連載二周年記念 「師と弟子」
これは以前書いた一周年記念の続きです。
遅ればせながら、何とか書き終えました。どうぞお楽しみください。
「私は、止めたからね。」
彼女は憮然とした態度でそう言った。
「兄貴たちに黙っていてくれただけで十分だよ。」
「きっと戻れないでしょうね。」
「必要な事だよ、それにどうせ、遅いか早いかの違いだ。」
「必ず後悔するわ。」
「後悔? 後で悔いる? 後っていつだよ、この帝都が魔王ギルフェイネスに蹂躙され、人類が滅びた後かい?」
僕は笑いながらそう言った。
「不死の秘法、ね。確かに貴方の記したこの理論、この宝玉の力が有れば簡単に実行できるでしょうね。」
彼女は周囲八方向の台座に置かれた八種八色の球体を見渡してそう言った。
この八つの球体こそ、この世界に伝わる八種の『宝玉』である。
全てを手にすれば世界を手中に収めるのも夢ではないと言い伝えられている、森羅万象を司る究極の至宝である。
魔王に対抗するため、死に物狂いで収集したのだ。
そして、それに見合うだけの価値は有った。
「これを行使すれば、僕は更に負荷の強い魔術に耐えられる。
魔王ギルフェイネスに断続的に魔術を浴びせかけ、奴の動きを封じるが僕の役目だ。
八つの属性の魔術を操るなんて、あの火力一転倒のアイツには無理だろうね。」
「この『宝玉』は対応する属性の魔術の負荷をも極限まで軽減するわ。
そこまでする必要があると言うのかしら?」
「僕がやられたら、みんな死ぬ、そう言う作戦だよ。念には念を入れるべきだ。」
「違うわ、貴方たちの誰か一人でも欠けたら、全員死ぬ。そういう賭けよ。」
「だったら尚更、後ろで全体を見渡せる僕が仕事しないでどうするのさ。ただでさえ、打たれ弱い業種なんだから。」
「そう、何を言っても無駄なのね。」
「もしかして、心配しているのかい?
この僕を。君が関心を向けるのは、ファスネルだけかと思ったけれど。」
「万が一、この儀式が失敗して貴方が死んだら、ファスネルが死ぬようなもんじゃない。」
「ああ、やっぱり君はブレないな。」
同時に、彼女に相談して良かったと僕は思った。
僕が完成させた不死の秘法、それの補助を行うのはこの帝都最高の魔術師である彼女。
人呼んで、“深海の魔女”の手助けが必要不可欠だった。
「お礼に、君にもこの魔術を使う権利を上げようじゃないか。」
「要らないわよ、こんなもの。」
だが彼女は、即座に切って捨てた。
「不死なんて、虚しいだけだわ。私はファスネルと同じ時間を生きたいのよ。」
「ふーん。」
これで彼女が、生態を操作する魔術で十代の若さを維持していなければ感動的なセリフだったかもしれない。
まあ、それが出来るから彼女の手伝いが必要だったわけだが。
「断言するわ、貴方は必ず後悔する。
自分の臆病さに、嘆く日がやってくる。
・・・それを忘れない事ね。」
その時僕を哀れむように見下ろすコバルトブルーの瞳が、未だに忘れられない。
時は過ぎる。
「そろそろ来るころだと思っていたよ。」
小さな書庫に、机に向かって取り憑かれたように物書きをしていた一人の老人が、ふと顔を上げて呟いた。
「憎まれっ子世に憚るって本当なんだね。
あの時共に魔王と戦った仲間は、僕とあんただけになってしまった。」
「ほう、私をまだ仲間だと思っていてくれていたのかね?」
「少なくとも、紙の上でしか知らない連中はそう思っているみたいだね。」
「くくく・・・永久追放を甘んじた身としては、光栄だと言っておこうか。」
僕にとって聞きなれないしわがれた声で彼は笑い声を漏らした。
「私もそろそろ寿命だ。君に頼みがある。
私の研究の成果は、全てエルリーバ家にて管理してほしい。」
「解せないね、あんたなら寿命の問題なんて楽に解決できるだろう?」
僕は眉を顰めてそう言った。
彼は、僕が認めた数少ない天才だ。
年は十以上も離れていたが、自分と同じレベルで物を考えられる、ほぼ唯一の存在だと認めていた。
だから、その才能が消えゆくことを惜しんだ。
だから、二度と顔を合わすまいと思っていた彼の下にやって来たのだ。
「それに関しては、エルリーバという血筋は存外に特別だったらしい。
妻には悪いことをしたよ。私は子供を残してやれなかった。彼女は自分たちの子供を望んでいたからね。」
彼はそう言って、数枚の紙の束を僕に投げ渡した。
それは、論文であった。
いや、論文というより、狂人の妄想の類の代物だった。
「年を取って、耄碌したかい? こんな妄想を垂れ流すようになったなんて。」
僕は思わず失笑した。
それを魔術で焼き捨てると、燃えカスを手で払った。
「だが、事実だよ。私はこの世の真理へと垣間見た。この無情な歴史の連鎖の理を。
・・・君もいずれ、知るだろう。真理の道は一つに通ずるのだから。」
「下らない戯言だね。」
「私には、君が眩しいよ。若いままでいられる君が。」
「・・・・・。」
「見るに堪えないほどにね。
人は時代に縛られて生きていくのだと、実感したよ。」
そう言って息を吐く彼は、古びた機械が埃を吐き出すのに似ていた。
「君の事をまだ友と呼んでいいと言うのなら遣る瀬無いよ。
君の嘆きを、君の孤独を知るこの私が先逝くことを。
これからの君の戦いを、君一人で行かせることを。
呪わしい我が血を、これほど恨んだことはないよ。
本当に残念でならない。君を見捨てて死に逝くこの私を、どうか許してほしい。」
「僕は、あんたみたいなのがようやく死ぬかと思うと、清々するんだけれど。」
そんな下らない、自己満足の為の懺悔など聞きたくなかった。
怒りが込み上げてくる。彼の頭脳は、そんなものを垂れ流すために出来てはいないのだ。
この僕の才能の引き立て役にならないといけないのだ。
「残酷なことかもしれないが、どうかこの世界を憎まないでほしい。
無情で、残酷で、悲劇ばかりを繰り返すこの世界を。
・・・・私たちはそれを守る為に戦ったのだと、それを忘れないでほしい。彼女もきっとそれを――――」
これ以上は聞くに堪えずに、僕はそのままその場を去った。
それが、僕が聞いた彼の最後の言葉だった。
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――――エピソード7「私と師匠と帝国と。」
恐らく、生きた心地がしないというのはこういうのを言うんでしょう。
「聞いているのか、ウェルベルハルク!!」
そう怒鳴るのは、我らが帝王陛下である。
何を隠そう、ここは王城の玉座の間。
帝都の中心である。
私は跪いて、何十人もの陛下の臣下たちの視線を浴びながらただただ師匠が何か問題を起こさないよう祈るだけだった。
「先日の司教の件、いったいどうしてくれる!!
謝罪で済む問題ではないぞ!!」
どうやら、師匠は先日の処刑騒ぎの件で怒られているようだ。
結局、あの司教はあの後亡くなったらしい。
当然それは彼らの総本山で問題となったようで、陛下はそれで激怒している。
この時代、教会に逆らったらそれだけで諸外国を全て敵に回るような時代なのだ。
陛下が法王から破門された日には、反乱だって起きかねない。
「てかさ、謝らなければいいでしょ?」
「なにッ!?」
しかし、欠伸しながら聞いていた師匠はとんでもないことを言い出した。
「君らが僕の威を笠に着て、色々好き勝手やってるのは知っているんだよ?
