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 厚樹は何が起きたのか理解できなかった。

 管理人の言葉の一語、一語を思い出しながら、自分が置かれた現状を確認する事にした。《十六階ということは、この階だ。有毒ガスが発生した?どんなガスだ?サリンか?VXガスか?そんなガスがなぜ発生した?どうやって作った?誰が作れる?作れるわけはない。じゃ、どんなガスだ?誰にでも簡単に作れる有毒ガスというと………、硫化水素か!そうだ、まぜるな危険だ。硫化水素は空気より重いのか?そんなことは知らない。十六階よりも上の階の方は部屋から出るなということはどういうことだ?有毒ガスが空気より重いから、下へ降りてくると危険ということか?それならば、下の階の奴はどうするのだ?ガスが上から迫ってくるから、部屋にいたら危険だ。建物の外へ逃げているのか?》

 厚樹は、窓を開けてバルコニーへ飛び出した。自分の胸の高さほどあるコンクリートの塀から身を乗り出して、階下へ視線を落とした。一階の玄関から、多くの人が逃げ出している姿が確認できる。

 厚樹はバルコニーから室内へ戻り、玄関との境界線に位置するドアへ向けて狭い部屋を走った。歩数にして、十五歩。途中、壁に左足の小指をぶつけた。

「いててて」

 厚樹は痛みをこらえながら、ドアノブを下へ押し下げてドアを開いた。バルコニーへ続く窓が開かれたままのため、空気が外へ抜けていきドアはいつもより軽く感じられた。空気が、玄関からバルコニーへ大きく移動した。玄関のドアの下には小さな隙間がある。建物やドアが多少ゆがんだとしても、ドアの開閉に支障をきたさないためだ。

「くせ―」

 厚樹は自分の鼻と口を左手でおおって、息を止めた。そして、いまきた方向へ逆戻りをして、ドアを閉めた。風圧でバルコニーへ続く窓に付けられたカーテンが揺れるのを視界の隅で感じた。

 厚樹は小指を壁にぶつけないように、ドタドタとバルコニーの方向へ十五歩急ぎ足で歩いた。「ピシャ」「ガチャ」ぎこちない金属音を従えて、窓は閉じられた。

「あぶねー、あぶねー。ガスが入ってくるところだ」

 厚樹はクローゼットの中から、ガムテープを取り出した。

「よしこいつで」

 厚樹は大きく息を吸い込むと、玄関との境界線のドアへ向かってゆっくりと歩いていった。「ビビビビビ」厚樹はガムテープを引き出すと、両手でガムテープの端を持って、ドアの下に目張りをした。同じようにドアの上にも目張りをした。

「ふーぅ。これで、しばらくは大丈夫だろう」

 厚樹は大きく息を吐いた。

《どうやら、ガスが発生しているのは本当のようだ。あの温泉のような匂いは硫化水素なのだろうか?そんなことは、知らない。なぜならばおれは硫化水素の匂いなどかいだことがないからだ。ガスの量はどれくらいあるのだろうか?それも見当が付かない。とりあえずは落ち着こう》

 厚樹は冷蔵庫から野菜ジュースの入ったペットボトルを取り出した。キャップを反時計回りでまわしてはずして、ビタミン成分とカロチン、カリウムを勢いよく胃の中に流し込んだ。ペットボトルの中の赤茶けた液体は半分だけ残されて、冷蔵庫の中に戻された。

「よし、落ち着いた。いやいや」

 厚樹はベッドに腰掛けてこれからの行動を考えた。左手の親指と中指でこめかみを強めにつかんでみた。小さな痛みとしびれが、こめかみに走った。厚樹は閉じていた目をゆっくりと開けた。視界にはテレビのリモコンが入った。

「あっ、テレビ」

 厚樹はリモコンを手にとって、赤い電源と書かれたスイッチを押した。

「何か、この事件について放送しているかもしれない」

 厚樹は一から十二までのボタンを順番に押した。

「ダメだ。そうだよな。こんなに早くニュースになるわけはないよな」

 厚樹は落胆した様子で、テレビ画面の左上に映し出された数字で現在の時間を確認した。十時五分。

「とりあえず、情報番組にしておこう」

 厚樹はテレビをつけたままにして、再び思考回路にエネルギーを注ぎ込ませた。《この十六階には何人が残っていて、どの部屋でガスが発生されたのだろう?ガスが下の階へ抜けていくまでにどれくらいの時間がかかるのだろう?このまま待ったほうがいいのか、それともバルコニーに非難したほうがいいのか?バルコニーのほうがガスの危険は少ないように思うが、バルコニーへでるとテレビからの情報は得られない。非常用の非難はしごで上の階へ非難していくという方法もある。そうだ、バルコニーにある非難はしごだ》

