8.
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ギィと開いたジルベルトの自室の扉。アデルでなければ聞き取れないであろう足音でジルベルトが近付いてくる。アデルはそっと身を起こした。ジルベルトが近付いてくるのを待つ。
ジルベルトが天蓋を開いてベッドの上に腰かける。ぎしりと思ったよりも大きくスプリングが鳴った。
ジルベルトとアデルの視線がかち合った。アデルはジルベルトと殆ど初めて顔を合わせたかのような、何度も顔を合わせているような不思議な気持ちになる。それは燭台の炎が揺らめいているせいなのか。
アデルが少し身を動かすと、ジルベルトがそれを手で制した。
「……少し、話そう。アデル。軽食も持ってきたんだ、あまり食べられなかっただろう?」
シルクのガウンに袖を通したジルベルトが口元に笑みを浮かべてワインの瓶を振った。良い匂いのするバスケットも手にしている。
「……そうですわね。ご相伴にお預かりいたしますわ、ジル様。」
アデルの返事に相好を崩したジルベルトは、アデルの肩にショールを掛けると手を差し出した。
流石にそんなことをされて何?とは言えない。アデルはジルベルトの手に自分の左手を乗せた。式の時に感じたように、皮の肥厚した男性の掌。左指のアイスブルーと同じ、ジルベルトの双眸が光る。
相変わらず彫刻の様に整った顔だと思ってから、視線を下にするとガウンの隙間から胸元が覗いていた。……身体も彫刻のようだった。ずるい。
ジルベルトに誘われて、寝室に備え付けられたカウチに座った。ローテーブルを挟んだ側で、ジルベルトがバスケットとワインの蓋を開けている。
バスケットからはワイングラスが二つと、焼き立てのカナッペが出て来た。クリームチーズやスモークサーモン、エビ、ハムにキノコのパテ。アデルのお腹がきゅうと切なげな音を立てた。
ジルベルトはワイングラスになみなみと注いで、アデルに一つ渡す。
「酒は嗜む?」
ジルベルトに問われて、少し、と答えた。
この国では16歳で成人だとされているため、21歳のジルベルトは勿論、18歳のアデルも立派な大人である。
「ええ、そうですわね。……家系柄、お酒や毒物への耐性を幼い頃から付けますので、酔ったことは無いのですが。」
「だよな。……王族も似たようなものだからな。」
ふっ、とジルベルトが笑ったのを見て、アデルも微笑む。お互いグラスを傾けて小さな音で乾杯すると一口煽った。香り高く、まろやかな味わいだ。
「おいしゅうございますわ。」
「気に入って貰えたのなら、良かった。実は、君の生まれ年に仕込まれたワインなんだ。」
「まぁ、そうでしたの……ふふっ。」
「ん?どうした?」
「いえ、失礼いたしましたわ。ジル様はロマンチストでいらっしゃるのですね。」
「……そうかな。そんなこと、初めて言われた。いつも部下には暴君だの容赦がないだのと苦言を呈される。俺はやり方を変えるつもりは無いけどな。」
お互い酒に酔うことは無い。だが、燭台の炎だけでゆっくりと進むワインは十分に二人の口を動かす、潤滑剤の役割を担ってくれた。カナッペも美味しい。
ジルベルトは物足りなかったのだろう。バスケットから殊更に大きなスモークチキンを挟んだサンドイッチを取り出している。
「あ、俺ばっかりだと悪いな。アデルもいる?」
「いいえ、カナッペで十分でございますわ。」
そういえば、ジルベルトの一人称が私でなく俺になっている。話し方も少し乱雑だ。
此方が素なのだろうか。
「先程の部下とは、ジル様がお連れになったと言われる≪虎≫の方々ですの?」
「ああ、そうなるね。……彼らは本当に、実力者揃いなんだ。日の目を見ること無いと知っていながら俺に付いて来てくれる。」
「ジル様のお人柄の賜物なのでしょうね。」
「はは、そう思いたいところだよ。……アデルにそんなことを言われるとくすぐったいね。」
「わたくしは思ったことを申したまでですわ。」
「そうか。……そういえば、≪虎≫の中に、間諜に適した女性隊員がいるんだが、実は持て余しているんだ。俺は女の間諜の役割には疎い。彼女達をぜひアデルに鍛えて欲しいと思っている。……第三王子妃付きの侍女としても置いて貰えるとありがたいのだが。」
「まぁ。そうですのね。そういうことでしたら、ご協力は惜しみませんわ。……しかし、わたくし付きの侍女というお話は、一旦彼女達に会ってからにしても宜しいですか?」
アデルはそう言ってアンナの顔を思い浮かべる。「おじょーさまの侍女はアンナだけなの!」という声が聞こえてきそうだ。会ってから見極めた方が良いだろう。
