悪女レディ・ルメリア・フィッシャーへ愛を捧ぐ
この世界に転生し、独りで生きれる術を手にして直ぐに彼女を探した。
島を出て国々をさ迷い噂を集め伝手を集め。
俺が十二歳になった時にやっと出会えた彼女は、自分の父親が連れて来た俺を見て小さな顔に驚きと困惑の色を浮かべて。
イレギュラーな俺の登場に戸惑いつつも、
「私はルメリア…、ルメリア・フィッシャーよ」
よろしくね、フェイ。と、子供特有の繊細且つ硬質な声でそう言った。
工匠が己の技巧の全てをもって作り上げた精巧なドールのような少女――ルメリアの、こちらに向けられた濃い紫色の瞳は、心に受けた深い傷の痛みと、癒えることのない喪失の悲しみによってまるで空虚なガラス玉のようで。俺は、あの一瞬で心を奪われたルメリア・フィッシャーの、その虚無感に支配された美しさを現実に目の当たりにして心を震わせた。
ああ…やっぱり、彼女こそが俺の運命の人だ、と。
***
「―――あの時、あの場で貴女に会えたこと、ああ…、あれこそが運命。
全ての物から色が消え去り、貴女だけが色鮮やかに浮かびあがる世界。今も続く私の世界! 二人だけの世界…っ!
まさに神の啓示、天啓、この世の真理。 ああ! 私の運命の人! 美しく尊い貴女からの愛に満ちた返事を一日千秋の想いで待っています。 デリック・ハロギンス
………、だそうです…」
ため息が零れた。
最早日課となってきた妄想迷惑文書を少しだけ、ほんの少しだけ苦々しい気持ちで読み上げて自室のソファーに座る主を見る。
優美な一人掛けのソファーに身を沈める主の華奢な肢体は、この国では決して大きいとは言えない自分の体よりも更に小さく細く、とても国を滅ぼす悪女となるようには見えない。
だけど、俺の主――レディ・ルメリア・フィッシャーは何れそんな悪女となる運命を辿る。それがこの世界における定義。
思わず零してしまった苦いため息に気付くことなく、渡した手紙を自らも一度目を通し、こちらを見上げたルメリア様が言う。
「運命なんて本当にあると思う? フェイ」
僅かに寄せられた緩い弧を描く形の良い眉。五年も側でずっと見続けてきたのだから、ちょっとした表情の変化も直ぐにわかる。
それは不快と、自嘲と諦観と。
「………さあ、どうですかね」
俺は曖昧に返事をする。
答えを求めていたわけではなくただ漠然と尋ねただけのルメリア様も「うん…」と呟いて瞳を伏せた。
二人共に、運命の否定を口には出来ない。
彼女にとっては、唯一愛していると声にして認めることが出来る亡き母親の言葉を否定することになり、俺自身にしても、運命をもってして今ここにいる。
それこそ本当に神様の仕業を得て。
盛夏は過ぎ、開けた窓からは涼しく心地の良い風が入り彼女の栗色の髪を揺らす。
そよぐ風に顔を向け、ルメリア様は午睡に入る猫のように気持ち良さそうに目を細めた。
その姿は、俺の心を縛り付けた、凄絶なまでに綺麗で、恐ろしくも美しい少女の姿には重ならない。
見つめる先で小さな欠伸が零される。
淡く色付いた唇が丸く開き、ハッと気付いて慌てて隠されたがばっちり見えた。
細くなっていた目もパチリと開かれてその動作は本当に猫のようだ。栗色長毛種の高貴な猫という感じか。俺は少し笑って声を掛けた。
「少し昼寝でもされますか?」
やはり眠たいのか緩慢に、でもはっきりとルメリア様は首を振る。
「今寝たら夜に眠れなくなるでしょ」
「ちょっとしたら起こして差し上げますよ?」
そう提案すれどもルメリア様はもう一度首を振る。
「夜はしっかりと寝たいの。出来れば夢なんて見ないくらいに」
その理由は明確過ぎるくらい明確で俺は黙った。だからもうひとつの提案をする。
「じゃあ少し散歩にでも行かれますか? 日差しも大分穏やかになってきたことですし、王立公園のヒース丘も見頃らしいですよ」
「……フェイも来てくれる?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ行くわ」
