第九十三話 幕間 未だに終わらない物語
むかしむかし、最果てと呼ばれる砂漠を放浪するダークエルフの一族があった。
十数名程度の人数で一族を名乗れるのならば、そうだろう。
だが、少なくとも彼らはそう名乗っていた。
彼らは定住することなく、危険な砂漠をただただ彷徨っていた。
それが砂漠をどの種族よりも知り尽くしている彼らなら考えられないような愚行であるのは、言うまでもないだろう。
過酷な砂漠の環境は言うに及ばず、この砂漠はどこにいってもサンドワームの巣窟であるし、どこに恐るべき砂嵐の具現たる流砂竜が待ち構えているかわからない。
しかし、彼らはそうせざるを得ない理由があった。
端的に言うのなら、彼らは敗者だからだ。
かつての里での権力闘争に敗北し、親族全て追放された哀れな末路がここにあった。
当然、そんな生活は長くは持たない。
とはいえ死の跋扈するこの砂漠で半年近くは持ったのだから十分に驚嘆に値するだろう。
過度な水不足、食糧不足。
彼らはついに耐え切れず、人里へと助けを請うた。
その結果は言うまでもない。
彼らは分類上、魔族である。人間の街に助けを求めたところで、待っているのは国の挙兵でしかなかった。
ダークエルフは、古来より不吉の象徴とされていた。
彼らが人前に姿を現すのは、魔王誕生の前触れとさえ言われていたのだ。
そうでなくても、魔王軍配下のダークエルフに陥れられる勇者という構図が英雄譚の定番であり、半ば事実無根であったとしても、そういう認識が人々には定着していた。
都合のいい人間の敵役にされた彼らは、不毛という言葉すら生ぬるい死の砂漠にくらいしか居場所はなかった。
砂漠を出た彼らは、虐げられるだけの存在でしかなかった。
砂漠を出ても彼らは放浪する。
虐げられ、虐げられ、時には森に隠れ住んでも軍隊に追いかけられ、虐げられ、虐げられた。
時には集落の人間に虐げられた。
時にはダークエルフがいると聞きつけた奴隷狩りに追い掛け回された。
時には教会の騎士団や異端審問官に追われた。
時には軍隊や賞金を求めた傭兵まで追われた。
食うに困って野盗まがいのことをすれば、十倍の誇張となって自分たちに牙を向いた。
プライドを捨てて“世界樹”の下にあるエルフの里へと助けを求めたこともあった。
仇敵同士、門前払いで済んだのが奇跡だった。
それほどまでに、彼らの姿が哀れでみすぼらしかったのだ。
そうして放浪する中で、一人、また一人、と彼らは命を落としていく。
ついには半分に、そして片手で数えられるまでになった。
そうして最後に残ったのが、一番若いエリーシュだった。
彼女の父は兵士の刃から彼女を守り、彼女の母は物心つく前からいなかった。
彼女が生まれてから間も無く一族の放浪が始まったので、彼女の人生は虐げられる事に始まったようなものだった。
彼女は常々疑問に思っていた。
なぜ、自分たちはこのような扱いを受けねばならないのか?
