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 求人誌を読み終えた厚樹は溜息をついた。

「ふーっ、しばらくは自由人だな」

 厚樹は求人誌を丸めてゴミ箱に投げ入れた。リレー選手のバトンのように丸めたかというと違っていた。小学生が放課後に罰当番として掃除をする任務をいやいや背負ったときにぞうきんを絞る。そんな丸めかただ。イビツにゆがんだ曲線が厚樹の精神状態を物語っているようだ。

「そんなに、あせることはない」

 厚樹はベッドに寝転がりながらテレビのリモコンを手にした。自分の頭を枕に落としたと同じタイミングで(電源)と書かれた赤いボタンを人差し指の先端で押した。

「ゆっくりしよう」

 厚樹の言葉にかぶせるように、三十二インチの液晶テレビ画面が明るく照らされ、芸能人気取りのアナウンサーが緊張した面持ちで口を開いた。

「早く復帰してほしいものです。ゆっくり休んでください」

 厚樹は女性アナウンサーの言葉に眉毛を一センチほど上へ上げた。

「続いては、お天気です。アイちゃん今日のお天気はどうなりますか?」

 男性アナウンサーのコメントきっかけで、画面がお天気おねえさんのアイちゃんのアップに切り替わった。厚樹は午後からの天気予想を聞きながら、小さな違和感を感じていた。

 その違和感が、どこからくるものなのか、厚樹には判断できなかった。


 ニュースを見終えた厚樹はベッドから起き上がり冷蔵庫へ向けて歩き出した。二十五㎡の室内。ベッドから冷蔵庫までは五歩の距離になる。

「今日の天気は晴れ。最高気温は二十八度。絶好のビール日より」

 厚樹は冷蔵庫の扉を開けて、発泡酒を取り出した。

「ビール………、じゃ、なくて発泡酒か」

 厚樹は一人でボケツッコミをして、一人でニヤけた。

「つまみは、なににしよう?」

 厚樹はキッチンの上に取り付けられた戸棚を両手で開いた。平皿、どんぶり、土鍋。無造作に並べられた食器の奥には、ツナの缶詰と市販の袋に収められたスパゲッティー百グラムの束が一つ、厚樹の目に入った。

「ツナ缶で、いいや」

一缶百円以下の缶詰が厚樹の右手に握られた。左手ではキッチン上の戸棚が「バタン」と閉められた。

「昼から発泡酒とツナ缶。ネコになった気分だ」

 厚樹はベッドに腰掛けて、手にした発泡酒のプルタブを引き上げた。「プシュッ」と、音をたてて、黄色い麦がデザインされた円柱形の快楽物質が蓄えられたアルミ缶から炭酸ガスが大気にはじき出された。昨日会社を首になった男の行動とは思えないが、それは事実である。

「今日は独り言が、多いかな?」

 厚樹は独り言をつぶやき、発泡酒を内臓の奥へ忍び込ませた。


 床に発泡酒の缶が二つ転がったころ、「ピンポーン」と柔らかな電子音が厚樹の耳に飛び込んできた。

「誰だ?」

 酒に酔って眠むってしまった厚樹は、ふらつく足でインターホンが掛けられた壁に向けて五歩歩いた。アルコールで焦点が定まらない厚樹の視界には四インチほどのモノクロ画面がゆらゆらと揺れている。

 モノクロ画面の中には野球帽をかぶった中年男性の姿が、ゆらゆらと映っている。

「だれだ?」

 厚樹はインターホンの受話器を手に握り、「はい」と答えた。

「あの、そちらに中居(なかい)美香(みか)さんって、いらっしぃますか?」

「中居美香?うちにはいませんが」

「あっ、失礼しました。宛名の文字が七号室か一号室かわからなかったもので」

 野球帽をかぶった男はモノクロ画面の中で深く頭を下げた。

「はい、はい」

 厚樹は受話器をホルダーに戻した。

「七号室か一号室かわからなかった?えっ?一六〇七号室と一六〇一号室を間違えたということか?すると、あの女、中居美香っていうのか。中居美香?どこかで聞いたことのある名前だ」