「了解です。では家の者に伝えてきますね」
**
目的地の王立公園は晴れ渡る青空とちょうど良い気候で思ったよりも人出が多い。ちょっと場所の選択を間違えたかも知れない。
街とは違い、公園で散策ともなれば上流階級な人間が多い。必然的にここにいるのがルメリア・フィッシャーであるとわかる者も多いということ。
俺は開けた日傘と自分の体でルメリア様を隠す。
「ねぇ、フェイ? 歩きずらいし見えにくいんだけど」
不満を言われた。
「ここら辺は見る所なんてないですよ。歩きずらいのは我慢してください」
じっと見上げてくるルメリア様に、そこは譲れないと伝えれば、仕方ないというように「そう…」と呟く。その顔には不満と疑問が浮かんでいる。けれどそれこそ仕方ないと思ってもらうしかない。直ぐに隠したとはいえ隠しきれるはずもなく、ルメリア様であることはバレている。
まぁ、いつも一緒にいる従者である俺がまんま顔出しなんだからそりゃバレる。
俺は歩きながら取りあえず落ちている木の実を拾った。
そして顔にありありと、あからさまな目的を浮かべ意気揚々とこちらに近付いて来る男たちを目の端で見据え、その鼻っ柱に気付かれないよう手早く木の実を投げ付けた。
「ぐがっ!」「うぐ!?」
短い呻き声が上がり踞った男たち。俺はほくそ笑む。
「……フェイ?」
胡乱げな目がこちらを見上げている。それは俺が、ルメリア様が言うとこの胡散臭い笑顔を浮かべていたからだ。
なのでその笑顔のまま「さ、早く行きましょう」とさっさとその場を立ち去った。
誰かが言っていたようにルメリア様の周りには要らない虫が湧き過ぎる。
彼女は蜜であり花なのだと。
一面に広がる淡紅藤色のヒースの花を背景に立つ少女。まるで一枚の美麗な絵画のようだ。虫となってでも側に寄りたいと思う気持ちはわからないでもない。が、彼女が望まない限り寄せるつもりはない。
神様からもらった、この世界では不必要な充分過ぎるスペックも、『害虫駆除』というとても地味な使用用途ではあるがあって良かったと感謝している。
そして今も、こちらへと向かってくる虫――というか服装からして毒蛾?を、どうすべきかと思案する。
男であれば先ほどの二人同様少々痛い目をみてもらうとこだけど、生憎と今向かって来るのは女だ。形相からして余りよろしくない感じだが、流石に何もわからない状況でこちらから先に手を出すのも気が引ける。ただし男なら話しは別だが。
そうこうしているうちにヒラヒラとした派手な装いの女は目の前に来てしまい、俺はルメリア様を庇うように間に立ち、ルメリア様も俺の動きに気付いて振り向いた。
振り向いたルメリア様を見て、女は一瞬唖然とした顔で固まった。だけど直ぐに気合いで顔を戻す。
「貴女が…、ルメリア・フィッシャーね?」
何とか落ち着いた声を出してはいるが醸し出すものは怒りに満ちていて、それを向けられたルメリア様は困惑に眉を寄せる。
「そうですが。 あの…、貴女は?」
「私は、マデリーン・ダントン。…デリック・ハロギンスの婚約者よ」
デリック・ハロギンス――、ああ…なるほど。ラブレターの主の恋人か。
にしても偶然ここに居たのか、それとも付けて来たか。門のところで行き先を御者に話していたし、確実に後者だろうなぁと俺は目を細める。
「それで、マデリーン様は私に何か?」
もちろんルメリア様は妄想迷惑文書の送り主の名などいちいち覚えていない。なのでその発言。女は一気に顔を赤くした。
「――は!? 貴女何言ってんの! デリック・ハロギンスは私の恋人だって言ったのよ!」
「…デリック、ハロギンス様…?」
「知らないとでも言うの!? なんて白々しい…っ! 貴女がデリックを誑かしたんでしょ!? じゃなきゃ彼が私に対してあんな冷たい態度を取るはずないもの! 私たちはねっ、結婚の約束をしていたの! 愛し合ってたの! なのに急に別れようだなんて……っ!
