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 一六〇一号室のドアを開けた竹田の後を厚樹もついていった。もちろん、口には大きなゴミ袋をあてて。

 部屋の造りは厚樹の部屋と同じだった。玄関を入ると右手に靴箱。その先には全身を写す事のできる大きな鏡が壁に取り付けられている。左側にはトイレと洗面所、そしてドアを開けたままのバスルームが見える。

 ガスの発生元はこのバスルームか?厚樹も竹田も同じ考えのようで、遠巻きにバスルームをのぞいている。バスルームの中には、シャンプーやボディーソープの容器が見えるだけで、バケツのような不自然な容器は見あたらない。

 厚樹は竹田に口元を近づけて訊ねた。

「ガスはバスルームからではないみたいですね」

「ああ、この先の扉を開けるとキッチンと寝室だ。中居一人だけとは限らない。慎重に行こう」

 二人とも大きなゴミ袋を持っての会話で、聞き取りづらいが何を言いたいのかは理解できた。《たしかに、この先にストーカーがいるのかもしれない。中居美香はあられもない姿で縛られているのかもしれない?》厚樹は恐怖を和らげるため、不謹慎な想像をしてみた。そんな想像でもしてみないと、この先に待ち受けている出来事に太刀打ちできないと思い、自分で自分を勇気づけた。

「じゃ、開けるぞ」

 竹田は口元に大きなビニール袋を付けたまま、キッチンと玄関を仕切っていたドアを開いた。後ろから吹き付ける風が追い風のようにドアを強く押した。

「来ないで」

 竹田と厚樹の視界には、バルコニーに立つ中居美香の姿が映った。部屋の中に他に人影は見られない。

 竹田が口元からゴミ袋の酸素ボンベをはずした。厚樹も同じようにゴミ袋をはずした。

「もう、大丈夫だ」

 竹田は落ち着いた口調で中居へ話しかけた。厚樹には中居が誰かに脅されているというよりは、自らの命を絶つことを目的として、バルコニーに立っているように見える。竹田の言い回しが空気を読めていない年寄りの発言のように聞こえた。ここは「早まるな!」と、言うべきだろう。

「もう大丈夫だ。ガスは下の階まで抜けている。この部屋にもガスは残ってはいない」

 竹田は一歩、足を進めた。中居までの距離は十四歩に縮められた。厚樹も同じように一歩前へ進んだ。中居はバルコニーと空の境界線であるコンクリートの屏へ背中をつけて、体を震わせている。

「あまり、壁に近づきすぎると下にいるテレビカメラに顔が映るぞ」

 竹田の言葉に中居は背後に注意を向けた。地上には消防車や、救急車ととともにテレビ局や、新聞社のカメラも到着している。

「幸い下の階にも被害は出てはいない」

 竹田はまた一歩前へ進んだ。「カタッ」なにかが竹田の足に触れた。竹田は気にする様子もなく中居へ微笑みかけている。厚樹は竹田の足に触れた物へ視線を落とした。プラスチックのような材質で、円柱形の土台にもう二回り小さな円柱系の突起物がついている。大きさは大きい方の円柱で十センチに満たないくらいだ。

 厚樹は円柱系の突起物を手で拾い上げてみた。《なんだこれは?》厚樹は突起物に書かれた文字を読み上げた。

「防火センサー?」

 厚樹の声をさえぎるように竹田が中居へ語りかけた。

「さあ、もうすぐテレビ局のヘリコプターもくるだろう。早く中へ入った方がいい」

 竹田の足はまた一歩、中居へ近づいていく。中居の表情は化粧っけがないせいか、ひどく老けて見える。老けた顔が鬼気迫る心境でさらに醜く見える。

「人生長いぞ。いいときもあれば悪いときもある。悪いときは最悪だ!と悲観してしまうが、あとで、振り返ると、なんだたいしたことないじゃないかと思える事ばかりだ」

 竹田が人生論を語り出した。なぜか、説得力があると厚樹は感じた。中居も同じように感じたのか、表情が少しだけやわらいだ。

「ここは十六階だよね」

 竹田は穏やかな口調で話しを続けた。

「わたしはこのマンションの三十階に住んでいる。十六階からのながめもいいが、三十階は比べものにならないくらいいいぞ。格別だ」

 中居の後方から自動車の走行音が聞こえる。タイヤが路面をこする音と、エンジン音。そして、車体が空気を切る音。竹田の耳にも入ってきた。

「十六階あたりだと、周囲の音もうるさいな。三十階は静かだぞ。ごちゃごちゃ言う奴は遙か遠くの下界だ。こんな中途半端な階で終わりにしていいのか」

 厚樹は竹田がなにを言いたいのか理解できなかった。十六階で死ぬのではなくて、最上階の三十階。つまり、人生を全うしてから死ねと言っているのだろう。

「ここにいるこいつ。君のファンだそうだ」

 竹田は背中に隠れるようにしている厚樹へ顔を向けた。中居の視線も厚樹に向けられた。《ファッ、ファンって、いうほどファンではないのだけれど………》と、口に出せるはずもなく厚樹は愛想笑いを中居へ投げかけた。中居の表情に少しだけ冷静さが戻されたように感じる。竹田は一歩前へ進んだ。

