔』は言う。
「きっと君はその剣を、生涯で10度と振るう機会に恵まれないはずだ。
なぜならその剣は“希望”の概念で織られているからだ。
希望の一切無い絶望的な戦いにのみその真価を発揮することができるんだろうね。こんな難物始めてみたよ。
でもだからこそ、その切れ味はあらゆる条理すら障害にならないだろう。」
それほどの不条理を宿しているのだと、そいつは鑑定結果を口にした。
「或いは、これも新たに魔王陛下が生まれようとしている反作用なのか・・・」
「戦う気が無いというのならば、そこをどいてください。
あなたも今の状況を分かっているのでしょう!!」
痺れを切らしたエクレシアが声が上げるのと同時だった。
轟、と“世界樹”が震えたのだ。
そしてまた、無差別に地脈からエネルギーを吸い出し始めたのだ。
「そう言えばッ!?」
俺は失念していた。
あの『悪魔』の姿に気を取られ、この場にミネルヴァがいないことに全く気づかなかったのだ。
「もはや一刻の猶予も無いわね。」
この“世界樹”の暴走で、この第五層が壊滅するのは数十分も掛からないだろう。
なまじ精霊が見えるようになっただけにそれが肌で理解できた。
「あーもう、見苦しいなぁ。」
そんな時だった。
心底鬱陶しそうに、『悪魔』が背後にある“世界樹”の幹を見やった。
そして宣言した。
「“象徴顕現(probatio diabolica)”。」
その瞬間、世界は死んだ。
そう錯覚するような何かが、顕現した。
『悪魔』は左手に、それを執る。
それを魔剣というにはあまりにも禍々しく、そしてあまりにも隔絶していた。
俺は以前、魔剣“デストロイヤー”を間近で見たが、これは性質こそ似ているが全くの別物だった。
それが在るだけで、精霊たちが死んでいく。
空気が枯れ果て、土地が腐っていく。
視界を通して、見るもの全てに訴える。
数万数億にも及ぶ、憎悪と怒りを持って死せよと。
―――――それは、極限まで濃縮された呪詛の塊だった。
ぶん、と軽くそれは振るわれただけで、その役割を終えたかのように消えうせた。
それによって“世界樹”に齎された傷は、全体から見てそれこそ蚊に刺された程度だろう。
だが、その僅かな傷で十分だったとも言える。
“世界樹”は、瞬く間に死滅したのだ。
それは巨木がシロアリに内部を食い荒らされ、木の根が腐り果てた姿に似ていた。
青々と茂っていた葉が、枯れ葉のように水分を失い、頂上は緑色から茶色に様変わりしていた。
リネンが転移させようとして時の抵抗が嘘のように、完全に沈黙したのだ。
「な・・・・・。」
エクレシアは眼を見開いて、幾ばくか言葉を選ぶように視線を彷徨わせると。
「何をしたのですか・・?」
「たぶん、君が思っているのと同じことだと思うよ。」
「そんな、馬鹿なッ!!」
俺はエクレシアが感情を爆発させたことは何度か見たことがあるが、ここまで鬼気迫るものは初めてだった。
そして、かしゃり、と後ろで枯れ葉を踏みしめる音がした。
師匠だった。師匠が尻餅をついた音だった。
「デマだと思ってた・・・かつて聖地と呼ばれた場所が、二度と命の芽吹かない砂漠より不毛な土地に成っていたあの姿。
本当に、あなたが滅ぼしたというの・・。
地脈のひとつも無いほど枯れ果てたあの大地を、あなたがッ!!!」
師匠の言葉に、俺はひとつの伝承が頭を過ぎった。
いつだか、師匠に奴に関する伝承について纏めた資料を読まされたことがある。
本人を見る限り、それはないだろう、と思える伝承が無数に存在していた。
そのうちのひとつに、こうある。
曰く、かの黒き赤文字の悪魔、その黒い片翼にて大いなる聖地を滅ぼせしめん。
、と。
「“神殺し”の魔剣・・・まさか実在しているとは・・。」
悪魔に詳しいだろうリネンでさえ、無理やり冷静でいようとするのが分かる声色だった。
そしていつの間にか彼女は、あの派手の格好の男に庇われるように抱きとめられていた。
「うーん、ショックだなぁ、生前と比べて出力が5%未満に落ち込んでる。
やっぱり知名度が低いとこんなもんか。弱小悪魔の辛い所だね。」
『悪魔』は俺たちの反応を楽しむようにそんな事を嘯いた。
「驚いてくれて嬉しいよ。
だってあれはこの世で、いやあらゆる次元で数個とないバランスブレイカーだもん。
当たりさえすれば『黒の君』だって殺しきれる。
たぶんこの世界じゃ唯一の矛盾の無い“絶対”だとおもうよ。」
彼は最高のコレクションを自慢するように笑っていった。
「神の寵愛も、理不尽な“奇跡”も、究極の幸運も、悉く殺し尽くせたからね。
使い方次第じゃ、さっきの君たちみたいなことを簡単に出来るだろうね。」
師匠は世界を滅ぼすのは案外簡単だと言った。
では世界はなぜ、調和を保っていられるのだろうか?