――というか、アンタさっきから邪魔なのよ! 私はこの人と話してるんだから退きなさい!」
徐々に、ルメリア様を完全に隠すように立ち位置をずらし、邪魔だと言われた俺は喚く女に冷めた目を向ける。
「そう言われても退くわけないでしょう? それにそんな剣幕じゃあ話すって言うより脅しですよ」
「はあ!?」
「そもそも、話す相手間違ってません? 誑かすどころかルメリア様は貴女の恋人に会ったこともないですから。貴方が話す必要があるのは恋人とでしょう。……ああ、そうか、既に話しも聞いてもらえないと?」
「――なっ!!」
「大体、貴女の恋人のデリックさんが何処かで勝手にルメリア様を見初めてのぼせただけで、こっちは全く関係ないですよ。しかも手紙で運命の人とか書いてるし、あり得ないし気持ちわ――」
「フェイ」
ルメリア様に遮られた。
なのでそこまでで止める。止めたのだが。
最後の一言は、自分にとってもブーメランだった。運命の人など、知らない相手から向けられれば確かに気持ち悪い。
なので反省する。
「すみません、マデリーン様。本当のことを言い過ぎました」
「はあぁぁぁ!!」
謝ったと言うのに今まで以上にすごい形相で睨まれた。
「主人が男を誑かす悪女なら、従者は口汚い悪魔ってことね!! 気分が悪いので失礼するわ!!」
言い捨てて、害虫は去って行った。
来る時も去る時も唐突で、虫と言うよりも騒がしい早朝の雌鶏のようだ。
「いやー、聞きました? ルメリア様が悪女で俺が悪魔らしいですよ。なんか俺の方が悪そうですね」
「………フェイ」
「はい」
「私とお母様の約束覚えてるよね」
「反省してます」
笑顔で言えば小さくため息を吐かれた。
悪女にはならない。そして幸せになる。それが約束。
いつの間にか遠巻きに人だかりが出来、見事に注目を浴びている。「今日はもう帰りましょうか?」と尋ねれば、ルメリア様は頷いた。
**
帰りの馬車でルメリア様が言う。
「さっきの女性が今日の手紙の送り主の恋人ってこと?」
「みたいですね」
「でも恋人がいるのになんで私に手紙を送るの? 愛し合って結婚の約束までしてるのに」
「はぁまぁ…、それは彼女の話しに寄ればなんで」
「相手は違うと?」
「どうでしょう? 愛の形なんて人それぞれなんで。 ただ二人の愛が確かならルメリア様にあんな手紙は送らないでしょうけど」
「……それは、お母様が言っていた、唯一ではないってこと…?」
何とも言えない顔だ。それでも秀麗であることは変わらない。
ルメリア様は馬車の窓へと顔を向けた。
「やっぱり愛なんていらないね」
小さく零された声は返事を求めるものではなかった。なので俺も答えることなく。新たに十七年生きてきて、流石に見慣れたこの世界の街並みに目を向けた。
近世のヨーロッパ――というところか。
結局ひとつも読み進めないままにこの世界に来た。一応、チュートリアル的なあらすじだけは頭の中に流れてはきたが、あくまでそれはあらすじで。
『レディ・ルメリア・フィッシャーは国をも滅ぼす悪女であり、その非道は十六歳のデビュタントの時から始まる』
と、すごく漠然としたものだ。
後はルメリア様本人からと彼女の父親から聞いたもの、それと――、母親の手記。
大切に保管されていた手記は誰にも読めない文字で書かれていて、何故か俺だけが読めた。
つまりはそう言うこと。
ルメリア様の母親は経緯は違うかも知れないがきっと俺と同じ。
亡くなってしまっていたのは残念だけれどその手記は有難かった。
ルメリア様は俺が読めたことに驚いてはいたが、書いてることがわかるのが嬉しかったようで俺がそれを読むことには何も言わない。 謂わばこれは攻略本とも言えるけれど、色々と変わってしまった今どこまでそれが通用するのか。
なんせ俺という存在がいて、ルメリア様も悪女とならない為の努力をしている。
その努力が実を結ぶかどうかは、今はまだわからないけど。
**
その努力の一環として、俺はクソガキどもを投げ飛ばす。
「うっわー!! スゴいスゴい! もっかいやってよ!」
「いや、ムリ死ぬ…。お前らの体力は無尽蔵か…」
「えー、いいじゃん、やってよー」
「ねーねー、ねえってばー」
「………」
「おーい、フェイ兄ちゃん聞いてるー?」
「………」
「よしっ! みんな、一斉に飛びかかれ!」
「はあっ!? ちょっ、お前ら、待てっ――」
無事、死んだ。
「お疲れさまフェイ」
ルメリア様が芝生の上で伸びている俺に声を掛けた。
「フェイは相変わらず人気だね」
「これを人気という言葉で終わらすべきか…」