彼女はその答えを周りの大人たちから求めなかった。
自分の境遇は、彼らの所為であると幼いながらに聡明だった彼女は理解していたのだ。
だから彼女はそれを本に求めた。
放浪生活でも度々手に入れる機会がある書物。
といっても、幼い彼女には絵本がせいぜいだった。
そして基本的に流通している絵本といえば、彼女ら悪いダークエルフが敵役となる英雄譚ばかりだった。
それを読んでいるうちに、彼女は理解した。
ああ、これはそういうものなんだ、と。
自分が虐げられる理由なんてものは存在しないと理解したのだ。
理解してなお、愛読した。可笑しかったからだ。
内容が嘘ばかりだと、分かってしまったからだ。
大筋は合っているかもしれない。
だが、世の中は絵本のように都合よくハッピーエンドには終わらない。
その殆どが脚色されていると、嫌でもわかったのだ。
彼女の周りの大人たちもそうだった。
いつかこんな生活も終わる、砂漠の連中を見返す機会がくる、などと嘯きながら、食べ物を求めて彷徨うだけで精一杯だった。
彼女は幼いながらもこの世は虚偽に満ちていて、救いようがないことを知っていた。
かと言って、彼女が自分の境遇を恨まなかったわけではない。
むしろ、憎んでさえいた。
のうのうと当然のように平和を享受する輩が、この上なく憎かった。
憎かったが、それは同時にどうしようもないことを彼女は理解していた。
所詮彼女の怒りや憎しみはやり場のないモノでしかなく、それを向ける相手もおらず、無差別に八つ当たりしても意味もなく、自分の首を絞めるばかりだとわかっていた。
そう、彼女は聡明だった。
一族が長い放浪で削ぎ落としていた、奸智に長けるとされるダークエルフの元来よりの聡明さを彼女は保持していた。
損得勘定くらい、誰よりも弁えていた。
それが感情と折り合いがつかないものであるというのも分かっていた。
どんな絵本も、悪いダークエルフは退治されるのだ。
独りになった彼女は、自分の最後を生まれ故郷である最果ての砂漠で迎えようと思った。
記憶におぼろ気にしかない黄金の砂海へと、還ろうとしたのだ。
そこがどれほど死に満ちていても、そこが彼女の生まれ故郷だったのだ。
――――そして、彼女は出会ってしまった。
―――――己の運命を変える“魔道書”に。
魔道書『石化呪術書』。
著作:ウェルベルハルク・フォーバード。
古今東西、石化に関する伝承の考察とそれを再現する魔術が記された恐るべき代物だった。
そんなものが、無造作に、砂に半ば埋もれるようにうち捨てられていた。
手にした瞬間、それの持ち主になったのだと彼女は悟った。
彼女にはその魔道書の主となる才覚と資格と、何よりも理由があった。
今まで護身用に精霊魔術を少し使ったことしかない彼女に、それは衝撃的だった。
恐るべき石化の魔術の数々は、彼女の求めてやまなかった純然たる“力”だった。
圧倒的な数の民意や軍隊も、聖職者たちも文字通り黙らせられる恐怖そのものだった。
だが、そんなものはきっかけに過ぎなかった。
その魔道書は無垢な少女の探究心を刺激させ、魔術に傾倒させたのだ。
そして彼女は再び砂漠を後にした。
今度の放浪は、魔術の求道の為にである。
後にその世代の“最悪の七人”の一人にも数えられた、恐るべき魔女の誕生であった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
彼女は今までの抑圧された人生の鬱屈をすべて吐き出すかのように横暴かつ傍若無人に振舞った。
村を横切れば彼女を恐れた村人を皆殺しにし、町にさる魔導書の原本があると聞けば堂々と正面から入って阿鼻叫喚の渦を巻き起こした。
いつしか彼女はそれを楽しむようになった。
逆らうものは石となり、立ち向かう者はより無残な屍に変えた。
女はより残虐に殺した。
顔の皮膚を引き剥がし、もはや肉塊と区別がつかないほどにズタズタにした。
彼女は人間の女という生き物が嫌いだった。
はじめから嫌いだったが、横暴に振舞うようになってからはもっと嫌悪するようになった。
彼女にとって人間の女は物語に出てくる英雄を破滅させるか、彼らの偉業の景品程度の認識だった。
