#5 アンディアの虎
乾いた砂地に血が吸われていった。
穴だらけの体に痛覚はない。敗北してなお死んでいない歯痒さ。一言すらも喉を通らない無力さ。
視界に映り込む少年と殺戮者を見ると涙が止まらなかった。
★ ★ ★ 十分前 地下空間
またお前か。
蕩けた意識が焦がれる。獣の色に染まった。
ナクサトロズの中でも特に強敵と思われた管制塔の男だ。
管制室で滅紫を浮かべたあのパイプを口端に添え、血走った視線をインフィスに送る男。彼は単調な一言の後には小機関銃を拾い上げ、引き金に指を掛ける。
「またお前か」
「うん。殲滅率は九割九分九厘。あとは君だけだ。インフィスさん」
「俺の名は誰が言った?」
「チャールズという男の子が言ってたよ。この部屋の最期の一人になってまで君に助けを叫んでいた」
「ふぅ……どうやってここに入った?」
「『敵』の集まる部屋に入口から入ってやるのもおかしな話じゃないかな」
「ここにいたのはほぼ全員が戦闘を経験したことない一般人。脅威ではなかった…」
「そんなこと、我々が知っていると思うかい?」
「いいや」
「君ならわかるはずだ。……今君たちを取り逃がしたら、我々はきっと報復で殺しつくされる。だから子供でも女でも殺しつくさなきゃいけなんだ。銃が無くても君らは懸命に抵抗した。空港内にいた半狂乱の者たちの手に掛かって随分とうちの者らも死んでしまったよ」
インフィスは指をわなわなと震わせながら笑顔で告げた。
「知ってるかい。…アンディアの民は血を流してからが本物なんだよ」
「まるで『虎』だね。砂漠にいれば見ることはないだろうけど…」
「ああ、知らないッ」
★ ★ ★ 十分後 砂漠
「なぁ、キャティ提案がある」
少年はインフィスの傷に布を当てながら言った。
「なんだ。改まって……」
「馬鹿げた話かもしれない」
「じゃあするな。面倒くさい」
ナクサトロズはパイプを吸いながら答えた。
★ ★ ★ 五分前 地下空間
いつの間にかあの部屋を出て彼らは争っていた。
赤いトレンチコートを脱いだナクサトロズはとても軽快なステップでインフィスとの距離を制御し、急激な突進から肉迫攻撃を仕掛ける彼の豪腕も武脚も捌いた。特に紙一重の回避を行うインフィスに対しての的確な追い打ちが巧い。ヒット・アンド・アウェイを基本とした立ち回りとしているインフィスはそのナクサトロズの動きにむしろ翻弄されている。とはいえ彼らは常に移動と攻撃を繰り返して周囲の環境を次々と転換しているため、一か所で完全に戦いを決め込むようなことはしていない。それには状況適応性がどちらが勝っているかという不安点もあるが、なによりどちらもがお互いの陣営からどう援護が加わるかわからない。アンディアの民がもし残ってナクサトロズを挟撃しようというならインフィスに軍配があがるし、逆ならインフィスは蜂の巣まっしぐらだ。
彼らはとうとう階段を踊り跳ねるように通過して一階区画に飛び出した。そこでも目まぐるしく両者は立ち回って拳や腕を交わし合った。インフィスの強張らせた五指を振るだけでナクサトロズの皮膚は抉りとられ、ナクサトロズが勢いを付けた蹴りをインフィスに食らわせればインフィスの肋骨は弱弱しく軋んだ。相当に仕込まれた徒手での戦闘の巧みさはナクサトロズが群を抜いており、雑多なナクサトロズを屠ってきたような動きを再現しても完全に見切られてしまっている。
一度腰の据わった正拳がインフィスの弾痕の生々しい脇腹に命中し、インフィスの姿勢が崩れた。そこからはしばらくナクサトロズが一方的に彼に当身を叩き込みながら主導権を握り、肘と膝を用いた威力の高い重い攻撃をインフィスに詰め込んだ。インフィスは攻撃の切れ目になんとか動きの合間を付いてその猛襲から抜け出したが、むしろ状況は悪い方に転がった。
先ほど離脱した少年。二捨遺宝のうちの一つであると言う黒い棒を奮う強敵がインフィスの眼前へと現れた。
「さぁさ、死合の続きだッ!」
嬉々とした表情が黒い霧に蔽われた。そして次の瞬間にはその顔は異邦の剣士のような甲冑染みた装甲に包まれ、顔を始めとした体の右斜め半分ほどが奇妙な黒い鎧を装着していた。右手には先程同様にスピアの形状をした円錐の黒棒の変形体が伸びていた。
インフィスはほぼ宙に身を預けた状態で一撃目を回避した。本当に紙一重で首筋に熱い風が通り過ぎた。理屈は知れないが、そのスピアの先端付近はそれそのものに触れなくても多少の創傷を負わせるような効果が働いていると思われた。
