お静かに。
ドアの前に立ち止まり、早川麻美は呼吸を落ち着けた。
手に持った社員証をカードリーダーにかざすと、ピピっという電子音と同時にガチャリと鍵が開いた。
ザワザワ……ザワザワ……
連休明けのオフィスは、雑多な音に包まれている。
麻美は、いつも通り右側に向おうとし、足を止めた。
小さくため息を吐き、オフィスの中央に向かう。
「おはようございます」
隣の席の杉崎綾香に声を掛ける。
「おはよう。迷わなかった? 私、うっかり前の席に行こうとしちゃった」
「私もです。慣れるまで時間がかかりそうですね」
「なんで、こんな時期に席替えするのかしらね」
綾香は振り返ると、フロア全体をサッと見渡した。
そこには、“島”と呼ばれる十人掛けの連結デスクが、規則正しく並んでいる。
以前は部署ごとにパーテーションで区切っていたが、社長の鶴の一声で撤去された。
「オフィスの美観向上」と「部署間のコミュニケーション強化」とやらが目的らしい。
麻美たちの新しい席は、フロアの中央だった。
窓際にあった今までの席とは、別のオフィスかと思うほど違う環境になっていた。
「いつもお世話になっております。少々お待ちください」
早くも電話応対に追われる庶務課スタッフの声に交じって、雑談が聞こえてくる。
「昨日、ジム行った?」
「ベンチプレスで自己ベスト更新したよ!」
「すげぇな。肩、おっきくなってるじゃん」
麻美は再びため息を吐いた。
営業部の一部が、麻美たちと同じ“島”を共有することになっていた。
静かに業務を進めたい麻美にとって、元気で声の大きい営業部の近くはあまり嬉しくなかった。
「早川さん、これ、よろしく!」
突然、麻美の目の前に、分厚く膨らんだクリアファイルが突き出された。領収書がはみ出している。
「ちょっと吉田さん! 精算は自分でやらないとダメでしょ?」
「先月はやってくれたじゃん。今月も頼むよ!」
綾香が目を剝いたが、吉田はにやにや笑いを残して去っていった。
「早川さんが甘やかすから……」
「すみません」
麻美は目を伏せ、クリアファイルの中身を出した。領収書は向きもバラバラ、一部は折れ曲がっている。もちろん日付順になど並んでいるわけがない。
麻美はシワを伸ばしながら、領収書の並べ替えを始めた。
コンコン……
島の反対側から、小さな振動が伝わってきた。
麻美はモニターの隙間から、そっと向かい側を覗いた。
茹で卵を机にぶつけて割っていた。
ペリペリ……
小気味よい音を立てて殻が剝かれていく。
食べているのは、先ほどジムの話をしていた男性社員だ。
その隣席の社員が、鞄からスナック菓子を取り出した。
「どうしてもポテチが食べたくなってさ、代わりにこれ買ってきたんだ」
「お、大豆プロテインチップスか」
ガサガサ……ボリボリ……
思わず麻美の手が止まる。ちらと隣に視線を向けると、綾香と目が合った。
『朝からすごいわね、営業さんは』
『そうですね』
『そのうち慣れるわよ。我慢我慢』
小声で慰め合う。
麻美は気を取り直すと、領収書の束を手に取った。
――ズビビビビビィッ
後ろの島から、豪快に鼻をかむ音がした。鼻炎なのか花粉症なのか、立て続けに二度、三度。
コンコン……
「お前、ゆで卵いくつ食うんだよ」
「午前二つ、午後二つ」
「ははは……食い過ぎじゃねぇの?」
――ズズズズッ
隣の島からは、お茶をすする大きな音が聞こえてくる。
「こちらの音声は届いておりますか?」
「恐れ入ります、マイクがミュートになっているようでございます」
インサイドセールスのメンバーが、オンライン会議の声を張り上げる。
ガサガサ……ポキン!
……ボリボリ……くちゃくちゃ……
前の席から響いてくるのは、プロテインバーを咀嚼する音。
麻美は何を並べているのかわからなくなってきた。領収書の日付が見つけられない。
(集中しなきゃ……)
――ゴン!
給湯室でコーヒーを入れてきた美月がマグカップを置く。
(コースターくらい使えばいいのに……)
バリィィィィッ
隣の席の同僚が、のど飴の袋を開けた。
「早川さんも、よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
同僚はのど飴をポイっと口に放り込んだ。
ガリガリガリ――ッ
麻美はギョッとして同僚の顔を見た。
「あ、聞こえた? ごめんなさいね。私、飴ってつい噛んじゃうのよね」
「い、いえ……」
麻美は愛想笑いをすると、貰った飴を机に置き、領収書に手を伸ばした。
――ズビーッ!
鼻をかむ音に、思わずビクッとする。
ガタガタッ!
「この引き出し調子悪ぃな」
「蹴っ飛ばせば直るよ」
ガン!
「ちょっと! 会社の備品を壊さないでよ!」
「すいませーん」
前の席の男性社員は、引き出しからプロテインの袋を取り出した。
計量スプーンで粉をシェーカーに入れる。
ドボドボドボ……
ペットボトルの水を入れると、上下に勢いよく振り始めた。
シャカシャカシャカ……
(会社でシェイク作らないで……)
カタカタカタ……パシッ!
綾香が軽やかにキーボードを叩く。エンターを押すときだけ力がこもる。
――ズズーッ
誰かがお茶をすする。
ウィーン……ガガガガ……キュルキュル……
「ちょっとー! コピー機詰まったわよ」
ガー……ゴゴゴゴゴゴゴ……
「誰よ! シュレッダーのゴミ捨ててない人!」
フォーン、ボコッボコッ
「空調効きすぎじゃない? 寒いんだけど」
カチカチ……
ガラガラガラ……
パチンパチン……
ズビズビィー……
キュインキュイン……
バリィィィィッ……
ボーリボーリ……
へぇっくしょん!
シャカシャカシャカシャカ……
(……私が神経質すぎるの?)
領収書の山は一向に整列してくれない。
麻美の指先が震える。
それはもはやただの雑音ではない。
不協和音の洪水が、圧倒的サラウンド感で麻美に迫ってくる。
バリバリバリ
ガタン!
ザワザワ……
ズビズビーッ
ガガガガ……
ポリポリポリ
ガサガサガサガサ
―――――バンッ!
麻美は渾身の力を込めて机を叩き、立ち上がった。
「お静かにッ!!」
一瞬、静けさが広がった。
全ての人の口と手の動きが止まった。
空調機の音さえしない。
だが、麻美の耳の奥では、キーンというかん高い金属音が響いていた。
「早川さん、急にどうしたの? うるさいわよ」
綾香が麻美の袖を引っ張った。
麻美はハッと我に返った。
オフィスは何事もなかったかのように、再び動き始めた。
カチカチ……
ガラガラガラ……
パチンパチン……
ズビズビィー……
キュインキュイン……
バリィィィィッ……
ボーリボーリ……
シャカシャカシャカシャカ……
ウィーン……ガガガガ……キュルキュル……