抑止力が在るからだ。
強大な力は、常にそれに対抗する力が存在する。
だが、きっとアレにはそんなものは存在しない。
対抗できないからこその“絶対”なのだ。
まさしくバランスブレイカー。
「君には面白いものを見せてもらったからね。
そのお礼と言っては何だけど、僕からも同等のものを君に見せてあげたのさ。」
その言葉に含まれる意味を察せないほど、俺は馬鹿ではない。
あれほどのおぞましい力が目の前に顕現したというのに。
俺の持つ魔剣は、少しも奴を斬ろうなんて言わないのだ。
それを確かめるかのように、彼は俺を見て眼を細くした。
「バッサリ、と斬られるかと思ったけど、それでも反応しないのか。
なるほど、基準が大分見えてきた。」
やはりと言うべきか、やつは俺と俺の魔剣を試したのだ。
恐らくたったそれだけの為に、自分の秘中の秘だろう魔剣を晒したのだ。
悪魔の行動理由は常人とはかけ離れているとは言うが、奴は目的の為なら切り札さえも出し惜しまない性質のようだ。
「なあ、何でこんなことをしたんだ?」
「んん?」
それは恐らく、酷く場違いな質問だったかもしれない。
だがそれは、この中で一番冷静なのが俺だというのを理解しての行動だった。
奴は言ったのだ。ここで戦うつもりは無い、と。
悪魔は嘘を言わない。
そしてそれは、仮にこちらから仕掛けて戦いになった場合だとしても、奴は決して応戦しないだろうという確信を持っていたからだ。
だから俺は情報を引き出す作戦へと出た。
「俺たちは一応、“世界樹”を助けようと行動していた。
それなのにあんたはあっさりと殺しちまった。」
「ああ、もしかして君たちは、この“世界樹”とやらが齎すという実りに期待していたのかい?」
『悪魔』は、そこはかとなく馬鹿にするようにくすりと笑った。
「確かに楽園の一つも出来るかもしれない。
尽きることの無い実りと、終わることの無い豊かさを得られるだろう。」
「じゃあどうして・・。」
「エルフ達はね、この木を祭って崇めていたわけじゃない。
――――封印し、監視していたんだよ。」
「えッ」
それは、俺たちに衝撃を齎す返答だった。
「この木はね、よその世界に寄生して取って代わることで成長する木なんだよ。
放って置けばこの世界の宇宙まで食い荒らし、北欧神話のようなひとつの木に幾つモノ世界が構築されることだろう。
その際に起こるだろう天変地異で、果たしてどれだけの人間が死ぬんだろうねぇ。
世の中は神話の時代に巻き戻り、神々は力を取り戻し、想像を絶する化け物が跋扈することだろう。
そんな時代において、人類は虫けらも同然だろうね。
・・・・エルフ達はね、君たちが想像するよりずっと偉大な種族だったということだよ。」
彼が語った話は、寒気を催す内容だった。
「じゃあ、我々がしようとしていたことは・・・。」
「まあ、ここの魔術師たちもそれを許すほど馬鹿じゃないだろうけれど、最低でもこの『本部』の下から半分は消えていただろうね。」
にやにや、と『悪魔』は笑って話した。
「でも、ひとつの側面としてはこの上なく正しかったのかもしれないね。
例えば牛や豚は人間に家畜として飼育されることによって、この上ない繁栄を築いている。
そうなったらそうなったで、君たちも虫けらとしてこの上ない繁栄を築いたんじゃないのかな。」
「もういいッ」
俺は真っ青な表情をして膝を突くエクレシアの肩を抱いて、そう言い放った。
「いやだね、止めないよ。
君らが自分の愚かさに打ちひしがれるところが、最高の僕の糧となるんだからね。」
けらけら、と楽しそうに奴は囀る。
「それに少しは感謝して欲しいものだね。
君らじゃそれ相応に梃子摺っただろうところを、僕が一瞬で終わらせてやったんだから。」
「誰も頼んじゃいねぇよ。」
「そうは行かない。こう見えて僕は人間の味方なんだから。
それが人類にとって、喜ばしいことではないというだけで、ね。」
それはそうだろう。
奴とて、人類から搾取する側なのだから。
「おい、『悪魔』。」
俺は己の半身たる魔剣を奴に向けた。
「俺と決闘しろ。」
その瞬間、俺の周りの人間の視線が俺に向けられた。
「へぇ・・・。」
奴は少し、感心したように声を漏らした。
「何言ってるの!! 止めなさい、これは忠告でもあり師匠命令よ。」
「悪いですけど師匠、俺は今頭に血が上ってる。
奴の鼻っ面に一撃叩き込むまで収まりません。」
どうやら俺はこの中で一番冷静に見えて、一番冷静じゃなかったのだろう。
なにせ奴が応じるはずの無い決闘を、奴に申し込んだのだから。
「どうした、逃げるのか?