 厚樹は立ち上がると、バルコニーへ通じる窓を開けて、自分の体を瞬時に外へ移動させた。もちろん窓はすぐに閉めた。

「非難はしごは………」

 厚樹は天井を見上げた。自分の部屋のバルコニーにはない。

「隣の部屋は?」

 厚樹は壁から身を乗り出して隣のバルコニーの天井を見た。

「あった、非難はしごだ」

 しかし、非難はしごは天井に収納されたままで、下から上へ登ることは困難だ。

「上の階の奴はいないのか?」

 厚樹は大きく息を吸って大声で怒鳴った。

「十七階の人、だれかいませんか?」

 返事はなかった。

「ちくしょう、仕事へいっちまったのか?」

 厚樹は下を向いて次の行動を考えた。《そうだ、上へはいけないが下へならいけるかもしれない》

 厚樹は下へ通じる非難はしごをさがした。《こういうものは互い違いに設置されているはずだから》厚樹は、逆隣のバルコニーをのぞきこんだ。

「ダメだ」

 そこには、非難はしごが収納された床の上に頑丈そうな金属製の収納庫が置かれていた。

「あれは、動かせないな」

 厚樹は諦めかけたが、隣室とバルコニーで仕切っている塀を蹴破って隣人に非難はしごを使用できるように交渉しようかと考えた。

「やめておこう」

 厚樹は《そこまでするような状況ではないだろう》と平和ボケした普段の生活状況から、判断した。

次の施策を模索する厚樹の右耳にサイレンの音が遠くから近づいてきた。救急車と消防車だ。

「消防車?はしご車なら」

 厚樹はバルコニーから階下を見下ろした。地上から十六階までは、およそ、五十メートル。ここまで届くはしご車はまずはないだろう。

「ここまでは、無理だな」

 厚樹は無理だとは思うが、はしご車の到着と行動を見守った。

 はしご車と救急車は一階でしばらく動きを止めている。十六階から見下ろしている厚樹にはなにが起こっているのか理解できない。

「まてよ、救急車と消防車が到着したということは、ニュースになっているかもしれない」

 厚樹はバルコニーから室内へ戻り、テレビ画面へ注意を向けた。液晶画面の中ではお笑い芸人が番組タイトルコールを叫んでいた。

「だめだ」

 厚樹はリモコンでチャンネルを変えた。左上の一から順番に数字を上げていった。一、二、三、四~

「あった」

 厚樹は上から三段目、中央の数字でサーチすることを止めた。画面では訴訟を起こしたばかりのタレントが殺人事件に関する自意識過剰な意見を述べている。その頭部付近に横書きで白い文字が二列に並べられている。

― 世田谷区の高層マンションで異臭騒ぎ。住民の多くが屋外に避難。無事が確認できていない住民も多数いるもよう ―

「なっ、なんだこれだけか?」

 厚樹は口を半分開いて画面を凝視した。

「だめだ、こういうときは落ちつかなきゃ、ダメだ」

 厚樹は、自分の右手と左手で握手をした。他人からみればおかしな光景だろうが、だれもそのようなことは告げるものはいない。それだけ孤立した状況ということだ。

「ブルブル、ブルブル」

 衣類をしまった収納ケースの上で携帯電話が震えた。厚樹は日常の行動として携帯電話を充電器から右手で取り上げた。

「メールか」

 厚樹は携帯電話のフリッカーを開いて、着信したメールを確認した。

〉今月の携帯電話料金のお知らせ

「携帯代のお知らせか」

 厚樹は、メールアプリケーションを閉じて、携帯電話を充電器へ戻そうとした。

「待てよ!」

 厚樹は手を止めた。

「管理会社か、不動産会社へ電話をして、どんな状況なのか確認すればいい!」

 厚樹の表情が希望に満ちあふれだした。親指で、いくつかのキーを押してメモリから不動産会社の電話番号を選択して、発信ボタンを押した。「ぷっぷっぷっ」携帯電話をおしあてた厚樹の左耳に、情報収集までのカウントダウンが響いた。

「はい、こちらは××不動産です。本日水曜日は定休日となります。営業時間は水曜日以外の九時から十八時までになります。改めてお掛けなおしください」

 厚樹は頭をたれて、通話を切った。

「不動産屋と管理会社は同じ会社だ。どちらも水曜日は休みだった」

 厚樹は携帯帯電話を左手で握りながら、次の行動を考えた。《友人知人に電話をしても、意味がない。奴らに自分の現状が理解できるわけはないし、今日は水曜日。みな、仕事をしている》《メール?それも無意味だ》

「ブルブル、ブルブル」

 厚樹の携帯電話が震えた。液晶画面には見慣れない携帯電話の番号が並んでいた。

「だれだ?」

 厚樹は着信ボタンを押して、電話にでた。

「はいもしもし、駒沢です」

 電話の相手はかなりのだみ声だ。

「駒沢さんの携帯電話でよろしいですね。こちらは世田谷第二警察署の池尻といいます。有毒ガスを出されたのは、あなたの部屋ですね」

「えっ、えっ、いや、違います。何を言っているんですか」

 池尻はおそらく刑事だろう。背景から聞こえる騒音と雑音から推測するにこのマンションの一階から電話をかけているのだろう。池尻は一拍間をおいてから口を開いた。

「あーそうですか。これは失礼いたしました。ガスを出したのはあなたではないのですね」

「あたりまえです。何でおれがそんなことをしなくちゃならないんですか」

 厚樹は携帯電話を耳にあてたまま、前のめりになって答えた。池尻は同じように一拍おいてから再び口を開いた。

「いや、失礼しました」[これで、連絡が取れないのは、一号室の中居だけか]

