第八十九話 親と子
「・・・・・・・・・・・・・」
過去から戻ってきた私が抱いたのは、どうしようもない倦怠感と後悔だった。
大量の真綿で押しつぶされるような疲れが、現代での過去へ戻る儀式の名残を物語っていた。
「ねぇ、過去に戻れたでしょう?」
私と同じ顔のそいつはニヤニヤと笑いながら私に話しかけてきた。
それで、全てを悟った。謀られたのだと。
「騙したわね・・。」
「それは、なにを持って私はあなたを騙したと言うことになるのかしら?」
「・・・・。」
私は口を噤んだ。言い返せなかったからだ。
そう、全ては自分の浅はかさが招いた結果だった。
過去には戻れた、確かに戻れた。
だが、過去に戻れるだけだった。
私は自分の生い立ちを知った。そうして知ったことは語るのもくだらないことだけだったが。
それを知ってしまったら、誰しも変えたいと思うだろう。
自分の暗く、面白みも無い過去を。
だが、それは出来なかった。
過去に戻った私は、つまるところ傍観者でしかなかったのだ。
過去に戻った私は、私の意識がありながら過去に私が取った行動を再演するだけの存在だったのだ。
拷問に近かった。
私は私の意識がありながら、言いたくも無いかつての言葉を吐き、やりたくも無いかつての行動を演じた。
それを、生まれてから今現在までの六十年間続けたのだ。
過去に戻って私が得られたのは、つまらない自分の生い立ちと、諦念の境地だけだった。
「ふっふふ・・。」
そもそも、誰も、過去へ戻ってやり直せるなどと、一言も言っていなかったではないか。
それを、言うに事欠いて騙したとは、自分の滑稽さと馬鹿さ加減に笑えてくる。
私は疲れで意識を失うまで自嘲の笑みを浮かび続けていた。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「物事には全て、原因と結果が存在する。
所謂、因果律って奴ね。今こうしてあなたが存在していられるのも、過去の原因と結果が積み重なっているからなのよ。」
翌朝、そいつは聞いてもいないのに講釈を垂れて来た。
「過去へ戻ったとして、そこで意識ある体を得たとして、それには何の意味も無いわ。
だって、過去とは即ち、『決まった事』なのだから。
それらは全てアカシックレコードに記録されている。つまり過去を変えたいのならば、アカシックレコードに秒単位で干渉し続けなければならないの。
これが、時間遡行における二つ目の問題ね。」
「それはいかにあの『黒の君』でもできない、と。」
ええ、とそいつは頷いた。
「因果律なんて簡単に言葉に出来るけれど、物事の原因があれだからこうなる、何てことはないのよ。
原因から結果に繋がる道筋は、単純な道筋がひとつだけなんて事はありえない。
例えば、今朝飲んだミルクが当たってお腹を壊したとする。
ではミルクを飲んだという原因を消し去った、しかし結果は取り除かれない。」
「それはどうして?」
「なぜなら昨日食べた夕食に使われた食材が腐っていたからよ。
では、今度はそれを取り除く? それはできないわ。だってそれをするまでにあまりにも多くの出来事が起こりすぎているのだから。
あなただけではないわ、ちょっとした出来事でもこの地球上全てに何かしらの影響を与えているものよ。
もし、それをやり直そうとするのならば、星を回すレベルのエネルギーが必要になるわね。
たった昨日の夜の出来事でさえ、これよ。
何十年も前の出来事をやる直すのなら、それはもう新たな宇宙の創生しているのと同義だわ。」
聞けば聞くほど、途方も無い労力だった。
あの『黒の君』の挑んだ難題の中でも、別次元に飛びぬけた難題なのだろう。
過去と現在が切り離されていない以上は、過去が変われば現在が変わる。
矛盾は決して起こらないように出来ている。