連中が力を付ける隙を与えて、好き勝手をさせているのは君たちじゃないか。
流石に僕が言ってもいない事を勝手に言うのは反則じゃないかなぁ?」
「う、ぐ・・・。」
師匠がそう言うと、陛下は言葉を詰まらせた。
その表情が、見る見るうちに青くなる。
「好き勝手やって来たのは君らも同じなんだから、また好き勝手すればいいじゃないか。
どうせ何十年単位で恨み辛みを持たれてるんだからさ。多少増えたところで問題ないだろう?」
「だ、だが・・。」
「どうしてもと言うのなら、君の先代の時に今の法王には“思い知らせた”からさ。
僕からあの時の言葉を思い出せ、って言えばいいえとは言わないよ。」
恐ろしい会話だった。
私は早くこの会話が終わることを切に願った。
思えば、どうして周囲の臣下たちが何も言わないのか、私はようやく気付いた。
ヤジの一つでも飛びそうなものだが、誰も口を開く様子は無い。
誰もが口を噤み、殆どが目を逸らしている。
彼らが私と同じ気持ちなのだと言うのは、すぐに察せた。
「わかった・・・そうしよう。」
陛下の言葉から、私は思った。
ああ、似たようなことは何度も行われているんだろうなぁ、と。
「じゃあ、今月の研究費三割増しで頼むね。」
「なッ、貴様の研究費用に、いったいどれだけの国費を割いていると思っている!!」
陛下が激高した。私でも怒る。
この国の税金が師匠の為に使われているなんて、頭が痛くなる話だった。
「あのさぁ、教会の連中が諸外国からどれだけ搾り取ってると思っているの?
それに比べたら、守ってやってるんだから安いもんだよ。
別に僕は良いんだよ、今から法王宛に今日から隠居しますって手紙送っても。・・・明日には反乱かなぁ。」
「う、ぐ、ぐ・・・。」
顔を真っ赤にしている陛下に、師匠はもういう事は無いと判断したのか立ち上がって踵を返した。
「行くよ。」
「は、はい!!」
私は逃げるように師匠に付いて行った。
背後から突き刺さる視線が痛かったが、とにかくこんな胃が潰れるような場所から一刻も早く離れたかったのだ。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「よく見たかい? あれがこの国のトップだよ。」
「そんな余裕は有りませんでしたよ。」
帰り道、まだ城内から出ていないのに隠す気も無い嘲りを浮かべながら師匠はそう言った。
「どいつもこいつも馬鹿揃い。
目先の利益ばっかり追求してさ。そりゃあ僕に政治なんて分からないよ。
でもこんなんじゃもう一度、あの魔王ギルフェイネスが復活したら今度こそ人類の終わりだってのは分かるね。」
師匠が言うと笑えない話だった。
「教会が将来現れるだろう魔王に備えて、って名目でお金集めてるけどさ、いったいどれだけが無駄に使われてるか分かったもんじゃないよ。」
「師匠はやはり教会には期待していないんですか?」
「それ以前の話だね、あいつらはいつだって口だけさ。
きっと、いざ魔王が現れればため込んだ金を持ち逃げするに決まってるさ。
魔王ってのはどれだけ大きくても一組織で手に負える相手じゃない。調子に乗っていられるのも今の内さ。」
師匠は鼻を鳴らして忌々しそうにそう言い放ったのだった。
かつて師匠は教会に色々といざこざがあったらしく、心底彼らを嫌っているのである。
私はそんな師匠の教会に対する長々とした嫌味を聞きながら、城内の端っこにある師匠の工房へと帰って行くのであった。
これは私も師匠でさえもずっと後になって知ることであるが、次の魔王と言うのがあの“七番目”こと“惰眠”の魔王『インソムニア』なのです。
教会の増長と腐敗は、以後数百年以上に渡って続き、誰にも、彼ら自身にすらどうすることもできないほど進行してしまうのです。
彼らの卑俗なプライドを満たすために繰り返される過剰で異常な、そして執拗なまでの弾圧が人類の停滞を招き、後々まで様々な確執や軋轢を生み続けるのでした。
師匠は、後に言うのです。
「結局のところさ、奴らには神は居なかったのさ。奴ら自身にも、本の中にもね。」
と。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
王城であんなことが有ってから何事も無く日々は過ぎていきました。
と言っても、私は師匠の書庫にある書物をグリモアちゃんと一緒に読んだりする毎日なのですが。
師匠は意外にも、分からないところがあれば面倒臭そうにしながらもちゃんと質問に答えてくれるのです。
私の印象ですが、多少なりとも教え慣れているといった感じがします。
師匠が誰かに物を教える事が出来ると言うのが不思議ではありますが。
とは言え、ここ最近は師匠と言うよりグリモアちゃんに私が教わっているような気がしてなりません。
師匠もどちらかと言うとそちらに本腰を入れているように思えます。
「やっぱり学の無い私なんかに、一端の魔術師に成れるわけがないんですよね。」
などと愚痴ると。
「何を言っているんだい、僕だって魔術を学び始めた時は学なんて無かったよ。
言っとくけど僕の故郷はど田舎で時代遅れの脳筋戦闘民族なんだよ?
師匠に出会った頃なんて、汎用文字すら読めなかったさ。」
君の努力が足らないんだよ、と師匠は簡単に言うのです。
それは根本的に私と師匠の頭のデキに差があるからではないでしょうか。
「師匠って、戦闘民族出身なんですか?」
何だかあまりにも師匠のイメージとはかけ離れていたので、私は目を見開いてそう漏らした。
何と言うか、そう言う人たちって何というか屈強で筋肉もムキムキで野蛮で粗暴なイメージしかなかったのです。
つまり師匠みたいなインテリ系魔術師とは正反対の人たちなのです。
「ああそうだよ、忌々しい話だけれど事実だしね、否定はできないよ。」
「何というか、師匠に一族の誇りとかそう言うのは無いんですね。」
「序列を腕力で決めるような頭の悪い一族だったからね。
あんなのが僕の出身だなんて汚点だよ、本当に。今は見る影もないけどね。」
「やっぱり衰退したんですか?」
彼らのような民族はかつてこの帝国の最盛期に併合され、文明化と共に消えて行ったとされています。
しかしながら、師匠の返答は私の予想の斜め上を行っていました。
「違うよ、消し去ったのさ、あらゆる書物や歴史からね。
言っただろう? 汚点だって。」
あまりにもあっさりと言われたその言葉に、私は数秒遅れて寒気を覚えました。
私はそれが物理的手段なのか、間接的手段なのか、訊ける勇気は有りませんでした。
だって、それを語る師匠は私が見たことも無いほど柔和な笑みを浮かべていたのですから。
「無意味で愚かな因習、化石のような停滞した思想、そんなものは纏めて滅びるべきだ。
今の王家の連中だってそうさ。目先の事を大局的な事だと思っている。
どいつもこいつも分かっていない。魔王はまた、再び現れると言うのに。」
「師匠は、今の帝国は滅びた方がいいと思うのですか?」
そんなことを言う師匠がどこか哀愁を帯びていて、私は思わず尋ねてしまった。
「まあ、それは僕の知るところじゃないさ。
でもまあ、いざとなったら引導を渡せ、と“陛下”から直々に最後の勅命を受け賜わっているからね。
介錯ぐらいは引き受けるつもりだよ。僕は愛着とか思い入れとか、薄い性質だから。」
何と言うか、仮にも帝国の臣民とは思えないセリフだった。
「もうずっとここに居るのに、ですか?」
「思い出を大切にしたい気持ちは分かるけどさ、後生大事に形見だとか日記だとか、取って置くなんて女々しいじゃないか。
過ぎ去ったものに固執するなんて愚か者のすることだよ。」
そんなことを言えるのは、師匠だからなのでしょうか。
でも、私は知らなかったのです。
師匠は確かに言葉通りの人ですが、女々しさとはもっと別の・・・妄執に似た何かを秘めていたのです。
私がそれに気づくのは、まだ少し時間が掛かったのです。
「さあ、無駄話はここまでだ。理論上、程度の差はあれ魔術が使えない人間は居ないはずなんだ。
せめて魔力の扱いくらいはモノにしないとね。」
最近は私の下手くそさも研究対象の一環に成っているのか、師匠はいつもの笑みを浮かべてそう言ったのでした。
―――――エピソード8「私と師匠と『死神』と。」
最近、気のせいか師匠はずっと研究所に居る気がする。
