第九十話 彼女の苦悩
私は行った事がないが、第五層の様相を表現するならば、そこは地獄だった。
血と、血が乾くことも許されずに腐ればこんな臭いになるのだろうか。
それは血の臭いに慣れ親しんだ魔族でさえ顔を顰め、ササカに至っては嘔吐していた。
彼はすぐにエクレシアの治癒魔術によって介抱されて持ち直したが、それを軟弱と謗る者は誰も居なかった。
「昔、知り合いのネクロマンサーが教会の追跡を逃れようと町ひとつを潰して足止めさせたのを見たことがあるのだけれど、その時もこんな感じだったわね。」
その中でもそいつは涼しい顔をしてそんなことをのたまった。
「とは言え、程度は知れたわ。
吸血鬼のネクロマンサーと聞いたときはどの程度かと警戒したけど、結局この世で恐るべき死霊術師はただ一人だということね。」
「あんたはどの程度の術者だと見るの?」
「やってることは下の下だと思うわ。
基本的に、死霊術というのは量より質なの。これは必然的にそうなってしまうのだけれど、理由は分かるわよね。」
「それって本気で聞いているの?」
クラウンが適材適所に人材を割り振っていくのを脇目で見ながら私はそいつを睨んだ。
黒魔術師の端くれとして、当然各々の特性は理解している。
死霊魔術はその特性上、死体の確保を大前提としている以上、倫理的に窮めるのが非常に難しい魔術系統とされている。
「そう、人間でもモルグの検死医として働いたりして細々と活動せざるを得ない業界よ。
この分野に関しては、人類よりも魔族の方が抜きん出ていると思うのだけれど。」
「買い被りすぎだわ。」
魔族だって死体漁りは誉められた行為ではない。
とは言え、死霊魔術を得意とする種族が居ると小耳に挟んだことがある程度には知っている。
「実は死霊魔術って、魔女術以上に戦闘に向かないところもあるのよ。
死体を操るにしてもリソースは食うし、生物が死の瞬間に魂魄が剥離する力の作用を利用して呪い殺そうとしても実用性は低いといえるわ。」
後者は非常に強力なことには変わらないんだけれど、付け加える。
つまり、魔女術よりも融通が利かなく、扱いが難しい系統と言える。
「ただ、死に関する造詣だけは他のどの魔術系統と比べても抜きん出ているわ。」
それにのみ特化しているといっても過言ではない。
例えば交霊術。
死者との対話を短時間でも可能とするのは、死霊魔術の特権である。
先人の亡霊に教えを乞い、それが己の先代の魔術師ならば魔術の補佐さえも願い出ることも出来る。
そして死後、他の魔術系統では不可能な、霊体での長時間の活動を可能とする。
その際は、肉体から開放され、彼岸により近づいた彼らは、現世のいかなる魔術師よりも限りなく真理に近づいてさえいると言える。
それは魔術師たちが目標とする“神”に最も近しい状態だからだ。
正しく使えば死者を慰め、悪用すれば死を冒涜する。
最も異質だが、最も真理に近い。そんな魔術系統なのだ。
「あんたは死霊魔術を窮めたと聞くけれど?」
確か、エクレシアがそんなことを言っていた気がする。
「まさか、私が黒魔術全般を習得しているとは言え、死霊魔術に限って言えば窮めているなんて口が裂けても口に出来ないわ。
だって、私は本当の死の具現を知っているもの。」
そいつにしては、珍しい謙遜だった。
ましてや本当に死を経験し、亡霊に成り果ててさえいるのに、だ。
「死霊魔術師が死霊を乱造する場合、その理由は大抵が破れかぶれという状況なのよ。
或いはそうすることしかできない、とかね。
とは言えそういう状況にも見えない。はてさて、どう判断していいものやら。」
どうやら、そいつにも理解しかねる状況というものは存在するらしかった。
そして、クラウンからの指示が飛んできた
当然、私はエクレシアと共に負傷者の救護に回ることになった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
私たちは負傷者が一ヶ所に集められているところにやってきた。