矛盾が起ころう出来事は、出来ないように出来ている。
極めて単純明快で、あまりにも当たり前なことである。
「・・・ねぇ、あんたはどうして私のところに来たのよ。」
私のところに来たって、得することなんて無いはずなのに。
それどころか、こうやって講師の真似事までしている。
私は疑問に想って尋ねたのだ。
「あなたはひとつ勘違いをしているわ。」
「勘違い?」
「もう既に、あなたから貰えるモノは全て得ているもの。」
そう言って、そいつは握った自身の手の平に目を落とす。
「記憶、知識、肉体。」
ひとつずつ、単語を口にするたびに指を立てる。
「魔族に伝播したのは初めての試みだったけれど、多くの知識とあなたと言う中継地点を手に入れた。
あなた達種族の固有の魔術の情報も手に入ったし、魔族の領域と言う場所の特性。
ここから他方へと足を伸ばすには、十分すぎるほどの足がかりだわ。」
五本の指を全て立てたところで、そいつは厭らしく笑った。
「あと、個人的に言えばあなた達の固有魔術の奥義といった部分があれば言うことなしだけれど、それを未熟なあなたに言うのは酷かしら。」
「所詮、私は踏み台たったっていうことね。」
彼女の意図が知れると、私は自嘲するようにそう言い放った。
その言葉に失意がなかったと言えば嘘になる。
私は所詮、たまたま近くにいた都合の良い一人でしかなかったことに落胆しなかったと言えば嘘になる。
だってそうだろう。彼女ほどの魔術師に、己の後継者候補となってほしいなどと言われたら、同じ系統の魔術を修める身として、心の奥底でほんの少しも期待しないなどと言うことはありえない。
・・・・そう、私はどこかで期待していたのだ。
「ふふふ、私はあなたのことを踏み台になんて思ってないわよ。
それどころか、最有力候補だとさえ思っている。」
「嘘よ、だって、私は、里の誰よりも劣っているもの。
あんただって、里の連中と私を比べれば、絶対…」
「そう、それよ。」
そいつは私を指差しそう言った。
「そのコンプレックスが、負の感情が、あなたの一番の素質なのよ。
私はあなたの記憶にある里に住む一族の誰よりも、あなたを推す理由はそれよ。」
そいつはそれを愛しそうに、福音のように語るのだ。
「黒魔術を極める上で必要なのは向上心ではないわ。
マイナスに向かう感情こそ、一番の原動力となるのよ。
あなたがほかの同胞達のようにお気楽で深く物事を考えない性格だったのなら、私は声を掛けることは無かったでしょう。」
「嘘よ・・・。」
確かに里の皆は少しばかりお気楽で享楽的だが・・。
「私はあなたを気に入ったから、こうしてその素質を見出そうとしているのよ。
勿論、私はあなたから搾取するだけというのが流儀に反するからというのもあるわ。
だけどそれだけなら、もうとっくに諦めて、別の相手を探しているわ。」
そしてそいつはため息を吐いた。
「正直言うと、ここまで私を梃子摺らせた相手は久しぶりよ。
精神力が種族として高いって言うのも考え物ね。
別に信じなくても構わないけれど、私はあなたの力になりたいのよ。」
「・・・酷い押し売りよね。
それって結局、自分勝手じゃない。勝手に押し入ってきて、自分の流儀に反するとか言って。」
言ってから、私は憎まれ口を叩くのをやめた。
いい加減、面倒くさくなったからだ。
「私は私でやりたいことがあるから、あなたは私を利用すれば良い。
私はあなたの体で実験したいことがいっぱいあるのよ。
ギブ&テイクこそ、魔術師の最もスマートでクールな関係よね。」
「・・・・わかった。」
流石に過去に戻るみたいな実験は勘弁してほしいだけど。
疑うのもこんなに疲れる相手はいない。
自分に不利益にならないのなら、もうそれで全て納得することにした。
彼女との会話が途切れると、私は自室から外へ出ていた。