初めの頃はよく不在の時も多く、私が掃除をし終えてから現れる事も珍しくはなかった。
しかしながら、ここ最近はほぼ確実に中央の部屋に居るのだ。
難しい本を読んでいることが多いのですが、私に師匠が作ったと言うマジックアイテムの数々を自慢したりするようになったのです。
中には私も良く目にする日用品やとても珍しい物だったりするものもあるのでした。
意外にも、師匠はこういう小物とかを作るのが得意らしいのです。
帝都に普及している道具を開発した師匠は、改めて凄い人なのだと再認識したのです。
そんな師匠を誇りに思いながら、日々を過ごしていたある日です。
ある意味では、運命とも言える日が訪れたのです。
「師匠、このここってどういう意味なんですか?」
グリモアちゃんと書庫で魔術の理論書で頭を捻らせながら読み合わせ、どうにも理解できない内容が出てきたので尋ねに行くことにしたのだ。
師匠は本日中央の部屋で本を読んでいるのだが、意外や意外、部屋には師匠一人だけではなかったのだ。
珍しいことに来客があったのである。
男女一組で、どちらも黒衣で目深にフードを被っている。
「師匠、お客様ですか?」
すると、師匠が苦虫を噛み潰したような表情で私を睨み付けてきた。
いつもの余裕たっぷりとは違う、初めて見た師匠の表情だった。
「師匠だぁ? ウェルベルハルク、お前弟子を取ったのか?」
あろうことか、師匠に小馬鹿にするような口調でそう言い放ったのが、今回の来客の一人だった。
彼らは師匠の知り合いの魔術師なのだろうか、と思っていると。
「こいつはファスネルの子孫だよ。」
「なに?」
師匠は目の前の男に向けてそう言うと、彼は露骨な反応を見せた。
「え、うぇ!?」
するとその黒衣の男は無言で私に詰め寄ってきたのだ。
「ふーん、お前がねぇ。」
私は恐怖で震えあがった。
なぜなら、その男の眼が尋常ではなかったからだ。
まるで私はそれを表現する言葉を知らない。
こんな感情を向けられたことが無かったからだ。
だけど、私は覚えが有った。以前、師匠に見せて貰ったご先祖様たちの戦いの記憶の中から引用するのならば。
そう、魔獣が獲物を見つけて喜んでいるような表情だったのだ。
私自身、生まれてから一度も帝都から出たことが無い貧民の小娘に過ぎず、魔獣など目にしたことも無い。
その私がそう表現するしかないほど、その男の笑みは異様だった。
人間が人間に対して浮かべていい感情ではなかった。
だから、私は彼がする後に取るだろう行動が容易に想像出来たのだ。
断って、私が彼の動きに対応できたとかそう言うのではなかった。
或いは私の体に眠る血が、本能的に危機を訴えたのかもしれません。
黒衣の男が、何の予備動作すら見せずに黒衣の中から大振りのナイフを私に向けて突き出したのだ。
私は反射的に、無意識に両手で彼の手を掴んでいた。
バサッと私の持っていた魔術理論書が床に落ちる。
当然ながら、非力な私が彼の刺突を止められるはずもない。
元々寸止めするつもりだったのだろう。私のお腹に突き刺さる寸前で止まった。
「ひッ!?」
そこで、ようやく私は何をされたのか悟ったのである。
恐怖で息が出来なかった。
「ふーん・・。面影はねぇな。どちらかっつぅとこれは・・・。」
蛇が下をなめずりするように笑うと、ようやく私から彼は離れたのだ。
「僕の弟子にちょっかい出さないでくれる?」
「ははん、僕の弟子ねぇ・・。」
師匠の不機嫌そうな声を男は一笑して受け流した。
「えっと、お知り合いですか?」
普段から師匠の理不尽に慣れてしまったのか私は師匠に言ったのだ。
とは言え、気が動転していて普通なら不機嫌な状態の師匠に話しかけるなんて愚行をしてしまったが。
師匠は答えなかった。
一瞥さえなかった。
「お前が弟子か。笑っちまうな。
いつバラせるか楽しみだぜ。ちゃんと熟させろよ。」
「君の眼は節穴だね。そいつは才能なんて無いんだから。」
「そうかい、俺ぁ生物としちゃお前よか出来は良いと思うがねぇ。刃物でも持たせりゃサマになるぜ?」
男と師匠が言葉を交わす。
師匠が常に剣呑な態度なのに対し、彼は余裕の笑みさえ浮かべている。
あの師匠に対してである。
「なぁ、要らねぇなら俺にくれよ。あいつより強くする自身があるぜ?」
そして私を指さしてそんなことを言うもんだから、心臓までも止まるかと思った。
「僕がこれ以上不機嫌になる前に帰ってくれないかな?
君と同じ息を吸うだけでも虫唾が走るんだ。」
「ひゃはははは!!」
師匠がこれでもかと言うほどの感情を押し殺してそう言ったのに、彼はあまつさえ声を出して笑ったのだ。
極寒の牢獄に放り込まれているような気分だった。
「いいじゃねぇか。俺とお前たちの仲だろう?
ほら、例のブツもちゃんと持ってきてやったぜ。」
「ちょっと僕の研究を手伝ったくらいで、スポンサー気取りかい?
他人の命を食い物にして生きる俗物が。」
「別に俺はお前の崇高な“研究”とやらに期待している訳じゃねぇーぞ?
結果の如何なんてどうでもいいんだよ。もしかしたら、っていう・・・そう、夢と希望と諦念を賭ける富くじみたいなもんだ。
・・・・なぁ、お前だって本当は分かっているんだろう?」
男はそう言いながら皮袋を机の上に置いた。
「他に必要なモンはあるのか?」
「今の所は特にない。」
「そうかい、あと二十年は今の方法で連絡を取れる。それが過ぎたらこっちから伝える。」
そう言って男は踵を返した。
そして付添いの女性と共にあっさりと出入り口のドアを開けて、階段を上って行ってしまった。
私は彼らの消えた出入り口と師匠を交互に顔を右往左往するしか出来なかった。
私は何も言葉に出すことはできませんでした。
だって、こんな弱弱しく、小さく見える師匠は初めてだったから。
「すみません、ちょっと出ます。」
そして、そんな言葉と共に彼らの後を追いかけたのは、何か考えが有っての事ではなかった。
ハッキリ言って、自分にナイフを突きつけてきた相手を追うなど、異常以外の何物でもない。
もしかしたら本能なのかもしれないし、血に宿った宿命か何かかもしれない。
「待てッ」
そんな師匠の声が、私の頭には入ってこなかった。
私は長い階段を一息に駆け上がった。
普段の私ならそんな体力は無かったはずなのだが、どういう訳かその時の私はそれが可能だった。
「サイズ。」
城内の中庭を闊歩する怪しい黒衣の二人の背中を捉えると、透き通るような女性の声を聞いた。
それに応じるように、男が振り返った。
「なぁ、飯でも食わないか?」
そして私は人生で二度目のナンパを受ける事となった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「ウェルベルハルクの野郎は俺が人殺ししか能の無いみたいに言うが、そんなことはない。
機嫌が良い時は誰かに優しくしてやったりもする。そして今はとても機嫌が良い。」
などと嘯く彼は、確かに紳士的に喫茶店へとエスコートしてくれた。
しかも最近流行の店だった。
「好きなのを食えよ、奢りだ。」
そう言われてメニューに目を通すと、庶民の私には信じられない値段の数々が並んでいた。
一瞬の眩暈の後、私は一番安いサンドイッチを頼んだ。
彼の付添いの女性もそのような感じだったが、彼は一番高いのを上から三つなどという豪快な頼み方をしていた。
「貴方たちはもしかして、ご先祖様のお知り合いですか。」
注文した料理が来るのを待つことなく、私は話を切り出した。
「ウェルベルハルクから聞いていたのか?」
「いえ、師匠と対等に話せる人なんて、他に居るとは思えませんし・・・。」
しかしながら、当然ながらご先祖様の知り合いとなると、二百年前以上前から生きていることになる。
そんな突拍子もない事実は、師匠と言う前例がある以上は否定しきれなかった。
何より、師匠に見せられた記録にある彼と、この男の眼は酷似していた。
師匠はご先祖様たちの前に立ちはだかり、何度も彼らを苦しめ、殺し会ってきたあの男と。
容姿が違うとかそう言うのでは語れない、根本的な何かが同じだった。
「確かにその通りだ。俺はお前の先祖の知り合いだよ。今生での知り合いじゃねぇがな。
ああ、あと一つ言っておくが、俺とあいつが対等だって?