村では魔物と恐れられ、町では醜い化け物と罵られていくうちに、彼女は女の判断基準が美醜だけであると信じて疑わなくなったのは、当然の結果だった。
逆に言えば、彼女は人間を理解するつもりが欠片もなかったのだ。
彼女の悪名は、瞬く間に轟いた。
大陸に数十年は忘れられないだろう恐怖を振りまいた彼女は、いつしかその世代で最高の魔術師だと認知された。
彼女自身、『盟主』ことリュミスが直々にそれを伝えに彼女の前に現れた時、初めて知ったことだったが。
意外にも、二人には面識は既にあった。
リュミスは当時、“魔術連合”の味方となる有力な魔術師を必要としていたし、噂の悪名高いダークエルフの魔女に一度会ってみようと思うのは当然だった。
しかし、その頃のエリーシュは怖いもの知らずだった。
そして同時に、人間は老若男女問わずに敵だった。
当然、殺し合いになった。
引き際を見てリュミスは離脱したが、彼女はそれを見て臆したのだと思い増長した。
その結果、散々な経験を積んで今に至った。
彼女にとって、リュミスという人物は自分のツキの悪さの始まりでしかなかった。
たとえそれが自業自得であったとしてもだ。
だが彼女が魔道書を手にし、魔術を極めるまでに要した時間で彼女は精神的にも成熟していた。
少なくとも自分の悪行の結果、自分を付けねらう賞金稼ぎや聖騎士たちをわずらわしく思うようになった。
そして昔の自分がいかに無知で軽率で、大人気なく浅ましかったか恥じる程度には。
この頃にはすでに、彼女は大陸中を渡り歩くのではなく、一ヶ所に留まり、俗世から離れるようにすごしていたので、正直リュミスの持ってきた『魔女』の認定は面倒なものでしかなかった。
ただ、リュミスは用件を事務的に伝えると、以前殺しあったことなど気にした素振りもなく去っていった。
今回殺し合いにならなかったのは、彼女も無意味な敵を作るのに疲れていたからだった。
いくら彼女がこの世代最高の女魔術師の称号を得たとしても、常勝無敗というわけには行かなかった。
彼女はこれまでで、二度ほど本気で死を覚悟した。
一度目は、教会が送り込んでくる騎士たちがいい加減鬱陶しくなり、総本山に一人攻め込んだときだった。
大神官クラスの幹部などの主要なメンバーを大勢殺したが、そこで出会った女がやばかった。
その女は聖女と呼ばれていた。
彼女は信心深く信仰に篤い人間を何人も殺してきたが、聖なる“だけ”という女を彼女は始めてだった。
教会系の魔術を極めたそのあり方は聖職者というより魔術師に近かった。
そして何よりも、その女は異様だった。
周りの肥えて太った高位の聖職者たちが破れかぶれになってその女に懇願し、助けを求める中でその女は嗤っていた。
げらげら、と。げらげら、と。
世界が凍るような、怖気の走る笑い声だった。
この世のものとは思えない女だった。
その時エリーシュが生きて逃げられたのは、情けをかけられたわけではなかったのだろう。
あの女は彼女をどこまでも見下し、嘲笑っていた。
歯牙にも掛けられなかったのだ。
プライドの高いエリーシュが、その時だけは屈辱ではなく安堵を覚えたのは、あの女があまりにも次元が違いすぎたからだ。
あの女は確かに彼女を見下していたが、同時に慈しんでいた。
その事実に何よりも寒気がした。
理解できず、理解を超えて恐ろしかった。
彼女はもう二度とあの女に関わらないと決めたのだ。
二度目は、たまたまエルフの里の近くを通ったときだった。
そして幼い頃に見たかの“世界樹”がどんなものか見ようと思ったのがいけなかった。
そのときの彼女に特別な意図は無かった。
ただ彼女は自分たちとエルフたちとの確執を知っていたが、それを重くは考えてはいなかったのだ。
人間でも後世に名を残すような高名な哲学者でさえ肌の黒い人種を、同じ人間とは思えない、と嘯くほど人種問題は根深く存在している。
幾らダークエルフの肌が黒いのは魔王に魂を売った云々は人間たちの創作であるとはいえ、そのことを誰よりも知っているエルフたちにもそんな事を真に受けてしまうものも居たのだ。
或いは、誰かを罵るとき、それが事実無根であろうとも攻撃材料としてしまうこともある。
それを言ったはエルフの女だった。