・・・
・・・・
・・・・・
「ここに私がいても構わないかしら?」
私がやってきたのは、場内の一角に設けられた小さな教会だった。
私は本物の教会を見たことが無いのだが、外ではこんなみすぼらしい規模ではないそうだ。
それでも、そいつが言うには最低限の教会としての機能は備えているらしいが。
「神はいついかなる時でも訪問を拒みはしません。」
彼女はいつ寝ているのだろうか。
もう深夜に近い時間だというのに、エクレシアからは少しの眠気も感じない。
人の寝込みを狙う種族だけあって、私は他人の眠気には敏感だ。
「あなた、いつもここにいるわよね。
いったいいつ寝ているのよ。」
「夜に来られる方もいるので、睡眠時間を短縮する魔術を使って、日に四回仮眠をとっているのですよ。」
隙のない女だとは思ったけれど、ここまで徹底していると呆れてしまう。
「今日はいかなる御用でしょうか。
告解では・・・ないようですね。」
月明かりとわずかなランプの光で照らされるエクレシアは、少し不気味ながらその姿は映えていた。
「誰でも良いから話を聞いてほしかったの。
ここはそういう場所なんでしょう?」
「ええ、何か悩み事でしょうか?」
「ううん、たいしたことじゃないわ。
ちょっとだけ、自分の親のことを話したいだけ。」
それだけで彼女は察したのだろう、軽く目を瞑って頷いた。
「私の母親は私を捨てて蒸発したってあいつから聞いているでしょう?」
「ええ。」
私は適当な長椅子に座って窓ガラスから月を見上げた。
偽りの月が夜の眷属に力を齎している。
「最近知ったことだけれど、それは違ったみたい。
私の母親はね、勝手に魔族の領域から出て、人間の住む町で男漁りをしていたんだって。」
「・・・それは。」
「うん、当然、魔族の掟に触れることだわ。
『マスターロード』の敷いた法にも、夢魔の一族の掟にさえも。
現に、お互いの領域に勝手に侵入した相手の扱いは好きにしても良いって、取り決めが行われているし。」
特に夢魔の里の人口統制は徹底していて、同族がむやみに増えて種族そのものが衰退しないように管理されている。
魔族にはひとつ、法則いや、呪いの様な共通点が存在する。
それは、増えすぎると種族そのものが退化する、というものだ。
有名な話では、騎士ゴルゴガンのオーガ族。
彼らは強力な種族で、魔族の中でも繁栄している種族のはずだった。
だがいつからか、知能が低く、体もふた回り小さく弱い固体が生まれるようになったのだ。
まともな会話も出来ない知性は、魔物と断ぜられるにふさわしい劣悪ぶりだったそうだ。
そうした固体が生まれる理由で、最も支持されているのが先の法則だ。
実際、間引きを行ったオーガ族からは、そう言った固体の出現が格段に減るようになった。
だが、徐々に、徐々に、年々そう言った固体が増えていっているらしい。
『マスターロード』は文献やあまたの種族の語り部から研究を行い、過去にも似たような事例があったことを公表している。
そしてそれを根本的に解消する方法は、ひとつ。
即ち、ーーーー魔王の誕生である。
そう、それは、魔族は魔王無くしては絶対的に繁栄できない種族なのだという、事実。
「しかし、そう簡単に行き来できるようなものなのですか?」
「夜の眷属には魔術に長けてる種族も多いしね、うちの族長の話によるとそこまで難しいことじゃないんだって。」
しかもあの時の含みのある族長の言い方では、きっと裏技もあるのだろう。
「そんな私の母親は、いつしか人間の男に恋をした。
そして馬鹿な事に、自分が魔族だということがそいつにばれてしまった。
私の母親は、手ひどく拒絶されたらしいわ。」
見てきたように、私は語る。
なにせ、見てきたのだから。
薄汚い魔族め、どうせ俺を騙していたんだろう!
