④
バルコニーの方向から音がした。わずか三メートル先へ厚樹の目と心のピントは合わされた。
「だれか、いますか?」
男の声が聞こえる。声はすれど、姿は見えず。厚樹はバルコニーへ出てみた。目の前に広がるのは青い空と、遠くに広がる高層ビル群。
厚樹は下を確認した。野次馬と警察車輌。救急車が待機をしている。レスキュー隊の姿は確認できない。
「あっ、いましたね」
声は厚樹の頭上から聞こえてきた。《そうか、屋上のヘリポートからレスキュー隊が助けに来てくれたんだ》厚樹は満面の笑みで上の階を見上げた。
「いま、そっちに降りていきますね」
声の主は厚樹のたたずむバルコニー目掛けてロープを投げ入れた。「ベタン」効果音として表現することが困難な音をたてて、円形に丸められたロープの先端が厚樹の足元に落ちてきた。
「あの、あの、あなたはいったいだれですか?」
厚樹の視界にいる人物はオレンジ色の服を着て、筋骨たくましい腕でロープを伝ってくる男ではなく、ジャージパンツにティーシャツ姿の男だった。年齢は六十歳代中盤くらいだろうか。
男はロープに導かれて、十七階のバルコニーから十六階へ降りてきた。両足を一度、塀に乗せたあとに、バルコニーの中へ着地した。
「私は竹田鉄二。三十階に住んでいるものです」
男は両手についたほこりを落とすように、手をパンパンと叩いた。
「三十階の人がどうして、十七階に?」
厚樹は、竹田がどのようにして三十階の部屋から、ここまで降りてきたのか気になったので、本能のままに確認した。
「三十階から十七階までは非常階段で降りてきた。さすがに十六階から下は危険かと思い、十七階で空いている部屋を探した。すると、どうだろう一七〇七号室。つまりはこの上の部屋が内装工事の途中で、部屋に鍵がかかってはいなかったんだ。だから部屋の中に入って、ここまで来た」
高層マンションは一時期に比べ空き室になる部屋は多い。立地や設備によるが、二割以上が空室というマンションも珍しくはない。
「なるほど、そのロープは内装業者が上の部屋に置いていったものなのですか?」
厚樹は、竹田と自分との間にゆらゆらと揺れるロープを見ながら訊ねた。
「んっ、いや、まあそんなもんだ」
竹田はバツが悪そうに答えた。
「そんなことより、ガスはどうだ?この部屋に影響は?」
竹田はバルコニーから、厚樹の部屋へ入っていった。
「影響があったら、おれは生きてはいないでしょう」
ふてくされた答えを発して、厚樹も竹田のあとに続いた。
「それより竹田さんは、仕事はレスキュー隊だったの?」
厚樹は竹田の身軽さから職業を推測して訊ねた。
「わしが、身軽だからそう思ったのかい?残念ながら、レスキュー隊でもとび職でもないよ。山登りが趣味なだけだ」
竹田はつけっぱなしのテレビに視線をおとして答えた。その斜め後姿に厚樹は見覚えがあった。《あっ、昨日エレベーターで一緒だった人だ》
高層マンションのエレベーターは巨大企業のエレベーターと同じだ。エレベーター内で乗り合わせても、顔見知りでない限り挨拶すらしないケースも珍しくはない。厚樹も「昨日エレベーターで一緒だった人ですよね」とは、ここで確認しない事にした。
厚樹は確認する事柄を変えた。
「警察から電話ありませんでしたか?」
「電話?さあ、どうだか、わしは携帯電話というものを持ち歩かんから」
竹田は目尻に作ったシワの溝を深めて、穏やかな表情で答えた。
「あっ、おれ、いままで携帯電話持ったことないからね」
テレビの中で黒いサングラスを掛けた還暦を超えたお笑いタレントが、自慢げに竹田と同じ言葉を吐いた。厚樹は竹田の顔とテレビの中のお笑いタレントの顔を交互に見比べた。どちらも嘘ではないようだと感じた。
《待てよ。ということは、マンションに残った三人にこの竹田は含まれているのか?それとも、もう一人別にいるということなのか?》
竹田はそんな、厚樹の心配をよそにバルコニーに面したドアを少しだけ開けて、右手を外側に出してみた。
「すまん、テレビを天気予報に変えてくれ」
竹田は右手を引っ込めてドアを閉めながら、厚樹へ指示をした。厚樹は言われるがままに、テレビリモコンのデータ連動と書かれたボタンを押して、天気予報を表示させた。
「南南東の風、2.5mか」
竹田は天気予報のデータから風向きと風速を読み上げると、キッチンへ向けて七歩歩き出した。
「ゴミ袋はどこだ?」
竹田のぶしつけな質問に、厚樹は身じろぎながら答えた。