それは違うねぇ、あいつは俺より下だ。奴が単体でどれだけ強かろうと、あいつ独りじゃちっとも負ける気はしないねぇ。
世間の連中は揃いも揃ってあいつを恐れているが、くくく・・・一体あれの何が怖いんだか。」
多分、今この帝都でそこまで言える人は居ないのだろう。
もし居たらそれは余程のホラ吹きか、・・・余程の狂人か。
「師匠にいったいどんな御用が有ったんですか?」
「お前も聞いてただろう? あいつの研究の手伝いだよ。
主に幻獣とかの稀少な材料集めだがな。旅先に片手間で倒したら、そいつを持ってくる約束なんだよ。」
彼は給仕が運んできたエールを軽く飲み干して、そう答えた。
「研究? 師匠の魔術の研究ですか?」
「そりゃあお前が自分で聞けよ、お前なら・・いや、お前には言うだろうさ。」
私はなぜ彼がそんな些細な表現を言い直したのか分からなかった。
「あの、もしよかったら、ご先祖様のことを教えてくれませんか?」
色々と想像とは違ったが、それでも私の尊敬する方を。
「ああ、お安い御用だ。」
彼は話してくれた。饒舌に、嬉々として。
それは昼ごろからもうすぐ夕方に差し掛かると言う頃まで続いた。
「なぜあなたはそこまでして戦い続けるのですか?」
私が彼に抱いた疑問はそれだけだった。
死してなお転生し、生前もそのあとの人生も戦い、戦い、殺し合いの日々に明け暮れているこの男の性。
私には理解できなかった。
「生きるってそういうことだろう?
俺じゃなくても人間は誰かを殺して生きている。それが人間でも、別に珍しいことじゃねぇだろう。
そして強さを求めるのが、男児として当然だろう?」
だが、果たしてそれを笑顔で言い切る者は居るのだろうか。
「人生楽しむのが重要だ。
人は生まれた時、何かしらのしがらみを持って生きなければならない。
それが無いと言うのは、どれだけ生きやすいか分かるか?
どれだけ自由だかわかるか? 自分が他者に左右されないと言うのがどれだけ素晴らしいか分かるまいさ。」
彼はそう言うと、テーブルに銀貨を数枚置いて立ち上がった。
「なぁ、だからどうか、俺を失望させないでくれよ。
我が仇敵の子孫とやらよ。そしてアイツの弟子だというのならな。」
その日、私は『死神』に目を付けられたのだった。
後に彼らに巻き込まれたり持ってこられたりする厄介事を思えば、昼食を奢られたくらいでは全く割に合わないのだと思うのだった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「師匠、只今戻りました。」
私が師匠の研究所に戻ってくると、師匠は酷く驚いた表情で。
「まさか生きて戻ってくるとは・・。」
「勝手に殺さないで下さいよ・・。」
私は床に落ちっぱなしになっていた魔術の理論書を拾い上げた。
「君もあんな奴に付いていくなんて不用心が過ぎるね。」
「少なくとも師匠よりは紳士的でしたよ?」
私は日頃の仕打ちに対する意趣返しにそんな嫌味で返した。
「そうかい? そんなにあいつが良かったのなら、君をくれてやれば良かったかな。
毎日殺し会い三昧だろうけれど、平気だよね?」
「ごめんなさいすみませんでした、師匠の弟子で最高ですはい。」
「ふん。今の君に僕の弟子を名乗られてもねぇ。」
「頑張ります、すっごく頑張ります!!」
私はそう言って、そそくさとドアを開けて書斎へと逃げ込んだ。
「ふぅ・・・。」
そのままドアに背を預けて、私はため息を吐いた。
そして、ドア越しに師匠の座っていた方を見やった。
「どう・・・した・・・の?」
「あ、ごめんねグリモアちゃん。ずっと待ってたよね、一人にしてごめんね。」
思えばすっかり彼女を置いてきぼりにしてしまった。
「ここ、わかった・・・。」
「あ、そう言えばそうでしたね。」
私は師匠に分からないところを聞きに行ったはずなのだが、彼女は自力で回答を導き出したようだった。
「教えて・・・あげる。」
「うん・・ここ・・・はね・・・。」
私は、どこか心の中にしこりを残しつつも、日常へと戻って行くのであった。
――――――エピソード9「僕と弟子と・・・。」
そろそろあのお馬鹿が弟子に成って半年になる。
正直あれには全くと言って良いほどの才能は感じられなかったのだが、バカとハサミも使い様で、インスピレーションの元には困らなかった。
あいつのサル並みの幼稚な脳みそでも僕の作品の素晴らしさは理解できるようで、僕が何か適当に作るたびに子供のようにはしゃぐのだ。
実はあいつが学習している範囲で作っているのだが、あのお馬鹿にはそれが理解できていないようだ。
僕だって一応、初めての正式な弟子という事で、それなりに気に掛けてはいるのだ。
それにあいつが気付くとは思えないけれど。
あいつの才能の無さは、もはや一つの才能とすら言える領域である。
もう神に嫌われているとか、そう言うレベルの能無しなのだ。
これで頭の方もクルクルパーの救いがたいアホだったのならまだ良かったのだが、なまじ自分が出来が悪いことを理解できる程度には知恵が有るので無駄な努力を重ねてしまうのだ。
これら凡人の愚かな所は、努力を美徳だと本気で信じている所である。
そしてそれはいずれ実るかもしれないという、淡い希望にも似た願望に固執し、結局は自分を見失うのだ。
そもそも努力とは、才能そのものであると事実に目を逸らして。
未熟故に研鑽を重ねるのは、それが成長すると言う見込みが前提にあるからだ。
塵のような淡い幻想に縋ることこそ、努力の対極に有る物と言えるだろう。
愚かさは悪ではないが、愚鈍は罪悪だ。
これが勉学の世界ならば、それもいいかもしれない。
帝都を出て地方の村々で子供にでも字を教えて回れば食うに困ることは無いだろう。
だが、彼女が踏み入っているのは魔術の世界だ。
理論の実践こそが全てだ。
家柄や才能や財力が、笑いながら努力を踏みにじる世界なのだ。
あいつの未来は、泣きながら地面に這い蹲って己の無力と才能の無さに嘆くと言う結末だけである。
それが現実だ。
あれでどうしようもなくこの道に踏み入ってしまったと言うのなら、同情くらいはしてやれるかもしれない。
だけど、あのバカは自ら冥府魔導に飛び込んできたのだ。
いい加減、なあなあの関係を続けるのはあいつの為にならないだろう。
僕がそんな風に崇高な決心をした時だった。
ふと、視線を感じて振り返る。
もう既にリュミスは帰っている時間で、グリモアも休眠に入っているのに。
「なんだ、兄貴か。」