誰にでも色目を使い、誘惑して貶めていたんだろう! と。
「母親が私を身篭っていることに気づいたのは、里の連中にばれて連れ戻されてからだったわ。
族長は比較的穏便に済むように取り計らってくれたらしく、暫く拘留されたくらいで済んだみたい。」
「それは・・母子に負担をかけるような厳罰でなくて良かったですね。」
「それ自体はそこまで重罪でもなかったし、族長もこの子と言えない人だったしね。」
「それは、まあ・・。」
私もエクレシアも、思わず笑ってしまった。
「そうは言っても十年くらい母親は牢屋での生活を余儀なくされたわ。」
「ま、魔族と人間は時間の感覚が違いますもんね。」
人間では禁錮ですね、とエクレシアは言った。
「私は生まれてから物心が付くまで、里の皆に育てられてたみたい。全然記憶に無かったけれど。
母親は私の師匠と知り合いだったらしく、牢屋から出て自由のみになってすぐ私を師匠に預けて里を去ったらしいわ。
それ以来、行方知れず。」
「・・・・・その理由は聞いたのですか?」
「忘れられなかったみたいよ、私の片親のことを。」
「では、あなたのお母様はもう・・・。」
「さぁ、それはどうだか。」
本気で愁いてくれる彼女だが、私は自分の母親に何の思い入れも無いのだ。
「案外、生きているかもしれないわよ。
夢魔ってなかなかしぶとい種族だからね。
勿論、人間に捕まって処刑されている可能性の方が高いけれど。」
人間の方は私たち魔族と違って、捕まえた相手を奴隷になどしないらしい。
一固体の危険性の違いから見て当然だが。
「私、ずっと悩んでたの。私は捨て子だから誰にも必要とされてないんじゃないかって。」
「そんな馬鹿な。」
「そう、馬鹿馬鹿しいわよね。
事実は変わらないし、捨てられたも同然であることも変えられない。
だけど事実を知るとさ、案外くだらない事だったんだなぁって思うのよ。」
本当に馬鹿馬鹿しく思う。
自分がなぜ捨てられたのかなんて、考えるだけ無駄たったのだ。
世の中にはそこまで深い事情なんて無くて、無意味なことで溢れている。
「ようやくすっきりしたわ。
やっぱりこういうことは口に出さないと駄目よね。」
ようやく、私も吹っ切れそうだ。
つまらないことをうじうじと悩んでいた自分から。
「お話が終わりなら、少し時間頂けますか?」
「うん?」
「どうせなので、私の身の上話も聞いていきませんか?」
そう言って、エクレシアは自然に微笑んだ。
「そう言えば、あなたのことは聞いたこと無かったわね。」
彼女が自分のことを語るところを、考えてみれば私は見たことが無い。
個人的にそこまで接点があるわけではないのもあるかもしれないが。
「と言っても、私の場合はあまり特別な話はしてあげられませんね。
強いて言うなら、物心付く前に私は才能を見出されて地上の親元を離れ、この『本部』の騎士の養成学校に入ったことでしょうか。」
「危険な仕事なんでしょう?
親は反対しなかったの? 本場の悪魔の相手をする仕事だって聞いたわ。」
「さぁ、聞いたことが無いので分かりませんね。
両親とは時々手紙のやり取りをするくらいで、写真でしかお互いの顔を知らないんですよ。」
写真と言うと、あれだろう。
時々マイスターには検死の仕事が舞い込むことがあり、その際に使用している精巧な絵を映し出す箱から出てくるあれだ。
「騎士の養成学校を卒業したところで、実際に悪魔に対抗できる人材は一握りです。
悪魔を相手にするといっても、そんなことは年に一度あれば多いほうだと私の所属した部隊の隊長は仰っていました。
彼らとしても、直接姿を現すのはスマートなやり方ではないらしいので。
私たちも悪魔が現れた場合、直接相対することは少なく、悪魔祓い専門の方が応援に来るのを待って、その方に任せることが多いんです。」
彼女は霊障の除去も引き受けているらしいから、エクソシストとかいう業種かと思ったが、どうやら違うようだ。