「殺せ、シャイアルン!」
「殺せッ‼シャイアルンッ」
ナクサトロズと少年が同時に叫んだ。その瞬間インフィスの意識は遥か彼方まで超越した。正確に言えば肉体もまた子供が投げ飛ばした人形のように草臥れた様子で吹き飛んでいた。
体が湯につかって魂を抜かれればこうなるだろうな。と、呆けた意識でそんなことを考える程に。
次に意識が体に戻ってきたのは再びスピアがその体を叩きのめした時。鈍痛が身を苛んだ瞬間だった。
今度のは真横に振り切れた一撃だった。先程食らったものよりは幾分か威力が低いが、インフィスの視界を閉ざすには十分に事足りる決め手だった。
★ ★ ★ 五分後 砂漠
「お前がそういう時は大概俺の言うことを聞いてくれる時だろ?」
「馬鹿。そんなわけないだろう」
ナクサトロズは瓦礫に腰かけてハイプを吸っていた。
少年はインフィスに押し付けた布を離し、穴だらけの体を見やった。そこで少年は背に掛けていた黒い棒を手に取り、その形状をスピアに変化させた。立ち上がった少年は両手で力強くそれを振り下ろし、インフィスの心臓めがけて刺し穿つ。
燃えるような熱い血液が口から吹き上がり、インフィスは血涙を流す。
「……心臓が破壊されてもこいつは死なない。……明らかに遺宝の耐性が備わってる人間だ。何度刺しても死なないあたりがその証左。……わかった以上、もうただのアンディアの民として扱うわけにはいかない」
「つまりどうするのが良いと思ってるか言ってみな」
「ヘアババに連れていく。究会に引き渡して今回の失態の埋め合わせをするんだ。相手がただの田舎者じゃないとわかればきっと世間もこの損失を認めてくれる。……それともこのまま二人で帰還するっていうのか?…流石に俺ら二人以外のナクサトロズとアンディアの民が相殺して痛み分けときたら世間は許してはくれないだろ」
ナクサトロズ、キャティは反論する。
「いいや。ここまで殺された時点でもう世間は俺たちナクサトロズを戦力として意識した対応はしない。ファブネル協会を出し抜いて獲物を奪おうとした俺たちが返り討ちにあったわけだからもう言い訳のしようはないさ」
「だが……こいつを引き渡せば処分も……減るんじゃ」
「遺宝の効果を打ち消すなんて遺宝の力がなければ成し得ない。まったく予想外なことだけど、もうこの男はデーヴァ・ラーヤと契約するなり所有するなりしているんだ。そんな奴を中央に持っていくって?」
「つまりはそもそもの目的が達成したとも言えないか?…この男を持っていけば、同時にデーヴァ・ラーヤの剣を手中に収めたとも言えるじゃないか」
キャティはインフィスを睨みつけた。立ち上がってインフィスを真上から見下ろし、顔を踏みつける。既にインフィスの眼は白濁しており、顔も血まみれだった。
「さて、私にはこいつが一度でも剣を握ったりした様子は見えなかった。拳銃の早撃ちと精密射撃。あとはバーサークしていた時の肉迫攻撃。後者はこの男に限らずに他の者でも見られた超運動の実現で、その所為で我々がほぼ殲滅されたわけだけど……どうにも遺宝の所為ってわけでもなさそうだ。言わば血族の成せる業。遺伝子レベルの強化スイッチのような感じだった。他の連中はそもそも銃を持っているのが少数だったわけだから、早撃ちはこいつの特技とみて良い」
「バーサークでナクサトロズが殺されたのならそれがデーヴァ・ラーヤの効果と考えられないか?」
「どうだろう。しかしそれなら一層こんな男を中央に連れ込めない。もしこいつが向こうで今みたく暴れ回ったら人口が数百単位で減る可能性すらある…」
「そんなこと…」
「ない。とは言い切れないだろう?」
★ ★ ★ 夢と思われる場所
砂漠で道に迷ったとき。
さぁ、引き返そうか。さぁ、助けを待とうか。
きっと引き返すだろう。
さぁ、あの建物は見たか。さぁ、どうだか。
西日に擽られたハイエナが駆けている。逃げるように、求めるように。
毒の中で踊る禿鷹が事切れて翼を地面に焼き付けた。
遠い記憶に小金の麦畑が過る。
身を埋め尽くすほどの麦の真ん中で青空を眺めていた。
誰かが。
臙脂色の荒い継ぎ目の布が落ちていた。麦畑の中でそれは不思議と光る様に目を引いた。
魅入るように、魅入られるように。
子供と布は互いを見つめ合っていた。