そこには居る筈の無い僕の双子の兄だった。
僕は魔術師としての素晴らしい才能を持っていたが、兄貴は一族の血を正しく受け継ぎ肉弾戦などの戦闘能力に秀でていた。
性格も正反対だった。
双子なのにここまで対極的なのはそうはいないだろう。
兄は強く、魔術の啓示を受ける前の幼い頃は同世代の連中からよく守ってもらったものである。
そんな兄が、僕は嫌いだった。
僕は弱者ではないのだ。守って貰う必要など、なかったのだ。
事実、僕は僕の事を侮った一族ごと制裁してやった。
連中の言うところ、弱いのが悪いのだ。
そして弱者を弱者のままと見下し、驕り続けた結果である。
「僕があいつらを根絶やしにしたの、恨んでるの?」
兄貴は何も言わない。
兄貴はいつもそうだった。僕のすること成すこと、何も言わずに受け入れる。
僕が一族から追放された時も、兄貴は黙って僕と里を出た。
元々寡黙で多くは語らず、表情は乏しい兄貴は魔王と戦う時だって僕の前に出て戦ってくれた。
「僕らの中で一番最初に死んだくせに、文句があるなら自分で止めれば良かったんだよ。」
僕なんかとは比べ物にならないほど屈強であったはずの兄貴は、病魔に侵されあっさりと死んだ。
僕がそのことを知り、駆け付けるまでの一週間の間にあっけなく、だ。
冷たくなった兄貴を前にして僕は思わず笑ってしまった。
笑いながら、泣いた。
だってそうだろう。兄貴は殺しても死なないような男だった。
それが、流行り病であっさりと。笑うしかなかった。
それと同時に、人はこんなにも簡単に死んでしまうという事を僕は思い出した。
僕が専門的に不死について研究するようになったのは、その頃からだった。
ふと目を離すと、兄貴の姿は消えていた。
だがその視線の先に、かつての友が立っていた。
「やあファスネル。お前の子孫は元気にやってるよ。
アレはお前に似だよ。魔術の才能はからっきしだからね。」
僕の唯一無二の親友は、やはり何も言わなかった。
彼は寡黙と言うより、必要な事以外は話さないような奴だった。
だが情や義に厚く、色々と後ろ暗い経歴が有ったくせに、いざと言う時は誰もが彼を頼りにした。
彼が居なかったら、きっと僕は魔王との戦いを超えられていなかっただろう。
こんな僕を、信頼して背中を預けられる戦友と言ってくれた。
「・・・・何とか言えよ。」
もし、僕を糾弾できるのだとしたら、彼かアイツだけだ。
なのに彼は何も言わない。
とっくに死んでいるのだから当然だ。
生きている筈が無いのだから。
「・・・なぜ何も言わない。君なら・・。」
そして僕は馬鹿なことを言おうとしたことに気付いて口を噤んだ。
思わず息を呑んだと言うのもあるかもしれない。
なぜなら、彼らが、かつての仲間たちが、僕を見ていたからだ。
無表情に無感情に、ただ僕の内面を見透かすようにただこちらを見つめていたのだ。
「なぜ今更になって僕の前に姿を現すんだよ・・・。」
死んだくせに。
人間として死ねたくせに。
なぜ今になって、幻となって現れるのか。
そしてなぜ。
なぜ。
「なんで、アイツが居ないんだよ!!」
よそ様から聖女のようだと言われたアイツが、それに似つかわしくない内面を抱えていたアイツが、僕を尊敬していると言ったアイツが、仲間たちを誰よりも愛していたアイツが、僕の憎んでいたアイツが、僕が勝手に嫉んでいたアイツが、僕より才能溢れていたアイツが、僕より早く勝手に死んだアイツが、誰よりもこの世界を愛していたアイツが、アイツがアイツがアイツがアイツがアイツが・・・
なんで僕の前に現れないんだ!!
「僕はそこまで惨めかッ、僕はそこまで哀れかッ!?
僕はそんなにも無様かッ!? 答えろよ!!」
しかし死者は何も言わない。亡霊ですらなく、ただの幻なのだから。
だが幻の仲間たちは何も言わず、しかし僕に対して誰よりも如実に物語っていた。
本当は分かっているのだろう、と。
本当は全部わかっていた。
現実から目を逸らしているのは僕だった。
だってほら、そう思ったら彼らは当然のようにそこには居なかった。
原因は分かっている。
ここ最近、度々にだがこういう事はあった。
リュミスが僕に弟子入りしてから、一人になると時々誰かの視線を感じるようになった。
いつもは一人ずつが精々だったのに、六人も一度に出てきたのは初めてだった。
いい加減、潮時かと僕は思った。
いいや、本当は分かっていたのだ。最初から。
僕もそろそろ、決断しないといけないのだ。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「そろそろ君が僕に弟子入りして、もう半年が経つね。」
その日、私が師匠の下へ行くと、師匠はそんなことを言い出したのだ。
「君もそろそろ、僕の弟子として魔術の一つでも習得させたいところだ。」
「面目ありません・・。」
「別に君自身努力でどうにかなるものではないのは分かってるさ。
しかしどんなにダメでも、弟子は弟子だ。
僕としても人前に出しても恥ずかしくない弟子が良いんだよ。
・・・実を言うとね、才能が無くても魔術を扱えるようにする方法を思いついたんだ。」
すると、師匠はとんでもないことを言い出した。
「えッ、それは本当ですかッ!?」
魔術師の能力は才能に依って決定する。師匠が口を酸っぱくしていつも言っていた言葉だった。
そんな今までの常識を引返せることが本当に可能なのでしょうか。
「僕が弟子である君に対して、一度たりとも嘘なんてついた覚えなんて無いんだけれども?」
「そりゃあそうですが・・。」
「目処が立ったのは本当だよ。
真っ当な方法とはいいがたいけれどね。魔術に過程なんて無意味な話か。」
「本当に、本当に私も魔術が扱えるんですか!?」
「まあね。」
「ご先祖様みたいに、師匠みたいに、私もすごい魔術とかできるようになるんですね!!」
「そればかりは君の努力次第だと思うよ。
才能が皆無だからこそ、君は努力だけで大成する最初の例になるんだ。」
私は嬉しかった。
始めて師匠に認められたようで。
私はずっとやきもきしていた。
どんなに頑張っても、扱える事の無い魔術の理論ばっかりを学び、内心鬱屈して過ごしていた。
私は成りたかったのだ。
憧れのご先祖様や師匠のような、凄い人たちの後に続く存在に。
「師匠ッ、私もっと頑張ります!!
今まで師匠に弟子らしいこと何もできなくて辛かったですけど、もし本当に魔術を使えるようになったら私どんなことだって出来る気がします!!