「だから私の配属先の主な任務は、もっぱら危険な魔道具の回収やそれを有する異端な魔術師の捕縛および撃滅。
私はいつも人間が相手でした。
それでも相応に危険な仕事なので、両親は手厚い手当てが出ているそうです。」
「人間、ねぇ。」
魔族は可能な限り同族での争いは避けたがる傾向がある。
なぜならそれは、先のような理由で個体数が制限されていると言うのもある。
もっと根本的に、そういう性質だから、という身も蓋も無い言い方も出来る。
そういう風に初代魔王陛下に作られたからだ。
「怖くは無いの? 同族が相手なんでしょう?」
「怖いです。他人のむき出しの悪意は、とても恐ろしい。
その強弱ではなく、性質がです。そしてほかの人を平気で傷つけられると言うその心が、怖いのです。
こういっては失礼かもしれませんが、私は人間が魔族との一番の違いだと思うのは、その精神の多様性です。
感受性、と言い換えても構いません。
だから魔族の方々は本当に一途な人ばかりで、私はそれが美徳だと思っています。」
エクレシアは本気でそう思っているのだろう。
彼女の真摯な気持ちが伝わってくるようだった。
「だからこそ、だからこそ、その一途さが恐ろしいのです。」
そして、その端整な表情に悲しみが彩った。
「二番目の魔王の宣言の後、フウセンに一様に頭を垂れて跪くあの光景は、未だに忘れられません。
私はあの彼らの危うさが怖いのです。
魔族の性質は『マスターロード』の論文を拝見して、理解したつもりではいたのですが。」
「魔族は魔王陛下あっての存在だから。」
だからこそ、種の存続を理想にしていたゴルゴガンの旦那も、彼女に忠誠を誓っているのだ。
「ええ、肉体の違い、感受性の違い、そして崇拝の対象からの影響の違い。
私とあなたを分かつ物はたったその程度のことに過ぎないのです。
ですが、想像したくないことですが、人は神に見捨てられても生きてはいけると思うのです。」
「あなたは見た目の違いでもなく、考え方の違いでもなく、それが一番の壁だと感じているのね。」
「はい。」
エクレシアは深く頷いた。
そこではたと、彼女は顔を上げた。
「関係の無い話でしたね。今は私の身の上話をしていたのでした。」
彼女は少しはにかんでそう言った。
「ねぇ、じゃあさ、あなたの師匠について聞かせてくれない?」
「私の師匠についてですか?」
「ええ、居るんでしょう?」
「ええ勿論。我々の騎士団の性質上、騎士になるには従士となって師となる騎士に教えを請わなければなりませんから。」
「どんな人だったの?」
「そうですね、私の師匠はーーー」
そこから先の会話は、残念ながら女子二人の秘密である。
思わぬ形で発展したガールズトークは、深夜の更に奥深くを切り込むまで終わらなかった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
今後の方針が決まって以来、私は毎日が気が気でない。
私の故郷ともいえる村々が、アンデットの軍勢が大挙していると言われれば誰だってそう思うだろう。
「気が散るのも分かるけれど、手元を疎かにしては駄目よ。」
言われて、私は目の前の調薬に集中する。
魔力を使って生成する秘薬は、一歩間違えばどのような変化を齎すか分からないからだ。
ただでさえ、現在行っているのは劇毒薬から毒素を抽出して、治療薬にする作業だ。
失敗して毒素が漏れ出そうものなら、この部屋は暫く使い物にならなくなる。
集中して事を運べば、滞りなく調合は終了した。
何度も繰り返した作業だが、こうしてやってみると心臓の動悸が抑えられない。
ウィッチクラフトの奥義と呼ばれる調合の多くは劇物であり、そこからいかにして毒性を抜くかというのは同じくらいの秘奥の技術だ。
基本にして奥義。
何度も何十度も何百度も繰り返し、時には失敗も経験し、感を養い、微妙な気温の変化なども肌で覚える必要がある。
