第八十八話 ある少女の願い
『黒の君』は想う。
「え、もし僕が過去に戻れたらどうするかって?
たらればの話だよね? この間過去に戻るのなんて絶対に無理だって言ったよね。
・・・・そうだねぇ、もし僕が過去に戻れたとしたら、したいことか。
うーん・・・まず、家族に謝りたいかな。」
いつかどこかでのある少女との会話より抜粋。
世界樹の頂上では今にも決戦が巻き起こされんとしていた。
のだが、今回は少しばかり時間を遡る。
エリーシュとの決戦を語る上で、主人公たるササカの知らない裏側が語られていないからだ。
その裏側とは、ある少女の視点である。
今回は、ずっと焦点が当てられていなかった、彼女の話である。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
私はは眠れぬ夜を過ごしていた。
最近新造されたばかりの魔王城にある私の個室、そのベッドの上に腰掛け、一向に訪れない眠気に頭を抱えていた。
別にベッドの寝心地が悪いわけではない。
これはずっと使っていた物を運び込んだものだし、部屋の中の家具の配置以外全て以前の部屋と同じ物品ばかりで新調したものは殆ど無い。
当然ながら、慣れない天井ゆえにと言うわけでもない。
「いい加減寝ないと体に障るわよ。
寝不足は肌に簡単に影響が出てしまうものだわ。」
不眠の原因が話しかけてきた。
「一体、誰の所為だとッ」
私は怒りに任せて目の前に立つ相手を睨み付けた。
「自分の所為、それ以外の何物でもない。そうでしょう?」
それは私の怒気を受けても不適に笑うだけだった。
まるで鏡でも見ているかのように。
「頑なねぇ。私を受け入れてしまえば、悩みなんてなくなるのに。」
「いや、絶対に嫌だ・・。」
私の首に手を回して囁くようにいうそいつを、私は拒絶するように振り払う。
「くっふっふっふ・・・」
しかし、私がどんなに手を振り払おうとしても、そいつを退けることは出来なかった。
そいつはただ怪しく笑って、私に擦り寄ってくる。
「私はあなた、あなたは私。
私を否定することは、あなたを否定することなのよ。」
「うるさい、黙れッ」
「くふふふふふ。」
そいつは笑う、その忌々しさは吐き気すら催す。
私は感情に任せて寝台にあったコップを投げつけた。
木製のコップはそいつに向かって投げたにも拘らず、その後方の壁に当たって派手な音を立てた。
「おい、サイリス、どうしたんだ今の音は。」
その時、扉越しににそんな声が掛けられた。
ササカの声だった。彼は親衛隊なので、城内の夜間警備も仕事のうちなのだ。
「あッ」
その声に、私は我に帰った。
「大丈夫よ、ちょっとコップを落としちゃっただけだから。」
「そうなのか? 最近遅くまで起きてるみたいだけど、あんまり根を詰めるのもよくないぞ。
まあ、夢魔であるお前には昼間みたいなものなのかもしれないが。」
じゃあな、と言って扉越しの気配は消え去った。
「健気ねぇ・・・。」
まるで私たちのやりとりをかみ締めるように、そいつは呟いた。
「彼に少なからず惹かれるのは、本能? それとも・・」
「もうやめて・・。」
耐え切れず、私は懇願した。
鏡合わせのように、私とまったく同じ姿を模り、私の精神に居座るそいつに。
「どうして自分を抑圧するの? どうして誰かに遠慮するの?
控えめで気弱な自分は嫌いでしょう? それは誰かに嫌われるのが怖いから?