わたし、とっても嬉しいです!!」
「・・・君は甘いね。甘いよ。
きっと君は弱音しか言わなくなると思うよ。」
それは初めて聞く師匠の声音だった。
嫌味な言い方なのに、まるで私をいたわっているように聞こえたのです。
「君は勘違いしている。まずそれを正そう。
僕にはこの道しかなかった。
逃げ道も未来への道も無く、魔道と言う裏道を進むしかなかった。
この道は華なんて無い。嫌われ者の道で、根暗で日陰者の道だ。僕や君の祖先のように持て囃されるような時代の方がおかしいんだよ。
この道にヒトとしての最後は無い。きっと恨まれて、憎まれて、後ろ指差されながら惨めな最期が訪れるだろう。
ズルをしているんだからね、当然だよ。
この道に夢なんて無い。理詰めのような計算された未来を組み立てる、悪夢のような道筋しかないんだよ。
それでも僕の弟子を続けるのかい? 君はきっと後悔するよ。」
それは、言うまでもない最後通牒だった。
師匠の弟子であり続けるか、以前までの日常へと戻るのか。
「私は絶対に後悔しません。
こんな何も出来ない私には、師匠の弟子であることが何よりの誇りなのですから。」
私は躊躇いなく言った。
心からの笑顔でそう言えた。
毎日嫌味を言われたり、手酷く扱われても、私は師匠を尊敬していた。
だって師匠は、偉大な人だから。
どんな醜聞や悪評が有ったって、かつて人々の為に魔王と戦ったのは本当なのですから。
私が師匠にどんな仕打ちをされたって、幻滅したりしない自信がある。
そう断言できた。
「・・・分かった、じゃあ付いてくると良い。」
そう言って師匠は踵を返した。
・・・・師匠が一瞬だけホッとしたような表情をしたのは気のせいだろうか?
そして、奥への扉を開け、以前私が触れてしまった魔法陣の刻まれたドアを開いた。
私が触れた時は弾かれたドアは、正しい人物によって開かれるとそこに刻まれた魔法陣が小さくなって消え失せた。
その奥は、更なる地下への階段が続いていた。
一切の灯りの無いその通路に満ちる暗闇は、まるで地獄にでも通じているようにすら思えた。
師匠が魔術で階段を照らし、進んでいく。
すると唐突に、広間に出た。
その部屋を一言で言うのならば、ごちゃまぜだった。
本で読んだことのあるルーン文字の刻まれた石版が積み重なっていると思えば、その横に錬金術の機材が無造作に並べられている。
天井は星図になっているのに、壁にはセフィロトの樹が描かれている。
ウィッチクラフトに使う大釜があると思えば、人が磔に出来そうな十字架も壁に立てかけられてあった。
何と言うか、研究に必要な物を一室に詰め込んだ、というズボラな印象を受けた。
きっと師匠にそれを言えば、僕は全部どこあるか場所が分かってるんだ、とか言うに違いない。
そして何より、
「あれは、何ですか・・・?」
私はこの部屋の中央でひときわ存在感を放つそれを、指差し師匠に問うた。
「ああ、あれね。あれが僕の研究の成果だよ。」
師匠はどこか恍惚とした表情を浮かべてそう言った。
それは、巨大なフラスコのような物体だった。
その中には瑠璃色に発光する液体で満たされていた。
そして、そこに胎児のように丸まってヒトが浮かんでいた。
「あれって・・・ホムンクルスって奴ですか。」
記憶にある書物の知識から、該当するモノを探し出して私はそう言った。
「ベースはそうだけど、アレは一から新しい生命を作る魔術だ。
でも僕のは違う。僕は肉体を生まれた直後から成長過程を魔術的に再現する魔術を作り出したんだ。
産まれた時からの記憶、経験、技能などすべてをそのままに、全く同一の人物を創造せしめることに成功したんだ。理論上は、だけれど。」
師匠の物言いからして、まだ研究は完成している訳ではないのだろう。
「今でこそは完全に人間と過不足ない出来だけれど、最初の方は大変だったよ。
人間をヘドロにしたようなのが出来ちゃってさ。
何度も試行錯誤を繰り返して、何十年も掛けてようやく、ようやく・・・完成に王手を掛けた。」
師匠がそう言うのだから、それは負け惜しみでも何でもなく本当にあと一歩なのだろう。
私も、あれが私の横に立っていたら、それが人造物であることなんて疑いもしないだろう完成度だった。
「師匠・・・。」
でも貴方は、分かっているのですか?
「でもその一歩が、後一手がどうしても詰められない。
悔しいけどそこで数十年も足踏みしている。九割九分以上再現しきれたと自負しているんだけれど、どうしても理屈じゃないところで違和感が有ってね。
それを解消しない限り、真の完成は得られないと思うんだ。
そして僕が創りたいのは同一人物じゃない。
僕の目指しているのは死者の蘇生だよ。同じ姿と記憶を持っただけの肉人形なんかじゃない。
死霊使いのような、死体を蘇らせるような悪趣味で下卑た魔術なんかとは違うんだ。」
師匠は饒舌に語る。
私も凄い魔術だと思う。掛け値なしに。
死者の蘇生が可能となるのならば、それは魔術と言う域を超えている。
それを言い表すのならば、“奇跡”。
神にのみ許される、人の域を超えた偉業だ。
私も手放しで称賛し、師匠を称えたかった。
私の貧困な語録の限りを尽くして、弟子として師匠を賛美したことだろう。
だけどできなかった。
―――――なぜなら、あの瑠璃色の液体に浮かぶのは、かつての師匠の仲間であったあの少女だったからだ。
「師匠、あの人って・・・。」
「んん? ああ、もしかして僕がいやらしい気持ちで彼女をモデルにしているとか思っているんだろう?
勿論、そんな気持ちは一切ないよ。彼女の才能は僕だって認めるところなんだ。
それを磨かずに死して失うなんて、この世の損失だよ。本当に、あのバカはなんて勿体ないことをしてくれたんだろうね。
あんな才能が埋もれていい筈なんて無いんだ。輝かずに消え失せ、露となるなんて僕は我慢ならない。
そして証明しないとならない。僕の才能こそがアイツより優れていると。」
師匠は楽しそうに語った。
一片の邪気のない、子供の意地っ張りのような純粋さで。
裏返せば狂気的で、妄執的でもあった。
私はそれが恐かった。
「師匠・・・貴方は、何とも思わないんですか?」
「何がだい?」
「最初から、彼女を復活させようと試行錯誤したんですか?」
「当たり前だろう? そもそも、僕がこの研究を始めたのは彼女の才能を惜しんだからなんだし。」
じゃあ、なんでヘドロのような人間が最初に出来たなんて笑いながら言えるんですか?
私には分かるんです。
時々、師匠がかつての仲間たちの事を誇らしげに語ってくれる。
今師匠が執着しているその娘のことは殆ど話してはくれなかったけれど、師匠にとって彼女がとても大切な人だっていうのは言葉の端々から感じられた。
「君は運が良い、一番早い奴でこれがあと数日ほどで完了するんだ。次の奴はあと五年掛かる。
実験作だからとは言え、これ一つ作るのにとても時間が掛かる。人間と同じ成長スピードで行っているから当然だけれど。
魔術や投薬で成長速度を上げても良いけど、そうすると脆くなってすぐに使い物にならなくなる。
とりあえず、現段階ではこれが次に完成するから・・・。」
そう言いながら、師匠は奥から何かを引っ張り出してきた。
師匠にとっては“何か”だが、私にとっては“誰か”だった。
「こいつはもう用済みかな。
調べ物や実験はすべて終わったし、場所取るから処分しないと。」
それは、猿轡をされた“彼女”だった。
現在あの不思議なフラスコの中に居る少女と寸分違わぬ容姿を持った、あの少女だった。
身なりはよく、猿轡以外には手荒に扱われている様子は無かった。
だが、どうしようもないほどその少女は生気が無く、憔悴していた。
どう扱われようと、師匠にとって“それ”は失敗作の物に過ぎなかったのだろう。
忌まわしい、顔が似ているだけの失敗作。
なぜ手足が封じられていないのか、私は何となくその理由を察することができた。
声が同じだからだ。失敗作なのに、同じなのだ。
そう言えば、私がこの部屋に通じるあの魔方陣のドアに触れた時の師匠の第一声は、確か・・・。
『誰が出てきて良いと言ったッ!!』
であったはずだ。
彼女はずっといたのだ。
半年前から、ずっとこの地下で。
私は、思わず涙した。
私は師匠にしがみ付いて、こう言った。
「師匠、こんなこともう止めましょう。」
「は?」
師匠は何を言われたのか分からないと言った表情だった。
なぜそんなことを言うのか、だったかもしれない。
「お前さ、これが分からないの?