「だけど子供たちは楽しそうだったよ」
「ならいいですけど」
そう言ってグッと腹筋で起き上がる。
横に立つルメリア様の頭の上には歪んだ花冠が3つ。
「ルメリア様も可愛らしいもの着けてますね」
「そう、女の子たちがくれたの」
少しだけ顔を綻ばせて言う。
子どもが作ったのだろう、歪で今にもバラけそうな、決して美しいとは言えない野花の冠。だけど宝石で装飾された冠なんかよりも余程ルメリア様には似合う。
それは当然そうだ。飾らなくても彼女自身が美しいのだから――、などと瞬時に思ってしまうあたり俺も随分とアレだ。
でも大丈夫だ、自覚はある、ありすぎる。何せそれで転生先を急遽変えてしまうくらいには。うん、やっぱダメだわ。
―――孤児院への慰問。
脱悪女対策の美徳の要素も含むが、これはルメリア様の母親が情緒教育の為にと始めたもので、それを今も継続している。
子どもたちとただ遊ぶことが目的らしい。でも、「みんな私には遠巻きなの…」と俺とクソガキどものような遊び(抱えて投げ飛ばす)をしてくれないとルメリア様は言う。そりゃ無理な話だ。
ちなみにお母様はそれをしていたらしい。逆にスゴい。
俺に対してとは大分違う態度の、はにかみ照れるクソガ…子どもらに手を振って孤児院を後にした。
孤児院はフィッシャー家からは徒歩でも二十分程。なので散歩を兼ねて歩いて来た。ルメリア様にはブリム付きのヘッドドレスを着けてもらい顔を見えにくくしたのだが、逆に似合うわ可愛い過ぎるわヤバい。
そしてタイミングもクソ過ぎてヤバい。
向こうから歩いて来た人物が、爽やかな笑みを浮かべ話し掛けてきた。
「やあ、見慣れた顔だねぇ」
「いえこちらは存じ上げません失礼します」
息もつかずに言い捨て、そのまま立ち去ろうとしたのにルメリア様が足を止めた。
「うん、やっぱり。久しぶりだね、ルメリア」
ブリムの下を覗き込み、端正な顔に喜色を浮かべた男。ルメリア様が挨拶を述べる。
「ご機嫌よう、リッツラント侯爵様」
主の相変わらずの平坦さに、舌打ちが出そうになるが飲み込む。少しでも嫌だという素振りを見せたらさっさと立ち去るのに、残念ながらルメリア様はこの男には嫌悪を持ってはいないようだ。
だけど。何時もとは違い、男の後ろに見えたもの。
俺は打って変わってにこやかに話し掛けた。
「こんにちわ侯爵様、今日はデートですか? だったら私たちにかまけていないで早く行ったらどうです?」
「ん? いや、デートなんて…、――ああ、彼女のことかい?」
チラリと侯爵が視線を送った先には、ルメリア様よりは百万倍劣…いや、比べることすら馬鹿馬鹿しいが、それなりに綺麗だろう女性がいる。
「彼女は道に迷っていたんだよ。で、案内はし終ったんだけど…」
ちょっと言い淀んだ侯爵は思ったより実はいい人なのかも知れない。
多分なんやかんやと言って勝手に付いて来たんだろうなぁと、それなりな女を半目を通り越した糸目で見る。
そんな侯爵の心遣いを気付かないのか、勘違いをしてるのか、女は本人的に自信があるのだろう笑みを浮かべて前へと出て来た。何故かルメリア様と向き合うように。
「ええ、そうです。お優しい侯爵様がとても丁寧に案内して下さいましたわ。場所はもうわかりましたので、今からそのお礼をしたいと思ってますの」
残念だけどその自信は無謀って言うんだぞ。思わず失笑しそうになったのを何とか抑え、丁度良いのでその話しに乗る。
「ああそうなんですね! ほら、やっぱりデートのお誘いじゃあないですか侯爵。いやですねー」
「おい、ちょっと待て。そのやり方はズルいだろう」
「何がです?」
済ました顔で答えれば侯爵は苦虫を噛み潰した顔になった。それでもイケメンだ。
「もともと私は今日はフィッシャー家に向かう予定だったんだよ。だから今からと言われても困るし、そんなことでワザワザお礼なんていらないよ」
「そんなことってっ…、ひどいですわぁ侯爵様」
「うちに用事が?」
媚びた女の声とルメリア様の怪訝そうな声が重なった。
「そう。美味しい紅茶が手に入ったんだ。ルメリアが好きそうだと思って。午前中に先触れは出したんだけどね。見てない?」
「あ、今日は朝早くから出掛けていて。…すみません」
「ルメリアが謝ることじゃないよ。それよりこれ、このお茶、入れるのにちょっとコツがいるんだ。だからまずは私が入れさせてもらってもいいかな?」
要するにフィッシャー家にて自分にお茶を入れさせろと言っている。
当然のように侯爵はルメリア様との話しを優先して、もう一人は完全に蚊帳の外だ。
屈辱でプルプルと震える姿が見える。やっぱり対抗馬にも成らなかったか。
