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第一部 独立 第一章 最低保障の朝食

 トーストが焼き上がる音が、六畳の部屋に響いた。


 レンは端末の画面から目を離さずに、右手だけを伸ばしてトレーを引き寄せる。パンの端が少し焦げている。火加減の設定を変えるたびに、必ずどこかが焦げる。もう三年、同じトースターを使っているのに、いまだに慣れない。


「昨日の仕事の評価が届いています」


 ソラの声は、耳の奥に静かに落ちてくる感じがする。スピーカーから出ているはずなのに、どこかもっと内側から来るような。


「読んで」


「評価者:1名。評価点:持ち点上限の八十二パーセント。コメント——『期待以上でした。また依頼します』」


 レンはトーストに齧りついた。パサついている。


「一人だけか」


「はい。ただし、その方の持ち点は都市国家内で上位十二パーセントに位置します。八十二パーセントの評価点は、実数として相当高い」


「わかってる」


 わかっていた。それでも、一人は一人だ。


 持ち点というのは、年に一度の標準認定試験の結果で決まる。試験内容は義務教育レベル——つまり、受ければ誰でもある程度は取れる。三歳から受験できるし、受けなくてもいい。ただし受けなければ、その年の全受験者の最低点の半分が持ち点として記録される。


 それが制度の入口だ。


 他者からの評価点は有効期限が一年。持ち点が高い人間ほど、他者に与えられる評価点の上限も高い。だから高持ち点の人間に高く評価されることには意味がある——数字として、確かに意味がある。


 しかし選挙のことを考えると、少し違う景色が見えてくる。


 投票は持ち点の範囲内でしかできない。どの候補に何点配るかは自由だが、持ち点が低ければ、どう工夫しても票は軽い。被選挙人は、得点と得票点の合算の上位者から選ばれる。


 つまり——点数の多い人間が、政治を動かす人間も選ぶ。


 レンはそれを「おかしい」とは思わないようにしていた。少なくとも、感情でそう思わないように。


 感情は、数字より先に動く。数字より先に動いた感情は、だいたい見落としを作る。


「今日の依頼確認、しますか」


「うん」


 ソラが一覧を読み上げ始める。データ整形が二件、統計レポートの補助が一件、あとは小口の情報照合が三件。どれも持ち点が中程度の個人や中小企業からの依頼だ。大口の仕事は来ない。来たとしても、レンの評価点の「薄さ」が弾く。


 評価者が少ない、ということは、そういうことだ。


 少数の人間から高く評価されているより、多数の人間から平均的に評価されているほうが、社会的信用としては安定している。それも制度の論理だ。反論する気はない。ただ、自分の仕事の価値が「誰に評価されたか」で変わる、という感覚には、三年経ってもまだ慣れない。


 窓の外で、子どもの声がした。


 レンは立ち上がり、カーテンの端をわずかに開ける。


 通りの向こうに、黒いバンが停まっていた。企業のロゴが入っている——製造業の中堅どころ、確か丁稚奉公の受け入れ先として都市国家に登録されている会社だ。


 小さな子どもが、女性の手を握っていた。七歳くらいだろう。赤いランドセルのような鞄を背負っている。女性——生みの親だろうか——は、しゃがんでその子の頭を両手で包んでいた。何かを言っている。声は聞こえない。


 子どもは頷いた。一度、また一度。


 女性が立ち上がり、子どもの背中を軽く押す。子どもはバンに向かって歩き始め、途中で一度だけ振り返った。女性は笑っていた。笑いながら手を振っていた。


 レンはカーテンを閉じた。


 自分のその日のことを、あまり覚えていない。ユキが泣いていたか、笑っていたか。自分が何を言ったか。バンの中がどんな匂いだったか。


 覚えているのは、シートベルトが硬かったことと、窓の外の景色がやけにゆっくり流れていたこと、それだけだ。


「レン」


 ソラが呼んだ。


「依頼の優先順位、どうしますか」


「……統計レポートから」


 椅子に戻り、端末を引き寄せる。トーストの残りが、皿の上で冷めていた。


---


 午後になって、レンはいつもの作業に入った。


 依頼仕事とは別の、誰にも頼まれていない作業だ。


 素体スコアのデータがある。生まれたときのメディカルデータから算出される、その個体の「発達可能性」を示す数値。脳の各分野の伸び代、筋肉の質、体成分——計測できるものをすべて計測し、AIが統計処理した結果が「素体スコア」として記録される。


 そして実績スコアがある。標準認定試験の結果、評価点の蓄積、社会的な活動の記録——これが「現在の自分」を示す数字だ。


 この二つの間に、ある傾向が存在する。


 素体スコアが高いのに、実績スコアが伸びていない人間が、一定数いる。


 逆に、素体スコアが平均的なのに、実績スコアが高い人間もいる。


 それ自体は不思議ではない。努力の差、環境の差、運の差——様々な要因がある。問題は、その「差」の分布が、ある変数と強く相関しているように見えることだ。


 その変数は、生みの親の持ち点だ。


「ソラ」


「はい」


「前回追加したデータセット、もう少し広げたい。公開統計から取れる範囲で」


「現在の収集範囲は都市国家登録者の約十二パーセントです。広げる場合、どの属性を優先しますか」


「七歳時の企業買取価格が低い層。それと、生みの親の持ち点が下から三十パーセント以内の層」


 少しの間があった。ソラが処理している間の、静かな時間だ。


「取得できる範囲で収集します。ただし」


「わかってる」


「これが何を示そうとしているか、まだ私には正確に理解できていません」


 それはソラにしては珍しい言い方だった。「理解できていない」ではなく「正確に理解できていない」。


「俺もまだわかってない」レンは言った。「数字が何かを隠している気がするだけだ」


「隠す、というのは意図を前提とした言葉です」


「そうだな」レンは少し考えた。「じゃあ、数字が何かを映していない、かな」


 ソラはまた少し黙った。


「……その表現のほうが、今の状態に近いと思います」


 窓の外が、夕方の色になり始めていた。


 標準認定試験まで、あと三ヶ月。今年も受ける。特別な準備はしない。去年と同じくらいの点数が出るだろう。持ち点は、中の上で変わらない。


 それでいい、と思っていた。


 持ち点を上げることに、レンはあまり興味がなかった。上げても上げなくても、自分が見ようとしているものは変わらない。数字の外側にあるものを、数字の言葉で書き直すことのほうが、ずっと大事だ。


 トーストの残りが、まだ皿の上にあった。


 レンはそれを口に入れた。すっかり冷めていて、硬くなっていた。


 それでも、食べた。


 最低保障の朝食は、悪くない。

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