自分に自信が無いから、誰かの信頼に応えるのが恐ろしいのでしょう?」
だが、そいつはまくし立てる様に言葉を重ねる。
「そんなこと思ってない。」
「嘘つき、大嘘つき。あなたは自分の心に嘘をついている。見て見ぬ振りをしている。
目を背けている。気づかない振りをしようとしている。恐れている。
だから誰にも相談できない。誰も信じれない。周りには親身になってくれる人が何人も居るのに。」
やれやれ、とそいつはため息を吐く。
「あなたは潜在的に一人ぼっちなのよ。
それを自覚してしまっている。失望を恐れ、人に関わるのを恐れている。」
抉る。私の心を、殻をこじ開け抉り出す。
「本気にするのもされるのも怖いわよね。
それで何かを失ってしまったとしたら、取り返しが付かないものね。」
私は毛布をかぶって、ひたすらに耳をふさいだ。
しかし無意味だ、そいつは音を発して話しかけてきているわけではないのだから。
私が外界から逃げると、内面から対峙する。
暗闇に閉ざされた心の中で、私とそいつだけが照らされる。
「一度本気になって、痛い目を見たものね。
その片腕がその代償。あなたの無力の証明にしてその象徴。
これからも後悔と自責ばかりが積み上がっていく。もっと上手くやれれば、とね。」
「アルルーナ、お願い、そいつを何とかしてッ!!」
私が叫ぶと、暗闇に新たな姿が照らし出された。
私の使い魔である、悪魔アルルーナだ。
「いくら私でもそれは不可能だ。」
彼女は首を横に振るう。
「どうしてッ」
「手の出しようが無いからだ。
主の精神状態は不安定だが、そのバランスは極めて正常だからだ。」
言っている意味が分からなかった。
「精神には表と裏がある。建前と本音とも言うな。
この場合は、正と負というべきか。
主が拒絶するそれは、表の言動に出ない主自身に他ならないのだ。
実に恐るべき魔術だ。それに人格を持たせるとは。実に参考になる。」
アルルーナは無感情に淡々とそう告げる。
「あなたが肯定するものに、私は否定する。
あなたが良いとするものを、私を悪とする。
あなたが拒絶するものを、私は肯定する。」
一息おいて、そいつは言葉を続ける。
「遠慮などせずズケズケと本音を口にする。相手の気持ちなんて考えない。隠しもせず嘲り笑う。終わったことを蒸し返す。自己嫌悪。
私はあなたが想像する最も嫌な自分に過ぎないのよ。」
「・・・・・。」
それは、紛れも無く事実であった。
そいつが先ほどからのべつ幕なしにまくし立てていたのは、私の中に居る私の嫌いなところばかりだった。
「でもひとつだけ、違うことがある。
そう、私は無力ではない。」
くすくす、とそいつは笑った。
私は覚えている。一番最初にそいつを認識したあの日。
我らが魔王さまが襲撃された、その日の夜のことだ。
眠りについていた私は、すさまじい刺激を受けて覚醒した。
「凄いわこの身体。モルヒネと同等の気付け薬を使ったのに、副作用の兆しが少しも無いわ。」
モルヒネとやらがどういう薬がは知らないが、あの時私に襲った刺激は間違いなく芥子の快楽成分だった。
あの時私は何かを投薬した様子も無かった。
故に、あれは直接私の体内に発生したのだ。
魔女術、ウィッチクラフトの極みのひとつだ。
私の姿をし、私の声で私の心のうちを語るそいつは、明らかに私の持つ技量を遥かに超えていた。
私はすぐにそいつの正体に気づいた。
ちょうどその日、我らが魔王を襲った恐るべき魔女が居たのを忘れるにはその日の出来事はあまりにも強烈過ぎた。
「私はあなたの敵ではないわ。だって、あなたなんだから。
私は絶対的なあなたの味方なのよ。一人ぼっちなあなたの、ね。」
「嫌よ、それでも私はあなたを受け入れない。」
「構わないわ。私を追い出そうと拒絶することは自傷行為に近いことは理解したでしょう?
私があなたを害する存在ではないと理解さえすれば良い。
あとは時間の問題なのだから。」
くすくすと、そいつは笑った。
敵意があったから、それ相応になって帰ってきたと、そいつは言ったのだ。
敵意を警戒レベルにまで落とすことで、ようやく胸に満ちていた嫌悪感と吐き気が収まってきた。
当然だ、今まで私は自分で自分を否定していたのだ。
人間ならまだしも、仮にも悪魔族の私はその精神的影響を肉体にも受ける。
魔界の悪魔なら消滅をも覚悟しかねない、存在否定だ。
「気づいてくれてよかったわ、危うく不本意な手段をとる必要に駆られるところだったもの。」
「・・・どういう意味。」
「別に。ただ、あなたみたいに自分で自分を追い詰めて、最終的に首を吊った子を何人も見てきたわ。
そうなる前に意識を虚弱化させて肉体の主導権を握ろうと思うのは自然なことだわ。」
良かった良かった、とそいつは笑った。
このクソ外道、と私は内心罵った。
「ようやくお互いに会話が成り立つようになったけれど、お話は明日にしましょう。
いくら魔族といえども、ここまで不眠を貫くのは不味いでしょうから。」
その言葉と共に、私の意識は落とし穴にでも落ちるかのように落下していく。
「明日が楽しみだわ。」
そして私は、数日振りの睡眠へと誘われた。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
私の仕事はさほど多くは無い。
「サイリス、今日の分だよ。」
「分かりました、師匠。」
私は師匠から薬品の入った箱を手渡され、師匠の部屋から退出した。
私の朝の仕事は、これを村の薬屋に卸すことである。
「くすくす・・・。」
「何がおかしいの。」
私の真横を歩きもせずに併走するそいつは、私を見ながらにやにやと笑う。
「大事にされているなぁ、と思ってね。」
「どういう意味よ。」
私は思わず足を止めてそいつを睨んだ。
「あなたも魔術師の徒弟なら、師から秘儀のひとつも継承しているのかしら?」
「わかっていることを・・。」
その白々しく嫌みったらしい言葉に、私は歯噛みすることしか出来ない。
そう、私は師匠から秘術の類を何一つ受け継いでいないのだ。
それはなぜか、私が未熟だからか?