町の医者たちも総動員されているらしく、十数人ほどの医者が手当たり次第に治療を行っていた。
「覚悟していましたが、こんなに早く使う羽目になるとは・・・。」
そう言ってエクレシアは、なぜか数種類の色が付いた細長い布切れの束をバックから取り出した。
「トリアージについて説明するので、皆さんよく聞いてください。一度しか言いません。」
彼女はクラウンに付けられた救護の心得がある人員に、手早くかつ正確に指示を出した。
そして彼女の行動は的確だった。
まず早急に医師たちを掌握すると、怪我の深さによって色分けされた布を巻きつけてけが人を分別。
更に医師たちの技量に合わせて的確に仕事を割り振り、手の空いている人手も怪我人の運搬などの指示を出し始めた。
それを全て、治癒魔術を片手まで行使しながらである。
私には真似できない集中力だった。
彼女のその鬼気迫る対応と指示に、屈強な魔族たちも相手が人間だということを口にさえせずに従順に従った。
「なんか手馴れているわね。」
「騎士学校では人道支援活動の研修でいくつかの候補を選べるのですが、私は紛争地域で負傷者の救護などを手伝っていましたから。」
道理でやけに手馴れているわけだ。
「その当時は私は幼く、自分は何もできないということを学ばされるだけでした。
一般人も多く、治癒魔術も安易に使えない現場・・。私はただ医療品を手に右往左往するばかりで・・無力だったのです。
でもだからこそ、出来ることをしなくてはなりません。」
「なるほどね。」
彼女も本気で目の前の命に向き直っているのだろう。
当然、私もただ見ているだけではない。
「なぁ、おい、これ本当に大丈夫なんだろうなぁ!!」
「うるさいわねッ、大男が体に手を突っ込まれたくらいで喚くんじゃないわよ!!」
私はどうやら味方の誤射を食らったらしく肩に矢が刺さったウェアウルフを寝かせ、その矢を取り除こうとしていた。
それは所謂、マイスターが実践している外科的治療法という奴ではない。
悲しいことだが、魔族の医療水準というのは、怪我したら消毒して包帯を巻いて後は自身の自己治癒能力に任せてほったらかしというのが大半なのだ。
多少の怪我や傷くらいならそれで大丈夫なのが魔族なのである。
そういうわけで、医療というものがとりわけ発展しにくいのだ。
とは言え、重傷となればそうもいかない。
だから医者も少なからず居るし、魔族といえども病気だって存在する。
大抵の魔族の医者が治癒魔術を使う中、私が行っているのは霊的な手術である。
つまり、肉体に傷を付けずに手を体内に潜り込ませ、異物だけを取り除くのである。
簡単に言うが、そこそこ集中力が必要な作業だ。
「ほら、取れた。
ウェアウルフなら心配ないでしょうけど、今日一日はあんまり動かないようにね。」
「お、おう・・。」
私が包帯を巻き終えると、彼は不思議そうに矢が刺さっていたところに違和感があるのか何度か揉んでいた。
あとは獣人の治癒力ならば――特にウェアウルフは優秀だ――本当に明日には復帰するだろう。
私は足早に次の患者へと向かう。
患者たちはエクレシアの持ってきた色つきの紐が腕に巻きつけられ、その色によって列ごとに並ばされている。
思いのほか重症の患者が少ないのは、魔族は戦って死ぬ生き物だからだ。
大抵の場合が、負けて死ぬか、勝って生き残るか、なのだから彼のように負傷して後方に運ばれると言うのもあんまり無い。
逆に言えば、これだけの負傷者を出していると言う時点で、どれだけ凄惨な戦いがあったかを物語っていると言える。
「へへへ、姉ちゃん、死ぬ前に一回やらせてくれよ・・。」
「元気そうね、消毒だけしとくわ。」
私はそんなことをほざくトロールに消毒液をぶっ掛けた。
地面から悲鳴が上がるが、回復力が並外れたトロール族なら適切の処置をすればすぐにでも戦線復帰するだろう。
こうしてテキパキと治療が行えるのも、エクレシアのお陰であったりする。
混沌とした現場を纏め上げ、効率よく人員を動かせるように配置されているからだ。
しかしながら、こういう現場と言うのは得てしてトラブルが付き物であったりもする。