お前は売られた喧嘩は必ず買うんだろ!!」
「うーん、そうなんだけれど・・・まず最初に僕は戦わないって宣言しちゃったし。」
「お願いです、止めてください。
どうしてそんなこと・・。」
エクレシアが俺の腕にすがりつくようにしてそう言った。
だが、俺の視線は奴から動かない。
「理屈じゃないんだよ。
俺がやりたいからそうするんだ。
気に入らないからぶっ飛ばす、他に理由なんか必要かッ!!」
細かいことなどどうでもいい。
結果的に間違っていたとは言え、奴は笑ったのだ。
いつも誰かの為に戦っているエクレシアを、笑ったのだ。
それだけは、それだけは許せないのだ。
もしそれが、この魂の半身とも言える魔剣の望む戦いにそぐわないものだとしても。
英雄にふさわしくない戦いだとしても。
ここで奴をぶん殴れないのなら、英雄の素質なんて要らない!!
「ほう・・。なるほどね。そうきたか。」
奴の視線で、初めて気づいた。
俺の魔剣が淡く、刀身を覆うように光っていたのだ。
「君の半身は、魔剣としての格を落としてまで君の気概に答えようとしているようだ。
それもそうか。同じ魂なんだから、共鳴しないわけが無い。
・・よし、いいだろう。僕も男だ。君の決闘を受けようじゃないか。」
ぱん、と手を叩いて奴は結論を下した。
「とは言え僕は戦わないといった手前、部下に任せることになるけれど。
生憎、いま全員出払っているんだよねぇ・・・オリビアの奴は用事があるとか言ってどっか行っちゃうし。」
「逃げるための言い訳か?」
「そう焦るなよ。丁度、少し前に僕も初代魔王陛下に謁見する機会を賜ってね。
僕の生前の功績から、こちらでいうところの“総裁”の地位を頂いたわけなんだよ。」
奴の言葉に反応したのは、俺ではなかった。
「そんな馬鹿な!!」
今までずっと、貝のように口を閉ざしていたリネンだった。
「悪魔の地位は序列なんですよッ!!