それもあるだろう。だけど。
「彼女はあなたが仲間の下に戻るのが一番だと考えている。」
「・・・・・・。」
別に煙たがられているわけでもない。嫌われているわけでもない。
ただ、同族同士で仲間と共に暮らすのが一番良いと、望まれているだけだ。
そんな気を、何年も前から感じていた。
「師匠も考えが古いのよ。」
魔族は単一の種族だけで群がるだけが脳ではないと言うのに。
「ふふふ・・・。」
私の答えに、そいつは含みのある笑い声を漏らす。
私の本心など、そいつには手に取るようにわかるようだった。
「でも、あなたもこのままでは駄目だとも思っている。」
「・・・・・。」
私はその言葉を振り払うように足を速めた。
「だって、失望されたくないものね。
ずっと未熟のままだったら、見捨てられるかもしれない。あの人に師事しておきながら、未だに独り立ちもできない半人前。」
「・・・・・・。」
足を速める。
「だけど分かってるのよね、誰からも期待なんてされてないって。
所詮あなたは捨て子なんだから。だってどいつもこいつも薄情なんだから。」
私は劣等感から逃げるように足を速める。
分かっているのだ、結局一番醜いのは他人ではなく自分なのだと。
私は城を出て村へ向かうと、いつも薬を卸している店へとやってきた。
「あら、サイリスじゃない。」
すると、いつもなら店主が居るところには見知った顔が居た。
彼女はマイスター・メリス。自他共に認める天才的な錬金術師だ。
「マイスター、あなたがどうしてここに・・?」
「あまり儲かっていなかったみたいだから、店ごと買い取ったのよ。
まあ、市場調査の一環って奴よね。」
なんて彼女は冗談みたいにそんなことを口にした。
「どんな魔族がどんな薬を求めていくのか、興味深いもの。」
すると私の表情が出ていたのか、彼女はそう言った。
「それで、なにかご用向きかしら?」
「ええと、この店には私の師匠が薬を卸しているんですよ。」
「あらそうだったの。勿論買い取らせてもらうわよ。業務体系は引き継がせてもらっているもの。」
と言いながら、商品棚の半分が私の知らない薬品で埋め尽くされていた。
所詮田舎の薬屋だし、いつだって品薄なものなのだが、棚には所狭しと薬が置かれている。
それだけで彼女の技術と資金力を簡単に想像できると言うものだ。
「これ、全部自分で作ったんですか?」
「ええそうよ。そしてその全ての発明者でもあるわ。」
代金を計算して、つり銭を受け取った私はその言葉に少しも驚かなかった。
新薬を作るのは並大抵の努力では不可能だ。
それを彼女は、その全てを発明したという。彼女の年齢など、私の半分程度でしかなかったはずなのに。
「そんな驚いた顔しないでよ、新しいものへの挑戦する意欲は魔族にはあまりない人間の特権みたいなものなんだから。」
やはり私には顔には出やすいらしく、マイスターは苦笑した。
「参考までに、どうやってこんなに薬を開発できるんです?」
「思いついたら手当たり次第、トライ&エラーよ。
百回やって駄目なら千回試行する。ただそれだけの話よ。」
何事も無げに、彼女はそう言い放った。
言っている当たり前だが、それを彼女が言うと話は別だ。
彼女はその天才的能力と発想をとを実現する為の“手足”が豊富だからだ。
やりたいことを全て同時に行うことを可能とし、それ故に余裕を有している。
だからこのような道楽じみたことが彼女には可能なのだろう。
矢のような人だと、私は思う。
その才覚ゆえに、その余裕ゆえに、彼女への領域へは誰もたどり着けないのだ。
矢のように進み、飛び、それ故に周囲の畏敬すらも気に留めない。
真の天才は周りからの理解を得られないのではなく、常人の理解の先を行っているのだ。
一時期、師匠が彼女の元に私を差し向けたのが良く分かる。
私としても彼女の元で学ぶことは多かった。
用事を終えると、私は彼女のものとなった店から外に出た。
「羨ましいわよね、あれほどの才覚に恵まれいて、それを生かす全てを有しているんだから。」
私に併走するそいつは言う。
「だけど、今回ばかりは賛成できないわ。
あれは人の生き方をしていない。常人から見たら狂人じみているもの。
彼女は本気で魔術の果てにある真理を求めているからなのでしょうね。
あの若さであそこまで行き急ぐなんて、息が詰まるわ。」
そいつは、彼女の余裕を息が詰まると表現した。
私の考えではない意見だった。
「あなたには彼女の強さがうらやましく思えるのでしょう?