「私っ、失礼しますわ!!」
何だかデジャブ感のある形相と勢いで、女は定番の捨てセリフを吐いて去って行った。
ルメリア様も同じように感じたらしく一度俺を見て小さなため息を吐き、それから侯爵を見た。
「良かったんですか?」
「え? いや、元から君の家に行く予定だったって言ったよね?」
「そうですけど…。あの方は侯爵様と一緒にいたかったのでは?」
「ふーん、そういうのは読むんだ」
と、侯爵は笑いながら歩き出す。向かう方向はフィッシャー家。足取りは淀みない。
「君程ではないけれど、私もそれなりに人を寄せてしまうたちでね。それは地位だとかそういうものも関係してくるけど」
まぁそうだろうな。と侯爵の少し後ろをルメリア様と並び歩く。容姿も良い、地位もある、きっと金もある。そりゃあ放っては置かれまい。
「それを今まではどうでも良いかと思って放置していたんだけど…。 だけどこの前君に断言した手前、私自身が不誠実でいるわけにもいかないだろ」
「この前? ……何か、話しましたっけ?」
「覚えてない?」
肩越しに振り返った侯爵はこちらを見る。ルメリア様に向けてのようだが、視線は確実に俺を見ている。
それが何時のどの時の話しかはわからない。ほぼ付き添っていたとはいえ俺がいない時の話しもあっただろう。
だけど話しの流れから何となく読める。これは宣戦布告だ。
不誠実を止める。誠実になる。その意味。そしてそれは誰に対してか。
俺は渋い顔で侯爵を見やる。
現状、優勢なのは確実に俺だけど、ルメリア様は侯爵の存在を受け入れてしまってる。今は、友情という形で。
愛情を受け入れないからこその友情という名の手段。
さて、その手段はどこまで有効か。
「まぁ覚えてないならそれでもいいよ。どちらにしても私は好きでもない相手と安易に親しくする気はないってこと。愛を向けるのは一人だけだから」
最後の部分で侯爵は意味深な感じでルメリア様を見つめた。が、残念ながらルメリア様はうわの空だ。 そのうわの空のままに呟く。
「愛を…、誓い合う相手がいるのに、他の人間に愛を囁くって、どうなんですか?」
「えっ! 何、急に!? 俺…、愛を向けるのは一人だけだって言ったよね!?」
侯爵、動揺で主語が「俺」になってるぞ。というか、ルメリア様、まだ引きずってたんですね、ソレ。
「あ、いえ、侯爵様のことを言ったわけではなくて。 愛する人が…、それが、唯一だという確証なんて出来ないですよね? 人の心が絶対だなんてそれこそ。 変わらない心を持てる人なんて、きっと亡くなった人だけ。それは絶対に変わりようがないし信じられる」
いつになく饒舌にルメリア様は話す。
話しながら思い描く相手は間違いなく彼女の母親だ。俺がどうあがいても勝てない相手。
自らの愛するという気持ちを認めない、拒む、ルメリア様だけど、母親の残した言葉に対してはきちんと真摯に考えているんだろう。
侯爵がどういうことだ?と言うようにこちらを見るが無視だ。
侯爵は少し顔をしかめ仕方ないと。
「一応、世間一般的な話しではあるけれど、確かに人の心は移ろいやすいものだね。それに誠実でない男も沢山いる」
でも私は違うからね。と、いちいち一言挟んでから続ける。
「心や想いが絶対に変わらないとは言えないし、亡くなった人の想いを引き合いに出されると常に誘惑に晒されて今を生きる人間は勝ち目なんてない。 けれど、結局のところそれはその人間個人の問題だよね? その形は色々と変化してゆくかも知れないけれど、唯一と定めた愛を最後まで全う出来る人もちゃんといるよ」
「最後まで、全う?」
「君には少し酷な話しかもしれないけど、それこそ死が二人を分かつまで。共に生き共に死ぬ、墓まで一緒だ」
ルメリア様の眉が寄った。
「でもそれじゃあ、唯一の愛は死でしか叶えられないということなのでは?」
「あ――、…あー…いやー…、そういう話しではないんだけどね。 確かにそうとも取れるよね…」
ダメじゃん侯爵様。途中までいい感じかと思ってたのに詰めが甘いだろ。
眉を下げ再びチラリとこちらを見た侯爵をやはり無視して、俺はルメリア様に言う。
「ルメリア様取りあえずその思考は破棄しましょう。それ以上はお母様が嘆きます」
「………」
「いえ、そんな目で見ても駄目です。 大体ルメリア様自身が言ったんですよ『私がお母様の望まない行動を取ったら注意して』って。忘れました?」
「………覚えてるわ」
「じゃあ、この話しは終了で。 さ、侯爵、とっとと行きましょう」
侯爵は露骨にホッとした顔をする。これは敵に手を貸してしまったか?
