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2010年10月に書き上げた作品です。

 三十年前の住宅では、規格サイズには適合されない横に長い窓ガラスの外には青い空が広がっていた。

 正確には、窓ガラスの外側には下半分にバルコニーと下界との境界線であるコンクリートで作られた外壁が立ちはだかり、上半分に青い空が広がっていた。

 もう少し、正確に表現すると、上半分に広がる青い空には薄く雲が溶け込んで、絵の具の空色に、水切りが不十分な筆に残った白が作者の意思に反して、にじんでいる。    

 と、表現することが適切な青い空が広がっていた。

 空の色はどうして青いのだろう?

 その答えは様々だろう。日本は民主主義国家である。それぞれの価値観が認められている。空の色が青い理由は、日本国民としてそれぞれの価値観で判断しても、何人たりとも否定をすることはできない。だが、空の色が青い理由は、「七色の太陽の光が大気圏を突き抜けて、地上に降り注ぐまでに、青以外の六色は屈折してしまうが、青だけは真っ直ぐに地上まで届くからである」と答える人が多いだろう。

 多数決社会において、その答えが模範解答として、裁判管のクビを縦にふらせることも何人(なんびと)たりとも否定はできないだろう。


 三十階建て高層マンションの十六階に住む、駒沢(こまざわ)厚樹(あつき)はそんなことを考えながら、カーテンを左右に大きく開いた。遮光、遮音機能を備えたとうたわれたカーテンは予想以下にその機能を発揮していた。五十メートル下の首都高速道路を走り抜けていくディーゼル車のモーター音は、厚めに縫い合わされたカーテンの粒子の間をすり抜けて、二十五㎡のワンルーム室内に散らばっていく。深夜と早朝に音のウイルスは、自分たちの活動を阻害する同業社が勢力を衰えさせることをいいことに、その活動範囲を広げていく。

「昨日も、うるさかったな」

 厚樹は、スッキリしきらない頭を右手の指でかきながら、窓の外を見た。

 階下に広がる低層住宅街や、西と東の街をつなぐ首都高速道路の上につながる渋滞の車列。歩道を歩く人の姿はジオラマのように厚樹の目には映った。

 ビー、ビー、ビー!

 渋滞した高速道路の車列に、後続車がクラクションを鳴らしている。鳴らされたクラクションは高速道路の両側を固めた防音壁に反射して、厚樹が住む十六階まで弾かれて昇っていった。

「音は反響するな」

 厚樹は顔の左側半分を中央に凝縮して、不機嫌な表情をしてみせた。

 渋谷駅まで地下鉄で二駅。通勤、通学に便利な立地に厚樹の住むマンションはある。最寄り駅まで徒歩三分。この時間は一階にある正面玄関を出てからの距離である。厚樹が住む十六階の部屋に鍵を掛けて、エレベーターに乗ってからの時間を計上すると最寄り駅までは徒歩五分になる。不動産表記的には住居とする部屋からの時間ではなく、建物玄関からの時間を表記すればいいので、厚樹が不動産会社から受けた説明では、徒歩三分の物件である。

 三十階建てのマンションはワンフロアに七世帯が入居して、その多くが単身者である。多くの間取りが厚樹が住む部屋と同じで、窓の向きが東向きなのか、西向きなのかの違いくらいで、ベッドやテレビなどの必要な家裁道具を並べると、決して広いとは言えない間取りである。

 保証人不要の賃貸マンション。と言うと、治安が悪い集合住宅のように聞こえるかもしれないが、このマンション一階にはコンシェルジュ?とまでは、言えないが、フロント業務を行う男性管理人が二十四時間常駐で不審者の監視を行っている。

 エレベーター内、各フロアの廊下には監視カメラが設置されて一階の管理センターでは四分割されたモニターカメラを管理人が絶えず、のぞきこんでいる。

 駒沢厚樹、三十歳独身は、そんなマンションの真ん中よりも少しだけ上の十六階に住んでいる。

「人生七十年。いや、六十年としておれは半分を生きてしまったのか」

 厚樹はバルコニーの先に広がる空から、大きく空気を吸い込んだ。家電の余熱で暖められた室内よりも三℃は低く感じられる空気が、厚樹の肺の中に吸い込まれていった。

「これから、どうするか」

 厚樹は再び大きく息を吸い込んだ。鼻腔が大きく開いて、六月初旬の春でも、夏でもない中途半端な空気が、厚樹の肺の中でゆっくりとその役目を遂行していった。

 厚樹は昨日会社を辞めてしまったのだ。厚樹の発した人生六十年の意味は労働者としての人生が六十歳までという意味の事である。

 厚樹が会社を辞めた理由は些細なことであった。上司と折り合いが悪く、事あるごとに反発していた。「おまえは、会社のためとか、他の社員のためとか、考えたことがないのか!」そんなお叱りを何度か受けた後に、辞める辞めないの話しになり、売り言葉に買い言葉で辞めてしまったのだ。正確には会社都合による解雇ということになる。三十歳にもなって子供のような行動だ。