「魔王に魂を売った薄汚いダークエルフめ。
ここは貴様のような醜く汚らわしい魔女が訪れていい場所ではないッ!!」
エリーシュはその女を衆人環視の中、三十時間の拷問の末に殺した。
この間、彼女に立ち向かったエルフは当然のように皆殺しにした。
その女の恋人だと言う男も居た、家族だと言う男女も居た、友人だと言う女も居た。
エリーシュはその女の前で凄惨に殺して、そして笑ったのだ。
その女が懇願するたびに縁者の指を折り、手足を折り、気まぐれに首を落とした。
ついにその女が呪詛を吐き出すようになってから、顔の肉を毟り取るようにして引き裂いて殺した。
そうして漸く彼女に差し向けられたのが、エルフたちから英雄と称される男であった。
エルフたちが彼の投入するのがここまで遅れたのは、同胞の危機だというのにとにかくエルフの上層部の頭は固く、そして彼自身が罪人だったからだ。
エルフの罪人でありながら、彼は英雄であった。
族長たちの命令で彼が出てくる寸前まで投獄され、その刑罰を甘んじて受け入れていた。
外界との交流を立ち、平和ボケしている彼らが人間たちの脅威から断たれている理由こそ、彼の存在があった。
数百年の間、彼は何度も数千数万を超える人間達の軍勢を一人で追い返した。
まさしく古今無双の英傑だった。
そんな彼が罪人として刑罰を受けている理由は、なんてことはない。
彼が人間の女を愛し、子供を儲けたからだ。
エリーシュは今になって漸くエルフ族が本気になったと笑い、彼らの英雄の姿が物乞いのようにみすぼらしいことにまた笑い、彼の実力を目の当たりにしてその笑みが凍りついた。
ありていに言って別格だったのだ。
彼女は聖人などと言われる教会の人間や、一国の英雄と持て囃されるような存在とも戦い、そしてそれらを悉く石像にして人前に晒してきた。
そのどれもが霞んでしまうような別次元の強さだった。
精霊たちとの理解を最も深めたエルフの英雄は、まさしく数少ないエルフたちの中の寵児だった。
激戦の末、エリーシュは追い詰められた。
戦場を森から平原、平原から砂漠へと転々としながらも、最後は自らの有利な地形で敗北寸前となったのだ。
彼は切っ先を付きつけ、彼女に問うた。
「何ゆえに貴様はあのような振る舞いをするのだ?」
不思議なことに、彼は彼女の同族への行いを咎めてはいなかった。
「決めていたからよ。」
エリーシュは言った。
「何をだ?」
「私は私のことを邪悪だと思う者に対してそうあろうとしているだけよ。」
彼女はいつも不思議に思っていた。
自分はいつだって罵られ、蔑まれて生きていた。
人間達の言う罪を犯したわけでもないというのに、ダークエルフの存在自体が悪だと言う。
絵本を開けば、ダークエルフたちはいつも人間の英雄たちと戦っていた。
だから彼女も決めたのだ。
「私に敵対する奴は殺すの。だってそれが奴らのいう正しさなんだもの。」
人々が私に邪悪を求めるのならば、私はそのように振舞おう、と。
正義と悪は常に相互扶助の関係にある。
悪が無ければ正義は成り立たず、正義が無ければ悪は消え去らない。
この世はそうやって巡り巡っていく。
彼らが自らを罵ることが正義ならば、私は正しく悪を供給するのが義務なのだと。
そう、納得することにしたのだ。
「哀れな。」
エルフの英雄は、ただ一言そう口にした。
「私に貴様は斬れない。
私は泣き叫ぶ女子供を斬ることは出来ないからだ。」
「それは、私を馬鹿にしているの?」
「絵物語に夢想する少女を、いかようにして斬れるのだ。
貴様は悪夢を見ているだけなのだ。
眼を閉じ眠る少女を、いかようにして斬れというのだ。」
恐るべきことに、彼は本気でそう言っていた。
思えば、彼から初めから敵意と言うものを感じなかった。
彼ほどの精霊魔術の使い手となれば、その感性はこの世のものとは違うといっても過言ではない。
エリーシュと相対しただけで、何もかも察したと言われても冗談では無いだろう。
彼の精神はもはや、超然としているとさえ言われているエルフのそれからも超越していたのだ。
エリーシュは生まれて初めて、心の底から恐怖した。
彼の実力にではない。
彼の精神性に恐怖したのだ。
「なるほど、ここで私を殺すか?