インフィスはその子供に何かを尋ねた気がした。子供のくりくりとした瞳に吸い込まれそうになった記憶がチラつくのだ。
子供は恐怖に顔を歪めて逃げていった。彼の呪縛から逃れるように。
インフィスは追いかけなかった。指先から滴り落ちる泥血を察したから。
小麦畑が炎に包まれた。禿鷹の死体が実に香ばしい。曇天のように煙が立ち上がる。空を眺めていた誰かが立ち上がって彼を糾弾した。
燃え広がる炎に呑まれたその誰かは絶叫していた。
広がった炎が視界を埋めた後、インフィスは誰かに担がれてその場を後にした。
どこまで進んでもそこは黄金色の麦畑。農夫の悲鳴は聞くに堪えない。迫りくる業火が腕を伸ばし、彼らを握りつぶす様は異様にも心を昂らせた。
インフィスを担いでいた何者かが彼に尋ねる。
人を燃やした気分は如何かと。町を焼いた心地は如何かと。
鼻孔を擽る大火事はどう目に映えるのか詳しく聞かせてくれと何度も言ってきた。
気が付いたら再びインフィスは麦畑に突っ立っていた。
誰かが青空を眺めている。子供が臙脂色の布を見つめていた。
禿鷹が大空を舞っている。ハイエナも荒野で喉を鳴らす。
彼は子供を見つめていた。視線に気づかず子供は布を凝視している。
誰かが彼に気が付いて声をかけてくる。
いい天気ですね。と。
インフィスは火を放った。
★ ★ ★ 三か月後 中央民族の支配地
「ヤツクサの所の物騒な連中がケセルの町から娘を攫ってったってよ」
旧世界において教会堂と呼ばれていた建設物に集った堅苦しい身なりをした者たちの中で際立つ絢爛な衣装を纏った男が放り投げるような一言を発した。何列にも連なった座席に疎らに座した者たちはそれを耳に留めながらも、進んで言葉を交わそうとはしなかった。複数の光を重ねたステンド硝子から差し込む光が先ほどの発言をした男に注ぐように当たっており、男はやがて沈黙の中で立ち上がって言葉を進める。
「東方の遠征過程の初期で従属させた民が今じゃ恩寵の影で随分と身勝手をしてる。それで被害を受けるのはやはり当然俺の所有する町。何せ近いからな……」
男は教会堂の奥に聳える十字の象徴物を撫でる。
「なぁ、教えてくれ。貴方がたは我々に支配領域を割合自由に行動できるだけの高位権力を与えてくれたのに、わざわざこぞって身内の町の精力を削ぐように隷属民に嗾けるんだ?俺の町の女がそっくりそのまま蛮人に剥かれるのが良いって考えてるなら今のうちに言い訳を考えておけよ」
男は凄みながら言う。その緊迫感たるや戦争や抗争を思わせる戦場で感じるそれだ。
そんな時、教会堂の扉が開かれ、その奥から長身で眼鏡をかけたスーツの男が中に入ってきた。男は目の隈が非常に濃く、その瞳も異様に黒ずんでいる。
「で、わざわざキリシタンの教会で脅してくれた君は何を望む?」
「イーニーズ・ジェブフロフスキ。公務は良いのか、あんたほど忙しい民も居ねぇもんだが」
「ああ、君が役人を攫って脅しをかけるような事をしなければ今頃は昼食の時間だ。無論、私に昼食をとる暇などないが、少なくとも珈琲を啜る機会は逸してしまったよ、カゲア」
長身の男は眼鏡を掛けなおして舌打ちをする。
「攫うとはまた心の無いことを言うもんだ。俺の持つ町でいざこざが起きるんだが、そのワケがわかりやすすぎてイライラしている。とだけ伝えようと思ってただけさ」
イーニーズが隈が刻印のように染み付いた死人のような目でカゲアを睨んだ。次いで教会堂をゆっくりと歩き、虹色の光に照らされるカゲアに絶望したような視線を浴びせる。
「ハぁ?」
「はっ。お役人の柄じゃないな、お前って男はよ」
「君こそ、聖職者を語るには世俗に呑まれすぎではないかな。無論君の趣味についてこの場で論じる気も諫める気もないが……しかしまぁ、随分と被害者面をするじゃないか。泣き落としで精々というのにそこまで傲慢であれば道化者にすら向かないらしいな。とにかく私の部下を返せ。布教というのならもっと万人受けするような清々しい綺麗ごとでも並べて見せろ」
既にイーニーズは纏っている。
他者を支配するべくして生まれたようなカリスマの持つ驚異的な圧力。殺気にも似た禍禍しさ。相手がカゲアのような肝が据わった剛人でなければとても耐えきれないような視線の牙が周囲の部下には垣間見えた気がした。