若くして独り立ちし、一人で生きるだけの強さを持っている。
だけど、私に言わせれば彼女の最大の弱点は、その若さよ。」
「魔術師は年を取るほど強くなるものね。」
「違うわ、そうじゃない。私が行っているのは実力じゃなくて、内面よ。」
そいつは頭を振ってそう言った。
「若さは若者だけが有する特権だけど、時としてそれは足を引っ張る。
彼女の場合、その若さが目を曇らせている。
若さは驕りの温床であり、彼女は自らの力に酔っている節がある。
その陶酔は判断を誤らせる。より短慮で、より浅慮な方向へとね。
彼女はきっとこの世の真理へとたどり着くでしょうけど、その目の曇りが晴れるまでその日は決して来ないでしょうね。」
かなり辛辣な、酷評とも取れる言い方だった。
「若さもそうだけれど、あらゆる強さや強みというのは常に同等の弱さや弱みを孕んでいる。
強くなると言うことは弱さを備えること。
弱さを克服することは自分を磨くこと。
しかしそうして研ぎ澄まされた自分には新しい弱さが備わっているものなのよ。
硬く鍛えた刀剣は鋭くとも脆く折れやすい。長所と短所は常に天秤の上で吊り合っている。」
「じゃあ。」
私は問うた。
「かの『黒の君』は全知全能に近しい能力を持っていると言われてる。
あの方にも弱さがあるって言うの?」
一度会っただけでも、私はその恐ろしさは筆舌しがたい。
その片鱗を見ただけでも、黒魔術を携わる者として想像を絶した。
そしてそれほどの力を持ちながら、欠片も神格といった要素が見えなかった。
脆弱な人の身だけで、あの領域まで辿りついたのだ。
「かの偉大なる御方には、私も直接お会いしたことはある。
皆が一様に抱いたと言う恐怖は、しかし私は抱かなかった。
私が抱いたのは、畏れ。ただ私と同じ道の先を極めた者への畏敬だったのよ。
そして、その中に私は哀愁を見た。
彼の弱さとは、魔術の為に全てを捨てたことに他ならないわ。」
「それのどこが弱さなのよ。」
魔術師と言う人種は魔術のためにいろいろな物を捨てる。
代償を支払う。
等価交換が原則なのは錬金術だけではなく、魔術の全てに於いていえる事なのだ。
そして自らの余計なものを切り捨て、己を高めるのだ。
それが、魔術を極めると言うことなのだ。
それの一体、どこが弱さなのか。
「言い方を変えるわね。
彼は魔術師の最果てと言われるほどに達しているのに、驚くほど人間的だった。」
「・・・・・・?」
「分からない? だからあなたは未熟なのよ。
彼は、人間性を捨て切れられなかったのよ。それを弱さと言わずになんていうのよ。
確かに彼は人を超越している、しかし仙人ほど俗世から離れていない。
その距離感は、果たして必要なのかしら? 魔術の道を窮めた者が。」
「それは・・・。」
「私は彼に救われた時、私は彼に対して言ったわ。
あなたこそこの世に君臨する偉大なる魔術の神である、と。
これからはあなたを見本に生きて、敬いながら生きていく、とね。」
私は、不覚にもそいつの話に聞き入っていた。
「彼はそれにこう応えた。僕を崇めたら殺す、今までもそうしてきた、と。
彼は崇拝を拒絶したわ。彼ほどの魔術師が今まで誰からも崇拝されていなかった理由を知ったわ。
彼は努めて孤高なのよ。結果的ではなく、意図されたものだったの。
それで悟ったわ、私が彼に最も自分に近づいた魔術師だって言われた意味が。
実力のことを言われたんじゃなかった、魔術師としての行き方が似ていたのよ。
恐怖を持って抑止力となったと言う、生き方が。ただそれだけ。」
いつの間にか、そいつは逆さまになって空中から私を見下ろしていた。
「あなたには、同じ道を歩む資格がある。
才能と言う名の資格が。魔族という生まれさえも、あなたにとっては祝福となるわ。」
その目に在ったのは、私には無い狂気だった。