いや、貸し一つだな。と勝手に決めて、その後は他愛のない会話で家へと向かう。
―――が。
「何でお前がここにいるんだ!」
「それは貴方の方でしょう! 今日は私と指輪を見に行く話しをしてたじゃない、忘れたの!?」
「それは…っ! ――いや、もう終ったことだ!」
「はあ!? 何言っているのよデリック! 終ったって何! まさか私と貴方の関係のことを言ってるんじゃないでしょうね!?」
「ああそうだよ! 俺はルメリアを愛している、彼女こそが俺の運命の人だ! だからお前とは終わりだ!」
「ふざけないで! そんなの認めないわ!」
うん、何これ。
フィッシャー家の門前で繰り広げられている光景に遠い目となる。
「えーっと、知り合いか?」
「そう見えますか?」
「いや…」
尋ねた侯爵も何とも言えない顔で口を濁し、ルメリア様に至っては呆気に取られて無言だ。
見覚えのある騒がしい雌鶏と言い争っている男。会話からするにその男があの手紙の主のデリックだ。
呼び出されたのだろう困り顔の家令がこちらに気付き、慌てたように裏へ回れとジェスチャーを送るが既に遅い。
「ああ――、ルメリア!! 俺の愛しい人!!」
「ちょっと…っ、デリック!?」
気付いた男が凄い勢いで向かって来たので、ルメリア様を背に庇い侯爵も直ぐにそれに倣った。
「誰だアンタは!? 退いてくれ、何故邪魔をする!!」
「名を尋ねるのならまずは自分が名乗るのが先だと思うが。 そうだね、私はリッツラント侯爵と呼ばれることが多いかな」
「――は…」
俺がルメリア様の従者であることはほぼ周知で、もう一人の見知らぬ存在である侯爵に盾ついたのだろうが、名乗られたことでむしろ固まった。しかも珍しく侯爵は不快な表情をありありと浮かべていて、端正な顔のそれはなかなかに迫力がある。ズルいな、イケメン。
追い付いたマデリーンなど頬を赤らめ違う意味で固まってるし。
「あ…、いや、侯爵様とはつゆ知らず。俺…いえ、私は、ルメリアと話しがあるんです。あの…、退いていただけないでしょうか?」
「ルメリアは話しなどないと言っている」
「そんな……っ!」
言ってないけどね。ルメリア様は未だに背後で呆れたままだ。だけど侯爵の意見には同意する。よくわからない奴とルメリア様を話させると思うか?
背後に庇ったルメリア様と冷たく見下ろす侯爵の間で男の瞳は揺れ、そこには葛藤が見える。だけど暫くさ迷った視線は突如ピタリと止まり、定まった視線は侯爵を睨め付けた。
ああ…結局、みんなやはりそちらを選ぶのか。
男が歪めた顔で口を開く。
そしてまさに今、行おうとしていた暴挙を、それを諌めたのはマデリーンだった。
「駄目よ! デリック!」
女は男にすがり付く。
「いい加減に目を覚まして! 貴方ホントにおかしいわ!? そんな侯爵様に盾つけるような性格じゃなかったでしょ! どうしちゃったのよ!?」
ルメリア様の手が俺の背中に触れ、きゅっと服がきつく握りしめらる。
「うるさいっ! うるさいうるさい!」
「――きゃ…っ!」
男は女を振りほどき、払いのけられたマデリーンの体を侯爵が支えた。
「おい…、女性に無体を働くのは男としてどうかと思うぞ。仮にも愛し合っていた仲だったのだろう」
「うるさいうるさいうるさい! あんなのは愛じゃないっ、今ルメリアへと抱えるものこそが本当の愛だ!」
「……デリックっ、何を――」
「この、狂おしい気持ち! 何かもを擲ってさえも構わないと思う気持ちっ! 今の俺は、ルメリアの為なら何でも出来るっ、侯爵だろうと関係ない! ――ああルメリア…、そう、…そう関係ない、君だけ…、君だけなんだ! ルメリア…! さあ、俺の愛を受け取ってくれ。愛してるんだ…、ルメリア!!」
恍惚の表情で滔々と語る男に侯爵は不快そうに更に顔をしかめ、女は自分の恋人であったはずの男を見つめ戦慄く。
「……は、何よ…、これ…? こんなの、私が愛したデリックじゃないわ。 こんなのっ……、…狂ってる…っ!!」