それもいいだろう。私に今生に未練は無いと言えば嘘になるが、私は自分の命に執着は無い。
その後に同族たちに報復しょうが私の知るところではないからな。
貴様のこれからの生き方を否定するつもりもな。」
結局、エリーシュは彼の言葉の真偽を問いただすことなく彼を封じ込めた。
あの時、彼女は彼を殺せなかった。
きっとあのまま彼女は彼を殺そうとしても、彼は無抵抗であっただろう。
だが、理屈ではない部分で彼女は彼を殺せなかったのだ。
だから彼女は、徹底的に彼を貶めた。
彼を操り人間を殺させてはその血肉を食わせ、時には無意味な殺戮すら行わせたのだ。
恐るべき“人喰いエルフ”の異名が大陸に響き渡るのは、間も無くの事であった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
そんな日々を送ってきた彼女が、疲れてしまうのは至極当然のことであった。
どんな人間も、常に怒りや憎しみを宿して生きているわけではない。
そして悠久の時を生きるだろう彼女が、いつまでも似たようなことを繰り返して愉悦に浸れるわけでもなかった。
結局は、自らの生まれ故郷だという“最果ての砂漠”へと舞い戻ることになった。
彼女が戻ってくることを拒んだ同族も居たが、既にこの砂漠を手中に収めた彼女は彼らを全員サンドワームの餌にした。
そして連中こそが自分たちをこの砂漠から追放した奴らだと思い当たったのは、彼らを根絶やしにした後だった。
この砂漠は、その主であるエリーシュにとってとても静かな場所だった。
雨が降ることも無く、不思議と雲も来ない。
他者を殺すことでしか水分を得ることが出来ないこの地獄のような場所で、しかし何事も無く変化の無い日々は彼女に心の平穏と同時に退屈を感じさせた。
その退屈も、魔術の研鑽を積み重ねていくことで紛らわすことが出来た。
たまにリュミスがやってきて、魔術の実験場として砂漠の一部を貸して欲しいという申し出があったりしたが、概ね何事もなく時間は過ぎていった。
彼女が砂漠へ隠棲し始めて数十年経ったころだろうか。
何を勘違いしたのか、人間達の国の軍隊がやってきたのだ。
彼女はそれ相応の対応をした。
後日、リュミスがやってきて彼女の手腕を褒めてから帰っていった。
彼女は教会勢力からの巻き返しを狙うべく、魔術師の畏敬を集めたいらしかった。
それでは結局、教会の連中が余計に息づくだけだろうに。
リュミスが行っている魔術師の地位向上の為の努力は、恐らく永遠に実らないだろうとも思った。
結局彼女は暴力でしかこの世は変えられないと思っているのだから。
何人たりとも受け入れないこの砂漠に、変化が訪れたのはそれから更に何十年も経った後だった。
変化といってもなんてことはない。
ただ一人の男が砂漠へと迷い込んだだけの話だった。
人間がこの砂漠に訪れるのは本当に久しぶりの話であった。
この砂漠の恐ろしさは知れ渡っており、好んでこのような場所に来るような輩は周辺諸国は勿論、遠くからでも全くと言っていいほど無くなっていた。
しかしその程度、彼女の興味を引くに足ることではなかった。
暫くすればサンドワームの餌食となって終わるだろう、彼女はそう思っていた。
彼女が驚いたのは、彼が自力で彼女の住処までたどり着いたことだった。
恐ろしい魔物や魔獣の巣窟であるこの砂漠の中で、なんとその男は生きながらえたのだ。
そして砂漠の真っ只中に構えるエリーシュの家へとやってくると、何食わぬ顔で水と食料を分けてくれるよう頼んできたのだ。
その時の心境を、エリーシュは今でも言葉に出来ない。
冒険家だと名乗るその男は、この秘境に眠るという秘法を求めてやってきたのだという。
その内容があまりにも馬鹿馬鹿しくて、彼女は本人の前で思わず笑ってしまった程だ。