「冷蔵庫に、何か残っているかな」

 厚樹は独り言をつぶやいて、冷蔵庫の扉を開けた。扉に設置されたドリンクホルダーにはペットボトルに入った野菜ジュースと、大手スーパーオリジナルブランドの発泡酒、そして調味料の容器が乱雑に並べられている。厚樹は視線を冷蔵庫の扉から、収納庫のある左下へ移した。

 野菜収納庫の中に、産毛のように短い毛で周りを囲まれたキウイが二つ、くしゃくしゃになったビニール袋の中で賞味期限が近づくのを待っているように見える。

「こいつにするか」

 厚樹は再び独り言をつぶやくと、キウイを一つ右手につかんで冷蔵庫の扉を閉めた。

 キウイは果物用のナイフで皮を剥がれると、厚樹の口の中に押し込まれた。

「バナナに匹敵するような栄養価を誇るキウイ。なんて健康的な朝食だろう」

 厚樹は二口でキウイを平らげると、パジャマ代わりのティーシャツとボクサーパンツを脱ぎ捨て、自分の体をシャワー室へ滑り込ませた。熱めのシャワーが、厚樹の寝ぼけた細胞に殴りかかってきた。五年前なら肌をはじいていた水流も、今では肌に馴染んでいるように感じられる。

 シャワーから出た厚樹はバスタオルを腰に巻いて、開けっ放しの窓の方向へ歩いて行った。窓の外には半分だけ雲に隠れた太陽が厚樹の顔を照らしている。


 ティーシャツとブルージーンズに着替えた厚樹は、自室のドアに鍵を掛けるとエレベーターホールへ向かった。床にはカーペットが敷き詰められて、足下に響く弾力はまるで高級なホテルのような造りだ。

 二基あるエレベーターのうち一基は点検中だ。九人乗りの小さなエレベーターだけが一階から三十階まで忙しそうに上がったり、下がったりしている。

「まるで、昨日までの俺だな」

 厚樹はエレベーターの動きを昨日まで自分がおかれていた環境に類似していると例えながら、下向きの矢印ボタンを押した。ボタンはオレンジ色に光りながらエレベーターの到着を待った。

 矢印ボタンの上に象られた黒地で正方形をした箱の中の数字が十六に変わった。エレベーターのドアは左右に均等に開いた。エレベーターの中には、髪が薄く白髪交じりの初老の男性が一人乗っていた。厚樹は「すみません」と小さく頭を下げて、エレベーターの中へ自分の体を移動させた。行き先階を指定するボタンは、一番低い位置にある〈一〉だけがオレンジ色に光っている。厚樹は自分の目的階へエレベーターが停止する事を確認すると、〈閉〉と書かれた円形のボタンを押した。

 一階へ到着したエレベーターは、小さな金属音をたてながら扉を左右へ開いた。厚樹は〈開〉と書かれた円形のボタンを押しながら「どうぞ」と同乗者へ目で合図を送った。

「ああ、すみません」

 初老の男性は小さく頭を下げてエレベーターから降りていく。厚樹は男性の横顔を確認した。品格を感じさせるそのいで立ちは紳士と表現するに値すると、厚樹は感じた。

 エレベーターから降りた厚樹と初老の男性に替わり、作業服を着た男が三人エレベーターに乗り込んだ。手には壁紙のサンプルが収められたブックが抱えられている。内装業者のようだ。

 エレベーターを降りて右手へ曲がると、広々としたエントランスが目に入る。規則的に柱が並び、応接用のソファーとローテーブルが四セット、エントランスのオブジュのようにおかれているが、人の姿はなく、広々としたエントランスと表現しても間違いではない。

 厚樹は柱の間をゆっくりと通り抜けて、管理センターと書かれたフロント窓口へ小さくお辞儀をした。中にいる初老の男性は同じように小さくお辞儀をした。《この管理センターに勤務している人は、現役をリタイヤした年齢層が多い。恐らく、どこかの企業を辞めて、年金受給資格を得るまでのつなぎで働いているのだろう》

 厚樹はそんなことを考えながら、外へ通じる大きな自動ドアから建物の外へ出た。厚樹の足は五十メートル先のコンビニエンスストアへ向かって交互に動かされた。

 数字を赤と緑色で配色した看板のコンビニエンスストアの入口にはフリーペーパーが陳列されたブックスタンドが置かれている。厚樹はブックスタンドから求人誌を一冊抜き取ると両手でクルクルと丸めて、リレーのバトンのようにしながら復路へ向けて歩き出した。

「こいつに、いいのがなければハローワークへ行くか」


 マンションのオートロックは、米つき虫のような形をした専用の球体を円盤状の的にあてると、ゆっくりと開いた。厚樹は真っ直ぐにエレベーターホールへ向けて歩いた。

 エレベーターホールには細身で長身の女性が立っていた。もちろんエレベーターを待っているのだ。女性は近づく厚樹の存在に気づいたのだろうか、顔を分度器の角度で表現すると、五度から十度だけ左へ向けて厚樹の存在を確認した。女性の行動に気づいた厚樹は「こんちは」と小さく頭を下げた。女性は唇を動かしていたが何を話しているのかはわからなかった。厚樹は上向きの矢印が点灯している事を確認して、エレベーターの扉に向かって立った。一メートル離れた隣には細身で長身の女性が立っている。二人は無言のままエレベーターが到着する事を待った。

