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冬のはじまり

作者: Berthe

 私は彼の部屋をでて合鍵で鍵をしめ、まだ暮れないのに灯っている、乳白色のまるいアパートの外灯をぼんやり見上げたのち、すっと視線を前にもどして、光にあわく照らされながら凍てつく廊下をゆっくり歩く。


 彼はもう二時間も前に用事ででかけてしまったのに、ついつい長居したのはどうしてだろう。帰ってもやることがないから? いいや、そんなことはない。スーパーと薬局に寄らなきゃいけないし、家に着いたら無料配信サービスのテレビドラマを見て有意義に時間を潰したのち、ちょっと運動ついでに掃除機をかけてテーブルを拭き、それからカップにお湯を注いだのちティーバッグを落として待つこと一分ちょっと。


 ほんのり湯気の立ったカップからティーバッグを抜きだしてそっと水を切るのだけれど、何度も振るとぷちんと糸が切れることがあるので要注意。それがポチャンと紅茶を飛び散らして、こっちを不意にどきっとさせる。そんな思いはしたくないなら、水切りをやめればいいのだが、やっぱり欠かさずやってしまう。


(なが)()さんも紅茶、飲む?」私の部屋に彼をつれてきたとき、きっとそう訊いた。


「いや」と答えた彼はそのままこちらをぼんやりと見つめたまま、「どうしよう、飲もうかな。どっちがいいと思う?」


「え、私に聞かれてもわかんないよ」


「そっか。じゃあ、(ゆず)()のをひと口だけちょうだい」そう言って彼はおだやかに微笑む。


「そう? いいよ」


 あの日をほわほわと思いだすうちにアパートの廊下を歩き切り、ちょっと左右をみてから歩道に降り立つと、右に曲がって静かに歩を進める。まだ手袋もマフラーも必要ないと高をくくっていたけれど、もう手がつめたい。


 紅葉も散ってひらひら舞っているし、時にはくるくると舞い上がって、こちらを驚かせる。靴底でアスファルトを蹴るとこつんと鳴って、何度も繰り返したくなる。落葉の色はまだらで、はっきりとした統一感はないけれど、並木道の枝にぱっと赤く黄色く華やいでいたころよりも、茶色い落葉のほうが自分と近しい心持ち。


 すずしくなってきたのに見上げるとまぶしい紅葉の季節よりも、色があせてはらりと散るままに地面にやすみながら、アスファルトにそっとなじんでいく。その時季の安らかさ。それを踏みしめるとカサコソ鳴って、奥ゆかしい。そういえばお湯をみたしたカップに紅茶のティーバッグをいれると、半透明の茶色いエキスがふんわりとひろがって一つに溶けあい、じんわりと心を落ち着かせる。


「おいしい」


 私はあたたかな紅茶に口をつけるとともに、ひとりの時にはいちいち声にださない感想を、あえてつぶやいてみる。それから彼の方をむいて、


「飲む?」


「ああ、ひと口もらうんだったね」


 彼は思案顔のまま唇をそっとたたいていた指さきをとめて、こちらに視線をうつしながら言った。


「うん。でもいいよ。無理はしなくても」


「だけどさ、約束したし」


「約束?」私はふと首をかしげたのち、ぴんとその意味を理解する。「そっか、確かに。けれど約束、守るほうなんですね」


「小さいのはね」


 彼がつぶやくととともに一瞬の間ができて、私は紅茶をすすったけれど、ちっとも味に集中できない。


「じゃあ、大きなものは?」


「うーん、そうだなあ、あまり結ばないようにしてるかな」


「ふうん。そうなんだ」


 べつに大きな約束を期待しているわけじゃない。せまくてあまやかな世界に浸るのを、自分がのぞんでいるのかも定かではないし。重さよりも軽さが、いまの私の気分、とつぶやいてみたい心持ち。ちょっと、かっこつけすぎかな。似合わないだろうか。足もとの枯葉がやさしく鳴って、つま先に蹴られてそっと舞い上がる。


 通りすぎるラーメン屋がすでに暖簾をだしていて、内外の温度差ですこし曇った窓ガラスごしに男女二人連れがカウンターに並んでいるのがみえた。麺をすすり、餃子を口にはこび、ほっと顔を上げて背中をややまるめながら、男の人が半透明のコップにはいった水をぐいっとのんだ。


 頬をなでるそよ風に、ひらひらと暖簾がゆれる。水差しをにぎった男の人が、自分のコップになみなみと注いだのち、女の人のコップに注いであげると、彼女はかすかにぺこりとして箸をおき、伸ばした背筋の肩でふかく息をした。


 彼とここに来たいな。街にでかけるより、こんなところで夕食をしたためつつしっぽり過ごして、それから彼の部屋にもどって、ソファの前に隣り合いながらうとうとするうちガクンとくると、あたたかな彼の肩に頭をのせて目をつぶる。


 私はドラマのほうがいいけれど、彼は南米の地形をあつかった真面目なドキュメンタリーを見るともなく見ているので、その邪魔はせずに目をとじるうちそっと肩から頭をはなしてぼんやり起きなおると、テレビの画面ごしに雪でまっしろに染まった山肌とうすい水色の空がうつり、まもなく黄色く輝く陽のひかりが雪をなめらかに照らしだす。


 きっとそちらは朝なのだろうけど、食後の私はやっぱりねむたいのでソファへばたりと倒れるなり、その前にもたれながらこっちに背をむけて座る彼の首すじに顔をちかづけて、すうすうと眠りに落ちる。


 片側を下にして寝ていた私はふっと目がさめると、そこにいるはずの彼がいなくてうろたえる。でも首もとまでをおおっていたタオルケットを自分で用意したわけはないから、きっと彼が静かに立ちあがって私の寝顔をのぞき、やさしく微笑んだのちそっと忍び足でゆっくりとその場をはなれてタオルケットを仕入れると、もういちどソファに戻ってきて音を立てないようそれをひろげて、そうっと丁寧にかけてくれたに違いない。


 こんなことってあっただろうか。それともただの妄想かな。どっちでもいいけれど、彼ならそうしてくれると信じられる。それならこれも彼なのだ。そういうことにしておこう。


 横になったまま電気の点いたリビングから窓をみると、レースカーテンに仕切られて私たちの部屋はなかば人目にかくされている。私はソファに起きなおってゆっくりと辺りを見まわしたのち、しんとした室内で立ちあがってタオルケットをさらりとまといながら歩きだすうち、かすかな音とあたたかな気配にさそわれるまま彼の仕事部屋に着き、そっと呼吸をととのえてから、扉を小さくノックする。


「はい」


「柚葉です」


「だよね。柚葉しかいないもの」


「うん。でもそれって」


「なに?」彼がおだやかに問いかえす。


「それって、今日だけかな?」


「ううん。いつだってそう。俺の家には柚葉しか来ないから」


「うん」


「中にはいる?それともそっちに行こうか?」優しい声が扉ごしに聞こえた。


「ううん、もうちょっとしたらでいいよ。私はソファでもうすこし眠るから」


「わかった。後でね」


 彼に嘘をついた。ソファにはもどらず、その場でタオルケットにくるまりながら、彼の仕事部屋に静かにもたれる。すうすうと眠りに落ちたいけど、彼の言葉にあたたまってすっかり目のさめた私は、乳白色のまるい廊下のあかりを見上げながら、そっと膝をかかえた。

読んでいただきありがとうございました。

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