断言しても良かった、そんな秘法はこの砂漠になど存在しない。
だが、その男は確固として秘法の存在を譲らなかった。
例え無かったとしても、あるかもしれないという可能性を求めてやってきたのだという。
その時のエリーシュは、きっとそのうち諦めて帰るだろう、と高をくくっていた。
その思いはひと月以上この砂漠をうろつき回るその男の執念を見て、流石に捨て去ったが。
この砂漠は化け物が居るくらいで、本当に何も無い。
必然的にその男が彼女の住処を拠点とするのも無理からぬ話だった。
彼はエリーシュに積極的に砂漠での話を求めてきた。
自分相手に物怖じしない人間というのも初めてだったので最初はたじろいだが、彼女もすぐにそれに慣れた。
その中で彼から色々な話も聞けた。
その男は意外にも博識で、冒険家というより考古学者になった方が食っていけるだろう知識量を有していた。
他にも魔物から避け身を守る術や、砂漠でのサバイバルの技術。
魔術に頼らないその技術に、彼女でさえ興味を引かれるものがあった。
彼の探検は、一年以上に渡って続いた。
彼女はそのうち自分の住居を貸すようになった。
食事を共にすることも有ったし、彼が魔物に追われてくるところを助けてやったこともあった。
その度に彼は大袈裟なほどの感謝を示してきた。
数日間帰ってこないことは度々あったし、死んだかどうか確認しに行ったら行き倒れていたという場面にも出くわしたことも何度も有った。
そしてある日、彼は妙にそわそわした様子で彼女に告げた。
「なあ、エリーシュ聞いてくれ。
ついに自分はこの砂漠の秘宝を見つけたんだ。」
彼が何度も彼女の顔を見ては逸らしてを繰り返していたのを、エリーシュは覚えている。
「え、嘘よ、そんなものこの場所にあるわけがないわ。」
「本当だよ。まさかこんなに近くに有るなんて、思いもしなかったけれど。」
その時、エリーシュの心は真っ白になった。
その感情を、エリーシュは理解できずにいた。
そして次に彼女に襲ってきたのは、あまりにも漠然とした恐怖だった。
彼女が気づいた時には、目の前には石像と化した男が立っているだけだった。
そうして、漸く彼女は理解した。
彼女は彼を失うのが怖かったのだと。
彼女は彼が有る筈も無い秘宝を手にし、この砂漠を去ってしまうのを恐れたのだ。
そして、自分が彼にいつの間にか恋していたのだと気づいたのだ。
初めて、偏見なく自分と接した人間だった。
いつの間にか、彼に心を許し、必要も無いのに彼を助けていた。
彼と会話し居た時、一度たりとも退屈であったことなどなかった。
いつの間にか彼との会話を楽しんでいた自分が居た。
それを自覚した時、彼女の心は完全に凍りついた。
涙は出なかった。
それも当然だった。
この時、魔女エリーシュの心は“怪物”へと成り果ててしまったのだから。
愛を捨て、良心を捨て、悲しみや優しさまで捨て去って彼女は漸く自分を保つことが出来た。
涙の代わりに、彼女は笑った。
外には、何百年ぶりに観測される雷雨が最果ての砂漠を多い尽くしていた。
それから百日間降り続いた大雨は、周辺諸国に洪水被害を巻き起こし、数万人の死者を出した。
大雨の間、ずっとずっと、響き渡り続いていたという。
魔女の恐るべき、哄笑が。
雨が止むまで、ずっと、ずっと。
彼女の物語に終止符を打つ英雄は、未だに現れない。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
今まで全体像はおぼろげになっていたエリーシュの過去の、所謂前半部分です。
と言ってもこれで八割がたなのですが、残りは当分語る必要はなさそうです。
たぶん次回で決着がつくと思うので、乞うご期待。
それではまた次回。