「おいッ、早く俺を治療しろよ!! まだ戦い足りねぇんだ!!」
そんな風に怒鳴り散らす輩も居るわけだ。
「落ち着いてください、手が足りないのですから順番を待ってください。」
「俺ぁ最前線で戦ってたんだぞ!! それにだ。」
エクレシアに宥められているのは、先ほどとは別のウェアウルフだった。
ウェアウルフは“獣の眷属”であるが、“夜の眷属”にも属しており、この第五層には彼らの里も存在しているためよく見かける。
特に彼らは多種族とは群れるのが苦手で里単位で傭兵業から個人の護衛と、広く見かけて何でもこなすが他の種族とも折り合いが悪いことも多い。
ガラも悪いが強さを信条とする誇り高い種族であることに変わりないのだが。
彼はある方向を指差した。
そこには、致命傷を受けてぐったりと気を失っているコボルトが横たわっており、医者が数人掛かりで治療を施しているが、回復の兆しは見えない。
彼に死相が出ているのは誰の目から見ても明らかであった。
「あんな助かる見込みの無い犬っころより、俺の傷を治すべきだろうが!!」
「落ち着いてください、傷に触ります。」
そう怒鳴る彼も、全身傷だらけだ。
それこそ彼が最前線で戦ってきた何よりの証であるが、彼が怒鳴るたびに血が噴出している。
「ねぇ、私に任せて。」
「サイリスさん?」
彼の言い分も分かる手前彼女も困っているようだったから、私が助け舟を出すことにした。
「おじさん、少し大人気ないわよ。
あなたの番は次なんだから、ね?」
私は彼の目を向けて媚びるようにそう言った。
「あ・・・がッ・・。」
すると、ウェアウルフの男は力なく地面に崩れ落ちた。
夢魔固有魔術、“誘惑の視線”だ。
視線を合わせた相手の抵抗力を奪う夢魔の視線である。
「当たり前のように魔眼の素質を備えているんですもの、夢魔というのも便利な種族ね。」
暫く黙っていたそいつが、急にそんなことを言ってきた。
「魔眼と言うのは主に先天的に生まれもって有する他なく、後天的に付与する場合は例外を除いて著しく効力が落ちるものなの。
今の人間が真似をすれば眩暈を起こさせる程度しか出来ないはずだわ。」
そして素質が無ければ失明するわね、と続けた。
夢魔の私にとっては当たり前だが、人間にとって魔眼系の魔術は効力が不確かな催眠術が精々なのだそうだ。
まあそれも仕方が無いだろう。
人間に魔眼なんて機能はないが、私たち夢魔は相手にもよるが瞳を見続ければ失神ぐらいはさせられる。
そのくせ、人間には極稀に神話級の魔眼を突然変異で有して生まれるものが居るから面白いのだとか。
まあ、そんな事例はそいつであっても二例ほどしか実物を見たこと無いらしいが。
「ありがとうございます。
ここは予断を許さない医療の現場、私が厳格に対処するべきでしたのに。」
エクレシアは自分の甘さと未熟さを恥じるようにそう言った。
「大の大男が血だらけで詰め寄ってきたら困惑するわよ、気にしないで。」
私が冗談めかしてそう言うと、彼女はくすりと笑った。
お互いその程度で面食らうような軟ではないのだ。
「くッ、これ以上は・・・。」
「やはり、駄目か・・。」
そうこうとしているうちに、コボルトの重症患者を治療していた医者たちの悔しげな声が聞こえてきた。
「・・・ッ」
私とエクレシアも彼らの方に目をやったが、彼女は両目を閉じた歯を食いしばった。
彼は、完全に息絶えていた。
こうなっては、いかな魔族と言えども人間と同じで望みは無い。
「本当に、そう思うの?」
そいつが、挑発的な視線を私に投げかけてきた。
そう、ひと月前の私なら諦めていただろう。
「ねぇ、私にやらせてくれない?」
私のその言葉に、エクレシアだけでなく彼を診ていた医者たちも驚いた表情をした。
「お嬢さん、彼はもう無理だよ。
心臓が止まってるし、この傷じゃどうしようもない。」
治療を行っていたバフォメットの医者が首を振ってそう言った。
治癒魔術というのは、極論すれば傷を治す魔術であるが、その系統がどうであれ最終的にひとつの方法に行き当たる。