「ああ、それは構わないよ。その方が良いだろうな、すまない。急いては事を仕損じる、だな。」
「謝罪は結構ですわ。お心遣い感謝いたします。」
ジルベルトはバツが悪そうな顔をした。アデルを尊重したいという気持ちは本当らしい。
やり取りから、アデルを気遣ってくれていることがわかった。結婚により、主従関係でもあるのだから、一言命ずれば済む話であるのに。
アデルは一飲みにワインを煽る。ジルベルトのワイングラスは既に空だった。カナッペとサンドイッチもすっかり無くなって、腹もくちくなった。
こうなれば、することは一つである。
「そろそろ寝ようか。」
ジルベルトが視線を明後日の方向に向けて、何気なく口にした。アデルは「そうですわね。」と答える。
「………………。」
「………………。」
二人の間に妙な沈黙が流れた。
アデルは居心地の悪さから逃れるように、ジルベルトを待たずカウチから立ち上がる。
「アデル。」
ジルベルトが立ち上がったアデルの片手を掴んだ。アデルがジルベルトに視線を向ける。意を決したようにジルベルトが口を開いた。
「俺は君が好きだ。でも無理強いしたくない。君は、俺に抱かれたい?」
アデルは虚を突かれて固まった。ジルベルトに掴まれた手の先から、熱が身体中を巡る。そんなことを聞かれるだなんて思わなかった。
まさか、こんな時にまで尊重とか言い出すのだろうか。ムードとか考えた事無いのか、この王子は。
「……ジル様の御心のままに、とだけ。わたくしに言えることはここまでのようですわ。」
アデルは必死に頭を動かして、最適解と思われる返事を口にする。こう言えば、ジルベルトの都合の良いように受け取ってくれるはずた。
ジルベルトはそうか、といって視線を逸らす。アデルは顔に火が上ったように火照っていた。部屋が暗くて助かったものだ。
「俺は前にも言った通り、アデルが少しでも不本意だと思うことはしたくないんだ。」
「嫌だとは申してません。」
「でも、……本心では怖いんだろう?」
アデルは言われて面食らう。そんな素振りを見せた覚えはなかった。しかしジルベルトの視線に射抜かれてしまえば、心の奥深くまでを見透かされたようで。
「怖くなど……。」
「あ、図星か。声が震えている。聞いて良かったよ。」
今度こそぐぅっと言葉に詰まった。
怖いかと言われれば怖いのかもしれない。何しろ、色恋事に疎く育ってしまったアデルである。
仕事優先、恋は二の次。社交で知り合った令息達からの手紙は途絶えなかったが、お付き合いまで至った殿方は悲しいかな……一人もいなかった。
……でも。ジルベルトの凄まじい殺気を思い出して、胸の奥が疼いた。心のどこかでジルベルトになら、という思いもあったのだ。
アデルの想いを知ってか知らずか。ジルベルトは薄く笑って「無理もないな。ついこの間、顔を合わせたばかりの相手だ。」と言う。
だから、違うのだ。震えているのは断じて……怖いとかではなく、武者震いなのだ。
「君が俺に心を赦してくれたら、君を抱くよ。」
ジルベルトはそう宣言した。
「もう寝よう。……心配しなくていい。ベッドの中では君に指一本触れないと約束するから。」
両手を挙げて肩をすくめてジルベルトは笑って見せた。アデルは肩透かしを食らった気分で、ジルベルトに言われるまま布団へと滑り込む。
もともと大の大人4人寝られるかという広さのベッドだ。距離を取るには十分な広さがあった。
続いてジルベルトが布団を捲ると、いそいそとアデルと距離を取った端っこに丸まった。……マジで遠すぎなのだが?
(えっ?避けられているのはわたくしの方なの?)
「同じ布団で寝るのは許してくれ。体外的にも眠る部屋が違うと変に勘繰られるかねないから。でもこれだけ間隔が空けば君も安心だろう?おやすみ、アデル。」
返答しようと口を動かせば「あっ、あともう一つ」、と焦ったように続いた。
「……遅くなったが、今日の君は本当に綺麗だった。……本当だ。女神かと思った。」
暗がりの中ジルベルトの方を見た。しかし、彼は背を向けたままであり、その顔を伺う事は出来ない。
「おやすみなさいませ、ジル様。……貴方こそ、素敵でしたわ。」
ジルベルトのからの返事は無かった。そのまま互いの息遣いだけとなる。
アデルはもやもやとした思いのまま、なかなか寝付けない。しかし、布団が温まるとすぐに微睡がやってきた。
翌朝、熟睡後のスッキリとした目覚めを迎えたアデルであった。
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