いや、気づいていないだけで本当はあるのかもしれない。
しかし、ここまで明確で果てしなさを備えた狂気を、私は知らない。
「私はあなたを受け入れない。」
私は断言する。だが、そいつは可笑しそうに笑うだけだった。
そのそこはかとない不気味さに、心がざわつくのが抑えられなかった。
私のやることはまだ終わらない。
私にも出来る簡単な薬の調合や、師匠からの課題をこなさなければならない。
簡単な調合を済まして、師匠の課題に手をつける。
今日はそれなりに難しい治療薬だ。
手際よく薬草を磨り潰し、毒草から毒抜きし、トカゲの下処理をし、毒サソリから毒を抜き出す。
取り扱いを誤れば死に至る代物もあるので、慎重に作業を進める。
だが、今日はなぜか快調だった。
いつもなら手間取るだろう作業がさくさくと進み、慣れたもののように調合が捗った。
「この材料なら、あとはベラドンナがあれば完璧よね。」
そこで気づいた。
手を動かしているのは、口を動かしているのが、私の意志ではないと。
私はどこか遠くを見るかのように、調合の風景を眺めていた。
さながら演劇の観客のように。
「あら、でもこのあたりには出回っていないのね。
残念だわ、あれは貴婦人の嗜みだというのに。あとでダリアに持ってこさせましょう。」
ぐつぐつと沸騰するフラスコの中の液体が煮詰まる音が、どこか遠くに聞こえる。
「しょうがないから毒セリで代用しましょう。
これが無いって事は無いでしょうし・・・ほら、あった。」
素材箱に保存されている毒セリを取り出すと、私は調合を続けた。
人間に使えば毒にしかならない毒セリも、魔族に対して使えば毒も薬として扱える。
しかしそれでも無害と言うわけには行かない。
これを使えば、毒性が必要になるほどの患者に扱う秘薬になるだろう。
しかし薬学と言うのは十分な研究が必要だ。勝手なアレンジは厳禁なのだ。
私は必死に止めようとしたが、引き続き私は芥子の種子を磨り潰した物や蝙蝠をとっ捕まえてきてその血などを精製して投入したり、とやりたい放題し始めた。
私は恐ろしかった。
体が言うことを利かないからではない。
まさしく魔女の釜と貸したフラスコの中身が、いかなる劇物を吐き出すかと戦々恐々としたのだ。
私は以前、危険な秘薬の調合に失敗し、家一軒駄目にしたことがある。
以後その周囲一帯は数年間は消えないだろう魔力汚染が広がり、それの後始末をしたクラウンに笑いものにされたのを思い出した。
そして当然、師匠にはこっ酷く怒られた。
『・・・お前さんにはまだ早かったようだね。』
あの時の、師匠の落胆したような呟きが蘇った。
「へぇ、お前さんがこれを作ったのかい。」
気が付くと、師匠が目の前に居た。
違う、自室で調合していた私が師匠の部屋へと来ていたのだ。
「嘘おっしゃい、あたしはお前さんの技量はよーく把握してるんだ。
大方、自分の使い魔あたりに手を借りたんだろう?」
「え、あ・・はい。」
訝しげな師匠の言葉に思わず生返事を返してしまった。
いつの間にか、体の自由が利くようになっていた。
「まあいいさ、足りない技量を工夫で補うのは魔術の基本さね。
一応は、合格としておこうか。このレベルの秘薬の調合、お前さんにしてはよくやったよ。」
「・・・・・・。」
私は言えなかった。違う、それを作ったのは私じゃない、と。
私は怖かった。師匠から失望を買うのが。
「面白い経験をさせてもらったわ。魔族用の薬の調合なんて。
人間相手にあれは効きすぎるものね。」
部屋の外に出たら、そいつは楽しそうにそう嘯いた。
「なんで、あんなことしたのッ」
怒りは自然と沸いて来た。
「悪意ある善意よ。」
そいつは笑って言った。
まるで、善悪は矛盾しないとでも言うかのように。
「これで少しは考え直すでしょう?