 厚樹は頭をかきながら、壁に掛けられた時計へ目を向けた。いつの間にか四時間も眠ってしまっていたらしい。時計は午後四時を告げている。

「あれ?きょう、おれ、何人と話したっけ?」

 厚樹は右手の親指から順番に指を折って数えだした。

「エレベーターの中の老人と長身の女。そして、今の宅配便屋。それだけか。おれは、引きこもり?」

 厚樹はにやりと笑った。

「ぴろろ~ん」

 先程と違った電子音が厚樹の耳に飛び込んできた。

「なんだ?」

 厚樹は電子音が聞こえた方向を振り返った。インターホンの四インチモニター画面に、一階管理センター勤務の老人の顔が映っている。

「はい」

 厚樹は再び受話器を取り上げて答えた。

「あっ、すみません。一階の管理センターですが、先程は失礼いたしました」

 管理センター勤務の老人は申し訳なさそうに謝罪した。

「えっ?先程って?いつほどのことですか?」

「先程の宅配便のことです」

「宅配便って………ああ、さっきの間違い」

「ええ、あのような問い合わせは、一階の管理センターへ確認するように伝えているのですが、きょうの宅配便の人は新人だったようで………」

「いや、いやいいですよ」

 厚樹は面倒くさそうに、頭を横に振ると受話器をホルダーに戻した。四インチの液晶画面は外周に近い方向からもとの灰色画面に戻っていった。

「今の管理人で四人目か」

 厚樹は窓の外を見た。水彩絵の具を青八割りに対して、白二割りを混ぜ合わせたような色をした空と、遠くに見える高層ビルの間にスイカを二つに割ったような大きさの半月が見える。

「今日は半月か」

 厚樹はキッチンで蛇口から水道水をコップに注ぐと、一気に喉の奥へ流し込んだ。


 夕食は百メートル先の中華料理屋で餃子定食を食べた。日本中どこにでもあるチェーン店の餃子屋だ。途中コンビニエンスストアへ立ち寄り、発泡酒を二缶とチーズを一包み購入した。

 部屋へ戻った厚樹はバルコニーへ出て発泡酒の缶を開けた。少しだけ沈みだした空の色が夕暮れが近いことを感じさせた。半月は何もない空の中腹でその姿を誇示しているように見える。

「三十階建てのマンションの十六階。月も約三十日で新月から満月をくり返す。すると、いまおれが住んでいる十六階は、半月と同じ位置ということか?」

 アルコールで理性と秩序が麻痺した厚樹の頭は、社会生活を営むにあたっては到底役に立たない理屈でおおわれだした。お酒に酔ったときのアイディアが素晴らしいものだ。と自慢する人がいる。しかしそのアイディアは酔いがさめると、愚案と気づく。

 厚樹もそんな自己満足に浸っている。明日になれば、くだらない思い付きになると気づきながら。

 

 厚樹の体はベッドの上に横たわっていた。開きっぱなしの窓の外をトラックが走り抜ける。路面と空気を震わす振動音が厚樹の目を覚まさせた。厚樹はティーシャツの上から胸をポリポリとかきながら、上半身を起こした。壁に掛けられた時計は十一時を指している。厚樹は無言のまま窓を閉めて鍵を掛けた。もちろんカーテンも閉めた。そして、再びベッドに横になった。

 どれくらいの時間がたったのだろう。けたたましいサイレン音で厚樹は目を覚ました。

ピューピューピューピューピュー、ピューピューピューピューピュー

 音の出所はインターホンのスピーカーからだ。厚樹は少しだけ痛みを覚えた頭を叩きながら五歩インターホンへ向けて歩いた。

「なんだ?」

 厚樹は目をこらして、インターホンに書かれた説明書きを読んだ。

「緊急時の警報音?館内一斉放送?」

 厚樹は右手人差し指第二関節で右目を擦った。

「大変です」

 モニター画面に一階管理センターの管理人の姿が映った。

「十六階で有毒ガスが発生しました。ガスは空気よりも重く時間と共に下の階へ移動していきます。十六階よりも上の方は部屋から出ないようにしてください」

 あわてた声と表情で管理人は一方的に話すと、「ブッ」という音と共に音声と映像が途絶えた。映像の最後には避難する管理人の後ろ姿が映されていた。


つづく

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