それも用途別に、万能薬など都合の良いものは存在しない。
抽出した毒素を厳重に保管して、治療薬を保存する。
これからこういった治療薬はいくらっても足りなくなるだろうから、私の練習で作った薬品も大切に保存している。
こうした作業をここ一週間以上、ずっと繰り返している。
そのおかげか、自分でも分かる程度には技量が上昇したように思える。
「ふふ、なにうぬぼれているの。
せいぜい判断を誤らなくなった程度で上達ですって、いい気なものね。」
そして私の達成感に水を挿すこいつが、私の修練の監督役であった。
監督役だけあって、少しも手を貸す様子は無い。
せいぜい、私がやらかした時に迅速に事態を収拾するくらいか。
「次は蘇生薬の調合よ。
そろそろ次のステップに移りましょう。」
私は頷く、彼女の監督の下に延々と同じように見えて微妙に違う作業をずっと繰り返してきたのも、秘薬のレシピを教わるためだった。
しかし彼女の提示した力量に私は達していなかった。
あの師匠の下で何を学んだのか、等々の多大な嫌味と共に私は自分の拙かった技術周りを補強していたのだ。
「ここから先、魔術の奥義とも言える秘術における最も重要な植物があるわ。言わなくても分かるわよね?」
「芥子の実。」
「そう。」
そいつは鷹揚に頷く。
「魔女術だけでなく、人の歴史や文化も、芥子の実が齎す成分が無くては語れないほど根深く根付いているわ。
芥子の実から精製されるアヘンは魔術師だけでなく、詩人、貴族、錬金術師、そして市井の人間に多大な影響を残し続けてきた。」
見てきたように、彼女は語る。
いや、実際に見てきたのだろう、人間の愚かな誤用の歴史を。
「ダリア。」
彼女は視線を横に逸らして、何も無い空間に目をやった。
すると、そこには燐光のようなぼんやりとした光が人型に形作られ、輪郭が現れたと思ったら一人の人間が姿を現していた。
そして、一冊の本を両手で私に手渡してきた。
「これは最もアヘンに精通した当代の魔女が、直接手渡すことになっているわ。」
同じ夢魔と見まごうような美貌を持つその女が手渡してきたのは、一冊の魔道書だった。
タイトル:『デメテルアヘン』。
作者は、不明。
その魔道書からは特別な力は感じない。
タイトルの下に、緊急時には真っ先に燃やせ、と書いてあるからには特別な防護が不必要なのだろう。
「ここ百年はマザー・ローレ以外に渡せる相手はいないと思っていたけれど、ここまで短い期間でそれを手にしたのはきっと初めてよ。」
薄く笑って、燐光から現れた女は言った。
「羨ましいわ、自然体で、朽ちるまで衰える事の無いその体・・。
超常の真理へと至るには人の身では不可能だということなのかしら。」
彼女は私に羨望と憧憬と、そして哀れみに似た何かの感情を向けると、同じように燐光の中に消え去った。
彼女が、ダリア。黒きダリア。
そいつの話でも度々登場する最も魔女『パラノイア』の意思を受け継いだ魔術師。
それは決して当代で最も優れているという意味ではないが、それに準じるほどの力を持った魔女だという。
私は彼女が何度かこの部屋に直接荷物を送ってきてくれたのを確認しているが、直接会うのは初めてだった。
「読んでもいい?」
「その為に渡したのよ。そこには魔女『パラノイア』や、彼女が育てた魔女たちが書き記した研究の成果が記されているわ。」
言われて、軽く流し読みする。
その内容は、そのタイトルが示すとおり芥子の実から抽出されるアヘンという物質の歴史、用途、抽出方法、抽出用の術式、それを媒介とした魔術について等など。
ごくり、と私は無意識に唾を飲んだ。
これは魔女術におけるひとつの集大成だった。
そしてそれから齎される秘術は、魔女術を学んでいた私にすら到底信じられない効果を秘めるものがいくつも存在していた。
「そろそろいいかしら?