一体どれだけ素晴らしい研究か、いったいどれだけ偉大なることなのか?
死者の蘇生は人類史以来の悲願だよ? それを、止めるだって?」
師匠は掴んでいたモノを投げ捨てると、片唇だけを釣り上げてそう言った。
師匠の表情は案外読みやすい。誰も指摘する人が居なかったのかもしれないけれど。
そして、これはかなり激怒している表情だった。
「こんなこと、間違ってますよ。」
それでも私は言った。言わずにはいられなかった。
別にこの作られた少女に同情したわけではなかった。
師匠のやっていること自体は、私は否定する気は無かった。
魔術は、それだけで毒気だ。師匠はそう言っていた。
知識だけだろうと、私はもう既にそれに毒されている。
だけど、だけどだけど、他の誰であろうと彼女だけは駄目だった。
それは師匠が、絶対にしてはいけないはずのことなのだ。
ありとあらゆる、いかなる冒涜を行っても、師匠が絶対にやってはならないはずのことだった。
「師匠、目を覚ましてください。
貴方がやってることは、間違ってます。だって、師匠は―――」
「弟子が、弟子であるはずのお前が僕に意見するのかい?」
底冷えするような低い声に、私の口は凍り付いた。
「弟子であるはずのお前が、この僕を否定するのかい?」
違う、そうじゃなかった。
「違います、師匠・・・こんなことをして何も思わないんですか?
あの娘と同じ姿をした彼女に、処分するだなんて。」
「お前は何を言ってるんだい? これは失敗作に過ぎないんだよ?
モルモットと同じだよ。君は実験動物に同情するのかい?」
「だとしたらッ!! 師匠、貴方はとっくに壊れている!!
私の知っている師匠は、自分の誇りを穢すようなことはしなかった!!!
何が有ったって、自分の仲間を辱めるような事なんてしなかった!!」
たとえそれが、私の幻想に過ぎなくても。
私が師匠の全てを知っていなくても。
それだけは分かっていた。
それだけは知っていた。
「もしそれが今の貴方だと言うのなら、貴方は狂ってる。
お願いです師匠、自分を取り戻してください!!」
そして、殴られた。
痛みは無かった。
致命傷だった。
余りの痛みに、私自身が痛みを感じる暇も無かった。
多分即死だったのだと思う。
だって手とか足とか千切れてたし。
師匠、貴方に殺されるのなら、もしかしたら本望なのかもしれません。
師匠、私は貴方を恨みません。
だからどうか、私の命で賄えると言うのなら、どうかかつての誇り高い貴方に戻ってください。
だって師匠は私の憧れなんですから。
ねぇ、師匠、本当は分かっていたんでしょう?
本当は、気づかない振りをしてたんでしょう?
私だって女の子ですから、分かるんですよ。
師匠はあの娘のことを・・・。
私も、師匠の記憶の片隅にでも居られたらいいなぁ。
時々で良いから、思いだしてくれると嬉しいな。
そしていつかまた魔王が現れて、師匠がまた人類を守ってくれるのなら、私はご先祖様たちに誇っていいのかな・・・?
あ、もうだめだ、いしきが・・・。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「僕の師匠は言ってくれた。僕の才能なら、どんなことだって出来るって。
僕はいつだって正しいことをしてきた。誰に問われても間違ったことを返したことが無いんだ。
どいつもこいつも馬鹿ばっかりで、僕のいう事を聞かないから失敗ばかりするんだ。それなのにいざ間違うとみんな僕の所為にする。
誰も彼もが自分の責任を持とうとしない。僕は僕が思う正しい道を歩んできた。
お前に何が分かるっていうんだ。お前に僕の二百年の何が分かるって言うんだよ!!
僕が間違ってるだって? 違うね、僕が間違ってるんだとしたら、それは世界の方が間違ってるんだよ!!」
僕は支離滅裂なことをとにかく捲し立てた。
否定したかった。
僕は狂ってなどいない。
現に僕の研究は完成を間近に控えている。
僕の研究が間違っているのなら、成果なんて実らないはずなのだ。
「リュミス、お前もやっぱり有象無象の蛆虫どもと同じなのか!!
僕に弟子入りしたいと言いながら、結局は凡俗と同じなのかよッ!!」
そして、僕は気付いた。
「あ・・・あ、ああ・・・。」
死んでいた。
いつの間にか殺していた。
まるで魔獣に激突されたみたいにバラバラに、周囲の機材を一緒に薙ぎ倒して壊れた人形のように。
僕は狂っていると言われた。
初めから分かっていた。
初めから知っていた。
僕は初めから、狂っていたのだ。
「うあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!
赦して赦して、赦してくれッファスネル!! 僕は僕は僕はそんな、そんなそんなつもりじゃ!!
違う違う違う違うそうじゃない、殺すつもりなんて無かった違う違う違う本当は本当は本当は本当はただただただ諦めさせようさせようとととと」
その時の僕は、ただただ錯乱していた。
分かっていたのだ。
僕はこうなることを期待していたのだから。
でも、僕はどこかで思っていたのだ。甘えていたのだ。
彼女が、リュミスが僕を受け入れてくれることを。
どこかで、望んでいたのだ。
アイツの面影を思わせる彼女を。
「・・・・・・あッ」
僕が錯乱してる最中、いつの間にかアイツの“失敗作”がリュミスの体に手を当てていた。
「お前にッ!!」
僕は思わずそれの胸倉をつかんだ。
「失敗作のお前に何が出来るんだよ!! どうして何もできないんだよ!!
僕は完璧に作り上げた、過去まで渡って完全に分析して、微細まで全く同じに再現したっていうのに!!」
失敗作は無抵抗に僕に揺さぶられ、僕の罵声を受け続けていた。
そして気づいた。
アイツが、僕を見ていた。
あの時、僕の仲間たちの仲になぜアイツが居なかったのか?
違う、ずっとずっと、ずっと、ずっと、アイツは僕を見ていたのだ。
虚ろな目で、生気の無い目で、しかしどこか憐れむような目で、悲しむような目で。
「何で、そんな目で僕を見るんだ・・・。
僕はそんなにも惨めか? 僕はそんなにも哀れなのか?」
きっとアイツには、そんなにも惨めで、そんなにも哀れに見えるのだろう。
「なぁ、頼むよ、僕を消してくれよ。
そんなに惨めなら、僕をこの世から・・・頼むよ、君ならできるだろ?」
失敗作は、アイツは、首を横に振った。
それが堪らなくイラついた。
「お前は、お前はいつもそうだッ!!
僕ですら及びも付かない才能を持ってたくせに、天才なんて言葉霞むほどの才能だったのに!!
なんで、どうして、僕より先に死んだんだ!!
僕は、お前になら、お前だけなら負けを認めても良いと思ってたのに!!
何で僕に言わずに勝手に死んだんだよ!!