 池尻が隣にいる誰かに話しかけているようだ。厚樹はその声も確認した。そんなことより、自分がどうなるのかが気になる。

「あの、ぼくはどうすればいいのでしょう?」

 厚樹の問いかけに池尻は事務的に答えた。

「安全が確認できるまで、しばらく部屋から出ないで下さい。安全が確認できたら、また電話します」

 池尻からの電話は一方的に切られた。厚樹はバルコニーへ出て階下を見下ろした。マンション入口前から、管理人の制服を着た男と、スーツ姿の男が高速道路沿いを西側へ向けて歩いていく姿が見えた。

「西側?一号室のある方角だ」

 部屋へ戻った厚樹は一号室の個人情報を記憶の中から引き出した。

《中居美香。長髪のあの美人だ》

 ピロロローン、ピロロローン。

 つけっぱなしのテレビから、ニュース速報を告げるSEが響いた。男性司会者の頭にかぶさるように白抜きの文字が二列に並べられた。

¦ 世田谷区高層マンションで発生した有毒ガス。建物内には三名が取り残されているもよう。そのうち一名はガスを発生させた部屋の住人の可能性あり ¦

「いっ、こんな大きなマンションなのに取り残されているのは、たった三人なの?」

 厚樹は眉毛を大きく上へ上げて、目を大きく見開いた。三十階建てマンションの半分とすると十五階。ワンフロア七世帯としても、百世帯近くが十六階より上に住んでいるはずだ。なぜ、残されたのがたった三人なのだ?その答えは発生した日時にあった。水曜日の午前十時。会社勤めをしている人は家を出ている時間になる。多くの住人はすでに、会社で働いている時間なのだ。

 テレビ画面が男性局アナのアップに変わった。

「ここで、いま入りましたニュースをお伝えします」

 男性アナウンサーは手元の原稿に視線をおとした。

「今日午前十時ごろ、世田谷区の高層マンションで異臭騒ぎがあり、住民が避難をしています。建物内には何名かの住人が残っており、警察では住民の避難を最優先に救助活動にあたっています」

「なんだ、それ?救助活動なんてしていないじゃないか」

 厚樹はあきれて笑った。その笑い顔は情けなくもあった。男性アナウンサーは横からADに差し込まれた原稿を「はいっ」と言いながら受取った。

「有毒ガスが発生したマンションには、先日までこの番組でお天気を伝えてくれていました中居美香アナウンサーが住んでいるもようということです。中居アナウンサーとは現在連絡がつかない状況ということです」

「あっ!」

 厚樹は長身美女の姿を脳裏によみがえらせて、その存在を確認した。

「あの女、テレビで見たことがある」

 厚樹の記憶が整理されだした。《あの女はテレビの局アナ。一六〇一号室に住んでいるのは、あの女。昨日のお天気は別の女が伝えていた。ええと、で、有毒ガスが発生したのもあの女の部屋?ということか?そして、このマンション内に残っている三人のうち二人は、自分と中居美香。あともう一人はだれなんだ?》

 厚樹の推理を助けるように、テレビのスピーカーから年配のキャスターが自分の思いを発した。

「これ、中居アナウンサーが事件や事故に巻き込まれたと言うことなのかしら?」

「はい、その可能性もあります」

「とりあえず、無事を祈るしかないね」

 スピーカーから流される音声はコマーシャルの音声に変わった。国だか行政だかわからないが、ストーカー被害を未然に防ぐ内容のコマーシャルだ。厚樹はコマーシャルを見ながら考えた。

「中居美香にストーカー?もし、そうだとすると、マンション内に残ったもう一人というのも中居と同じ部屋にいるのか?」

 厚樹は軽いめまいを感じた。視界が白くドットをうったように不鮮明になった。と、同時に空腹を知らせる音がお腹の中から発せられた。

「やばい、頭を使ったら、糖分が不足してきた。何か食べ物を」

 厚樹はキッチンに置かれた冷蔵庫の扉を開けて、中から食料になりそうなものを探した。

「キウイ」

 冷蔵庫にはキウイが一つだけ残されている。厚樹はキウイを右手で拾い上げて冷蔵庫を閉めた。

「待てよ、このまま隔離生活が長引くと、食料がなくなる」

 厚樹は不安にかられて、キッチンに付けられた収納庫のすべてを確認した。キッチンの上に取り付けられた棚の中に、スパゲティーが一束確認できただけで、他に食料らしい物は発見できなかった。

「やばいな」

 厚樹は不安をかき消すようにキウイにかぶりついた。


つづく

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