即ち、生命力を増大させて、対象の治癒能力を仮想的に底上げするのだ。
つまるところ、術者の腕にも寄るが最終的にその傷が回復するかどうかは対象に依存するといって良い。
だから、重症を受けた相手ほど治りは遅く効果は薄いし、血を多く失っていれば更に効き目は無くなっていくのだ。
本来ならば、運ばれてきた時点で黒い布―――死亡又は助かる見込み無し―――が巻きつけられていてもおかしくはなかったし、仮に治療に成功したとしても、術者には多大な負担を強いることになる。
ハッキリ言って、効率的に言えばかなりの悪手であった。
私の見立てでは、彼の治療に要した労力で軽症の患者を十人は余裕で治療できたはずだ。
「お願いです、彼女に任せてもらえませんか?」
だが、エクレシアが今のようにこう言ったのだ。
まだ息がある、助かる見込みがあるから、と。
私は甘いと思った。アレは私でも無理だと思ったし、もっと重要な局面まで貴重な秘薬を温存すべきだと思ったのだ。
それに、私は彼のことを所詮はコボルトだと見下していたのかもしれない。
さっきのウェアウルフも、単純な戦闘力を比べたらコボルトの数倍はあるだろう。
同じ下級の魔族でも、スペックの差というのは残酷なまで存在する。
それに彼らは数が多い。人間と同じように短命で、一人の母親から一度に何人も産まれてくる。
どっちを取るかなんて明白だった。
だけれど。
だけれどッ。
果たして、重要な局面とはなんだろうか。
目の前でひとつの命が失われようとしているのに、それが重要でないとするのなら一体なにを重要とするのか。
見下すとはなんだろうか。
ついこの間まで、自分の価値さえ見出せなかった私が。なにを持って他人の命の重さを量れるようになったと言うのか。
強さとは、なんだろうか。
体の性能や良し悪しで決まるのか、彼も家族や友人を守るために戦っているかもしれないと言うのに。
イヤ、無理だ、私になんてできっこない。
「今更逃げるの? 吐いた言葉は飲み込めないわよ。」
そいつは不適に笑ってそう言った。
私の不安と臆病さと対照的に、笑みを浮かべ大胆さを隠しようもしない。
それで居てたちが悪いのは、そいつは決して善意から彼を助けようとしているのではない。
己の魔術の実践する相手を求めているのだ。
私には分かる、私はそれに対する恐れを抱いているのだから。
そして、紛れも無く、私の奥底に息衝いた好奇心という名の欲望であった。
もう逃げるのは止めよう。
もう誤魔化すのは止めよう。
私は、居もしない“私”の幻影に打ち克つのだ。
初めから、私が嫌う自分なんて存在しなかったのだ。
アレは全て、私の臆病さを映す鏡に過ぎなかったのだ。
自分が目を背けた弱さでしかなかったのだ。
故に私は、その時初めて、自分の弱さを受け入れた。
「そう、それで良いのよ。」
そうして、初めてそいつは“私”になった。
私の弱さを映す鏡像から、私の想いを共にする分身となったのだ。
私は物言わぬ体となったコボルトの前に屈み、カバンから手の平にも収まる小瓶を取り出した。
中に入っているのはアヘン、幻覚蝶の燐粉、水銀、ベラドンナ、数種類のハーブからなる劇毒である。
使えば人間どころか魔族でさえ数日は現実に戻って来れなくなる。
しかしそれは普通に服用すればの話だ。
この劇薬の真価は、ウィッチクラフトの使い手が使用してこそ発揮できる。
私は慎重に適量を見極めて小瓶の中身を手の平に垂らすと、それを握り締めて彼の胸部に当てた。
脳裏に術式を走らせる、そして、
「ごほッ!?」
ついさっき息絶えたコボルトが、目を剥き、口から血を吐き出したのだ。
「早くッ、今のうちに傷を塞いでッ!!」
私は後ろで驚いている医者たちにそう叫んだ。
止まっていた彼の血が流れ出したのだ。
医者たちの迅速な治療により、先ほどより格段に早く傷がふさがって行った。
「お・・俺は、たしか、・・・あの死体どもに・・・。」
意識を取り戻したらしいコボルトが、虚ろな声でうわ言のように何かを呟き始めた。
「お願いだからしゃべらないでッ」