では三十八ページを開いて。そこに書かれている秘薬を生成するわよ。」
「はい。」
その全てを読みつくしたいという逸る気持ちを抑えて、私は勤めて冷静に秘薬の生成に取り掛かった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「正直な話、あの『マスターロード』がおとなしくしている理由が分からないわ。」
私たちが『マスターロード』との会談を終えて、自室で第五層への準備をしている時であった。
「こんな閉塞した空間に閉じ込められることをよしとする性格じゃないでしょうに。」
「だから魔王陛下の復活を望んでいるんじゃないの?」
今日の為に調合していた薬品をカバンに敷き詰めながら、私はそう口にした。
「そういう意味ではないわ。
もっと単純な話よ、はっきりと言うけれど無駄なく適切に割り振れば、人類に対抗するなんてわけないと思うわよ。」
「それが出来ないから、“代表”もあのように考えているんでしょ。」
どうでもよさそうな話なので私も適当に返した。
「顔を立て、敬っていると言えば聞こえはいいけれどね。
私なら、夢魔が五百人くらい居れば人類を静かに裏から支配せしめられるんだけれど。」
「つまらない冗談だわ。」
「そうね、つまらない冗談だったわ。」
それが出来るかどうかではなく、そんな面倒なことを彼女はしないだろう。
そして無意味である。
そいつの語る地上という世界は、そこまで魅力的に思えないからだ。
「そう言えば、吸血鬼も支配に特化した種族だったわね。」
これから行く第五層にも、かつては彼らが趨勢を窮めた古城があったと聞いたことがある。
「吸血鬼もうまくやれば人類の版図を塗り替えられるかもね。
まあ、まず無理でしょうけれど。」
彼女は自らの言葉を自分で否定した。
「“ノーブルブラッド”が居るから?」
「ええ、彼らは格が違うもの。
特に私は活動領域が被っていたりもしていたから、いろいろ気を使ったりもしていたわ。」
確かに、先日ハーレント子爵にあって格の違いは肌で感じ取れた。
同じ夜の眷属として、あれほどまでに実力差を感じたのは初めてかもしれない。
「噂程度でしか知らなかったけれど、あそこまで強大なヴァンパイアが存在するなんて思いもよらなかったわ。」
「そうね。
だけれども、あれをヴァンパイアと行ってしまっていいのかしら。」
彼女は含み笑いを忍ばせて、そんなことを口にした。
「あれはもはや、ヴァンパイアをベースに別の派生を遂げた生物よ。
あれをヴァンパイアと名付けるのなら、元々の生物がヴァンパイアだって意味でそう付けることになるでしょうね。」
「ねぇ、もし彼らに生物的な弱点が無かったとしたら、彼らの弱さって何なのかしら。」
「そんな簡単なことを聞くのかしら?」
若干馬鹿にしたような響きで、そいつは言った。
「人間性よ。化け物でありながら、人としての理性を保とうとしているところよ。
それらは矛盾しないとまでは言わないけれど、共存は出来ないわ。」
なるほどな、と私は納得した。
「そういう意味では、あなた達夢魔もなかなか稀有な存在ね。
あなたたちは人間性を理解し、その上で魔族に属しているのだから。」
「そういうものなのかしら。」
と、その時、私の部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はーい。」
私は荷造りする手を止めて、ドアを開けた。
扉を開けた先に居たのは、師匠だった。
「師匠、どうしたんですか?」
私は突然の師匠の訪問に驚いた。
師匠が私を呼び出すことが会ってもその逆は殆ど無いからだ。
「お前さんは明日、戦場へと赴く。」
それは、普段の師匠とは違う厳かな雰囲気であった。
「おそらく後方での仕事ばかりだろうが、戦場ではいついかなる理由で命を落とすかも分からない。
もっと修練を積ませたかったが、そうも言ってられんだろう。」
私は、師匠の話を飲み込めないで居た。
そう言えば師匠は魔族ではかなり名が通っているが、具体的にどうすごいのかまったく私は知らなかった。
あの“代表”を初めとした幾多の魔術師に教えを施したと聞いたくらいだ。
「お前さんに、ラミア族に伝わりし秘法を伝授しておこう。
お前は、私の娘も同然だからね。」
そして私は自分がいかに馬鹿だったかを思い知らされた。
一族伝来の門外不出の秘法を同族以外に伝えるなどと、絶対無いと言っても過言では無いほどだ。
なぜならそれは、その一族が持つ優位性とも同意義だからだ。
それはつまり、
「なんて顔しているんだい。」
師匠がおかしそうに笑った。
私は両目から涙を流していたことに気づいた。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
後一話でまとめるつもりだったのですが、書いているうちに長くなってしまい、泣く泣く切りがいいところで切らせてもらいました。
次で、大体時間軸が元通りになると思われます。更新が遅くてすみません。
そういえば、もうこの小説も二年目ですよね、記念の話、少し考えておきますね。
それでは、また次回。




