虚無の対話 ― 救えなかった者と、救い続ける者
夜の記録庫。
灯りは落とされ、
書架の隙間から淡い光だけが漏れている。
誰もいないはずの空間に――
“気配”だけが、あった。
音はない。
形もない。
だが、確かにそこに“在る”。
アリアが、静かに息を呑んだ。
「……来ています」
俺は一歩前に出る。
「……分かってる」
虚無の調者。
だが今回は、襲撃ではなかった。
空間がわずかに歪み、
“輪郭のない影”が、静かにそこに留まる。
――ここは……
――消す価値が……低い……
レイナが身構えようとするが、
レンが小さく首を振る。
「……違う。
これは……“対話”だ」
虚無は、こちらを“見て”いない。
ただ、存在している。
俺は、先に口を開いた。
「……なあ」
「お前は、救えなかったんだろ」
空間が、わずかに揺れた。
――……
――過去は……不要……
「違う」
俺は続ける。
「不要にしたいだけだ」
沈黙。
だが、その沈黙には――
拒絶よりも、疲労があった。
⸻
◆ 救えなかった世界
虚無が、初めて“言葉”を返した。
――救えなかった
――間に合わなかった
――意味は……無かった
アリアが、ゆっくりと前に出る。
「……あなたは……
救おうとしたんですよね」
虚無の影が、わずかに歪む。
――救おうとした
――だから……失った
――だから……意味を消した
「違う」
アリアは、震える声で言った。
「救おうとしたからこそ……
あなたは“意味を知った”んです」
虚無が、強く反応する。
――意味は……苦しみ……
「そうです」
アリアは頷いた。
「苦しいです。
失うのは、怖いです」
「でも……
苦しいってことは……
大切だったってことじゃないですか」
虚無の空間が、ざわめく。
――大切……
――失った……
――だから……無に……
俺は、その言葉を引き取る。
「無にしたら、楽か?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて――
――……楽ではない
――ただ……痛みが……薄れる……
「薄れるだけだ」
俺は、はっきりと言った。
「消えない」
「救えなかった事実も、
救いたかった気持ちも」
「全部、残ってる」
虚無が、わずかに“揺れた”。
⸻
◆ 救えなかったことを、救う
虚無の声が、低く、かすれる。
――私は……
――全てを正しく救いたかった……
アリアの目に、涙が浮かぶ。
「……無理です」
その言葉に、全員が息を呑む。
アリアは続けた。
「全部を救うことは……
誰にもできません」
虚無が、静止する。
――なら……
――意味は……
アリアは胸に手を当てた。
「……それでも……
“救おうとした”ことは……
消えません」
「間に合わなかった命も……
あなたが無意味にしたわけじゃない」
虚無の輪郭が、初めて“揺らぎ”を超えた。
――……
――救えなかった者に……
――意味は……あるのか……
俺は、答える。
「ある」
「救えなかったからこそ、
次を救おうとする理由になる」
「救えなかったことを、
無かったことにしない」
それが、俺たちのやり方だ。
⸻
◆ 虚無が恐れていたもの
虚無は、長い沈黙の後、
静かに問いを投げた。
――語り続ければ……
――痛みは……続く……
レイナが、一歩前に出る。
「うん。続くよ」
「でもね……
痛いままでも……
誰かと一緒なら、耐えられる」
カイが腕を組む。
「一人で抱えんなって話だ」
レンが静かに言う。
「意味を消すのは、
“一人で背負う”ための逃げだ」
「繋がるなら、
背負う必要はなくなる」
虚無の存在が、わずかに縮む。
――……私は……
――一人だった……
その一言は、
これまでで最も“人間”だった。
アリアは、そっと手を差し出した。
「……今からでも……
一緒に背負いませんか」
虚無は、その手を取らない。
だが――否定もしなかった。
――……私は……
――消すしか……知らない……
俺は言った。
「なら、学べ」
「消すことしか知らなかった奴が、
守ることを覚えたっていい」
虚無は、しばらく沈黙した。
そして――
――……観測を続ける……
それは、撤退でも、降伏でもない。
**“保留”**だった。
⸻
◆ アリアの選択
虚無の気配が薄れ始める。
だが消える直前、
アリアへ“視線”のようなものが向けられた。
――生きた鍵……
――お前は……何になる……
アリアは、迷わず答えた。
「……私は……
“救えなかったことも含めて記憶する存在”になります」
「消させない。
忘れさせない。
でも……押し付けない」
虚無は、初めて“揺らぎ”を止めた。
――……それは……
――苦しい役目だ……
アリアは、微笑んだ。
「……はい。
でも……一人じゃないので」
虚無は、何も言わず、
静かに――消えた。
完全な消失ではない。
距離を取っただけだ。
⸻
◆ 救えなかった者の名前
夜が明ける。
記録庫の机に、一枚の紙が置かれていた。
そこには、見慣れない名前が一つだけ、
丁寧に書かれていた。
「……これ……」
レンが目を細める。
「虚無が……
最初に救えなかった人間の名前だ……」
アリアが、そっと紙に触れる。
「……忘れない」
俺は頷く。
「それでいい」
救えなかった者の名前を、
無かったことにしない。
それが――
虚無に対する、最大の反論だ。
カイが静かに言った。
「……戦いは……終わったのか?」
俺は首を振る。
「いや」
「でも……
次は“消し合い”じゃない」
「“語り合い”になる」
世界はまだ脆い。
だが――もう、空っぽではない。