狂っている。その言葉は正しい。男の瞳は狂喜に満ちて、今はもうルメリア様しか映していない。
握られた背の部分が小さく揺れた。
「………フェイ…」
「駄目です。退きませんよ」
この状況で名を呼ばれることの意味なんて直ぐにわかった。案の定。
「フェイ? 話すだけよ」
「それでも無理です」
「……フェイ」
「………」
「……お願い」
「駄目です」
「手を握ってくれてたら大丈夫だから」
「――は?」
思わず振り返ってしまった。
俺の服を握りしめこちらを見上げるルメリア様。それは駄目だろう。
俺はため息を吐いた。
「………危ないと思ったら直ぐ止めますからね」
「わかってるわ」
何時ものことのように、ハイと差し出された手を取る。エスコートするようにルメリア様を背後から出した。
侯爵が焦った顔で「ルメリア、出て来ては危ない」と言うがそれに首を振って。
「私が話した方が早いと思います」
結果がどうあろうと。望むものでも、望まぬものであっても。狂わせたのが自分であり、求めるものが自分であるならば。
だけど――。
「私が誰も愛することはないって」
ルメリア様が愛を受け取ることはない。
男はやっと完全に姿を見せたルメリア様に歓喜に顔を輝かせ、発せられた言葉にその顔を曇らせた。
「……ルメリア…? 今、何て…?」
「貴方が、私をどう思おうと何を言おうと、私がその想いに酬いることはない、と言ったんです」
改めてはっきと告げたルメリア様の表情は平坦で何も変わらない。男も、同調したように表情を消し――、その後、ゆっくりと口の端を上げた。
「……なら、それでも、構わないと言ったら?」
「え…?」
「俺が、勝手に想うだけ。いつも、いつまでもずっと。 君を思い、君のことを考え、君の為に動く。誰の許可もいらない、もちろん君の許可も。だって想うという行為は自由だからね」
「――…それに、…何の意味が、」
「意味? 意味なんてどうでもいいよ。俺が、君を愛している――というだけのこと。俺が起こす行動、結果、全部が君を愛するが故で、それだけのことだね」
ああ、しまった。コイツは、たちの悪い相手だった。狂行愚行を自分の中で正当化させて開き直るタイプ。 その行いがルメリア様が望まないものだとしてもだ。
繋がれた手に力が入る。そろそろ潮時か。「しょうがないな」と、行動に移そうとしたところで、男が小さく呟いた。
「……でも、ひとつだけ許せないな…。それは、許せない」
昏く淀み始めた目で男は一点をひたと見つめる。
「誰も愛さないと言うなら、その手は駄目だろう? そんな、ただいつも側にいるというだけの、従者でしかない男の手など…、君は取るべきじゃあない」
男の淀んだ目が見つめる先はまだしっかりと握られている二人の手だ。
「私が、誰の手を取ろうとそれは私の自由よ」
「ハハ…、馬鹿なことを。侯爵ならいざ知らずそんなただの従者なんて」
「フェイはフェイで、そんなの貴方に口を出されることではないわ」
「さぁ、ルメリア…、手を離すんだ」
「嫌よ」
いつになく断固とした態度を取るルメリア様。多分彼女は怒っているのだろう。母親が言う唯一、そうでない移ろう不埒な愛を声高に主張した男に。
「ルメリア様」
俺は殊更ゆっくりとルメリア様の名を呼び、繋がれた手に更にもうひとつの手を重ねた。
「フェイ?」
俺の行動に、ルメリア様はこの場にそぐわないような、逆に正しいような顔でこちらを見上げ、俺は笑顔でそれを見下ろした。
はたから見れば手を繋ぎ見つめう、そういった仲の二人に見えるだろう。たとえその表情がかたや胡乱げで、かたや胡散臭くても。淀みきった目ではきっとわからない。
視界の端で男の体が揺れた。
「……許さない、許さないぞ…っ、そんなこと! ルメリアが断るならば、貴様が…、貴様が手を離せ!!」
俺はその笑顔のまま男を見た。
「……ハッ、お断りです」
「そこで煽るのか…」と呆れた侯爵の声と、「このっ従者風情が!!」と激昂する男の声が重なった。
俺はルメリア様の手をそっと外すと、また背後へと隠す。そして正面へと顔を向けた。