しかし状況は予断を許さない。
治癒が終わるまで、助かるとは言えないからだ。
そのまま緊張状態は三十分以上続いた。
「お、終わった、わ・・。」
私は施術の完了を告げた。
「ほ、本当ですか?」
緊張した面持ちでエクレシアが問う。
「私も信じられないが、一命は取り留めた。」
バフォメットの医師に続き、それを補佐していた数人の医者たちも同じように頷いた。
周囲から歓声が上がった。
いつの間にか、私たちの治療は周囲の目を集めていたらしかった。
「へぇー。」
その中から一人、その様子を見ていたらしい人物が興味深そうな顔をして近づいていた。
「クロムさん?」
エクレシアが振り返ってその人物を認めた。
そう、町内の調査をしているはずのマイスターだった。
「なかなか面白いものを見せてもらったわ。
私は近くでウィッチクラフトを見る機会が無かったけれど、実際に見てみると錬金術とは趣きが違うのね。」
マイスターは微笑を浮かべてそう言った。
「毒も使い方しだいで、むしろ毒にこそ薬効は隠れ潜んでいるものだけれど、ああいう使い方もあるのね。
私ってば感心しちゃったわ。これだから魔術の探究は止められないのよ。」
「私は気付け薬を使ったように見えましたが、一体どんな魔術だったんですか?」
勝手に納得しているマイスターに、エクレシアは説明を求めた。
「あれが気付け薬ですって?
まさか、劇毒よ。毒と言う毒を詰め込んだ劇薬。
アヘンを主にして幻覚成分を齎す成分が幾つも入ってたわ。人間が飲めば数日の間、狂人と化すでしょうね。」
マイスターは的確に私の使用した秘薬の効能を当てて見せた。
彼女の『解析』の魔術は優れていて、三種類の無味無臭無色の液体を差し出されてもその全ての名称を的確に言い当てられるだろう。
もしかしたら、魔術に頼らなくてもその優れた薬学知識で全て識別してしまうかもしれない。
「それをどうやって治療に役立てたのですか?」
「そこが魔女術の妙技だったのよ。
ウィッチクラフトの特性は薬効や毒性を操ること。同じ薬を作れたとしても服用させることしかできない錬金術との最大の違いよ。」
どうやらいつものようにマイスターの舌が乗ってきたようだった。
「アレは服用すれば魔族でもただではすまない代物よ。
彼女はそれを一瞬で全身に行き渡らせ、そして効力をその一瞬に凝縮させたのよ。
きっとモルヒネを打ってその効力が終わるまでに得られる快楽をその一瞬で全て味わったに違いないわ。
これを食らって目を覚まさない死人は居ないでしょうね。どんな電気ショックより強烈だったはずよ。」
「しかし、副作用はどうなるのです?」
「何かしらの方法で発散させたと思うわ、直接体に触れていれば分かったと思うけれど。
或いは、誤魔化したのかもしれない。」
そう言ってマイスターは私を見た。本当に鋭い。
「ごまかすって、誤魔化せるものなんですか?」
「所詮、麻薬の依存性も副作用も、頭の中で起こっている反応に過ぎないわ。
花粉症だって花粉を異物だと認識するから発祥するのであって、要は脳がそれを欲しがったりさせなければいいのよ。
あんな風に思考や脳の一部を麻痺させてね。」
マイスターは顎をしゃくって、未だにうわ言を続けているコボルトを示した。
そう、その為の他の幻覚作用のある代物が混ざってある。
「同時に止まっている心臓を動いていると仮定し、無理やり血の巡りを再開させて“生きている”状態にするなんて荒業、一歩間違えればより無残な死体が出来上がってたでしょうね。」
私だったら絶対にしないしできないわ、とマイスターは笑いながら言った。
「次ぎやる時は傷口を塞いでからにすることね。
出血が多い場合は治癒魔術じゃなく、傷口を“治った”状態に置き換えてからする方が難易度は一段階下がったと思うわ。」
「あ、確かに・・・。」
そうすれば、余計な出血を強いずに済んだだろう。盲点だった。
高度な魔術と言うのは成功率を上げようとするより、工夫を凝らして難易度を下げる方が上手くいく可能性が高くなる。
そうすれば自分の技量では手の届かない魔術も扱えるかもしれない。