 上向き矢印の四角い囲いの上では数字が一つずつ増えている。エレベーターは上昇しているのだ。厚樹はもう一基あるエレベーターへ視線を移した。お腹の高さにある三つの四角い枠は黒く沈み、熱をおびてはいない。熱をおびていないということは、活動をしてはいないことになる。点検は午前中いっぱいかかると、二週間前から貼紙がエレベーター内にされていたことを厚樹は思い出していた。

 一基だけ、元気に活動しているエレベーターがカウントダウンを始めた。最上階の三十階まで昇りつめて役目をはたしたのだろう。数字を一つずつ減らして厚樹たちが待つ一階へゆっくりと近づいてくる。

 厚樹は視線をカウントダウンされる数字の小窓から下へずらした。視線は隣に立つ長身女性の手元に向けられた。女性の手元には乳白色のレジ袋が握られていた。半透明のレジ袋の中身が厚樹の視線に入ってきた。

《入浴剤に、洗剤、カビキラーにバスクリーナー、掃除用品か、梅雨が近いからその準備か?》厚樹は心の中でつぶやいた。

 厚樹の視線に気づいたのか、女性は左手に下げていたレジ袋を右手に持ち替えた。薄いビニールが擦れる音が数秒だけ響いた。《なんだ、生理用品でも入っていたのか?》厚樹は、口元に笑みを浮かべて、心の中でつぶやいた。

 チン

 小さな機械音をイントロダクションにエレベーターの扉が開いた。降りる人はなく、厚樹と長身の女性はそそくさとエレベーターに乗り込んだ。

「何階ですか?」

 厚樹は自分が降りる十六階のボタンを押しながら肩越しに長身女性に尋ねた。

「あっ、同じ十六階です」

 長身女性は小さな声で答えた。《へー、こんなきれいな人と同じフロアだったんだ》厚樹は口角をあげて、喜びを表現したが背後に位置する長身女性には気づかれないように体の向きを調整した。〈閉〉と書かれたボタンへ右手の人差し指を向けたときに、誰かの左手が、エレベーターの扉を握った。太く短い指はあきらかに男性のものだった。第二関節と第三関節のあいだに生えた毛は数十年の年期を感じさせた。

「あっすみません」

 右手にレジ袋を提げてエレベーターに乗り込んできたのは、あの品格ある老紳士だった。

「何階ですか?」

 厚樹はあがりきった口角を戻して、冷静な口調で尋ねた。

「三十階をお願いします」

 品格ある老人は重たそうに抱えたレジ袋をエレベーターの壁に擦りながら行き先階を告げた。


 紳士的な老人をエレベーターの中に残して、十六階で厚樹と長身女性はエレベーターを降りた。もちろん、厚樹は長身女性を先にエレベーターから降ろした。それは、女性に対して最低限の気づかいだと厚樹は思い込んでいた。長身女性はそんな厚樹の心中など気づかないのだろう。長身女性はエレベーターホールの窓から下界の景色をながめるふりをしながら、時間をかせいでいる。厚樹はしかたなく、長身女性を追い抜いて、自室へ続く廊下を先に歩いた。

 長身女性は先を歩く厚樹との間に三メートルの距離をおいて、自分の部屋へ向けて歩みだした。

 厚樹は東向きの一六〇七号室へ入るため、鍵穴に鍵を差し込んだ。この部屋が自分の部屋だ。長身女性は鍵を右側に回す厚樹の後ろを通り過ぎた。レジ袋を右足に擦りつけながら。カチッと音をたてて一六〇七号室のドアは防御機能をいっとき開放した。厚樹はドアノブを下へ押し下げて、長方形をした重さ二十キロのドアを引いた。

 厚樹の後ろを通り過ぎた長身女性の髪が風圧で揺れた。

 髪からもれた女性特有の臭いが、ホテルのようなカーペットと壁に反響して厚樹の鼻腔にそっと、侵入してきた。《いい臭いだ》厚樹の伝達機能が一瞬麻痺した。五感から得た情報を判断機能がある裁判所のような脳へ伝達する、輸送経路が一瞬麻痺した。

 厚樹が発した気を感じ取ったのか、長身の女性が少しだけ黒目を厚樹の方角へ動かした。口元が少しだけ上にあがった。そして、「フッ」と不規則な呼吸を一瞬だけしてみせた。

部屋へ入り、ドアを閉めようとする厚樹の左側視界に、自室ドアの鍵穴に鍵を差し込む長身女性の後姿が映った。厚樹は長身女性が残した残り香に未練を感じながら、ドアをゆっくりと閉めた。

「一六〇一号室。西向きの部屋か。富士山が見える部屋」

 厚樹は自室の鍵を閉めながら、長身女性が住む部屋の位置を確認した。

「日いずる部屋に住む俺と、日しずむ部屋に住むあの女。落とせるかな?………はははっ」

 厚樹は独り言を少し大きめの声でつぶやいた。その声は西向き部屋のドアを閉める音に重ねられて、誰に届くわけではなかった。



つづく。

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