これであの人も、あなたを遠ざけようなんて気は薄れたはずよ。
だって、出来の良い弟子と言うものは何よりも可愛いものだもの。」
「ッ!」
私は言い返そうとして、何も言葉が出ないことに愕然とした。
才能はあるはずだった。
少なくともあの恐るべき魔女に見込まれるほどには。
だけど、私は師匠の出来の良い弟子ではなかった。
何事にも向き不向きがあるように、私は不器用で失敗も多かった。
課題をサボるのもしょっちゅうだし、師匠の言いつけを破ることなんて日常茶飯事だった。
そんな私が、そいつに言い返す言葉なんてあるはずも無い。
そいつは最も嫌いな私であると同時に、理想の魔術師たる私なのだから。
「ねぇ。」
そいつが、毒を垂らすように囁く。
「自分の出自を確かめたいとは思わない?」
まるで暇つぶしの余興でも思いついたとでも言うように、そいつは言う。
「あなたの恐怖とコンプレックスの源は、確固とした足場が無いから。
踏みしめるべき過去がないから、自分に自信が持てない。
ならば、知りましょうよ。自らの起源を。」
「・・・どうやって。」
師匠は、ある日突然捨てられていた私を拾ったと言う。
出自なんて辿りようがなかった。
「かの至大なる御方は、ひとつの魔術を授けてくださった。
それこそ、かの御方を神と崇めてしまいそうになるほど。」
「・・・。」
私は自然と息を呑んだ。
引き込まれては駄目だと分かっているのに、目を逸らせなかった。
「――――その魔術こそ、過去へと渡る秘儀なのよ。」
私は、形振り構わず走り出した。
・・・・・
・・・・・・
・・・・・・・
「お願いです、教えてください。」
私は、村の郊外にある以前まで使っていたテントの中に保管されている、かの『黒の君』の意思が宿る魔具の元へと駆け出していた。
「あなたが魔族を嫌っているのは分かっています。
ですが、たったひとつ、たった一つだけ、教えてください、お願いします。」
縋り付く様に、魔具を抱えて私は必死に訴えた。
「うるさいなぁ。」
よほど私のその姿が無様で滑稽で情けなかったからなのか、彼は煩わしそうに虚空にて寝そべっていた。
「僕は女が嫌いなんだ。
厚かましくて図々しくて、特に泣けば何でも許してもらえるなんて思っているような・・・そう、女を武器にする夢魔みたいなのが大嫌いなんだ。」
泣き喚く子供をあやす様に優しく、拷問官のように冷酷に。
彼は偏見と嫌悪に満ちた視線を、私に向けてきた。
「だからさっさと質問とやらを言えよ。
そして僕の前から一瞬でも早く消え去るんだ。」
そう言って、彼は顎に手を当てた。聞く姿勢になったようだった。
魔族の質問に耳を傾けてやろうと思う程度には、暇を持て余しているようだった。
「過去へ戻ることは本当に―――」
「あのさぁ。」
偉大なる『黒の君』は、私の質問を遮り底冷えするほど冷たい声で言った。
それは、殺意だった。
「僕を笑いにきたのなら、お望みどおりあの世に送ってあげるけど?」
その瞬間、確かに世界は止まっていた。
「ち、ちがッ」
魔術を窮め、全知全能に等しいとまで言われた彼は、二つだけ不可能と断じた事柄がある。
それが即ち、時間遡行と完全なる死者蘇生だ。
彼は私の質問を嘲弄か揶揄と受け取ったらしかった。
当然だ、彼の伝説でその二つに多くの心血を注いだと言われている。
彼の魔術師人生のほぼ全てと言えるほどに。
そうしてまで出来ないと結論付けたことを、本当は出来るんじゃないの、と言われれば誰だって激昂しても仕方が無い。
馬鹿にされていると言われても文句は言えなかった。
殺される、と思った。
だが、その瞬間は以外にもすぐには訪れなかった。
「なるほど、お前が唆したのか。
危うくお前を助けるようにリュミスに言ったのを後悔しそうになったよ。」
彼の目は、私にしか見えないはずのそいつが見えていたからだ。
「ご機嫌麗しゅう、まさかこのような場所でお会いできるとは思いませんでしたわ。」
「相も変わらず悪趣味なことをしているようだね。
ま、流石にそいつの行動は予想外だったみたいだけど。」
「ええまあ、少なからず驚かされました。」