そしてその席は全て埋まっている。誰かを蹴落とさなければ、位階を得るなんてできないはずッ!」
「なんでも、特例らしいよ。」
「そんなの信じられません・・。」
彼女は明らかにうろたえていた。
悪魔が地位を得ることが、そんなに恐ろしいのか。
「悪魔は地位を得ると、軍団を得るんですよ。」
エクレシアが、搾り出すようなか細い声でそう言った。
「部下が出来るってことか?」
そもそも総裁とは、集団の中の長を言うのだから当然のことかもしれないが。
「そうさ。それにしても有名どころの御歴々ならともかく、“騎士”や“総裁”の悪魔なんて幾らでもいるのに、何を怯えているのか。」
奴は肩をすくめて笑っていた。
「“総裁”クラスの悪魔が自由に行動できること自体がまずいんですよ!!」
それは、悪魔を扱う彼女にしか分からないことなのかもしれない。
「ま、部下と言っても、僕みたいな新参者に回す人材は無かったみたいだよ。
結構人員がカツカツなんだよ、魔界ってのは。
だから自分のを使えって、そりゃあ無いよねぇ。」
そこで初めて、俺は無数の気配に気づいた。
それはいつの間にか奴の周囲に密集していた。
それは、揺らめく陽炎のような数十の人影だった。
「魔界という特異な環境、そして悪魔たちの技術。
そして悪魔としての地位と権限。それらは人間の常識や法則を簡単に超越する。
例えば、魂と残留思念だけで、生前の人間を再現してしまう、とか。」
彼の言葉が示すように、陽炎のような人影が実体を帯びて具現化した。
甲冑姿の騎士が居た。
あどけない子供も居た。
勇猛そうな戦士が居た。
ローブ姿の魔術師が居た。
燕尾服の老紳士が居た。
エルフの男女が居た。
魔族と思わしき男が居た。
――――魔女エリーシュも居た。
多種多様、共通点がまるで見えない集団が、総勢で58名。
「僕は忠誠に誓う際、この魔剣を持って魂を僕へと繋ぎ止める。
死んだ後も君たちの魂は神の元へはくれてやらない程度の意味合いの儀式だったんだけれど、何が役に立つか分からないものだよね。
まさかこうして、君たちと会える日が来るんだから。」
『悪魔』が掲げる短剣と、彼ら全員は繋がっていた。
それは、魂を束縛する繋がりだった。
「君には敬意を表して、僕が最も信頼している従者を決闘の相手にしよう。」
彼の言葉に、一人の騎士が前に出た。
「紹介しよう。彼は僕の一番最初の従者だ。」
その騎士は、一定の距離を置いて、俺と対峙した。
「おい、勝負を始める前に切っ先を向けるんじゃない。」
フルフェイスの兜越しにも関わらず、意外と良い声で、その騎士は言った。
「え・・。」
「決闘を行うにも作法がある。
伝統があるのなら、それを踏襲しなければならない。
武人の武功や名誉はそれに裏打ちされたものでなければならんのだ。」
「は、はい・・。」
まさか悪魔の従者からそんなことを言われるとは思わなかったので、俺は思わず頷いて切っ先を下ろした。
「剣は右腰に帯刀しろ、鞘が無いなら柄に沿えるだけでも良い。」
「これでいいですか?」
「そうだ。そして互いの距離は十歩と決まっている。
余人の介在を防ぐため、他人はその倍の距離を離さなければ成らないが、敵討ちの場合その限りではない。今回はどうだ?」
「いいえ、違います。」
「ならば彼女らは後ろで退避してもらえ。」
それから、同じような作法を数個ほど確認するというシュールな光景が繰り広げられた。
「あのさぁ、いいからさっさと戦いなよ!!」
その事細かさは、あの『悪魔』が痺れを切らして声を上げるほど念密なものだった。
「いかに主君に向けられた決闘の代理とは言えど、刃を交えぬ者が口出ししないで頂こう。」
「な・・・な、な。」
まさか言い返されるとは思わなかったのだろう、奴は今まで見たことの無い表情になった。
「・・・そうだった、君はそういう奴だった。」
「では決闘を始めよう。
私個人としては大変不本意だが、主命とあっては仕方が無い。
思い返せばアレの傲慢も自分にも責任の一端があろうからな。」
「アレ・・、アレ・・!!」
後ろのほうでプルプルと震えて拳を握っている『悪魔』の姿は見ないことにした。
「本来ならばここでお互いに名乗りを挙げるのだが、若者が死人の名を覚えることも無いだろう。
貴殿も名誉にならぬ戦いで、命を賭ける道理も無かろう。」
「そうかもしれない、だけどそんなこともうどうでも良い。」
彼の立ち振る舞いから、恐らく相当に名のある武人なのは良く分かる。
礼儀作法の指南の所為で当初の勢いをそがれたのもあるが、もはやそれも置いておく。
「あなたの名前は、あなたの武名に問うことにした。
それは刃を交えればわかることだろう?
名誉にならない戦いかどうかは、その時に決めるよ。」
その感情を言葉にするのならば、それは――騎士道精神。
今は彼と、正々堂々と戦いたかった。
「良かろう。
己が我が主君に立ち向かうに値するか、我が魔剣を持って身の程を知るが良い。」
同時に、俺たちは抜剣した。
決闘が始まったのだ。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
今回の後半は『悪魔』の彼がメインでしたが、実を言うと結構彼はササカ君と対比するようになっています。
二人とも実は結構に似ているようで、正反対だったりします。
彼は彼でチートなのですが、特にラスボスになったり、後で全面衝突したりしません。だからここまで手の内を見せたわけですね。
次回、いよいよエリーシュ編の最後となるでしょう。
では、また。