ずるい、ずるいずるいずるい、妬ましい妬ましい妬ましい。
・・僕はただ・・・君が羨ましかっただけなのに・・。」
力無く、僕は手を放した、
「君の才能が、眩しかった・・。
僕のような日陰を歩む者とは違う、本物だったんだ。」
以来、僕は野望を持てなくなった。
あまりにも、違い過ぎたから。
あまりにも、圧倒的だったから。
それに比べれば、余りにも僕は矮小だったのだ。
アイツが、膝を付く僕の手を取った。
遥か昔を思い起こさせるぬくもりだった。
「・・・・なんで、君はいつも僕に優しくするんだよ。
僕は君に一度も優しくなんてした事なかったのに。」
ここに来て、ようやく僕は我に返った。
「・・・・・まだ、間に合うか。」
バラバラになったリュミスの体を見て、僕は呟いた。
とは言え、この体はもう使い物にならないだろう。
そこでふと、僕はフラスコの中を見やった。
そこには、瑠璃色に光る液体の中で誕生を待ちわびる素体があった。
「約束は守るよリュミス、君は僕の弟子なんだからね。」
そして僕は、行動を開始した。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
私の意識が浮上する。
「(えッ・・!?)」
私が目を覚ますと、瑠璃色に光る液体の中に全裸で入っていた。
不思議なことに息苦しくなかった。
ゆっくりと、排水口も無いのに液体の水位が下がって行く。
やがて私はフラスコの底へと横たわった。
私は抵抗できない。
まるで体を動かすことを忘れてしまったようだ。
そんな私を、師匠は赤子を取り上げるように拾い上げた。
「よく覚えておくんだ。君を、魔術を使用するのに適した体に魔術的に改造する。
君の肉体は生身の人間そのものだけれど、生来の物は殆どない。なるべく君の部品を使おうとは思うけど。」
そして私をどこかに横たえると、体の中に手を突っ込んだ。
「君に魔術の才能は無いのは重々承知しているよね?
そこで発想を転換するんだ。才能に依らない魔術ではなく、魔術を演奏する装置として機能すればいいのだと、ね。」
くちゃくちゃ、と私の体を弄りながら師匠は言う。
「君は生きた魔具になるんだ。魔術を記録し再現する魔具にね。
君の体はその集大成で出来ている。容易なはずだよ。見て覚えて、後は自由に編纂すればいい。混沌魔術の要領でね。
まあ、それはおいおい覚えておけばいい。そうそう・・」
そして師匠はまるで片手間に衝撃的なことを口にした。
「僕はもう、この世から去ることにしたんだ。」
耳を疑うセリフだった。
「と言っても、俗世に関わらないって意味だから。
僕はこれから自分のしたい研究を色々と考案して、それに専念することにしたんだ。
・・・・君は無責任だと言うのかい?」
私は何とか頑張って首を振ろうとした。
とりあえず、何とか意図は伝わったようだった。
「そうかい。
これからは、その時代に生きる人間が時代を切り開くべきなんだろう。
いつまでも僕が面倒みるのもダメだよね。」
私は嬉しかった。
師匠が、いつもの師匠に戻ってくれたのだ。
私は本当に嬉しかった。
「さしあたっては、君に弟子として指令を与えよう。
今日から百年、君は僕として過ごすんだ。誰にもばれないように。僕の代役として、僕のふりをして過ごすんだ。」
えッ。
「君にいざと言う時に僕の名を名乗り、時には名代として活動する権利を上げると言っているんだ。
光栄だろう? 君は今日から僕の影であり、もう一人の僕であり、僕の弟子でもあるんだ。」
「し、しょう・・?」
「おっと、麻酔が甘かったかな。」
すぐにバチンと音が鳴って、私の体が跳ねた。
もう完全に、私の体がいう事が効かなくなった。
意識の方も、また遠のいていく。
「とは言え、最初は不安だろう。
そんな訳で、助っ人を用意しておいた。グリモアも置いて行くから、上手く使えよ。
・・・・大丈夫、いざとなったら助けてやるさ。」
最後に、意地の悪い師匠の口元が見えた。
「悪かったね、お前が僕の弟子でよかったよ。」
ししょう・・・いま、なんて・・・。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
再び私の意識が浮上する。
今度は地下の研究室の寝台に寝かされていたのだ。
「あれ・・・師匠は・・・?」
「やあ、起きたかい?」
「師匠?」
声のした方に振り返るが、そこには誰も居なかった。
「あれ・・?」
「下だよ、下。」
私は視線を下げると、そこには真っ黒な猫が居た。
黒猫だった。
「く、黒猫が喋った!?」
「そりゃあ喋るさ、僕ほど高性能な使い魔は他に居ないよ。」
するりとその黒猫は寝台の上に飛び乗ると、私の下へと歩み寄ってきた。
「僕はロスト。あのウェルベルハルクの奴から君の使い魔をやれと仰せつかってね。まあ仕方なくだけどやってやることになったんだ。」
「何だか、口が悪いですね。」
ロストと名乗った黒猫は、面倒くさそうに頭を掻いた。
「当然だろ。あいつの精神をベースに知性を受けたんだから。
それに、元々はあいつの使い魔じゃないし。」
「え、師匠の使い魔じゃないんですか?」
「違うよ、僕はアンジェの魔力制御のサポートの為に、あいつから生み出されたんだ。
アンジェの奴は、それはもう魔力制御が下手っくそでねぇ。ウェルベルハルクも手を焼いたものだよ。」
くつくつ、と猫らしくない笑い声を漏らすロスト。
何と言うか、本当に師匠そっくりだった。
アンジェ、と言うのがあのフラスコの中に入っていた少女のモデルの名前だ。
師匠が、あそこまで執着した女性の名前だ。
「とりあえず、服着よう・・・。」
しかし、私の服は見当たらない。
しょうがないので、適当な物を探すと、師匠が実験体に使っていただろう衣服を借りる事にした。
そう言えば、探してもあの娘が居なかった。
師匠が連れて行ったのだろうか、それとも・・・。
「考えても詮無い事か・・・。」
私は地下研究室から階段を使って上へと昇る。
黒猫のロストもそれに続いた。
「君も物好きだよね、あんな性悪に弟子入りするなんて。正気の沙汰じゃない。」
「それ、全部自分に返ってきません?」
「ヒトと猫は違うさ。」
彼は私の言葉に黒猫らしく飄々と言葉を躱したのだった。
「グリモアちゃん。」
書斎のドアを開けると、いつもの場所に彼女はちょこんと座っていた。
「マスター・・・命令・・。リュミスを・・助ける・・。」
「ありがとう、グリモアちゃん・・。」
拙い彼女の言葉に、私は勇気づけられた気がした。
「師匠・・・私、何とか頑張ってみます。」
それが、私の永く果てしない戦いの始まりであったのです。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
そこはどこでもないどこか。
そこは四次元的で空間的で狭間的な場所にある、とにかく人の言葉では説明できない場所だった。
しかし、あえて何だと言うのならば『家』だった。
ここにログハウスの家をこしらえた彼は、たった一部屋しかない家に入ると、毛布も何もない簡素なベッドへと横になった。
「しばらく僕は眠りにつく。
精神世界で研究とかしてるから、リュミスが死にそうになったら起こせ。」
そう言って彼は目を閉じた。
一息の間に、彼はもうその何十倍もの時間を過ごしている。
留守を任された“彼女”は無言で眠る彼を見下ろした。
猿轡はされていなかったが、失敗作たる“彼女”が何かを言い出す気配も無かった。
時は流れていく。
世界から逸脱したこの場所であっても。
“彼女”は自身の生命活動が終了する数十年先まで、ずっと眠る彼を見続けていたのだった。
こんにちは、ベイカーベイカーです。
最近投稿感覚が長くてすみません。ただでさえ二周年から結構時間が過ぎてるのに・・。
私の世界観の根幹となる話なので、気合入れて書いた結果やっぱり長くなってしまいました。
この辺りをここまで詳しく書いたのは初めてだったりもしますし。
『黒の君』ことウェルベルハルクという人物は、超常的な人物ですが同時にひどく人間臭く子供っぽいです。
しかしながら、結局のところ彼の主観は彼の主観でしかなく、弟子のリュミスの視点からじゃないとわからないこともあります。
彼女は彼女で色々とわかってたんだよ、という話でもあります。
それを織り交ぜて書いたので、結構大変でした。
これでようやく次回、本編を進められます。
それではまた、次回をば。こうご期待。