自分が上に合わせるより相手のレベルを下げたほうが良いのだ。
「参考になります、マイスター。」
才能、発想力、技術と知識に品格まで兼ね備えた彼女は私の目標の一つだ。
私は素直に一礼した。
「私も自分の無知を痛感しました。
魔女術については座学で学んでいたつもりでしたが、度し難い毒薬を作るばかりのものだと。」
「仕方が無いわよ、今のは秘伝に近いものだし。」
私は素直に感心しているエクレシアに苦笑してそう言った。
実際、度し難い毒薬を作っているのは事実だし。
むしろマイスターこそ、その秘伝にまで造詣があった事の方が驚きだ。
「そうそう、苦戦していると聞いて薬を持ってきたわ。
傷に利くポーション類ばかりだけれど。」
「あ、それは助かります。薬品類がとても不足していたので。」
「構わないわ、こんなに大量にデータを取れる機会なんてなかなか無いだろうし。」
歯に衣着せぬマイスターの物言いに、流石のエクレシアも愛想笑いを浮かべるしかなかったようだ。
何とも言えない雰囲気に、それを察したのかマイスターはこのように述べた。
「ノブレス・オブリージュ。良い言葉よね。
私が搾取し、私が施す。私は結果を得られるし、副産物の技術も施すことが出来る。
私が施し、私が搾取する。民衆は生活が楽になり、私は懐が暖まる。
物事は常に循環しており、等価の取引が行われていると言うことね。」
・・・・
・・・・・
・・・・・・
私にはひとつ、分からないことがある。
ササカのことだ。
私は理解できなかった。
自分以外の誰かの為に命を掛けて戦うと言うのは理解できる。
しかし、それは名誉を得たり、何かしらの目的を達成するために行うのだ。
戦いとは、何かを得るために行うものだ。
それは名誉だけでなく、時には金銭を、時には平穏を、時には恋人を奪う為に戦いは行われる。
だが、ササカは何も求めては居なかった。
厳密に言えば、平穏や、理想などの為には戦っているだろう。
いや、言い方を変えよう。
彼は自身の命を損失を恐れていないのだ。
確かに彼は平穏や理想の為に戦うだろう。
だがしかし、私は彼に請えば、きっとそれらと同じように戦ってくれるだろう。
それが私は理解できなかった。
戦いで決戦と前哨戦の小競り合い、彼はその二者を等価に扱うだろう。
どちらに対して全力を賭せば良いのか明白なのに。
そして彼はそれを、私の為に行ったのだ。
先ほど、族長に愚痴ったが、私の胸の奥の蟠りは晴れない。
「男が、例え見知らぬ行きずりの女の為に命を掛ける。
それのどこが不思議なのかしら?」
もう一人の“私”はそんな傲慢なことを口走った。
「いい女の一瞬の輝きは、男の一生に等価だと、私は思うけれど。」
「それなら尚更、私には当てはまらないじゃない。」
彼は私に恩義を感じているらしい。
きっと彼が私の為に戦ってくれた理由はそれだろう。
だがしかし、彼はおそらくそんな理由が無くたって、私の為に命を賭してくれたに違いない。
「あなたの中に渦巻いている感情の正体を言い当てましょうか?」
くすくすと、鏡合わせの自分が言った。
「嫉妬よ。」
実に端的にそう言った。
「愛というのはね、絶対量が存在するのよ。
愛には上限が存在し、人間はそれを無意識に振り分けて生きているの。
親愛、家族愛、敬愛、性愛、情愛、そして自己愛。」
私の反応を待たずに、“私”は続ける。
「男がいくら平等に愛しているといったところで、物理的に二人以上の女を愛することは出来ないのよ。
断言してもいい、そう言った男は必ず心の中で順位を付けている。
例えそう思っていなくても、必ず立ち振る舞いに優劣が在るはずだわ。
ここで言う平等とは、完璧でなくてはならないの。それこそ数値化されて、均等に割り振るレベルでのね。」
「私のどこが嫉妬しているっていうのよ。」
久しぶりのことだった。
私が自分の言葉に反論するのは。
もう一人の自分相手にそれが無意味なことは重々承知している。
だからこれは、自己暗示に近かった。
「分かっているのでしょう?