「まあいいさ、お前が目を付けているのなら一度だけ許してやるよ。」
そうして、彼は私に視線を戻した。
「答えてやるよ、過去に戻るなんて事実上不可能だ。」
さも当然のことを言うように、彼は答えた。
「万物、事象には全て連続性が備わっている。
過去へ行く理論はいくつかあるけれど、仮にそれを可能として過去へ行ったとしよう。
しかし、そうして送られたモノはその時間では異物なのさ。
なぜならば、過去から続いていないからだ。未来から突然やってきた連続性の無いモノは、自然消滅する。これが時間遡行を不可能とする法則だ。」
「やっぱり・・・。」
「だけど、それを逆手に取る方法はある。」
私は俯きかけた顔を上げた。
「それこそ、『パラノイア』に授けた魔術さ。
悪魔のように精神の分体を作り、その精神だけを過去へと渡航させ、傍観者となる魔術。
それを使えば、キリストが実在したかも、聖書の添削さえも可能とするだろう。」
「そんなことが可能なんですか・・?」
「当然欠点はある。まず、過去へは一切の干渉は出来ない。
そして自分が時間と場所を明確にしなければならない点。そしてやりすぎると相応にリスクが発生することかな。」
あえてそのリスクを、彼は語らなかった。
「一応賢人の端くれとして言って置くけれど、過去に理由を求めると必ず損をする。
徒労に終わるからね。骨も折るし後悔もする。
・・・・止めておくことだ、過去に戻ろうなんて馬鹿なことを考えるなんて。」
そういう『黒の君』には、そいつが言った哀愁が見て取れた。
「過去なんてものはね、汚れてしかいないのさ。
だってそうだろう、過ぎ去って、時間が経って、腐ったものなんだから。
たとえ過去に大切な何があろうと、美しい栄光さえあったとしても。そんなものは水泡の如き夢で、幻想に過ぎないのさ。」
「それは、重ねた努力すらも無価値だと断じられるのですか?」
「なにを言っているんだ、人の価値は人それぞれだろう?
ただ、僕は努力を言い訳にする奴は好きじゃないけれどね。そいつの愚劣さが浮き彫りになって見るに耐えない。」
彼はそう言って、私を冷たく見下ろした。
私はそれだけで自分が死体のように冷たくなっていく感覚を味わった。
そして、嘲笑うように笑みを浮かべてこう言った。
「だから黙っているだけでいいんだ。
そうすれば、君の弱さは許されるんだから。」
頭が真っ白になった。
私にとって致命的な一言だった。
お前に努力の価値を語る資格なんて無いと、言われたのも同然だった。
そして、お前程度が重ねた努力など価値が無い、そう言われたのだ。
私は気づけば自分のベッドで寝転んでいた。
あれからどうやって戻ったかなど、覚えては居ない。
私は魂を抜かれたかのように天井を見上げていた。
「あの御方の唯一好きになれないところは、女性に対する強烈な偏見かしら。
まあ、あそこまであからさまだと、相当なコンプレックスの産物なのでしょうから、触れないでおくのが正解なんだろうけれど。」
私の机の椅子に私より図々しく座るそいつは、笑顔のまま言葉を発する。
あそこまで私が打ちのめされた相手に対してこの態度である。
私はそのことを思い出して、自然と涙を流していた。
「嘘つき。」
「あら?」
「過去へ戻るなんて、やっぱりできないんじゃない。」
私は、やり場の無い怒りに似た感情をそいつにぶつけた。
「なにを言っているの。そもそも私は過去へ戻れる方法を知っているなんて一言も言っていないわ。
過去へ渡る秘儀、とだけしか、ね。結果的に誤解を招いたのなら謝るけれど。」
ごめんなさいね、とそいつは素直にそう言った。
その反応に、私の心が締め付けられる。
私が嫌な女に近づくほど、そいつは入れ替わるように清廉になるのだ。
その対比を常に見せ付けられる。
「そうそう、あの御方はああ仰られた。
けれど何事も裏技があるわ。私は過去へ渡り、そこからその時間軸への住人となる方法を編み出したの。」
「なにを馬鹿な。」
あの人の恐ろしさとすごさは片鱗だけでもよく分かる。
つまり、そいつが思いついた方法ぐらいあの人も思いつき、出来て当然なのだ。
「そう思うでしょう?