「君を必要としているファンは他にもたくさんいる。君の笑顔を見ただけで一日が幸せな気持ちになる人もたくさんいる」

 穏やかに話す竹田の言葉に、中居の目が少しだけ潤んだ。竹田は話を続けた。

「自分は若い頃路面電車の運転手をしていた。ちょうどこのマンション下の国道を走っていた。いつも同じ時間に同じ場所を走っていたけれど、いつも変化に満ち溢れていた。四季折々の景色。乗車してくるお客さんも、日々さまざまな表情を見せてくれた。小さな子供は、半年で五センチも身長が伸びる子供もいた」

 切々と自分の過去を語る竹田の後ろで厚樹は五感を澄ませた。いったい何が言いたいのか厚樹には理解できなかったからだ。竹田はまた一歩前へ進んだ。

「ある日乗客から人気があったわたしを嫉んで、先輩が嫌がらせをしてきた。宿直室で朝起きるためにセットしておいた目覚まし時計をわたしが寝ている間に止められたのだ。当然わたしは寝過ごして、電車は遅れた。そんなことが何度か続いた。わたしは、配置換えで事務作業にまわされた」

 中居は下を向いて涙ぐんでいる。竹田の話のどこが涙ぐむ話なのか厚樹には理解できなかった。竹田はまた一歩前へ進んだ。厚樹も必然的に前に進む。

「ある日、事務所のドアを叩く子供の姿があった。子供は図工の時間に自分が作ったと目覚まし時計を持ってきてくれた。『これで、おねぼうさんを直してね』という手紙つきでだ。わたしは目頭を押さえた」

 竹田は自分でも思い出しているのだろうか。目頭を押さえている。それでも、一歩前へ進みもした。

「そして、三ヵ月後。わたしは見事に運転士へ復帰した。自分を必要としてくれている人のために。その人の笑顔が見たかったから。それが、仕事だから」

 竹田が発する気が政治家か役者か、それとも会社経営者かのような気がする。二日前に会社を辞めたばかりの厚樹の目には竹田が神々しく見えた。

「君もまた、番組に復帰できるときがくるよ」

 竹田は一歩前へ進んだ。中居までの距離はあと七歩。

 中居の出す気から、攻撃性は完全に消えた。

「空の色はなぜ青いか、知っているか?」

 竹田はバルコニーの外に広がる青い空へ目線を送った。

「青って色は、人の気持ちをおちつける色なんだよ」

 中居は微かに後方に広がる青い空を気にした。

「七色に降り注がれる光の中から、一番真っ直ぐに地上へ送り届けられるのが青い色なんだよ。真っ直ぐな気持ちは人の心をおちつかせる色なんだよ」

 竹田の言葉に厚樹は納得した。昔のテレビドラマで辛いときに空を見上げるシーンを何度か見たことがある。演出意図は竹田が話すように、青い色が人の気持ちを落ち着かせる色だからだったのか。《でも、いまそんな話は関係があるのだろうか?》厚樹は背後から竹田に不審な目を向けた。

「月は新月、半月、満月と日々形を変えていく。そしてその変化をくり返していく。人も日々成長して変化していく。月に例えると、あなたはまだ、半月だ。これから満月へ成長していく。そして、その後にまた半月、新月へと変化するかもしれない。それも、人生においては珍しくはないことだ。何度でも何度でもやり直すことができるんだよ。青く真っ直ぐな光を信じていれば」

 竹田の話が宗教を想像させる話になってきた。中居までの距離は三歩まで縮まっている。竹田のどの言葉がしみたのかは判らないが、中居は座り込んで、顔を伏せている。

 竹田が振り返って厚樹の顔を見た。厚樹は竹田が何を話したいか理解した。竹田の足がゆっくりと中居へ近づいていく。

 竹田と厚樹は中居を抱きかかえるようにして、部屋の中へそのしなやかな体を移動させた。背中の方向から、ヘリコプターの音が響いてきた。緩やかに弧を描いた金属製のボディーにはテレビ局のマークが鈍く光っていた。



つづく

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