それと同時にイーニーズの蘇りの屍人のような眼力に屈しもせずにそれに勝るとも劣らない圧力を放つカゲアも大した怪物に部下には感じられた。何より、まるで束縛されるように、イーニーズの部下である彼らがその教会堂から立ち去ることが出来なかったのはカゲアから放たれる格別な圧力の鳥籠があったからに他ならない。
「き、れ、い、ご、と?」
「個人の感想だ。適当に胸に刻みたまえ」
「言うねぇ、屍人面」
「どうかな、醜神父」
イーニーズの凍てつかせるような圧力とカゲアの照り焦がすような圧力。拮抗してるわけでも交わっているわけでもない。事実そこに圧力など存在しない。存在するのは彼らの間に挟まれた第三者たちの感じる妄想的な恐怖だけ。だが第三者が感じる感覚においてこの場では驚くほどに差異が存在しない。
誰もが二人の言動に怯えた。同民族でもここまで同族嫌悪をしている者らは存在しないだろう。
「とにかく俺の町で娘共が攫われて奴隷級のカスに弄られるのが気に喰わない。本来なら一時間とも待たずに詳細を洗い出して、その『黒幕』に神の元の粛清を享受させてやるつもりだったが……偶然その黒幕の三下が歩いているのを見かけてな。適当にお話を聞こうと思ってた。もちろん茶菓子も用意する予定だった」
「君が物騒なのは生まれつきだ。それに文句は言わない。だが、面倒事と難癖を押し付けるのなら私個人にしたらどうかね?」
「お前に会いに行けってか?そんなことしたら道端でうっかり俺を刺し殺すような狂人がたまたま現れるかもしれないだろ」
「どうだか、毎日のように高倍率スコープ付きの狙撃銃で私の執務室のカーテンを眺めている暇人を雇っている誰かさんには言われる筋合いはないと思うがね」
「こちらにしたって朝の教会堂に金を盗むように調教された犬が十匹も放たれていい迷惑なんだがな」
「…………」
「…………」
カゲアが十字の象徴物を見据えて言う。
「そういえばお前さんの狗が最近ご活躍だそうじゃないか。ウィバの一団を壊滅させたって、町の者らが大騒ぎだ。誰が使っても人に穴をあけられる機関銃を無抵抗者に向ければ英雄を名乗れるもんだから安い文明だよな。まったく」
「暗に殺したさを仄めかすようならわざわざ口に出してくれなくても構わないさ。第一、君はその英雄気取りたちが獲得した地域からの物資で信者の腹を肥やしているのを忘れているな。しかもその英雄気取りもまた私のナクサトロズたちが獲得した立派な戦力だ」
「ほう、そうかい。……まぁ安心せぇや。俺はお前と違って使えるものは壊れるまで使うからな。恩恵があるうちには『シャイアルンの奴隷』にも『アンディアの虎』にも手出しはしないさ。……だが、それはそうと俺の町にちょっかい出されているうちにはその他の雑多なお前さんの部下の身の安全はないと思ってもらいたい。今回はわざわざ引き取りに来た心配性の親玉の面目を潰さないために帰すがね…」
イーニーズは眼鏡のずれを直して応じる。
「御厚意に感謝しようかキリシタン。精々バチが当たらない程度に勤しんでくれたまえ」
「……だがな、覚えておけ。俺は自分の町が被害を被るのは我慢ならん。お前さんが自分の部下でなく自分に文句を言えというように、俺もお前の部下が俺でなく俺の町にちょっかいだすのが気にいらない。……この埋め合わせはしてもらう。死んでも良い労働力を一人うちに流せ。出来るよな?『人事のトップ』なら」
「出来るとも……しかし君の言い成りになるのは癪だ。とはいえ君には世話になってるしなぁ」
再び空気が競り合った。
部下たちが声にならない悲鳴も上げる。痛みの伴わない恐怖とはここまで周囲の者たちを委縮させるものなのかと皆が思った。
「……ふっ」
「あん?」
そこで一方的にイーニーズの圧が解けた。
「精々使い殺す気で扱うんだな。そいつはそこらの狗とは違うからな」
「そいつ?」
そこで初めてカゲアはイーニーズに一手上回れたと感じた。
気が付かぬうちに教会堂の席に見知らぬ男が座している。彼は大胆にも教会堂でパイプを吸い、足を組んでだらしなくしているというのに、こうしてその姿を目視するまではまるで気が付きもしなかった。
「臙脂色のターバンを纏い、八丁の拳銃を下げた砂漠の虎。……アンディアの虎かよ」
「誰も文句は言わないさ。何しろ私は『人事のトップ』なわけだからね」
「一計図ったわけか。こんなの俺の教会が置いておけるわけ……」
「好きに使え、お前じゃあ持て余すだろうがな」