私もその秘儀を伝授された時、この方法をすぐに思いついて口に出して言ってみたわ。
だけど、それはかの御方が望む方法ではなかったらしいのよ。」
「言っている意味が分からないわ。」
「簡単に言えば、理屈は単純なことなのよ。」
そいつは語る、甘い毒のように。
「あの方の望む過去への遡行は、自分の肉体をそのまま過去の時間へと移動させること言うらしいのよ。
しかし、それはあらゆる観点から見て、不可能なの。」
「連続性がないから・・・。」
「そう、連続性という糸で繋がっていないものはその時間軸から排除される。
その負荷は地球上から宇宙空間まで弾き飛ばされる程のエネルギーを一瞬ごとに消費するレベルだと試算されているわ。
人間なら一瞬で数十人が消滅する魔力消費量ね。
現在でいくら準備しても過去では必ず個人になるのだから。さしもあの御方も『世界』の全てから否定されては敵わないのでしょう。」
それが、あの人でも事実上過去への行くのは不可能だと断じた理由。
ただ、これは不可能な理由の最大級というだけで、ほんのひとつに過ぎない。
「だけど、何事にも抜け道はある。
そう例えば、その制約に縛られない存在になるとか。」
「・・・・・まさか。」
そこまで言われれば、いくら私だって気づく。
肉体が邪魔なら、肉体を捨てれば良い。
極めて単純で、そして恐ろしい結論だった。
「考えて見なさい。魔剣は一体どこから来るの?
別の次元、もしかしたら違う時間から同一の魂を辿ってやってくるのよ。
精神と魂は、たとえ異物だとしても連続性という制約に当てはまらないの。」
「だけど、それじゃあ過去に移動したことにならないじゃない。
だって、肉体が無いんだから――ッ」
言ってから、そいつにその言葉は何よりも愚問であることに私は思い当たったのだ。
「流石の私も、過去の時間と言う状況で他人の精神に寄生するなんて無理だわ。
だけど肉体に魂が宿った直後の母体を辿れば、自分自身の肉体に限って過去への逆行は可能となる。」
そいつの蜜のような甘い言葉に、私は唾を飲む。
極めて限定的で一方通行、そして自由自在な完全無欠の時間旅行ではないため、これをして『黒の君』は過去へ戻ることを“出来る”とは言わなかった。
雛形もあり、九割以上完成させて、事実上可能だとしても、だ。
それは彼のプライド故なのか、どうしても肉体に固執しているかなのか。
私には分からないが、そんなことは今の私の思考の内訳に入り込む余地は無かった。
「試して、みない?
私もまだやってみたことないのよ。」
「・・・・・。」
私は、悪魔の誘いに乗ってしまった。
過去に戻ったとしても、どうしようもないことぐらい分かっていたはずなのに。
結論から言えば、全てとまでは言わないが、『黒の君』の言うとおりだった。
過去なんて汚れており、記憶にだけしか残らない水泡に過ぎないのだと。
そして私は、後悔するのだ。
やはり、過去へ戻ることなど出来ないのだと。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
続きを書いていたら、話が繋がらないところを発見し、ただいま修正してそれにそうように続きを書かせてもらっています。
そう、この章のヒロインはサイリスなのです。作者も忘れるくらい筆を置いていた時間が長すぎました。危うく伏線回収を忘れるところでした。
そうしたら菊理ちゃん編が思いつき、そして現在に至る、と言うことです。
ここは思い切って、構想を変えて、エリーシュとの戦いを全部サイリス視点で描こうかと考えています。じゃないとヒロイン分が薄くて・・『黒の君』の最後の台詞は、実は自虐です。
サイリスの過去編をもう一話挟み、今度こそ本当にエリーシュ戦へとなります。
なんだかドラゴンボール並みに引っ張っちゃってすみません。これが最後です、はい。
それでは、また次回をお楽しみに。