これから、彼の前に現れるであろう女に対してよ。」
予想していた答えが返ってくる。
「別に一目見ただけの女性全てに同じように接する節操なしだと言っているわけではないわ。
彼と交友を結んだ相手なら、彼はきっと同じように男女問わず手を差し伸べるでしょう。」
そこに時間は関係ないのだ、と自分は言った。
或いはこれは偏見かもしれない。
間違った彼の見方かもしれない。
「一番意外だったのは、彼が“一番”を決めたことよね。」
そう、彼は意中の人間が居る。
それと同時に、相思相愛でもあるのだろう。きっと。
同族同士で、当たり前のように。
「思えば夢魔って矛盾した種族よね。」
夢魔は同族同士では交配することが出来ない。
必ず片親は人間になる。
それは、私たちサキュバスは産まれたときに父親が居ないということだ。
繁栄するのに他種族の力を借りなければいけないというのは、優れた種族なのだろうか。
「そもそも、私は彼のことをどう思っているのかしら。」
自問自答の自己暗示が続く。
友人?
彼は私のことを気の置けない異性だと言ってくれたことがある。
彼のアホみたいな相談にも付き合わされたことがあるし、変に遠慮もしてこない間柄だ。
普段の彼の言動は呆れるばかりだ。
もしかしたら、私は彼が好きなのだろうか?
分からない。
私は恋を経験したことが無いからだ。
「私はどう思う?」
私は自分に問いかける。
「何を持って恋とするか、その定義を私は定めることは出来ないわ。」
「それはどうして?」
「私も色恋については理解できていないからよ。」
私は驚いた。
魔導師『パラノイア』は精神を知り尽くした魔術師だという。
そんな彼女の知識をもってしても、恋を理解できないのだというのだ。
「以前、一人の男性に対し五人の女性を宛がって、恋愛感情に関する実験を行ったことがあるらしいわ。」
「やっぱり、破綻したの?」
「ええ、最終的に血みどろの殺し合いになって全員死んだわ。
特に精神操作の類は掛けておらず、簡単な催眠術に近い思考誘導で恋愛感情を差し向けただけだったのに。
何が悪かったのか、分からないのよ。
勿論、恋が一体どういう反応で、どういった作用を人心に影響するかは理解している。
だけどその深遠まで読み取ることは出来なかった。」
「・・・・・・。」
大いなる人間の魔女にさえ分からなかったことが、私のような小娘に分かるわけがない。
分からない。
分からないのだ。
「どうしたんだ?」
突如立ち止まった私に、彼が声を掛けた。
「ううん、なんでもない、ちょっとしたぬかるみを見つけたわ。
みんな、気をつけて進んでね。」
私はそう言って、異常事態を調査しにいく面々にそう言った。
私の悩みに答えは出ないまま、私たちは巨木へと導かれる。
そこでは、壮絶な戦いが待っていると、知りもせずに。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
ようやく話が進められそうです。予定したとおり、エリーシュ戦はサイリス視点でお送りしようと思います。
それにしても、今回でサイリスのヒロイン力はどれだけ上がっただろうか・・。
ま、それはおいおいで。
そうそう、連載二周年記念ですが、ちょっとしたギャグというかコメディというか、初めてこの小説R15のお題目に適した話になるとも思います。
会話を書いていると思ったより文字数を食ってしまい、長くなってしまうんですけど、思ったより筆の乗りがいいので、もしかしたらすぐにでも二周年記念の話を投稿できるかもしれません。
去年は二ヶ月も遅れましたし、可能な限り早く投稿しますね。
それではまた、次回。




