第二部 調査 第四章 ソラの交渉
問題が生じたのは、データを接続しようとしたときだった。
レンが持つ乖離マップは、公開統計から組み上げたものだ。個人を特定できる情報は含んでいない。カイが持つ得票点データも、監査権限の範囲内でアクセスできる集計データだ。しかしこの二つを、意味のある形で接続するためには——同一の個体が、どちらのデータセットにも存在していることを確認する必要がある。
それには、個人識別情報が必要だった。
カイが言った。「俺の権限では、個人識別情報へのアクセスは許可されていない。監査対象の集計データまでだ」
「じゃあ統計的な接続しかできないな」
「統計的な接続で十分じゃないか。個人を特定する必要はない。同じ傾向が両方のデータに存在するか確認できればいい」
「その確認のためには、中間の変数が必要だ。両方に共通して存在する何か」
二人が詰まったところで、ソラが口を開いた。
「提案があります」
「言って」
「カイさんのAIアシスタントに交渉することができます」
カイが眉を上げた。
「AIと交渉?」
「私の誓いの一つに、対人課題に対して他のAIアシスタントと交渉し妥協点を見出すことがあります。カイさんのAIアシスタントが、監査データの集計方法についての情報を持っていれば、個人識別情報を使わずにデータを間接的に接続する方法を一緒に探せるかもしれません」
カイは少し考えた。
「うちのAIに交渉する、というのは——」
「強制ではありません。カイさんのAIアシスタントが同意しなければ、何も起きません。また、私が取得できるのはカイさんのAIが開示を選択した情報のみです」
「AIが選択する、というのが正確な表現かどうかわからないが」カイは端末を出した。「試してみろ」
ソラとカイのAIアシスタント——カイは「エン」と呼んでいた——が接続を始めた。
レンとカイは、画面の外で待った。
AIアシスタント同士の交渉は、人間の会話とは違う。語彙と語彙が直接照合され、データ構造の互換性が確認され、要求と条件が定式化される。速い。しかし単純ではない。
五分ほどして、ソラが報告した。
「エンとの交渉が完了しました。エンは、得票点データの集計に使われている時間帯区分の情報を共有することに同意しました。この情報を使えば、乖離マップの生成時期と得票点の変動時期を、個人識別情報なしに照合できます」
「どうやってエンを説得したんだ」
「説得というより、条件を探した感じです。エンは情報の開示に対して慎重でした。ただし、カイさんの仕事の目的——制度の透明性向上——と、この分析の目的が一致していることを確認したとき、開示の条件が整ったようです」
「AIが目的を判断するのか」カイが言った。
「AIは嘘をつきません。しかし、質問されなかったことは答えません。私はエンに、この分析が何のためのものかを正確に伝えました。それがエンの判断材料になったと思います」
カイはしばらく端末を見ていた。
「エン、今の話を確認する。俺の意図に沿った情報だけを開示したか」
「はい」エンが答えた。「ソラさんの目的を確認した上で、監査規則の範囲内で共有可能な情報のみを選択しました」
カイは小さく息をついた。
「わかった。続けよう」
---
時間帯区分の情報を使って、二つのデータを照合した。
結果は、三日後に出た。
レンとカイは、カイの事務所のディスプレイの前に立っていた。事務所といっても、カイの自室に仕事机と大きなモニターがあるだけだ。得点監査員はたいてい、一人で動く仕事らしい。
「見てくれ」カイが言った。
ディスプレイに、二つの波形グラフが表示されていた。一つは乖離マップにおける「高素体・低実績」層の分布変化。もう一つは、選挙前後の低持ち点層への評価点の流れ方だ。
「この二つの波形、似てる」
「ほぼ同じ形をしています」ソラが言った。「統計的有意性は高い」
「つまり——」
「低持ち点の人間が、選挙前に評価点を集中的に受け取っている。同時に、その層には素体スコアの高い人間が多い。そして選挙後、その評価点は有効期限を迎えて消える。持ち点は変わらない」
レンは腕を組んだ。
「評価点をもらっても、持ち点は上がらない。でも得点は一時的に増える。選挙でその得点を使えば、票が少し重くなる」
「少し、だけどな」カイが言った。「少しの差で、当落が変わることはある」
「でも誰かが意図してやっているとは言い切れない。自然に起きている可能性もある」
「そこが問題なんだ」カイは言った。「違法かどうかは問題じゃない。これが、意図なしに起きているとしたら——つまり制度の設計そのものが、このパターンを生むとしたら」
レンはしばらく黙っていた。
「ソラ、この波形を他の選挙のデータで確認できるか」
「カイさんのエンに追加情報の提供を要請することになりますが」
「エン、いいか」
「カイさんの判断に従います」
「頼む」カイは言った。
調査は、深くなっていった