「キッチン下の収納の中」
竹田は厚樹の目線が送られたキッチン下の収納からゴミ袋を二枚取り出した。
「何をするんですか?」
不思議がる厚樹の言葉を最後まで聞き終えた竹田はにやりと笑った。
「助けに行くのさ」
「助けるって、だれを?」
「一六〇一号室の女子アナ、中居美香をだ!」
「えっ、えっ、なんで中居美香だって知っているの?」
不思議がる厚樹に、竹田は口角を上げて答えた。
「リタイアすると暇になる。テレビをよく見るようになるから、よく知っているよ。それに、平日の昼から同じエレベーターに乗ることもよくあるから、なんとなく部屋の位置まで知るようになった」
竹田の言葉を聴いて厚樹は勘ぐった。《この竹田という男がストーカーで、中居美香にちょっかいをだしているんじゃないのか?》
「なんだ、その顔は?わしを怪しんでいるのか?」
厚樹は竹田に心中を察しられたのかと思いうろたえた。
「いや、別に」
「どうする?来るのか、来ないのか?」
引け目を感じた厚樹に竹田はたたみかけた。
「わかった、わかった。行きますよ。行けばいいんでしょう」
厚樹の返事を聴いた竹田は、手にしたゴミ袋を一枚厚樹へ投げた。
「さあ、その中に外の空気を入れて」
竹田は厚樹の隣をすり抜けて、自分から先にバルコニーのドアを開けた。右手親指と人差し指の間に挟んだゴミ袋を擦ると、左手で反対方向へ大きく引っぱった。南南東の風がゴミ袋の中に大きく吸い込まれていく。
竹田は真ん丸くふくれあがったゴミ袋の開口部分を両手ですぼめると、右手だけで強く握り締めた。
「あっ、それを酸素ボンベのように使うんだ」
厚樹は感嘆の声をあげた。
「そう、どんなガスかは知らないが、呼吸器官を守っていれば大丈夫だろう」
竹田は厚樹にアゴをしゃくり上げてから、バルコニーの方向を見た。厚樹も同じようにしてゴミ袋の中に空気をためた。
「よし、行くか」
バルコニーの窓は開いたままだ。竹田は厚樹へ目で合図を送ってから、玄関へ向けて歩き出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと本当に中居美香の部屋へ行くの?」
腰の引けた厚樹の質問に竹田はいぶかしく思いながら訊ねた。
「なんで、他にどこへいく?」
「いや、これで、非常階段を使って下まで降りれば、助かるじゃないかと………」
「バカヤロー、貴様それでも男か!そら、行くぞ」
竹田は一括すると、厚樹の襟首をつかんで玄関との境界線のドアまで引きずった。目張りのガムテープは竹田が勢いよくはがした。
「うわっ、大丈夫ですかガスは!」
あわててゴミ袋の酸素ボンベを口にする厚樹を竹田はにらみつけて「窓は開いている。大丈夫だ」と告げて、視線をバルコニーの方向へ向けた。厚樹も同じようにバルコニーの方向を見た。南南東の風が静かに風の波を作っている。
「ガチャ」
竹田は玄関へ続くドアを開けた。ドアは引く事によって開かれるため、廊下の空気が室内へ少しだが流れ込んできた。しかし、それも微々たるもので、すぐに南南東の風が竹田と厚樹の背中から追い風のように吹きつけ、廊下から流れ込んだ空気を押し返した。
「あれっ?空気が外に抜けていく」
厚樹は不思議な気持ちで口を開いた。竹田は振り返り厚樹の顔を見た。
「いまに解るよ」
竹田の言葉の根拠は理解でなかったが、竹田の行動が間違ったものでないことは厚樹には理解できた。
「さあ、開けるぞ。念のためゴミ袋は口にあてて」
竹田は自分の口元にゴミ袋を近づけてから、厚樹にも同じようにするよう合図をした。厚樹は目で答えて、ゴミ袋を口元にあてがった。
「じゃ、行くぞ!」
竹田は玄関のドアをゆっくりと押した。ドアは何か別の力に助けられるように勢いよく開かれた。バルコニーから吹き付ける南南東の風が厚樹と竹田の背中を押した。
玄関のドアは全開した。
「思ったとおりだ」
竹田の言葉と目線の先に厚樹も視線を送った。風は勢いよく背中から前方へ抜けていく。風が流れる行き先には排煙口と書かれたコックが押し下げられた壁と、四十五度の角度で開かれたガラス窓が広がっている。竹田は、ゴミ袋を口元から離した。
「排煙口が開いている。空気は大丈夫だ」
竹田の行動と言葉に厚樹も同じように、ゴミ袋を口元から離した。
「すげー!こうなるんだ。それにしても」
厚樹は竹田の顔を見た。
「あんた、なに者?」
「ふふ、越後のちりめん問屋とでも、言っておこうか」
つづく