この国の大概の男たちは、体格的に所謂東洋人である俺よりも一回りはデカい。なので侮られることは多い。現に今も、俺の体格を見ていけると踏んで向かって来たのだろう、緩慢としか思えないスピードで近付く男を、俺は呆気なく組伏せた。
うん、全くもって他愛ない。
背中から勢いよく落としたので、「かは…っ!」と息を詰めた男をうつ伏せに変え、手と足を押さえる。家令が呼んでくれたのか、程なくして憲兵がやって来た。なので男はさっさと託した。
被害もなくただの迷惑行為だけなので直ぐに釈放されるだろうから、後は旦那様か侯爵に手を回してもらうことにしよう。
そう算段をつけて、ルメリア様にもそれを伝えようと振り向けば、ルメリア様はマデリーンと向き合っていた。
「……貴女のせいよ…、何もかもっ、貴女のせいっ!」
「………」
「貴女が居なければ、私たちは幸せな恋人のままでいれた! 貴女さえ居なければ…っ」
「………」
ルメリア様は淡々とマデリーンからの非難を受け取っている。その変わらない表情に女は一層顔を歪めた。
「……憐れんででもいるの?」
「そんなことは…」と、小さく発したルメリア様の声に女はハッ!と鼻を鳴らした。
「いっそ嘲笑えばいい。 貴女が何もしなくたってデリックのようになる男は沢山出てくるわ。 そんな狂っていく人たちを見て嘲笑えばいい。その方がきっと貴女にはお似合いよっ!」
ルメリア様は反論する気がないらしく黙ったまま視線を伏せた。流石に、いい加減口を挟もうと一歩踏み出したら、こちらへと緩く首を振る。
何も言い返さないルメリア様に女も徐々に張り合いをなくしたのか「……もう、失礼するわ」と、前回と同じ、でも随分と勢いのなくなったセリフを残し立ち去った。
見送るルメリア様に近付く。表情は見えない、けれどきっといつもと同じなはずだ。
憲兵とのやり取りを終えた侯爵がこちらに来て、振り向いたルメリア様は思った通り何の感情も浮かべてはいない。 ―――ように振る舞えていると、バレていないと、思っているのは本人だけ。
今は侯爵にさえもバレている。
「お茶はまた今度にしようか」
眉を下げた侯爵は小さく笑って、そう告げて引き上げて行った。
**
侯爵を見送ってルメリア様は家の門をくぐり俺はその直ぐ後ろに倣う。
玄関まで続くアプローチの左右には花壇が設けられ、初秋の草花が揺れている。
幾つか咲き出した秋薔薇。風にそよぐ草茂に華やかな彩りのダリア、その向こうには紫の小さな花を咲かせるアスターの群生。
それらに目を止めることもなく、無言で歩くルメリア様の歩みは徐々にゆっくりとなり、とうとう止まった。
「……胸、貸しましょうか?」
「………何?」
怪訝に振り返るルメリア様に、にこやかに笑って腕を広げれば半目で睨まれた。
「泣きたいのかと?」
「……そんなことないし」
「そうですか?」
「そうだよ」
速攻で言い切られ、ふいと顔を背けたルメリア様はまた足を進めた。
歩みと共に高い垣根が途切れ、夕日が顔を出す。辺りは赤く染められルメリア様も染まる。
赤く赤く、染められるルメリア。
今ここでの話しではない。いつか訪れるかもしれない未来のルメリア。
彼女は俺の運命の人。
あの男と大して変わらない考えを抱える自分に苦笑が浮かぶ。
だけどそれは絶対に、間違いなく。
「ルメリア様、愛してますよ」
もう一度振り向いたルメリア様は少しふてたような顔で睨む。その顔が赤く見えるのは夕日だけのせいじゃないと思うのは俺の願望か。
「フェイはしつこい」
「そりゃそうですよ、俺が今生きている理由がルメリア様なんですから」
「………何、それ」
若干引かれたようなので笑って誤魔化した。
***
重い、重い執着。
あの一瞬で囚われた想い。
変わる未来をルメリア様が望むのなら俺はそれに従おう。
だけど、どれだけ努力しようとも訪れる未来が、彼女をあの赤く燃える一瞬へと導くのなら。俺はきっと迷うことなく殉じる。
最後まで、「愛している」と言いながら。